ドイツ喜びの集い 2009/06


Klein兄、Erisabeth姉、Lohse兄

(ドイツ喜びの集い、2009/06)

Klein兄メッセージ、神の愛の証拠、2009/06/13 A

引用聖句:ヨハネの手紙第I、4章7節-12節
7愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
12いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

まず家内と一緒に心の喜びを言い表したいのです。今回、ここまで来ることが出来たのは本当にうれしいのです。主が本当に、今回も私たちを豊かにすることができるように。
今まで読んだ箇所の内容はどういうものであるかと言いますと、「神の愛の証拠」なるものについてではないでしょうか。
本当の意味で主に出会った人々は、皆、確信しています。すなわち私たちは考えられないほど主によって愛されている。この確信がなければ、お互いに愛し合おうと思っても全く無理です。

ヨハネは、ここで当時の信じる者を励ましたのです。お互いに心から愛しましょうよ。なぜならば、神ご自身が愛そのものであるからです。
言うまでもなく、神の御言葉とは決して古くなるものではない。我々にも当てはまるものです。
だから本当の愛がなければ、これは主のせいではなく。われわれのせいです。

言うまでもなくこの箇所を見れば、はっきりわかるのは、これは人間的な愛情、そのようなものではなくて、神ご自身が愛そのものであるからです。その愛を、体験的に知ることこそが大切です。
ローマ人への手紙5章5節を見ると、次のように書かれています。

ローマ人への手紙5:5
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

神の愛が我々に与えられている。聖霊と共に信じる者は、神の愛を持つ者です。もし、信じる者が心からお互いに愛しあわなければ、我々は、この主の愛を全く知らない者です。
ヘブル人への手紙の著者は、言うまでもなく信じる者に手紙を書いたのです。そして、彼らの本当の意味での救われた証拠とは、お互いの愛であるとはっきり書き記したのであります。
この、今読みましたヨハネの手紙第I、4章7節を読みますと、非常に大切なことを知ることができます。

ヨハネの手紙第I、4:7
7愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

はっきり書かれているのは、新しく生まれ変わらなければ、神の愛を知ることは全く不可能です。
主によって新しい命を与えられて者は、同時に神の性質を持つ者です。神の性質は、愛することができるということです。
言うまでもなく、主なる神は愛そのものであるだけではなく、主なる神は光です。すなわち、罪のある所は、主は交わることができません。

パウロはコリント人への手紙第IIで、光と暗闇にいったい何の交わりがあるでしょうと書いたのです。
しかし、言うまでもなく主は、愛そのものです。そして、主は自分の愛を明らかにしようと心から望んでおられます。
主なる神の永遠からの目的は、どうしようもなく人間、主から離れている人間が、主の心を、主のまことの愛を体験的に知ることです。

もし、イエス・キリストがこの世に来られなければ、私たちは決して神の愛を知ることができませんでした。
確かに、イエス・キリストが来られなくても、神の偉大さを知ることを知ることができたかもしれません。創造主の偉大さを知ることができたかもしれません。
しかし、いわゆる創造物を見ても、主の愛をはっきりと知ることはできません。この父なる神の愛を明らかにするために、イエス・キリストは、罪にまみれた世界に遣わされました。

確かに、いわゆる聖書の戒め、律法を見ても、神の愛をはっきり知ることができないのではないでしょうか。けれども、イエス様を通して、主なる神の愛はどういうものであるか、はっきり知ることができます。
我々が、まだ神の敵であった時に、この愛が明らかにされました。
愛されている根拠なるものとは、主の恵みだけです。

テトスへの手紙3:4-5
4しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
5神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

テトスへの手紙の3章4節を見ると、我々は自分の努力によって、自分の行いによって救われたのではない。主が恵んで下さり、憐れんで下さったからであると、あります。あらゆる人間は、この愛を想像することができなかったし、全く考えられなかったのです。
罪を犯す者は死ぬべきです。私たちは結局、罪の奴隷でありました。悪魔は、私たちを完全にめちゃくちゃにしようと望んだのです。
罪の奴隷となった者は、どう言うふうに自由になることが出来るのでしょうか。主ご自身が働いてくださり、主の愛が明らかにされました。

