Klein兄メッセージ、キリストこそ私たちの命です、2008/06/06 引用聖句:コロサイ人への手紙1章27節
コロサイ人への手紙2:6
コロサイ人への手紙3:3
今朝、一緒に考えてもらいたい題名は、「キリストこそ私たちの命そのものです。」 今読んで頂きました、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」、「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」、「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」 このコロサイ人への手紙を読むとはっきりわかります。信じる者は確かにこの世の中に居る者でありながら、この世から離れている者です。別な者です。 その大いなる奥義は、キリストこそがあなたがた信じる者の中に住んでいる。キリストとは、すなわち十字架につけられたイエス様であり、復活なさったイエス様であり、そして高くひき上げられた主イエス様です。 コロサイ人への手紙の要求とは、キリストをよりよく知りなさいということであります。 このイエス様こそが、私たちを通して働くことができるのです。主をよりよく知るために、清められるための秘訣とは内住のイエス様です。 人間にとって非常に危険なのは、目に見える世界の中でいろんな物を捜したり、見い出したりしようとすることなのではないでしょうか。この目に見える世界よりも大切なのは、目に見えない主イエス様を仰ぎ見ることです。 4つの福音書を見ても、イエス様の栄光を見ることができ、やっぱり感謝せざるを得なくなります。 イエス様のような人生を送った人間はもちろんいません。イエス様の命こそが、人間に光として与えられています。イエス様のように愛した人間はいませんし、イエス様のような忍耐を持っていた人間もいません。 イエス様は従順に従うお方でした。重荷を負っている人々のためにイエス様は生きられたのです。 結局イエス様の行動を見ると、父なる神はどういうお方であるかをはっきり知ることができるのです。 このイエス様のような人間は誰もいない。それにしても私たちは、イエス様に似た者にならなければならない。その奥義なるものとは、人間の努力よりも、私たちの内に住まわれるイエス様ご自身です。 主に、「導いてください。恵んで下さい。」と言う態度をとる者こそが、この新たなる人生に預かることができるのです。 すなわち大切なのは、集会に来ること、あれこれとイエス様のためにすることなのではありません。 ローマ人への手紙8章29節を見ると、父の御心とは、私たちがイエス様に似た者となることです。 ローマ人への手紙8:29
どうしたらいいかと、私たちはいくら考えてもわからないから、御言葉に頼らなければならない。 御言葉を読みながらはっきり分かる。主は、何を望んでおられるのか。ペテロの手紙第IIの手紙の中でペテロは当時の信じる人々に言ったのです。 ペテロの手紙第II、1:5-7
熱心にしなさいと意味します。テモテへの手紙第I、6章11節もみましょう。 テモテへの手紙第I、6:11
熱心に求めなさいと。ガラテヤ人への手紙5章22節、23節もみましょう。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
御霊の実とはどういうものであるか、はっきり書き記されています。 今読みました箇所を見てもはっきりわかります。主は目的を持って導こうと望んでおられます。すなわち、内に住んでいるイエス様は明らかにされなければならないということです。 イエス様こそが、私たちのうちに働いて私たちを変えようと望んでおられるお方です。 いわゆる聖霊の実について少しだけ考えたいと思うのです。 まず、言うまでもなく大切なのは、まことの愛を持つことです。 コリント人への手紙第I、13章はいわゆる愛の書と呼ばれています。パウロは、最も大切なことは、まことの愛を自分のものにすることであると記しています。 ヨハネの手紙第I、4:8
この御言葉によると、この愛を持たない者は結局主を知っていない。結局救われていないということです。 ヨハネの福音書の14章を読みますと、主を愛するということとは、主の命令に従うことであると記しています。この愛とは、気持ちの問題ではないのであります。 愛とともに大切なのは、言うまでもなくまことの信仰を持つことであります。 ヘブル人への手紙11:6
