主イエス様と親しいですか


江田兄

(御代田福音集会、2001/06/03(メサイア・キャンプがあった日です))

引用聖句:マルコの福音書5章22節-42節
22すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
23いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
24そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
25ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
26この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
27彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
28「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
29すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
30イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
31そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
32イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
33女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
35イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
36イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
37そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
38彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
39中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
41そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
42すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

今、中学校二年生を担任しているんですけれども、先日、人との親しさのバロメーターは何であろうかという授業を一時間行ないました。中学校二年生ですので、新入生が入って来て、部活動にも後輩ができて、そして上を見ると、先輩もいて、そして同じ同級生もいるという、そういう状況の中で、いったい子どもたちは何を基準に、誰それさんと親しいとか、あるいは親しくないとか、そういうことを言っているのかということについて、一緒に考えてみたわけです。
子どもたちから当然出てきたその答えは、毎日のように、例えば顔を合わせて、行き帰りをともにしたり、あるいは同じ趣味をもっているので、そのことについて色々お喋りをしたり、あるいはいつも笑いあっている、また色々な事を相談できるというようなことも言っておりました。

私は意地悪な質問をして、「じゃあ相手に調子を合わせてヘラヘラしているの?何て言うかな、そとみだけで、こう、相手に合わせようとしている、そういうのも、親しいのですか?」というふうな質問をしたわけです。
色々子どもたちに聞いた後に、それでは、「例えば、遠く離れていて、めったにその人とは会えなくても、深い絆で結ばれているような、そういう人間関係というのは、親しくないんですか?」っていう質問もしたわけです。
最終的に結論として、私が子どもたちと話し合いを深めながら出した結論は、自分がどれくらいその人を信頼し、またその一方で、その人から信頼されているかということが一つの親しさのバロメーターになるのではないかという、そういう授業をしたわけですけれども。

一つ、問題として残ったのは、じゃ、いったい何を基準に、本当に親しいかということなんです。信頼関係という、そういう言葉が基準になってくるわけですけれども、肉の世界ではよく人と人との、まさに信頼関係が大切だというふうによく言われます。
親子と子どもの間。それから、肉の兄弟姉妹、そして友だち。私の職場で言えば、職場、同僚、そして保護者と生徒との関係。あるいは、一般企業の方で言えば、自分たちの会社とクライアントなど、色々な信頼関係が出てくるかと思いますけれども。
信頼という、つまり信じるということは、本当にとても大切であります。かと言って、何でもかんでも信じる人は、かえって不幸ではないかというふうにも、子どもたちに話したわけです。何でも信じてしまったら、危険で危険で仕方がないわけです。

また、何をも逆に信じることができない人も、同じように不幸ではないかという話もしました。この人は、自分を言葉巧みに何かして、騙そうとしているのではないかという気持ちで、いつも人に接していたら、本当にその方は不幸ではないでしょうか。
では、何をいったい信じる人が、本当に幸いなのでしょうか。それは、信頼するべき者、あるいは信頼するべき方を信じる人こそ、本当の幸いな人ではないかと思います。信頼するべき方と親しくする人こそ、幸いなのではないでしょうか。

さて、私たちと主イエス様との関係は、いったいどのような関係にあるでしょうか。はたして、その授業をやってるときに思ったことは、それでは、私とイエス様とは本当に親しい関係にあるかということを、授業をやりながらふと思ったわけです。
そんなことで本日は、「主イエス様と親しいですか?」というテーマで、ご一緒にみことばを学んでみたいと思います。

主は、私たちが主ご自身の言葉をそのまま受け入れ信じたとき、心から喜んでくださいます。本当だろうか、どうせ祈ってもダメではないかと諦めたり、絶望したりする行為は、主を信用しないのと同じであります。
それは、「主よ。あなたは嘘つきです。」と、言っているのと同じではないでしょうか。主イエス様とはどのようなお方でしょうか。それは、主は決して約束を破らずに、私たち一人一人に対しての愛を決して捨てないお方であります。

