引用聖句:ヨハネの福音書13章1節-15節
またイースターのシーズンであります。イエス様の復活を記念して祝う、イースターのシーズンが到来致しました。 今出版されています「主は生きておられる」という第2号の後ろの方に書いてありますけれども、イースターとは毎年、春分の後の満月の次に来る日曜日であると書いてあります。 三日目の木曜日の祝日が春分でございましたから、春分の後の満月の次に来る日曜日が、イースターということで、今年は来週の聖日がイースターとなっております。 来週の日曜日に主は復活されたということになりますと、その三日前に十字架におつきになった。その前に裁判があって、その前に過越しのお祭りというのがあって、その過越しの祭りの第一日目の夕方に、いわゆる最後の晩餐がありました。 ですから逆算しますと、だいたい最後の晩餐は今日辺りか、今晩辺りかという感じであります。 今読んでいただきましたヨハネの福音書13章、1節から全般はですね、最後の晩餐の状況を非常にリアルに、克明に描いている箇所であります。 今から1970年くらい前の、ちょうど3月の下旬のこのようなときに、エルサレムのある裕福な人の家庭の二階の大広間で、イエス様と弟子たちの最後の晩餐が執り行なわれたときでありました。 この最後の晩餐のシーンはですね、多くの画家が描いてその絵を後世に残してきました。おそらく数えきれないほどの絵があると思うんですけども、その中で一番有名なのは、おそらくイタリアの天才的な芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、あの最後の晩餐の絵でありましょう。 あのレオナルド・ダ・ヴィンチは、最後の晩餐の絵を描くのに4年間の年月を費やしたといわれています。非常に長い歳月ですね。 当時イタリアのミラノにありました、ある教会からの要請で、そこの教会の壁面にあの有名な晩餐を描いたんでありましたけれども、4年もかかってしまいました理由は色々ありましたけれども、その中でも次の二つが大きな理由であったといわれております。 一つは、当時ダヴィンチは一人の敵をもっていた。この敵も画家だったんですね。それで、その絵を描く手法についてお互いに批判し合って、それぞれの作品について非難し合って、お互いに憎しみ合ってたという間柄でありました。 ま、そのような状況の中にあって、ダヴィンチは最後の晩餐を描き始めたんですけれども、一人一人、その13人の顔と表情を克明に描いてくんですね。 それでユダの顔を描く時に彼は、敵の顔をそこに描いたんですね。それは当時の人ですから、その敵である人は現存しているわけでありますから、皆知ってるわけであります。やがて絵が完成されて、絵が公表されたら、あっ!ユダの顔はあの人だ!みんな分かるわけですね。 それでダヴィンチは溜飲を下げようと思ったのだろうと思うんです。そう描いたんですね。で、その後イエス様のお顔を描こうと致しましたところが描けないんです。筆がすすまないんです。どうしても描けないんです。 彼は苦しみ、悩みました。苦しんで、苦しんで、悩んで、悩んだ挙句、あるときハッと気が付きました。 敵だと思っているあの人に対して、自分の心の中に憎しみがある間は、柔和そのもののイエス様のお顔は描けない。ハッと気が付きました。 彼はそれで早速、敵だと思っておりました人の所に参りまして詫びるんですね。そして和解を致します。それでユダの顔を描き直すんです。 それから、柔和そのものでいらしたイエス様のお顔を初めて描くことが出来ました。それが今のあの残っている、有名な最後の晩餐の絵であります。 4年もかかりましたもう一つの理由は、絵が完成しかかった頃一人の知人がダ・ヴィンチのところへやって来ました。そして絵を見るなり、「わっ、すごい!!これは素晴らしい!すごい感動的だ!あのテーブルの上にある、あの銀のコップは一番素晴らしい!」言ったんですね。 それでダ・ヴィンチはびっくりすると同時に怒ったんです。彼はその友達が帰るや否や、そのテーブルの上の銀のコップを消してしまいました。 絵全体の中で人々の目を惹きつけ、心を奪うのは主イエス様でなければならない。主イエス様以外のものが人の目を惹き、人の心を惹きつけてはならないというのが、レオナルド・ダ・ヴィンチのこの作品をつくるにあたっての唯一のモチーフであったからでありました。 