Lohse兄メッセージ、いつも主にあって喜びなさい、2008/05/29 私たち夫婦が今回参加できたことは、恵みそのものです。 ご存知でしょうけど、去年は、どうしても来たいと思ったのですけど無理でした。私たち、二人とも病気になってしまったからです。私たちが病気になったのは、偶然ではなくて、主がはっきりした目的を持って導かれたに違いない。 すなわち私たちは、もっともっと主に頼るべきであると知らせてもらいしたし、またもっと謙遜になるべきであるとも知らせてもらいました。だから今回、また皆さんと一緒になれたことは、私たちにとって本当に大きな喜びです。 もちろん多くの人々が、私たちのために祈り続けて下さったのです。本当に心から感謝しています。 そして今は、聖書の中から1節だけ引用したと思います。 ピリピ人への手紙4:4
「主にあって喜びなさい。もう一回言いましょうか。喜びなさい。」、そういうパウロの告白であり、命令でした。 私は、「主は、私たち一人一人に大いなる喜びを与えて下さる。」、と確信しています。 ただ、喜びなさいではなくて、「主にあって」喜びなさいとあります。主にあっての喜びとは、もう最高のものです。 もちろんいつか、私たちはいつか主と一緒になり主と共になると、もちろん今の喜びよりももっともっと大きな喜びを経験するようになります。その時こそ、私たちの喜びは完全なものになります。 ヨハネの手紙第Iの3章を1節からずっと読むとわかります。私たちが神の子供とされていることは、大いなる愛の現れそのものであるとあります。私たちは神の子供であるということは事実です。 だからこそ私たちは、主を知らない人々に誤解されます。なぜならば、世は主を知っていないからです。 ヨハネの手紙第I、3:1
私たちは現在神の子供であると、当時の信者達に書き送ったのです。 後のことは、はっきりわかっていません。しかしヨハネは当時信じる者達に確信を持って書いたのです。いつか、私たちは主と同じようになり、主と似た者となると。私たちは主をそのままで見るようになるからです。これは、もう考えられない栄光でありましょう。 確かに、理性で持って掴めないものです。この事実を信じる者は、この望みを持つ者は、聖められるとあります。私たちは、いくら弱くても、この望みを持つ者として、主の偉大なる力を経験するようになります。 主と似た者となることとは、今、いくら考えても想像することができない。その時、もちろん弱さも惨めさもなくなります。主と共なることとは、永久的に主とひとつになることとは、なんと言う望みなのでしょうか。 もちろん、主と一緒になることだけではなくて、永久的に主と一緒になることとは私たちの望みです。理解できませんけど、経験できる事実です。 栄光の主を見るようになることとは、私たちの望むべきことではないでしょうか。 主との交わりは、考えられない素晴らしいことですけど、今回、何日間の間に、私たちはお互いの交わり、また主との交わりこそがどういうものであるか、よりよく知ることができるように祈っています。 最後に、一緒に歌いました歌の中に書かれていました。私たちは祈ると、あなた様は必ず聞いてくださることを感謝します。 それから、あなたと共に私たちは満たされている者です。私たちが、主にある喜びで満たされていることこそが、主の望んでおられることです。 私たちは今回も、主をよりよく知ることができ、主の喜びで満たされるようになることを確信しています。ありがとう。 Klein兄メッセージ、神との平和を持っています、2008/06/01 引用聖句:ローマ人への手紙5章1節
グーテン・モルゲン。今回、またここまで来ることができ、皆さんと交わることができることを覚えて本当に感謝致します。皆さんと一緒に居ることも、主に感謝しています。 ほかの兄弟姉妹からも皆さんによろしくとのことです。彼らは、御言葉でもってあなたがたに挨拶したいのであります。 テサロニケ人への手紙第I、5:23-28
パウロがテサロニケにいる兄弟姉妹に書き送ったのは、主ご自身があなた方を強くし聖め、主の恵みがあなたがたと共にあるように。この言葉を持って日本に帰ったら、ほかの兄弟姉妹にもよろしくとのことです。 今朝は、今読んでもらったローマ人への手紙5章1節について少しだけ一緒に考えてみたいと思います。 ここで、平和の大切さについて書き記されています。平和について考えると、これこそ不安や失望からの解放を意味しているのではないでしょうか。 今の世界とは、確かに平和のない世界です。だからまともな人間はみな本物の、まとこの平安を求めているのではないでしょうか。平和こそが、人間にとって最も大切なのではないでしょうか。 人間関係のためにも、平和がなければ、すべてが苦しくなります。多くの人々は、平和を求めているから田舎に行ったりして風景を見たり、いろいろな本を勉強したり求めています。 