ヨハネの手紙第I、4:9
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

父は、自分の御子であるイエス様をこの世に遣わされることによって、ご自分の愛を明らかにされたとあります。

ヨハネの手紙第I、4:10
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

どうしてイエス様を遣わされたかと言うと、我々の罪の問題を解決するためです。罪滅ぼしのためです。
聖なる父なる神は、人間のわがままを簡単に赦すことができません。罪は罰せられなければ赦され得ないのです。けれどもイエス様は自分自身を犠牲にして下さり、罪の固まりとなることによって救いの道を開いてくださいました。
イエス様の身代わりの死こそが、主なる神の恵みそのものを明らかにしたのです。父は、イエス様を犠牲にしたのです。我々の永遠の救いのためです。

世の光と呼ばれたイエス様とは、自分ですべての罪を犯した者として自分自身を犠牲にしてくださったのです。
もちろんそれだけではなく、この世の生活するのは、イエス様にとって考えられない苦しみと悩みでした。
もちろん、イエス様も父も、悩むこと苦しむことを知っておられただけではなく、やっぱり人間の永遠の幸せのために、喜んで犠牲となることをよしとして下さったのです。

我々が罪の赦しを得るために、主なる神との平安を得るために、父はイエス様を犠牲にしたのです。
それから、イエス様は、本当に犠牲になり、自分のことを完全に忘れて、我々の永遠の幸せのために犠牲になられました。我々はイエス様を通して、まことの命を得るために、罪を知らない命を代わりに犠牲にしてくださいました。
しかし、イエス様は代わりに死なれただけではなく、イエス様は復活なさいました。イエス様を通して、信じる者は永遠の命を持つ者となったのです。

どうしようもない人間が大切にされるとは、いったいどういうことでしょうか。それこそ恵みそのものであり、神の計り知れない、理解できない愛そのものです。
言うまでもなく、人間そのものは神を知ることはできないし、神を愛することもできません。
前に読んでもらった10節を見ると、はっきり書かれています。

ヨハネの手紙第I、4:10
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

神様が私たちを愛した。その証拠になるものは、犠牲になられたイエス様です。死から解放、裁きからの解放こそが、イエス様を通して提供されているものです。私たちは、単なる命ではなくて、永遠の命を持っています。
もちろん、これは単なる想像ではなくて、動かすことの出来ない事実です。従って、最も大切なのは目に見える世界を見るのではなくて、代わりに死なれたイエス様を仰ぎ見ることです。
十字架、イエス様の身代わりの死を通してのみ、私たちはまことの愛とはどういうものであるか、知ることができるのです。

確かに、聖なる神は人間の罪を、人間のわがままを簡単に赦すことができない。罰せられなければ赦され得ないけど、イエス様は代わりに罰せられた。これこそ喜びの訪れなのではないでしょうか。
イエス様の犠牲こそが、人間の受けるべき天罰でした。犠牲になられたイエス様こそ、父なる神の愛の現れそのものです。
生けるまことの神は、人間から何かを要求されるお方ではありません。ですから、私たち人間がどうして愛されるのか、いくら考えてもわかるものではありません。ヨハネ福音書の3章16節を見ると、すべてがまとめられています。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

父は、イエス・キリストを犠牲にした。それを理解できるものじゃなくて、素直に信じる者は、イエス・キリストにあって永遠の命を持つ、裁かれ得ないのです。
従って、私たちもお互いに愛し合うべきです。ヨハネの福音書15章12節にはっきりと書かれています。

ヨハネの福音書15:12
12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

イエス様は、確かに愛そのものです。イエス様に属する者は愛せざるを得なくなるはずです。
言うまでもなく、人間そのものは自分でそう言う愛を全く持っていない。
だから、イエス様を受け入れたとき、聖霊も与えられている。そして、聖霊とともに神ご自身の愛も与えられているのです。この神の愛でもって、私たちもお互いに愛し合うことができるのです。

けれども、これは決して自分の努力、自分の愛の現れではありません。イエス様は、本当に愛そのものです。このイエス様に従うこととは、いわゆる義務ではなくて、素晴らしい特権そのものです。
だから、私たちは毎日祈るべきです。「主よ、どうか私たちの心のまん中でお働きください。あなたの愛をよりよく知ることができるように。」
そうすると、主は必ず答えて下さいます。結果として、私たちは主をよりよく愛したい気持ちになるだけではなくて、兄弟姉妹も愛せざるを得なくなります。

