ローゼ兄メッセージ、賢い者とは、2009/06/19 B 引用聖句:ルカの福音書12章16節-21節
おはようございます。まとめて言いたいことは、賢い者とはいったいどう言う者なのでしょうか。成功するのでしょうか。 どなたか、仕事のことで成功すれば、結構えらくなれば、「ああ、あの人は、賢いのではないでしょうか。」と私達は判断します。 あるいは、どなたかが豊かな生活をできるようになれば大体の人が、「やあ。賢い人だらかだ。」と思うのではないでしょうか。 今読みました箇所の中で、いわゆる賢い人のことについて、書き記されています。けれども、この箇所を見てもわかります。主の判断と、人間の判断とは全く違います。 神の判断とは、20節に書かれているように、この人は愚かな者。馬鹿者ということです。 主は、いったいどうして愚かな者よと言われたのでしょうか。この男は、将来について考えただけです。 彼の計算の中で、何年間かは必ず生きると思ったのです。それから、今までの何年間の間、どういうふうに過ごしたらいいかと彼は確かに考えたのです。 豊かになれば、お金がたくさんあれば、もう心配しないで、ゆっくりと過ごすことができると彼は計算しました。もちろん彼は、まだ何年間生きるか、それは、人間の決めれるものではないということを全然考えなかったのです。 詩篇の90篇に、愚かなる者でなく、賢い者になろうと思えば将来のことについて考えるべきであるとこの90篇の中で言ったのであります。いつか必ず死ぬということ実について、この愚かな者は、考えようとしなかったのです。 詩篇90:4-6
ヤコブの手紙4章13節から16節を見ると、この愚かな人は主の考えについて、主のご計画について考えようとしなかったのです。 ヤコブの手紙4:14-16
彼は、死後のことについて考えたくなかったのです。もう一つのことを、彼はきれいに忘れてしまいました。彼は、自分のみじめさが全然見えなかったのです。 もちろんある意味で彼の食物はあんまり多かったから入れる蔵がない。蔵の大きさがちょっと足りないと認めざるを得なかったのです。 だから彼は、なんでも持ってるのではない。やっぱりもっと大きな蔵がないとだめだと認めざるを得なかったのです。 彼は、古い蔵を壊して新しい大きな蔵を造れば、食物は全部その中に入れれるのではないかと計画し、そうしようと思ったのです。それからのんびりしましょう。今からゆっくりできるんじゃないの。楽しみましょうと、思ったのです。 主は、「愚かな者、今日あなたは死ぬよ。」と言われました。自分のためにだけ宝を集めようと思う人は、本当に気の毒な人である。主を知らなければ、本当にみじめなものです。 外側の富によって、人間はまことの富が見えなくなります。ヨハネの黙示録の3章の中で、主はラオデキヤの教会に言ったのであります。宝物を買いなさい。あなたがたはみじめだよ。裸そのものだよ。何にも持っていない。 ヨハネの黙示録3:17-18
本当の意味で豊かな者になろうと思えば、まず、自分のみじめさを知るべきです。 日本で20年前でしょうかね。ちょっとたいへんな経済的なショックがあったのです。今は、ドイツで同じようになりつつです。 このいわゆる不幸を通して、自分の力に頼ってもなんにもならないとわかるようになれば、有り難い。 ドイツだったら、少しだけ経済的に悩むようになっても比較的みんな豊かです。けれども満足していない。 すなわち、今のドイツ人だってね、何を食べようかとか、そう言うことについて、必要はない。みんな十分持っています。 今自分で働くことができなくなっても、国は必要なお金を与えますが、これは良いことかどうか別です。なぜなら、人間がなんでもできるお方に頼る必要がなくなるからです。 このルカの福音書12章に出てくる金持ちとは、自分の心のみじめさを全然、知らなかったのです。 この男は、何を忘れたかと言うと、主は全部を見ておられる、自分のことを全部知っておられることを考えようとしなかったのです。彼は、自分の力によって得られた富だけを見て満足したようです。 それから、この地上における人生について、確かに彼は考えたのです。もちろん、彼が何を経験し何を考えたかということは、主は全部見たのであります。彼は、この事実を考えなかったのです。 伝道者の書5:18-19