ある人々は、ある宗教を持つようになれば、平和になれるんじゃないかと思いこんでしまいます。ある人々は忙しくなると、いろいろなことを忘れ平和になると思っている人もいます。 しかし、今の時代の特徴とはなんでしょうか。それは平安がないことです。争いなのではないでしょうか。今の時代よりも、平和について話された時代はなかったのではないでしょうか。 もちろんイスラエルという国について考えてもわかります。みんな平和、平和、平和と思ってるし、努力してるけど、主なる神なしに絶対に平安になり得ない。 人間とは結局、不安に支配されているし、将来とはいったいどういうことになるかと心配しています。人間は本当に無力でどうしたら良いか全くわからない者です。 多くの武器を作ることによって安全になるんじゃないか、平和になるんじゃないかと愚かな人間は思っています。もちろん、このような人間の考えている平和とは本物ではない。 今、互いに話しあうことができるけど、近いうちにとんでもない敵対関係になるのではないでしょうか。 だから人間はいくら教育されたとしても、不安と心配に支配されています。まことの平和とは、相談によっては得られません。もちろん人間は、けんかしたい、戦争したいとは思わないでしょう。努力によって、まことの平安を得ることはできないのです。 夫婦としての互いの愛は、まことの平安でないかもしれない。急に不一致になるし、そして現在の多くの離婚は、それを証明してるのではないでしょうか。 今の平安のない世界で、まことの平安とはいったいどういうものなのでしょうか。 ルカの福音書2章の中に、まことの平安が約束されたのです。けど今の世とは、このまことの平安から遠く離れているでしょう。 この地上の平和とはどこにあるのでしょうか? もちろん、聖書を読むと、今から平和よりも戦争が起ると預言しています。お互いに理解しあうことよりも、主の約束された平和とは、全く違うものです。人間同士、国々の間でうまくいったとしても、それは、たいしたものではありません。 主の与えようと望まれる平和とは、全く違います。人間同士の平和とは、まことの神との平和を得た結果です。もちろんこの主なる神との平和を持っていない者は、ほかの人に平和を与えようと思っても無理です。 あらゆる戦争は、すぐ終わるでしょう、もし責任者たちが主なる神との平和を持っていれば。 主との平和があれば、人間同士も必ずうまくいきます。悪魔とは、神の敵であるだけではなく、人間の敵でもあります。この悪魔の働きを通して人間は不一致になります。 人殺しである悪魔は、何があっても平和にならないように努力します。悪魔の働きによって、人間は盲目にされ騙されます。 結局人間も、人殺しになるのです。しかし、主なる神との平和を持つ者は安全です。悪魔はどうすることもできなくなりますから。 もし人間は、続いて悪魔に騙されれば、あらゆる努力とは全くむなしい。まことの平和があり得ません。イザヤ書57章の中で、イザヤは主の霊に導かれて、次のように言ったのです。 イザヤ書57:20-21
神なき者に平和はない。人間は神との平和を持っているか、神の敵であるかのどちらかです。人間は、平和について考えることができるかもしれないし、平和のために努力することができるかもしれないけれども、あらゆる努力はむなしい。 無駄です。 主なる神との平和を経験していないうち、誰もまことの平和をつくることができません。 平和の敵である悪魔は、イエス様の死を通して滅ぼされたのです。確かに悪魔は、今も目に見える世界の支配者と呼ばれていますが、主は今の段階で許しているだけ、けど勝利者はイエス様です。 悪魔は、もう長く支配することがないことがわかってるから、だから私たちにとって危険人物です。 勝利者はイエス様であり、近いうちに悪魔もどうすることもできなくなるのです。 もちろん今の段階で悪魔は、できるだけ多くの人を盲目にしようと努力しています。悪魔の目的とは人間の永遠の滅びです。 今までの人類の歴史について考えると、悪魔はある程度まで成功したのではないでしょうか。 神の怒りをお受けになったイエス様こそが平和の君であられます。 コロサイ人への手紙1:20