確かに、旧約聖書の中でも書かれている「主を、心から愛せよ。隣人を自分と同じように大切にせよ。愛しないさい。」とあります。
もちろん、人間はいくら努力してもこの命令に従うことはできません。従おうと思っても失敗に終わります。神ご自身の愛だけが、犠牲になることができ、愛することができるのです。
確かに、主は自分の戒め、律法を与えたのです。同時に、この律法を行う力を与えなかったのです。どうして律法が与えられているかと言うと、人間が自分の力のなさをわかるためです。

イエス様に出会った人々の場合は、もちろん全く違います。イエス様を受け入れることによって、イエス様の内住によって、私たちは愛することができる。主の愛でもってできる。自分の努力は全くむなしい。
人間は結局、自分自身のことしか愛せない。まことの神の愛とは全く違う。自分が無視されても、愛し続ける愛です。

ヨハネの福音書13:34
34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

イエス様は最後まで愛し続けて下さったのです。
イエス様はある時、自分の弟子達の足を洗いました。当時の奴隷の仕事でした。それを通してイエス様は、中心になろうと思わなかった。イエス様は仕える者で、自分自身を無にする者でした。
まことの愛とはそう言うものです。

ヨハネの福音書1:18
18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

誰も父なる神を見た者はないとあります。イエス様こそが、この神の愛を証明してくださいました。
すなわちイエス様を通してのみ、父なる神の愛、父なる神の恵みを知ることができます。

ヨハネの福音書14:9
9イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。

イエス様ははっきりと、私を見たものは父を見たのだと言いました。お互いに愛することこそが、神の臨在の現れそのものですと、ヨハネは書いたのです。
お互いに愛し合う愛があれば、何が起こるのでしょうか。主ご自身が信じる者のうちに住んでおられます。この主が導くことができ、支配することがおできになれば、ご自身の愛が明らかにされます。
聖書の中で、人間は憎むべきものであると言います。憎むべき者が愛することができるようになるのは、考えられない奇蹟なのではないでしょうか。

コリント人への手紙第II、5:17
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イエス様とつながっていれば、新たなる創造がある。
主ご自身が我々を導くことが出来、我々をご自分の愛の器として用いることができれば、幸いなのではないでしょうか。

コリント人への手紙第II、6:2
2神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

神の愛をまだ知らない人々が、今日ここにおられれば、どうか心を開いて下さい。
私も愛されていることを確信することができるように、欲すれば、必ず与えられますから。





Erisabeth姉メッセージ、わたしはぶどうの木であなたがたは枝です、2009/06/20 B

引用聖句:ヨハネの福音書15章5節
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

まず、私はあなたがたに心から感謝したいのです。なぜならば、あなたが来ると私たちも毎回大いに祝福されますし、確かに言葉でもって、あまりゆっくり交わることができなくても、やっぱり主にあってひとつであることがすばらしい事実なのではないでしょうか。
今の読んでもらった箇所、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」の言葉は、よく知られている言葉です。すなわちイエス様の別れの言葉のひとつです。
問題とは、私たちとは確かに主に従うべきであり主に似た者とならなければならない。けれども、いったいどうしてなり得るのでしょうか。

私は長い間、主に喜ばれようと思えば、もっとああしなければならない、こうしなければならないと思い込んでしまったのです。あの戒めも守らなければと思ったのですが、うまくいきませんでした。
私は思い込んだのは、私はもっと愛を持たなければならない。私はもっと忍耐を学ばなければならない。私はもっと親切にならなければならない。
そうするとうまくいくのではと。頑張れば頑張るほど、結局うまくいかなかったのです。

その時、今のヨハネの福音書の15章の5節は私にとって助けになったのです。大切なのはあなたではない、わたしだよと。
わたしこそがぶどうの木であり、あなたは別に頑張らなくて良い。
つながっていればうまくいくいよ。わたしはあなたのために生きていると主は呼びかけておられるのです。

三つのことについて、ちょっとだけ一緒に考えたいと思います。
まず第一番目に主とつながっている時にだけ実がなる。主とつながっていなければ、何もなりません。
もちろん大切なのは、私たちではなく主ご自身です。ですからイエス様は、はっきり言われたのです。すなわち、あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだのです。あなたがたは、実を結ぶために選ばれた者です。

イエス様は、信仰の創始者であるだけではなくて、続いて導こうと望んでおられます。
そしてイエス様は私たちなしに何もしたくないのです。
私たちを通して働こうと望んでおられます。すなわちイエス様は、私たち一人一人を必要とされていますと聖書は言っています。