ヘブル人への手紙11章の中で、信じる者の特徴についていっぱい書いてあります。 結局、彼らは聴く耳を持っていただけではなく、従う者でした。本当に心から信頼できる者だけが、従うことができるのです。 信じる、信じると言いながら、従順に従わなければ、その信仰は本物ではありません。 私たちの信仰の土台とは、いつも、自分の思ってることや考えていることよりも聖書です。神の御言葉です。何かを信じることよりも、主は何を語っているかということです。私たちの信仰の土台とは、決して目に見えるものではありません。 全く不可能なことを素直に信じることによってこそ、主は栄光をお受けになります。 それから大切なのは、愛することだけではなく、信じることだけではなく、聖められることです。聖なる者となることです。聖なる者になることとは、全く主に属する者になることであり、悪から離れることです。 ペテロの手紙第I、1:15
主は聖なるお方であるから、あなたがたも聖なる者となるべきであると記されています。 確かに、主にあって私たちは聖なる者であり、主に属する者です。けれども私たちの実際生活も、やっぱりイエス様の生活と似たものとならなければならないと強調されています。 聖なる者にならなければ、決して主を見るようにならないと書き記されています。汚れた者は、聖なる主と交わることができない。主に頼ると、私たちは、聖なる主と交わることができるのです。 それから、主がもう一つ望んでおられるのは、従順に主に仕えることです。 信ずる者は、本当は、主に仕える僕、あるいは奴隷であるべきです。愛でもって、私たちはお互いに仕えるべきです。主に仕えようと思う者は、楽な道を捜しているのではなくて、従順に従う者であります。 イエス様こそが、いつも私たちが仕えるお方です。だから私たちの模範とは、主イエス様です。 それから、私たちのとって最も大切なのは、主の恵みなのではないでしょうか。 受け入れられることの資格を持つ者は誰もいません。すべてが恵みそのものです。 コロサイ人への手紙4:6
コロサイ人への手紙4章6節をみると、私たちは話しあうことも、恵みにとって特徴づけられるべきであるとあります。 忍耐を持つこと、互いに赦しあうこと、それができる秘訣とは、主の恵みです。 それから、主は私たちに誠実を求めておられます。前に引用したガラテヤ人への手紙5章22節。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
忠実さこそが聖霊の実であり、人間の努力の結果ではない。 主は、いろいろなことをゆだねると、主が要求されるのは、主の命令に従順に従うことであり、結局忠実であることです。 それから要求されているのは、まことの知恵を持つことです。 知恵とは、人間の生まれつきのものではなくて、上から与えられる知恵です。 コロサイ人への手紙の中で、この事実について何回も何回も記されています。上からの知恵を持たないと、主に喜ばれることができません。 コロサイ人への手紙3:16
コロサイ人への手紙3章16節をみると、知恵とは、自分の中から出るのはなくて、まことの知恵の土台とは御言葉です。 それから、今の不思議な時代の中で、主はまことの正義を要求しておられます。 ヨハネの黙示録19:8
正しく行うと、将来必ず報われます。誠実にならないと、私たちは守られ得ない。誠実に主に従うことこそが、信じる者の守りであります。 それから、言うまでもなく大切なのは、望みに満たされることです。 ペテロの手紙第I、1:21
希望を持つこととは、すなわち目に見えない将来に対して前向き生活することができることです。あきらめる必要はない。 主は生きておられます。私たちは希望を持って、前向き生活できることはすごいことなのではないでしょうか。 すなわちイエス様の再臨こそが、私たちの望みであり、この望みとは、私たちの毎日の力となるべきです。 いつか、私たちは、イエス様と会うようになるだけではなくて、イエス様と共に支配すると約束されています。 もうひとつ大切なのは、忍耐を持つことではないでしょうか。これも、私たちが簡単に持てるものではありません。 忍耐を持つこととは結局、なんでも主から受け取ることであり、主に頼ることです。 試練なしに私たちは、このような忍耐を学ぶことはできないでしょう。どういう状況にあっても、忍耐を得るようになったものは、希望を持つことができます。主の助けなしには、私たちはこのような忍耐を持つことはできない。 それから要求されているのは、喜ぶことです。 非常に悲しいことですけど、イエス様を知りながら喜べない人間がいるということです。 聖書は喜びについて、いろいろなことを言っているのですが、まことの喜びとは、主にあっての喜びです。まことの喜びを与えることのできる方は、生きておられる主なる神だけです。 ヨハネの福音書15:11
ヨハネの福音書16:22
この喜びを誰も私たちから奪うことができないと約束されています。 ピリピ人への手紙の4章4節によると、私たちはどういう環境におかれていても、喜ぶことができるとあります。 ピリピ人への手紙4:4