先ほど読んでいただきました、このヨハネの福音書の13章のところにはですね、全般を費やして最後の晩餐のシーンを描いておりますけれども、ここで彼が言っとりますのは、美味しいワインが出たとかですね、料理のこんな素晴らしいものが出たなど、一言も書いてありません。イエス様が弟子たちの足を洗われた、ということだけが書いてあります。 強烈な印象を残した、強烈な印象を与えられたものが書くような書き方になっております。 私たちは足を洗うとか、足を洗われるとかいうようなことにつきましては、現在そのような習慣がありませんから、必要性もありませんから、あまりピンと来ません。 しかし当時の状況では、当時の人々にとってはそれはものすごい大きなことであったように思われます。ものすごく大きな出来事であったように思われるんですね。 当時の人たちは、ご承知のようにみんなサンダルを履いておりました。サンダルですから足の裏こそ地面にはつきませんけれども、外は素足のようなものであります。そして当時は今のように舗装しておりませんから、どこ歩いても埃がたって足はものすごく汚れます。 当時は車も電車も自転車もありませんから、みんな歩くばっかりであります。馬に乗ってる人はごく限られた人でありますから、みんな歩きます。疲れます。さらに加えて、ちょうど3月はあの辺りではすごく暑いみたいなんですね。 日本で3月といったら、今日のような気候で、暑くもなく寒くもなく、むしろ花冷えでちょっと寒いくらいで、私なんか手足が痺れて寒くなっちゃうんですけれども、東南アジアとかおそらく中近東もそうだと思いますけれども、3月、4月あたりが年中で一番暑いらしいんですね。 この前バンコックの集いに参りましたが、そこで家庭を開放されて集会などをとっておられる兄姉が仰ってました。「タイのバンコックは、暑いのは2月、3月、4月。特に3月あたりが一番暑くて、もう私たちはバンコックに来て10数年経ちますから慣れてますけれど、日本から来られた方はその暑さに耐えられないようです。3月あたりが一番暑い。」、仰ってましたしね。 私はインドのボンベイで救われまして、それが3月の初めでした。ボンベイの街歩いてましたら、もお喘ぎ喘ぎ歩くような暑さで、本当に参った記憶を鮮明に今でも持っておりますけれども、「夏の初めでこんなに暑くてですね、日本に行って7月や8月頃だったらもっとボンベイ、暑くなるのかなあ。もうそれだったら、みんなゆでだこになってしまうんじゃないか。」と思って聞いたらですね、「イヤ、やっぱり3月があたりが一番暑いんだ。」と言っておりました。 おそらくパレスチナ、ユダヤ、あの辺りも3月あたりがすごく暑いみたいなんです。そういう暑いところ、サンダル履いてきったない足になって、そして長い距離を歩いてまいりますと、目的地に着いた時に冷たい水で洗ってもらうって、ものすごくリフレッシュするみたいなんですね。ものすごく爽やかで、やっぱり気持ちがいいみたいなんです。 それは丁度、東京に住んでおります私たちが、7月とか8月の蒸し暑くてたまらないような時にですね、一日中外に出て働いて、下着はもう汗でびっしゃびっしゃになって、べっとべっとになって、家に帰って夜、風呂に入って上がったら、もうさっわやかでさわやかで本当に幸せ!と思いますね。あのような爽やかさではないかと思います。足を洗ってもらうというのは・・・。 ですから聖書の中では、足を洗う、あるいは足を洗ってあげるというのは少し出てまいります。それだけ重要なことだから何回も出てまいるわけでありましょう。 例えば創世記の43章見てもらうと、ここではみなさまもすでによくご存知のとおり、ヨセフ奴隷として売られてエジプトに行くんですけども、色んないきさつがあってそのエジプトでナンバー2の立場になって、最高の権力者になったわけですね。 しかしそれを知らないヨセフの兄弟たちが、イスラエルからその飢饉のために食べ物をエジプトに求めてやって参ります。で、久し振りにヨセフに会うんですけれども、ヨセフの兄弟たちは相手がヨセフであるということが分からない状態になっています。 そのヨセフの家にヨセフの兄弟たちは連れて行かれるという場面でありますけれども、ヨセフの家の管理人は人々を、つまりヨセフの肉の兄弟たちを、ヨセフの家に連れて行き水を与えた。