先ほど兄弟に読んでいただいた箇所の36節には、「恐れないで、ただ信じていなさい。」と、主イエス様は仰いました。目に見える状況がどんなに絶望的でも、このわたしを信じなさいと、言っておられます。

詩篇42:11
11わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

と、あります。もう一箇所。

詩篇25:12-15
12主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。
13その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。
14主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
15私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。

とあります。主を恐れる者とは、主に信頼する者、そして主と親しい関係にある者のことを指すわけです。主を恐れる者とは、何と幸いなことでしょうか。
兄弟に読んでいただいた、少し長かったんですけれども、そこの箇所は、ヤイロの娘をよみがえらせた奇跡の物語の間に、十二年間も病気で悩んでいた女のいやしの出来事が挟まれています。
ヤイロも病気の女も、イエス様への一途な信仰を示しています。その信仰が奇跡を呼び、長血の女はいやされ、ヤイロの娘は死からよみがえりました。その信仰とはまさに、イエス様が求めておられたものでありました。それでは、その信仰とはいったいどのようなものだったでしょうか。

イエス様のみもとには、大勢の人の群れが集まっていました。好奇心に駆られた人々もいましたでしょうし、本当に助けや、救いを求める人も多くいたことと思います。その中に、ヤイロという会堂管理者がいたのは意外でありました。
注解書で、会堂管理者というものがどのようなものであったかというのを、ちょっと見てみたんですけれども、このように書いてありました。「長老の中から選ばれる、最高責任者である。会堂の建物と、礼拝の準備の責任を負っていた。会堂を中心とした地域共同体の行政を兼務することもあり、異端者を共同体から追放する権限も持っていた。礼拝における聖書朗読者、祈祷者、説教者などを選び、指名する働きもしていた。」と、ありました。

この管理者はもちろん、イエス様を憎んでいたパリサイ人に任されていて、宗教的にも尊敬されていたわけです。ヤイロという男は、そのうちの一人であったわけです。
しかしそのヤイロは、愛する娘のために、彼の中にあった身を守るものすべて、地位や、名誉すべてをかなぐり捨てて、そして周りの目を気にせずに、イエス様の足もとにひれ伏し、必死に懇願したわけです。
私たちの中には、「主は私たちの心の中をすべてご存知なのだから、祈っても、祈らなくても同じではないか。」と言う人もいるかもしれません。私も救われて、主が全部知っているんであれば、別に祈らなくても同じではないかと思った、そのような時期がやはりありました。

しかし、心の中の願いを主に申し上げることは、とても大切なことであります。ヤイロも、イエス様にきちんと願い出ることによって、主が愛をもって、その願いに応えてくださる方であることを、やがて具体的な経験として明確に知ることになるわけです。
私たちは一つ一つ、願いを主に申し上げることをとおして、確かに主が存在し、私たちを愛し、私たちのどんな小さな語りかけにも耳を傾けてくださることを知るという経験をするのではないでしょうか。
そして、その確かな経験を積み重ねることによって、主との交わりをさらに、深めていくことができるわけです。

五月の半ばくらいになりますと、全国的に家庭訪問というのが行なわれます。最近は時間がなくて、家庭訪問をやめていく、そういう学校も多いわけですけれども、私の学校は、やっぱりとても大切なことなので、そのことには時間を費やしましょうということで、それがまだ残っております。
家庭訪問をする前に、できるだけスムーズに、与えられた時間の中で、親御さんと話が進むようにということで、よく現場では、家庭訪問をする前に、何か調査表みたいなものを配って、何か相談や聞きたいこと等がありましたら、その紙に書いてくださいという、そういうものを配布いたします。
その中で、ある紙が私の手元に子どもをとおして来たわけです。私は、子どもたちに日記帳を綴らせて、「どういうことでもいいので、自分のその素直な気持ちを、日記帳に書いてください。」、そして私もそれについて、色々なことを書くわけです。