へりくだれば、主との平和を得るようになります。 イエス様とは人間の過ち、わがままの故に犠牲となられたから、まことの平和の土台をお造りになったのです。イエス様の御許に行って、へりくだれば、必ず永遠の命を持つようになり、裁かれることはありません。 イエス様を信ずる者は、神様との平和を持っていると聖書ははっきり言っているのです。 神との平和を得た者だけが、本当の意味で平和のうちに生活することができるのです。神との平和がなければ、この世との平和もありません。 人間にとってまず大切なのは、私も神の敵である、神との平和を得られなければたいへんなことになると認めるべきです。 覚えるべきなのは、自分は無力です。でも替りにイエス様が犠牲になって下さったから、ただ提供されたものを受け取れば、十分だということです。 良心の呵責によって、なんと多くの人々は重荷を負っているのでしょう。平安を知らないのでしょう。 主は、もちろんすべてを知っておられ、人間にとって大切なのは、いつか裁かれることを覚えるべきです。 神との平和を持つ人は、安心して将来に向かうことができる。なぜなら、裁かれることは、ないと確信できるからです。 けどもこのすごい贈り物は、十字架についたイエス様の死を通してのみ可能でした。 良心の呵責から解放され、もう裁かれることはないという確信こそが、まことの平安の秘訣そのものです。 神との平和を得ることは考えられない贈り物ですが、それだけではなく、神ご自身の平安を持つべきなのではないでしょうか。主は、ご自分の平安を与えようと望んでおられます。 すなわち私たちがどういう状況の中にいても、神との平和を持つこととはなんという自由なのでしょうか。 夕べのお証しを通しても、皆さんおわかりになったと思うのです。すなわち私たちは、どういう環境に置かれていても、主との平和を得た人は、安心して毎日を過ごすことができます。 どこの国でも多くの人々はこの平安を得るようになったのです。イエス様を信じるようになった者はこの神との平和を持っているであり、もう不安から心配から解放されているのです。私たちは、このまことの平和を持っているのでしょうか? この平和とは、もちろん一時的な気持ちなのではない。永遠に続くものです。この平和とは、確かに永遠にいつまでも続くものです。 まことの平和の土台なるものとは、主イエス様の与えられた命であります。イエス様の身代わりの死を通して、父なる神は、人間の側に立つようになり、大いに喜ぶことができるのです。 従って信じる者は誰も例外なしに、前に読みましたローマ人への手紙5章1節を確信を持っていうことができ、証しすることができるのです。 ローマ人への手紙5:1
イエス様によって神との平和を持って確信しても、確かにいろんなことが起ると、あいかわらず不安になり心配するかもしれません。私たちはこの世にいる間に、悪魔に誘惑され攻撃されていますから。 私たちは、イエス様だけを見上げないと、この目に見える世界によって騙されると、悪魔の勝利になります。 私たちはあんまり忙しくて、主との交わりのために時間がなければ、悪魔は大いに喜ぶのです。 いろいろな心配ごとによって落ち込むようになれば、主だけを見上げないと、もちろん悪魔の勝利です。疲れによって、病気によって、あきらめる人もいます。どうせ、だめと思いこむ人もいます。それも悪魔の仕業です。 不従順によって、絶望することによって、確かに悪魔の勝利になります。この妨げものを通して、心の平安がなくなる可能性も十分にあります。 不従順こそが、主に従おうとしないことこそが、平和を奪うものです。もちろん信ずる者が、平和がない者や喜びのない者になると、悪魔は大いに喜びます。 けれども信じる者は、近いうちにまことの平和を永久に味わい知るようになります。イエス様は近いくうちに迎えに来ると、私たちは皆、必ず引き上げられることを確信できるのでしょうか。 その時、もちろん今の戦いは終わります。今のいろいろな問題や苦しみや悩みは、その時永久に消え去ってしまいます。 その時から人間は、考えられない平和、外側の平和ではなくて、内面的な永遠に続く平和を持つ者となります。 へりくだって提供された恵みを受け取る者は、確かに神との平和を得る者となります。提供されている真の平和とは、単なる約束だけではなくて、真理そのものです。主が、与えようと望むものとは本物です。 言うまでもなく、真の平和を与えられるお方とは、主イエス様しかない。信じる者は本当に、義と認められていることを確信することができ、主なる神との平和を持っていることを知ることができるのです。 だから、ドイツの歌なんですけれども、「私は、主にあってどういうことがあっても、大いに喜ぶことができる。」と、告白することができるのです。 私たちは、皆、主との平和を知ることができ、またそれによって安全を体験することができるように祈りましょう。 Behr兄メッセージ、恵みの神、2008/06/02 今回また、ここまで来ることができたことも感謝です。 今、兄弟がまことの信仰の素晴らしさを話された通り、やっぱりイエス様を信じることとは本当にありがたい。 私も65年前にイエス様に出会ってから、もう感謝でいっぱいです。家内の両親も私の親も、主を恐れて祈った人達だったから、私たちにとって主を信じることは、本当に簡単でした。 私たちがどうして喜んでここまで来るかと言いますと、日本の兄弟姉妹とひとつであり、同じ家族に属する者であり、そしてここで経験することとは、はじめて来た人々がイエス様に帰ろうと思うこととは、やっぱり感謝の原因そのものです。 