私たちはいつまでも、救われているから喜ぶことができます。私たちは、イエス様を仰ぎ見るならば、喜ぶことができる。そうすると、この喜びは永久的なものです。 それから私たちは、まことの平安に満たされるべきです。私たちの周りに争っている、不満足な人々は、いっぱいいるでしょう。 けれどもその中で、私たちはまことの平安に満たされるべきです。この平安とは、環境と関係のないものです。 ヨハネの福音書14:27
ヨハネの福音書4章27節によると、この平安とは、人間の作るべきものではなくて、イエス様だけが与えることのできるものです。 それから本当の親切さも要求されています。 素直になることの現れそのものは親切さなのではないでしょうか。 エペソ人への手紙2:10
お互いに親切になることは、今の世界の中で大切な証しのひとつなのではないでしょうか。 それから正直になることも要求されています。透き通っている気持ちを持つこと、正直になることを主は望んでおられます。 私たちは隠すことがあれば、主は働くことができません。 もちろん私たちは、どこにいても、何をしていても、主のためにだけすれば、私たちは心からすることができ、前向き生活をすることができるのです。 今の社会の中でだいたいの人々は、自分、自分で、自分のことしか考えていません。これは決して良くない。 相手の気持ちを理解したい。相手のために助けになりたい。そう言う思いを持つことこそが、イエス様の望んでおられることです。 今、いろいろなことを話し合いましたし、そうだと思う人もいるでしょう。 でも、「よし、やろう。」と思っても簡単なことではありません。簡単なものではないと、みんなもわかっているでしょう。 ガラテヤ人への手紙4章19節をみると、パウロは必死に信じる者のために祈りました。 ガラテヤ人への手紙4:19
彼らが、イエス様を信じるだけではなくて、イエス様によって支配され導かれるように。 これは主の目的ですけど、簡単に得るものではなくて、時間がかかります。 ペテロの手紙第II、3:18
このようなまことの成長とは、聖霊の働きの結果であると言うことです。 こう言うものはね、「よしやろう。」とそういう気持ちを持つだけではできません。 人間はそんなに強い者ではありません。主が働かなければ、誰も成長しません。 ピリピ人への手紙2:13
主は、働いておられます。 コロサイ人への手紙1:29
すべてができるのは御霊です。御霊が働かなければ、人間の努力は全部むなしい。 もし人間が成長しなければ、主をよりよく知ることができないのなら、それは決して主のせいではなくて、人間のせいです。 主をよりよく知りたい。主に頼りたい。主に用いてもらいたい。こういう望みを持つことこそが、要求されています。 私たちは、近くにいる兄弟姉妹によっても励まされ、強められるでしょう。ですから確かに主は働いておられ、主は人間を用いようと望んでいます。 主は、私たちのことを考えていると何を望んでいるか、どういう目的を持っているかということを知るべきです。 ヘブル人への手紙12:2
主は、信仰の創始者であり、この主を仰ぎ見ると前向き生活することができるのです。 コリント人への手紙第II、3:18
主を仰ぎ見ると、変えられる。主の御姿に似た者になると約束されています。 聖霊の働きとは何であるかと言いますと、いつもイエス様の栄光を現します。 主をよりよく知ることこそが、私たちの成長のためにどうしても必要です。自分を見たり、他の人と比較したりすることによって得る者はひとつもない。イエス様を仰ぎ見るべきです。 私たちの古き人は十字架につけられました。大切のは自分ではない、イエス様です。 このイエス様とつながっていれば、私たちは変えられるようになり、イエス様と似た者となります。主とつながっていれば、主は働くことができ、聖霊の実がなります。 非常に大切な助けになるのは、聖書です。みことばに頼ることです。イエス様のみことばとは、本当に力を与えるものであり、必要なものを与えてくださるものです。 私たちは本当に静かになり、「主よ語ってください。」、そういう気持ちで聖書を読むと変えられます。 聖書とは、勉強するものよりも、私たちの霊の糧とならなければなりません。大切なのは、いろいろなことを知り勉強することよりも、イエス様ご自身を知り、イエス様につながることです。 イエス様を信じることこそが、大切であり、それは一つの教えを信じ込むことではありません。 イエス様とは、考えられない素晴らしいお方です。この方とつながっているのは何という幸せでしょう。 コロサイ人への手紙1:13
私たちは、イエス様にあって、まことの救いを得ている者であります。 今から帰られなければなりませんけど、ここで過ごすことができたのは、私たちにとって大いなる祝福でした。 静かで、みことばを読むことができ、いろいろな兄弟姉妹と交わることができるのは、私たちにとって、もう忘れられない経験です。 主は今から、残っているひとりひとりの上に豊かに働くことができ、祝福することができるように祈っております。 |