主を知らない頃は、自分の肉的な思いで、日記帳に赤ペンで入れてたわけですけれども、兄弟が仰っていたとおり、本当に若いたましいに主のことを知ってもらいたいというそれが、実は私の一番の目的であります。
ですので、子どもたちが悩んでいたり、あるいは問題にぶつかっていたり、必死に頑張ろうとするときは、それを上手に、彼らの気持ちを、最終的には、その荷を降ろす場所を伝えたいということ。そして、そのままでいいということを伝えるために、実は、時々、みことばを書くわけです。

コンコーダンスで開いて、それに合ったみことばを、そうですね、三日にいっぺん、あるいは、その子によっては、毎日のように書くわけです。
親から来たその紙には、「先生の日記帳を、子どもとの日記帳を、実はチラッと読ませてもらいましたけれども、神とか、祈りとか、そういうものが書かれてあって、非常に宗教的ではないか。」と、文章から見るかぎりでは、非常に攻撃的であったわけです。
私も前の情報から、そこのお家の方は、結構色んなことで学校に言ってくるというふうに聞いてましたので、「とうとう来たな。」というふうに、思ったわけです。

私はそのときに、何をどのようにしたら良いか祈りました。二つの方法が考えられました。
一つは、教師としての立場を守り通すということで、「これは宗教ではありません。」と、まずそのことをしっかり、弁解してから、そういう宗教活動ではないので、ご安心くださいということ。
もう一つの方法は、キリスト者としての証しを、宗教と思われても仕方がないという気持ち、そしてイエス様を証しすることによって、そのことを、御霊が働いて、その方に伝えていただきたいという、その二つの方法が考えられたわけですけれども、その紙をもらって数時間後に、たまたまそのお母さんが学校にある用事があって、いらっしゃいました。
私は、一週間後に、その家庭訪問を控えていたわけですけれども、その一週間を、肉的な思いで、このまま待つべきか、それとも主を証しすることが先かという、決断をそのときに迫られまして、祈って、そのお母さんに、「ちょっとよろしいですか。」ということで、お話をさせていただきました。

お母さんが言うには、「周りには、神社もありますし、お寺もあります。また、そういう行事にはうちの子どもも行きます。で、息子は非常に素直なので、何でも受け入れてしまうので、逆にそういうことが心配です。」ということを仰っておりました。
私は、そのお母さんが一通り言うのを聞いて、聞き終わってから、次のように申し上げたわけです。
「私には、私は教師をしておりますけれども、誇るものが実は何もありません。もし、どうしても誇る必要があるならば、それは自分の弱さを誇ります。もう一つ誇るとすれば、私は、主イエス様を信じていること、そのことを誇ります。ですので、子どもたちに、伝えるべきことは、実はそのことだけなんです。」ということをお話しました。

私は何も持っていないんですというお話をしたんです。そして、聖書にもあるんですけれども、「自分の子どもがパンをくださいと言うときに、だれが石を与えますか。お母さんは、魚を子どもがくださいと言うのに、蛇を与えますか。」という話をしました。
私は、真理だけを子どもに伝えたいんですという話をしたわけです。そして、子どもたち一人一人が、そのままでよいということ。決して、いい子になる努力をする必要はないということ。そして、そのよいところも、悪いところもすべて光に出せる、そういう子どもを育てていきたいんだという話をしました。
なぜ、よい子になる努力をする必要がないか、それはお母さん、なりきれないからですという、そういう話をしたわけです。

そしてお母さん、このまま本人が何も問題なく、中学校、そして高等学校、あるいはその上に一応すすめ、大人になると、お母さんは思ってますか。という話をしました。
お母さんは、非常に素直に答えてくださって、「このまま終わらない。必ず何か彼に問題があると私は思っていました。」というお話をしました。ですので、いつ不登校になっても、いつ子どもが精神的にバランスを崩してもおかしくないと、はっきり仰ってくれました。