もちろん私たちは、だいたい毎年ここで会いますし、日本でも何回も何回も兄弟姉妹と会うことができたから、ありがたいと思います。お互いに祈り合うことができ、お互いのために祈ることとは、信仰生活にとって、大きな励ましになりました。 イエス様を紹介すると、イエス様の証人になると、必ず多くの人が導かれるに違いない。日本で何があるのか、毎週手紙を頂きますが、どなたのために祈るべきか聞くようになるし、そういうふうに祈りを通してひとつになることは、大きな宝物です。 今、兄弟は信仰の大切さについて語りました。 この世では、現代人は、聖書に書かれていることは時代遅れと言います。変な人々しか聖書を信じないでしょう。そんな雰囲気なのです。 けれども、私たちはキリストにあって大いに祝福されているのです。エペソ人への手紙で、1章3節から書かれています。 エペソ人への手紙1:3-5
パウロはエペソの兄弟姉妹に書き送ったのです。私たちは世が造られる前から選ばれた者なのです。なんのために選ばれたかと言いますと、自分のためではなく、生きておられる主のために生きるためです。私たちを通して、主は栄光をお受けになるべきです。 私たちは主の恵みに預かる者として、主を紹介することができるのは、素晴らしい特権なのではないでしょうか。 今の時とは確かに恵みの時です。そして、この恵みの時はいつまでも続くのではなくて、イエス様は近いうちに来られます。その時、いわゆる恵みの時も終わります。ですから、まだ救われていない家族や親戚のことを重うと真剣に祈らざるを得ないのではないでしょうか。 昨日もひとつの再臨の歌を一緒に歌いました。主は、近いうちに来られます。その時、あらゆる束縛から完全に解放され、主の栄光に預かるようになる。 パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。主の恵みこそがあなたがたの上にあるようにと。 刑務所の中で、ある意味で束縛された者として、自由に過ごしてる人々を励ますことができたのです。なぜならば、彼は刑務所の中でも自由人だったからです。 「主にあって、私たちは贖い、罪の赦しを受けています。」とパウロは刑務所の中で書いたのです。 私たちにとって一番素晴らしいことは、主が恵んでくださったことです。すべてが、恵みです。努力した結果ではない。 聖書の中で最も素晴らしい考えられない言葉は、「恵み」という言葉です。結局聖書とは、神の啓示そのものであり、神とは、「恵みの神」と呼ばれているのです。この恵みとは、ちょっと掴めないすごい永久のものです。 主の恵みそのものは、私たちにとって励ましの土台であり、喜びの源です。 もちろん恵みとは物ではなく、イエス様ご自身です。十字架の上で犠牲となられ、死なれ、復活なされ、昇天なされ、今、すべての上に、高く引き上げられたイエス様こそが恵みです。 恵みとは、なんなのでしょうか。世界が造られる前に主は、私たちひとりひとりのことを考えて下さっただけではなくて、ひとりひとりのために救いの代価を払ってくださった。 パウロは、いつも主の恵みによって救われた人達のことを考え祈り戦い続けたのです。 私たちだけではなく、多くの人々がこの恵みに預かることができるように期待を持って祈り続けましょう。 集会のある兄弟なんですけど、彼は何十年とイエス様のことを宣べ伝えました。もう召されました。この兄弟がなんと言ったかと言いますと、「恵みとはなんであるかと言うと、主は、信じない人々に信仰を与えて下さり、束縛された者を自由にしてくださり、悩む者は、喜びに満たしてくださるお方である。」 前に私たちは、一緒に歌いました。私たちは恵みの大海を見ると、感謝せざる得ない。主は、本当に恵み深いお方である。 主はどうして恵みなのでしょう。恵みとは、身代わりになられたお方であるからです。 イエス様は十字架につけられ呪われた者となり贖いとなられました。これこそが、考えられない贈り物ではないでしょうか。 私たちはここで別れますが、永久の別れではなくて、天では一緒になります。 去年の5月、5回目だったのですが、日本まで行くことができました。毎回、日本に行くことができるのは考えられない喜びです。 日本でいろいろな人が導かれ、救われることこそ、私たちにとって最高です。 夕べ、私たちは若者の中に入っちゃったのです。年配の者が若者の中に入ることができたのは、うれしかったのです。 そして明日、また大部分の人達は日本へ帰らなくちゃいけないのは、主があなたがたを大いに祝福してくださり用いてくださるように、祈っております。主はあなたがたを豊かに祝福してくださるように。 ある若い姉妹から葉書をもらったのです。「あなたがたにまた会いたい。日本でもいいし、ミヘルスベルグでもいいし...間違いなく天国では会いましょう。」 |