イエス様につながっていれば、ぶどうの木の力とは、もちろん私たちの力となります。
言うまでもなく枝そのものは、何もできない者です。けれども、ぶどうの木とつながっていれば、もう心配の必要はありません。必ず実を結びます。つながった結果として。
すなわちイエス様とつながっていれば、イエス様のものが私たちのものとなります。結果として、私たちも満たされます。イエス様とつながっていれば、私たちもむなしい努力から解放され、実を結ぶ者となります。

あるドイツの主を信じる兄弟は、次のように話したことがあります。
「彼の親は、自分の庭に桃の木を植えたのです。いつ実がなるのでしょうか。ある時、今年こそ実がなるのではないかと思うようになった時に父親は厳しく言ったのです。『サッカーをしようと思ったら、ちょっと離れた所でやりなさいよ。』」
けれども、ある時やっぱり、桃の木の近くでサッカーやっちゃったし、そして実になるべきものはサッカーのボールでめちゃくちゃになっちゃったのです。

どうしようか、親に知れたらたいへんなことになるのではないか。そう思って、一人はテープを巻けばなんとかなるのではないか。テープを巻いたら、枝はまっすぐになっちゃったのです。
一日だけ、枝はきれいに木につながっているように見えたらしいのです。でもすぐ周りがおかしくなって、母親が調べたら、子供のやっちゃったことを見たのです。もちろん実にならなかった。
でもそれを通して、子供はわかったのです。やっぱり、本当の意味でつながっていなければ、決して実にならないと言うことです。」

大切なのは、自分で努力することではない。ただ、教会とつながっていても、集会につながっていても、決して十分ではない。
主ご自身との生き生きとした交わりがなければ、いけないと当時の子供達は学ぶようになりました。
聖書の中でよく、「キリストにある」、すなわち私たちはキリストの中で匿われている者であり、イエス様こそが、私たちの中に生きており、私たちは聖霊の宮であり、神の住まいであると強調しています。

第二番目の大切な点は、絶えず主とつながっていなければ決してうまくいかないし、実になり得ないということです。
このヨハネの福音書15章の中で、「留まる」と言う言葉は、三回も出て来ます。
主に留まっていることこそが、私達にとって、最も大切なのではないでしょうか。でも問題は、どう言うふうに主に留まることができるのでしょうか。答えは、ヨハネの福音書15章の7節を見てもわかります。

ヨハネの福音書15:7
7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

主に留まることとは、御言葉に留まることです。すなわち私達は、御言葉に頼り、大いなるものを期待して祈ると、主は必ず祈りを聞き届け答えて下さるということです。大切なのは私達にとって、主の御言葉であり、また祈りです。
朝ちょっとだけ、聖書の何節かだけを読んで一日に入るのはよくない。私達は絶えず主は何を約束されたのか、主の呼びかけがどう言うものであるか、主よ私はどうしたら良いのでしょうかと絶えずこの心構えを持つことこそが要求されています。
いかにして主に留まることができるか、今話したように、御言葉を自分のものとすることです。そして、御言葉こそが、祈りの材料です。

ある人は言ったのです。「あなたは問題を持つとあなたは何をするの?電話するの?祈るの?」、どちらかです。
結局、人間の助けを求めるか、主の前に静まるかのどちらかです。
イエス様こそが、私達の力の源であるから、何があっても絶えず主に近づくことであり、何でも主に話すべきなのではないでしょうか。

人間同士だったら、話そうとしなければ、会おうとしなければ交わりとは言えないのではないでしょうか。
私達はやっぱり御言葉を受け入れて、なんでもイエス様に話さなければ、交わりとは言い得ない。
言うまでもなく、イエス様は実を探し求めておられます。実とは、私達の努力の結果ではなくて、主とつながっている結果に過ぎません。

もうひとつ、実を結ぶ秘訣とはなんなのでしょうか。絶えず主とつながっていることです。
イエス様ははっきり言われました。私から離れたらあなたがたは何も出来ない。残る実がないということです。
私達は、この聖書の箇所をよく知っています。けれども本当の意味で信じているのでしょうか。私は、だめです。どうしようもない者です。イエス様についていなければ。

知らないうちに私達は、もう少し頑張れば主は喜んで下さるのではないかと思い込むのではないでしょうか。
確かに自分の知恵、自分の力に頼るとうまくいきません。だから、イエス様は、私から離れてあなたがたは何もできません。
そして、パウロは「私を強くして下さる方によって、なんでもできる。」と喜んで告白することができたのです。