私はそのときに、今はわからなくても、そのときに、重荷をどこに降ろすべきかということを、子どもに伝えたいんですということを申し上げました。お母さんは、私が誇るものが何もないんですという言葉に、非常に驚いていた様子でしたけれども、帰りには、「よくわかりました。」と、私も、「聖書の聖句を書くときには、もう少しわかりやすい言葉で、もし書くならば、書くように、バランスよくしたいと思います。ご心配かけて申し訳ありませんでした。」というふうに、非常に冷静に、そのお母さんと話をすることができました。
最後にお母さんは、何かあったら、落ち込んだときは、先生どうかその聖書の話をしてあげてくださいというふうに話して、教室を出て行かれました。

そのやりとりの最初から最後まで、私は本当に、主が語ってくださったとしか言いようがないほど、自分では冷静で、そして御霊が働いてくれたわけです。
補足になりますけれども、一週間後にそのお母さんのお家を訪ねたわけです。うるさい家だというふうに聞いてましたので、うるさい家は最初にもっていくか、あるいは、後にもっていくかで、私の場合は、以前はうるさい家は前にもっていったんですけれども、もし相手が色々な話をするんだったら、それについて、こちらも話を聞いて、それについて色々、理解をお互いに深めていければと思って、あえてそこのお家は一番後ろにもっていきました。

すると、「今日はゆっくりしてってください。で、私は、先生に対して、本当に頭を下げて謝らなければならないことがあります。それは、先生に対して、非常に、ある意味で、この学校に、このような小さな村に、村の学校に先生は合わないと思っていました。
で、先生に対して、どこか良く思っていない部分があったし、挫折もしていない先生だと思っていたけれども、私は本当にそのことについて、誇るものが何もないと言われた、その先生の言葉に、自分は本当に、申し訳なかったというふうに思っております。」
ということで、一時間くらい居たんですけれども、ずっと彼女は、私は謝ってくださいなんてことは一言も言ってなかったわけなんですけれども、一時間の中で、私の証しをしたり、自分がどうして、イエス様を信じるようになったか、あるいは最初は、スペインから帰って来たときに、小さな村に赴任ということは私自身も、本当はどういうことですか、嫌でしたという話もしました。

ですけれども、一つ一つが今こうして勤めて、その中で、主が働いておられるという証しをして、その一時間を終えることができました。そのお母さんは私に、頭を下げてたわけですけれども、私にではなくて、お母さんは主イエス様に頭を下げていたように、私には思えてならないわけです。

聖書に戻りたいと思います。長くなりまして。マルコの福音書5章の25節からです。長血の女というふうにありますけれども、婦人病の一種で、長血というのは不評とみなされており、血を流した者も、それに触れた者も聖めの期間が必要であったそうであります。
実はこの女性は、肉体的にも、社会的にも、経済的にも、相当な苦悩があったのではないかというふうに思います。

先日、日本政府がハンセン病の、らい病とも言いますけれども、その患者さんに対して放送しないという決断をしたわけですけれども、

(テープ A面 → B面)

・・・彼女たちが、きっと彼らのような状態だったんだろうな、というふうに思うわけです。
この長血の女性は、イエス様なら直せると信じたわけです。しかも、何か特別なことをしていただかなくても、衣服にさわりさえすれば直ると信じたわけです。

この福音書には、病がいやされた人がほかにもたくさん記されていますけれども、そのほとんどが、まずイエス様に求め、イエス様ご自身がそれを受け止めて、力を現わすというものであります。
しかし、この長血の女性の場合、イエス様がご自分の力を発せられたのを知ったのは、女が信仰をもってさわったときでありました。つまり、神の力とはまさに、信仰をもって望む者に発せられるのであります。まさに、あなたの信仰があなたを直したのですという、このみことばどおりであります。
イエス様は信頼をもって、ご自身に近づく者を決してお見捨てになりません。私たちも、主の導きと力に期待して、主の前に問題を差し出すならば、主は必ずその信頼に報い、解決を与えてくださるお方であります。