持ってる物があっても、これは与えられたお方の恵みに過ぎない。主に与えられたとしても、彼は感謝しようとしなかったのです。 自分の努力の結果と思い込んでしまっただけです。 ヤコブの手紙1章の中で、大切なもの、すばらしいものは全部上から来るものであると書かれています。すなわち人間の努力の結果、報いではありません。 ヤコブの手紙1:16-17
この愚かな者がどうして愚かであったかと言うと、目に見えない主を見ようとしないで、目に見える現実によって動かされただけだからです。 このルカの福音書のたとえ話しを通して、私達は何を学ぶことができるのでしょうか。 まず、私達はいつか死ななくちゃいけないということを考えなくちゃならない。ヘブル人への手紙9章27節に、人間はいつか死ななければならないとはっきり書き記されています。 ヘブル人への手紙9:27
結局、毎日、毎日、光の内に主の前に歩むべきなのではないでしょうか。 マタイの福音書6章の山上の垂訓の中で書かれているように、目に見えない宝を集めなさい。天にあるものを見つめなさいと、当時の人々に注意したのであります。 もうひとつの最も大切なのは、覚えるべきこととは、主ご自身が面倒を見てくださる。主ご自身が必要な物を与えてくださるということ実を絶えず覚えるべきです。 ですから、私達の持っている物は全部、主から与えられたものなのではないでしょうか。 目に見える宝によって、まことの安全は与えられ得ないのです。いつまでもつかわからないから。 テモテへの手紙第I、6:17-19
テモテが、当時の信じる者に注意したのです。目に見える宝物に頼るな。主にだけ徹頭徹尾、信頼せよ。これは、パウロの当時の信じる者に対する呼びかけでした。与えられたものは、自分のものではなくて、本当は、あくまでも主の物です。 前に読みました伝道者の書5章の中でも、やっぱり、全部、主から与えられたものですし、主の示す通りに動きなさいとあります。 いわゆる愚かな者とは、主を見ようとはしないで、目に見える物によってがんじがらめになっていたということです。 私達とは、どういう生活態度を取るべきなのでしょうか。答えは、ピリピ人への手紙3章20節です。 ピリピ人への手紙3:20
すなわち初代教会の兄弟姉妹は、喜びをもって誇りを持っていたのです。私達の国籍は天国です。 そして私達とは、主を待ち望んでいるのです。 私達の人生の目的とは、主の栄光に預かることです。どうして、救われたかと言いますと、主を待ち望むためです。主、ご自身が約束したのです。 ヨハネの黙示録22:12
最後に、コロサイ人への手紙から少し読んで終りたいと思います。 一言でまとめると「上なるものを求めなさい。」目に見えるものは、過ぎ去ってしまいます。上にあるものだけが、永遠に続くものであるからです。 主は、ご自分のご栄光を私達に与えようと望んでおられるから、私達は毎日、再臨なさる方を仰ぎ見るべきではないでしょうか。 コロサイ人への手紙3:1-4
ルカの福音書22章に出てくる男に対する主の判断とは、愚かな者よ、ということです。 今の人生は短くて儚いものです。たいしたものではない。けれども、大切なのは主の約束に頼ること。すなわち私達は、主に頼る者は、いつまでも主と共にあるということ実について考えると、本当に、大いに喜ぶことができます。 そういう心構えを持つ者こそが愚かな者ではなくて、賢い者と呼ばれます。 奥兄メッセージ、イエス様のくびき、2009/06/20 B 引用聖句:マタイの福音書11章28節
この地で、このようにドイツの兄弟姉妹と交わり、賛美し、共に御言葉を学べますことを感謝致します。 マタイの福音書11章28節は、なんと慕わしい言葉でしょうか。そして、なんと重荷のある言葉でしょうか。神の御子であるイエス様だけがこのようにお話になることができます。 私が知っているある方は、最愛の者の死という辛い悲しい状況におられましたが、ある所で本をめくっておられた時に、この御言葉を目にしました。 人間には、このような言葉をいうことはできない。このように語れられる方をよく知りたいと言う思いが与えられ、イエス様のもとに導かれ、そして救いを受け入れられました。 「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という語りかけは、まだイエス様をご存じでない方ばかりではなくて、イエス様を主として受け入れた者にとっても語られている招きの言葉です。 この箇所には、二つのことが命じられ、あるいは勧められています。 一つは、私の所に来なさいということであり、もう一つは、私から学びなさいということです。 