私達が自分自身を変えようと思っても、絶対にできません。けれども人間にできないことが主にできるのです。
イエス様に頼ると、イエス様は私達を通して、私達の中に働くことができれば、間違いなく永遠に残る実が実ります。主ご自身が信じる者のうちに宿っておられます。これは動かすことの出来ない事実です。
この事実を信じ、意識してイエス様に頼ると、イエス様は働くことができるのです。私達を用いられますし、結果として実になります。

主にとって不可能なことはない。このなんでもできるお方が、私達の近くにおられるし、私達を通して働こうと望んでおられるのは、すごい励ましなのではないでしょうか。





Lohse兄メッセージ、聞く耳を持ちなさい、2009/06/23 B

引用聖句:サムエル記第I、3章9節
9それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。

言うまでもなく、今年も家内と共にここまで来れたことは大いなる喜びです。
ここまで来ることができたのは15回目です。もちろん毎回、私達はここまで来ることによって喜びに溢れ、祝福されたのです。
毎回この御言葉、「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」この言葉を読むたびに、大切なのはこれだと思うようになりました。

もちろん大切なのはそれなのです。主は、いつも語っておられるのです。問題なのは、私達が聞く耳を持っているかどうかということです。
土曜日でしたか、ある兄弟がヨハネの福音書4章について話されたときに、イエス様は、私の食べ物とは、父の御心を行うことであると証ししたのです。
そして、イエス様ご自身が聞く耳を持たれるお方であり、私は自分の思いではなくて御心だけを行うことを望んでいると、イエス様は言われました。私の話している言葉は、聞いた言葉だけです。

イエス様の唯一の願いとは聞く耳を持つことです。聞く耳がなければ、父は何を望んでいるかわからない。そして、父の御心だけを行うことがイエス様の切なる願いでした。
イエス様は、よく言われました。私が天から来たのは自分の思いではなくて、父の御心だけを行うためです。
イエス様は、妥協せずに父の御心だけを行いたいと望みました。そう考えると、私達ももっともっと熱心に聞くべきではないでしょうか。

言うまでもなく、イエス様は父の御心だけを行ったのであります。
イエス様は、十字架につけられる前に弟子達に頼んだのです。おそらく、2、30メートル離れた所でイエス様は、ひざまずいて祈って心から叫ばれたのです。
イエス様は、心から祈り叫んだのです。

マルコの福音書14:36
36またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

イエス様はその時、今から何と何が起こるのか全部知っておられたのです。それにしても、私の思いではなくて、御心だけがなるようにと祈ったのです。
その時、もちろんイエス様は、当時の人々だけではなくて私達のことも考えておられ、この断固たる態度をおとりになりました。
私達は絶えずイエス様の捧げられた祈り、イエス様の与えられた祈りを覚えるべきなのではないでしょうか。

イエス様にとって大切だったのは、父の御心を行うことです。だから、私達も問うべきなのではないでしょうか。私達も、御心だけを考えているのでしょうか。
なんと、多くの人々は自分のことしか考えていない。自分の思い通りになれば良いと考えていますけど、この考え方とは、もちろん祝福を受ける道ではありません。
私達の切なる願いは、イエス様の持っておられた願いであるべきです。自分の思いではなくて、御心だけがなるように。

私達はしばしば主の御心よりも、自分の思いを通す者なのではないでしょうか。
私達が何を経験しても大切なのは、主よお語りください。御心を明らかにしてください。そして、御心にかなう生活ができるように。いろんなことがわからなくても従順に従うことこそが要求されています。
私達は、この御言葉を何回も見たし読みました。けれども問題は、結局、聞く耳を持つこと、御心に従うことなのではないでしょうか。

主の恵みなしに、私達は聞く耳を持っていません。聞く耳を持つことも、恵まれた証拠なのではないでしょうか。
もちろん、主が憐れんでくださらなかったら、私達は決して主に従おうと思わない者です。従うようになったとしても、主の導きの結果であります。
聞く耳を持つ者は、必ず導かれ守られます。聞こう、見ようと思えば、開かれた目、開かれた耳を持つようになります。私達にとって大切なのは、なんでしょうか。イエス様です。

イエス様に頼ればもうOK。主が恵んでくださるからです。
もちろん、まだわからなくちゃいけないけど、あなたがたとの交わりを通して主は祝福してくださるということです。
主が、一人一人を豊かに祝福することができますように。




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