さて、ヤイロの娘はこの後どうなったでしょうか。この長血の女性の出来事によって、足止めされたヤイロとイエス様は、娘の死という聞きたくない知らせを聞くことになったわけです。大きく心が揺れていたヤイロに、イエス様は何を求めたのでしょうか。それは信仰、主に信頼することであります。36節に、

マルコの福音書5:36
36「恐れないで、ただ信じていなさい。」

イエス様は、ヤイロに仰いました。ヤイロはイエス様に来ていただいて、娘に手を置いていただくことを最初は、願っていたわけです。イエス様に助けの意思をもっていただいて、そして何か特別なことをしていただくという信じ方の表われではなかったかと思いますけれども、手を置いていただきたいと、思ったわけです。
しかしイエス様がヤイロに求めたこと、それはその前に出てきた、長血の女の態度を取りなさいという、つまり信頼して主に近づく、その態度をあなたは取りなさいと仰ったわけです。
38節から42節までもう一度お読みいたします。

マルコの福音書5:38-42
38彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
39中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
41そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
42すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

とあります。イエス様を信じる信仰は、神の力を発動させ、暗やみを打ち破ります。そして42節に書いてある通り、少女は生き返って歩き始めたわけです。
信仰とは、決して難しい言葉ではありません。信仰深くなるためには、どんな努力をしたり、あるいは何かに励んだりするべきかと思う必要はないわけであります。信仰という世界に努力という言葉は、一切必要ありません。救いのために何かをする必要はないわけです。
私たちの罪、わがままを神に赦していただくために、イエス様は何の罪もないのに、栄光と誉れを捨てて、黙って、私たちのために十字架に架かってくださいました。私たちが本来受けなければならない罰を、代わりに受けてくださいました。
そして神の愛によって、約束どおり、三日後によみがえられて、今も生きて働いておられます。そしてまったく、個人的に私たち一人一人を愛してくださっているわけです。

信仰とは、このイエス様の全身から溢れ出る愛をただで受け、主のお言葉をそのまま素直に信じて、安らかに静まることではないでしょうか。この信仰こそが、私たちを罪と死から救い、永遠のいのちを豊かに与えるのであります。

ペテロの手紙第I、4:8
8愛は多くの罪をおおうからです。

とあります。長血の女、ヤイロの娘に発した不思議な力とは、まさにイエス様の愛にほかなりません。
よく人間社会では、ギブ・アンド・テイク(give&take)というふうに言われます。いわゆる利害関係が、あるとかないとか言われるわけです。与えるものがあるのだから、当然受けるのもあります。しかし主の愛とは、この世の多くの場面に見られるその、give&takeではありません。
与えるものがあるのだから、受けるのでも当然ですではなく、イエス様は、何も私たちから受けることを期待していないわけです。イエス様の愛を受けるのに、何か特別なことを、私たち自身がする必要はないわけです。ただで受けられるからです。

私には二人の、小学校三年生と幼稚園の小さな子どもがいるんですけれども、先日食事をしているときに、「あるお店に行ったら、それが欲しいなと思ったら、売約済みだった。」という話をして、売約済みねって話をしてたんです。
で、私がふと、売約済みの札っていうのは、実は、子どもたちの、その背中を指して、あなたたちの背中にも、パパの後ろにも、貼られているんだけれども、知ってた?っていう話をしたんです。
だれに売約済みの札を貼られたんでしょー?と、そういう日曜学校みたいなことを、ある日曜の朝に、礼拝に行く前に話をしたんですけれども、さすがに日曜学校は、きちんと出ている子どもたちでしたので、「イエス様!」という言葉が返ってきたわけです。