私達にとって、イエス様の御許に行くことは一番大切なことですが、それに劣らず大切なこととして、イエス様から学ぶことを命じておられます。 そして、当然のことながら、イエス様の御許に行く者だけが、イエス様から学ぶことができます。 今の御言葉によりますと、イエス様から学ぶときに一つの条件が挙げられています。ただ単に私から学びなさいと話しておられるのではなくて、私のくびきを負って、私から学びなさいとおっしゃっておられます。 くびきを負わずにイエス様から学ぼうとしても不十分であること、あるいは、不成功に終ることを示唆しています。 この箇所をご一緒に少し学びたいと思います。 私達は、イエス様のもとへ行くとき、イエス様が心優しくへりくだったお方であることを示されます。 イエス様がどのように心優しくへりくだった方であることは、実際にイエス様と出会って個人的に、教えられます。 ですが、私達が、心優しくへりくだったとは、どのような状態なのだろうかと知ろうとする時には、その反対のことを思い浮かべるとはっきりします。 心優しく柔和の反対は、厳しく辛辣であることです。へりくだった、謙遜のさかさまは、誇り高ぶり見下すことであります。 私達は、自分がしばしば厳しく辛辣に他人を批判する者であり、また自分を誇ったり、他人を見下す態度をとる者であることを知らされます。 誇り高ぶることとは、主が最も嫌われることであり、罪の根であると教えられていますが、厳しいこと、辛辣であることについては、私達が罪を犯していると言う意識が、しばしば欠けています。 このように厳しくすることが必要なのだとその正当性を、私達は主張する者ですが、イエス様はそのような所が全くない方でありました。 私達は、イエス様のもとに行くときに、イエス様が心優しくへりくだった方であることを知るとともに、イエス様がくびきを負っておられたことを知ります。 くびきとは、よくご存じだと思います。最近はあまり見なくなりましたが、昔はよく牛や馬が荷車を引いたり、田畑を耕す器具を引く姿を見ました。 牛や馬に引かせるために前方から突き出た二本の棒の先に横棒で牛や馬を固定して、車を引かせます。その横棒がくびきと呼ばれます。 一頭でくびきを負い荷車を引く場合もありました。二頭で、共にくびきを負い荷車を引くこともありました。くびきとは、一般的には自由に動けない束縛を意味しますし、逃げ出しようのない服従も意味します。 旧約聖書の中にもくびきについて述べられている箇所がいくつかあり、その一箇所をお読みします。 エレミヤ書28:2-4
バビロンは、イスラエルを打ち破って都エルサレムを占領し、神殿を含めて街を徹底的に破壊しました。そして、神殿に属する器物を奪い去り、王以下、その民を捕虜としてバビロンの都に連れて行き、彼らは抑圧の中で生活を送っていました。 そのように、くびきは、束縛、不自由、あるいは重荷を意味するものでした。 ですから、イスラエルの民は、それらのくびきが取り除かれるように、あるいは打ち砕かれるように、主なる神様に祈り求めました。 しかしここで、イエス様は取り除いたり、打ち砕いたりする者ではなくて、自分から進んで負うべきものとして、くびきのことを話されました。 イエス様は、私のくびきと話されました。イエス様は、この世におられた時、ご自身くびきを負っておられました。イエス様が負っておられたくびきとは、どのようなものだったのでしょう。 それは、父なる神様が与えられたものであり、またイエス様がご自身で選び取られたものでした。 私達は、イエス様が負っておられたくびきがどのようなものであったのかを知ろうとする時、イエス様ご自身に教えて頂かないと、その深い隠された意味を知ることができません。 私達の目と耳と心を開いてくださり、イエス様が負われたくびきを教えてくださいますように。 イエス様が負われたくびきを簡潔に言い表す聖書の箇所があります。 ガラテヤ人への手紙1:4
人間は悪の世界が支配する中におり、罪と滅びの望みのない状態の中にいる。 その哀れな人間を救うためにイエス様は、ご自身を捨てられました。 それは、神であり父である方の御心にそって、そうされました。そして、神様の御心とはエペソ人への手紙1章4節に書かれているようです。 エペソ人への手紙1:4-7