そうです!そのとおりです!まさに私たちは、イエス様に売約済みという、そういう札を「前に」貼られていたらきっと気が付くことができると思うんですけれども、「後ろ」に貼られるとなかなか、こう、貼られていることを忘れてしまうわけです。
「そうだね。イエス様が十字架という、お金の代わりに十字架を、イエス様が十字架に架かってくださって、そして私たちがイエス様のものになったんだよ。だから、色々なかたちで、サタンが攻撃してくるけれども、売約済みと書かれている札があるので、イエス様はいつも自分のものだよというふうに言ってくださっているんだよ。」という話をして、本当に自分でもそのとおりだなと、話していて納得してしまったわけです。

私たちは、主そのものを受けることが許されているわけであります。もう一箇所開いてみたいと思います。

哀歌3:24
24主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

とあります。ほかにも、いくつか主は私の受ける分ですというみことばがありました。あなたの信仰があなたを直したのです。これはまさに、私、イエス様の愛をただで受けるその信仰、その態度こそが、あなたを直したのですと言っているのと同じではないでしょうか。
さて今度は、周りの人々の様子を、もう一度、先ほどの箇所から見てみたいと思いますけれども、マルコの福音書5章の40節に戻ります。

人々はイエスをあざ笑ったというふうにあります。ヤイロの家にイエス様がいらっしゃったときに、周りの人々は、イエス様をどの程度信じていたでしょうか。彼らの経験や、常識の範囲で考えて、神の力を過小評価していました。
娘の死によって、深い悲しみが支配しているところに主は、「眠っているだけだ。」と、言われたときに、彼らがあざ笑ったのは、経験や常識で考えれば、当然であります。イエス様には、死人をも生き返らせる力があることを彼らは信じられなかったわけです。常識で考えるならば、当然であります。
私たちも、神は、イエス様は、ここまではできても、これ以上はできない、無理であろうと、上限をつくって信じて、期待する以前にあきらめてしまうことがあるのではないでしょうか。

サタンが、実らせないように、私たちは本当に肉の衣を着てますので、罠にかかりやすいわけです。肉のからだを着ているために、自分のプログラム、アダムとエバのプログラムが私たちのからだに染み付いてますので、そのプログラムで考えてしまうわけです。そして、主ができないなら、自分がやるしかないというところに陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。
しかし、主なるまことの神は、私たちが考えているほど小さくありません。主イエス様の能力を、その枠を、私たちは勝手に、自分たちで作ってはならないわけです。死を打ち破り、天に昇って、今も生きて働いておられるお方をどこまでも信じるべきではないでしょうか。主に信頼していれば、必ず働いてくださるわけです。

私の身の回りで最近、とっても嬉しいことがありました。それは私の今の、現役の担任をもっている女の子が、つい先日、ここ一、二週間で救われました。
自分ではもう、祈りきれませんでしたので、色んな集会で祈っていただいた子どもですけれども、その子どもは、もう小学校のときから非常に頑張り屋で、どこまでも頑張って、周りからは、「しっかりしている、いい子だね。」と言われる、そのような子どもでした。
でも、実は自分はそんなに周りが思っているほどいい子ではない、ということに気が付き始めたわけです。そして昨年の九月から、中一の前半はよかったんですけれども、一学期はうまくいったんですが、夏休み後半くらいから体調を崩し、精神的なバランスを崩して、不登校、拒食、過食、そして二回にわたる自殺未遂も冒しました。

親戚や、親もまったくお手上げであったわけです。担任も、当時の担任も腫れ物に触るような対応で、どのようにしていいかまったくわからない状況だったわけです。その当時の担任は、「お医者さんで診てもらいましょう。」ということで、お医者さんにも連れて行ったわけですけれども、当然お医者さんも治せるわけがないのであります。
職員会議では、毎回その子の話題になるわけですけれども、なぜこの子が突如としてそういう病気になったのかという話題になるわけです。
しかし、私たちにもわかるわけもないわけです。学校というところは、すぐに結論を出したがる、そのような場所です。わからないところが、わからないことがあってはならない場所のように、そのことを通して私は思いました。

私がしたことは、本当に何もできませんでしたので、彼女の学級に行って授業をするときに、彼女がいませんと、本当に心、心身ともにいない机を見て、心痛めたわけですけれども、その苦しみが私は、もう祈りに変えさせられたわけです。
本人にも、お母さまにも手紙を出しました。だれも悪くありません。神の、イエス様の栄光を見るために、イエス様が、今このように病気を彼女に与えていらっしゃるだけです。すべてを光に出してくださいと、頻繁に手紙を出したわけです。

祈っておりましたら、今年度、彼女の担任になることができて、例の、先ほどの日記帳じゃないですけれども、色々なことが彼女の日記帳に書かれてくるわけです。次第に、彼女の罪の問題、「自分は、本当はそういうふうには思っていなかった。」、例えば試合にみんなが行く、私は行けない。本当は、みんな頑張ればいいっていうふうには口では言ってるけれども、実は自分が出れない試合にどうしてチームが勝ってくれっていうふうに先生祈る、そのように言うことができるでしょうか。
そのようなことを、どんどんどんどん、書いてくるわけです。「何で私ばっかりが病気なのか。みんなが病気になればいい。」、彼女の素直な気持ちが日記帳に書かれてくるわけです。

もう私は、すべてのその罪が彼女の口から出てくることが、非常にいいと思ったわけですけれども、逆に職員は、とんでもないことを彼女は書き始めているということで、オドオオドオドするわけです。
しかし彼女自身が、罪をすべて出すことによって、罪のために、本当にあなただけでなくて、ほかの子すべてが、もしあなたの立場ならばそのように思うと、あなただけではないと、そのみことばを彼女に伝えた。
伝えるだけしか、私にはできませんでしたけれども、本当にイエス様は、その罪をすべてご存知なわけであります。

石打ちの女の場面を、ちょっと彼女に話した部分があるんですけれども、ちょっとみなさんと一緒に見てみたいと思います。ヨハネの福音書8章です。有名な箇所ですけれども、

ヨハネの福音書8:5-8
5モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
6彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
7けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

とあります。指で地面に書かれておられた、これほどイエス様は、その人間の罪深さを知っておられる方でありますし、まともにその罪人の顔を見ることができるほど、心冷たくはなかったわけです。主イエス様は、本当に愛そのもであります。主はすべてにのことを益としてくださって、恵みに変えてくださるお方です。

今回の、彼女の色々な、約八ヶ月、九ヶ月の中の問題をとおして、彼女だけでなく、母親や、親戚、同僚を、一気に救いの道へ引き出してくださるように、私は大胆に祈ったわけですけれども、彼女が救われて、先日は我が家の集会に、おばさまも連れて来られて、おばさまもまた是非来たいと、そしておじさんも来たいと、お母さんも今度は是非ベックさんの話を聞いてみたいというふうに、土曜日あったその話をしていました。

また彼女の変わりようを見て、一人の同僚がまさにまた救われようとしています。もちろん、自分たちの考えたとおりにならないこともたくさんありますけれども、しかし本質的なところでは、神は必ず解決してくださると、確信をもって、期待する態度こそ、私たちには求められているのではないでしょうか。

最後に、2〜3箇所読んで終わりたいと思います。

ヘブル人への手紙11:1
1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

ヘブル人への手紙11:6
6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

詩篇25:12-15
12主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。
13その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。
14主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
15私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。

もう一箇所、

ローマ人への手紙9:33
33「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

信頼するべき方に、何も疑うことなく、全信頼をおいていきたいものです。
本日は、私たちと主イエス様との親しさのバロメーターとはいったい何であるかということについて、一緒に学んでみました。
ありがとうございました。




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