ここに、神様の御心が書き記されています。私達を、ご自分の子にしようと選び、神様の目に清く傷のないものとしようとされました。 そのために御子をこの世に人として遣わし、御子を通して神様とはどのような方であるかを教え、そして御子を十字架につけて血を流し、罪を贖われました。 イエス様が負われたくびきを一言で言うなら、このような父なる神の御心に従ってご自身をお捨てになったということです。自分を捨てるとは、どのようなことを指しているのでしょうか。ピリピ人への手紙の2章の6節からお読みしたいと思います。 ピリピ人への手紙2:6-8
神の御子であるイエス様は、特権、力、栄誉などすべてを捨てて、ご自分を無くされました。ご自分を無にし、ご自分を無いもののように扱われました。 その結果として、神の身分を捨て人間となられ、人間の中で、仕える者となられ、十字架にかかられました。 イエス様はご自分の考え、ご自分の意志によって、これらのことをなされたのではありませんでした。ヨハネの福音書から三箇所をお読みします。 ヨハネの福音書6:38
ヨハネの福音書4:34
自分の考え、自分の意志によって行動しているのではなく、遣わされた御父の御心に従って行動しているのだとたびたび話されました。 ヨハネの福音書5:30
自分からは、何事もすることができない。私は、そのような者であるとイエス様は公言されました。 自分の考えや、自分の意志に従うのではなく、ただ父なる神様の御心に従って行動すること、自分からは何事もすることができないこと。そのことを、ご自分のくびきとされ、それを栄誉とされました。 そのようにイエス様は、くびきを負っておられました。イエス様が、くびきは、そもそも何かを運ぶために負うものですが、イエス様が負って運ばれたのは、御父の御心でした。 私達もそのようにイエス様が負われたくびきを負って、イエス様から学ぶことが大切です。 私達がこの世を歩んでいくとき、いろんなくびきを与えられ、負って歩んで行きます。 私達がくびきを与えられ負う時、自分一人で負っているように感じたり、自分一人で、負わなければならないようにしばしば考えてしまいますが、イエス様が共にいてくださり、イエス様がくびきを共に負ってくださるのであります。 くびきとは、試練や服従を意味しますが、くびきを共に負う者どうしを結びつけるものであります。ひとつにするものであります。 私達はくびきを共にすることによってイエス様と、結びつけられひとつにされます。 同じ目標、同じ喜び、同じ誉れ、同じ辱めを共に致します。 イエス様は、くびきを負いなさいと話されましたが、くびきをつけていること自体に意味があるのではありません。くびきをつけることには、目的があるのです。 牛や馬がくびきを負う目的は、主人のために荷車をひいて荷物を運搬する。あるいは田畑を、耕すことにあります。 イエス様がくびきを負われて運ばれたものとは、父なる神様の御心であり、すべての人の救いを備え、神様と人間との永遠に渡る交わりを回復することでありました。 もし、くびきを負う者がその目的を知らなかったり、あるいはその目的を知っていても同意しないならば、くびきは単に束縛、不自由、従属だけを意味し、悲しみ、苦しみ、あるいは怒りを与えるだけのものかもしれません。 しかし、もし私達が、私にくびきを負わしておられる方の目的、計画を知ることができ、そして、私達がその目的、計画に心から同意して、私達もひとつの道具としてそのご計画に預かることに望み、喜んでくびきを負うならば、大いに祝福されるでしょう。 たとえ主の計画や目的のすべてを理解できなくても、主を愛し信頼し従っていく者にとってはくびきを負って行くことは、束縛や不自由も意味しますが、それ以上に、喜びと達成感をもたらすものとなります。 それは、牛や馬や、その主人の考えや目的を十分に理解できなくても、自分が愛し慕う主人の命令に従って労することで、主人が喜び満足する様子を知り、あるいは、主人から優しいねぎらいの言葉をかけられ喜び満足するのと同じであります。 私達も時には自分が負っているくびきの意味を見失いそうになりますが、愛し慕う主の赦しがあって、与えられ負っているくびきであることを覚え、主にお会いする時に、優しいねぎらいの言葉を頂くことを待ち望んで歩みたいと思います。 私達の救い主であり、主である方と共にくびきを負うこととは、なんと名誉なことではないでしょうか。 最後に、冒頭のみことばをもう一度お読みして終りましょう。 マタイの福音書11:28-30
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