彼らは足を洗い、ろばに飼料を与えたとあります。足を洗いというのがすぐ出てきてるんですね。 少し後の、サムエル記第Iを見てみますと、25章でありますけれども、このあたりの状況では、当時ダビデが部下と一緒に荒野におりました。 その近くにナバルという男がおりまして、その男は頑迷で行状が悪かったと書いてありますが、たくさんの家畜を持っていたんですね。そしてその奥さんはアビガイルといって、この女は聡明で美人であったとあります。それ以外にも文面から推測されるところでは、神を恐れていた人であったようでもあります。アビガイル、素晴らしい妻であったようであります。 あるときダビデは部下に命じて、部下のために少し食料をナバルから貰って来なさい。遣いを出します。 ところがナバルは頑迷でよこしまな男でありましたから、それを断るんですね。その報告がダビデ王にもたらされると、王としては恩を仇で返された、少し懲らしめてやらなければということで、部下に命じて「武器を腰にさしなさい、。そしてナバルのところに出掛けて行って懲らしめよ。」、と行動をおこします。 しかし聡明なアビガイルはそのことを事前に察知致しまして、主人が断ったその瞬間から台所でたくさんの召し使いに命じて、食べ物をたくさん作るんですね。出来上がったところをろばに乗せて、持って行こうと致します。 向こうからダビデ王たちがやって来る。アビガイルたちが食べ物を持ってダビデたちの所に。その二つの群れが出会った所で次のようなことがありました。25章の41節、彼女、アビガイルはすぐに地にひれ伏して礼をし、そして言った「このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」 ここで、足を洗う女奴隷と私はなりましょう、とアビガイルは言ってるんですね。私たちのセンスでしたらダビデ王さまに、「あなたの部下のために、私たちは素晴らしい、美味しい食事を作って差し上げます。衣服も汚れてるでしょうから、洗濯をしてきれいにして差し上げます。」、そのようなことを言うだろうと思うんですけれども、私たちの価値観はそんなところでありますが、彼らの価値観は違ったんですね。 足を洗うってのは、いい食べ物を提供するより、汚くなった衣類を洗濯して差し上げるよりも、もっと価値があるものだという価値観であります。 古代エジプトの遺跡が発掘されておりますけれども、裕福な家庭では主人や家族が外から帰って来たときに、あるいは旅人が自分の家を訪問したときに、召し使いが使う、足を洗ってあげるためのタライがありますけれども、裕福な家庭ではそれは金で作っておったというんですね。 ゴールド。金で作ったタライ。それは非常に大切なことだなあ。その仕事は非常に価値があることだからっていう価値観のあらわれでありましょう。 元のヨハネの福音書13章。やっぱりこの日もおそらく、外は暑い日でありました。 イエス様のご一行はあちらこちら歩かれて、多くの人々に恵みを与えられた。そして夕方、この過越しの祭りの初日の日に、あらかじめ用意してありましたエルサレムのある大きな家の二階に持って来ました。 食堂のために充てられた部屋には壁にタオルが付けてありました。その側の床にタライが置いてありました。そしてその側に水を入れた水差しが置いてありました。 部屋の中には、あのダ・ヴィンチが描くような大きなテーブルがあって、イエス様が真ん中で12人が座ったことでありましょう。このテーブルにみんな着いたのを見極めて、イエス様はふっと席から立ち上がられました。 おそらく弟子たちは、「あれ?何をされるのかなあ。どこへ行かれるのかなあ。」、と見ておったことだと思います。 イエス様は立ち上がってススッと探しに行かれて、タオルがかけてあった、そしてその下にタライと水差しがあった。そこへ行かれました。あれ?何をなさるのかなあ。皆思ったことと思います。 ところがイエス様は壁からタオルを取られて、腰にまとわれて、そして水差しを取ってその冷たいきれいな水をタライに注がれました。そしてそれらの道具を持って、弟子たちの一人の所に寄って来られました。その前にかがまれました。 そしてその弟子に、「さあ、足を出しなさい。」片足持ち上げてそのタライの水の中に足をつけさせました。 みんなびっくりしたことと思います。それは違うんじゃないでしょうかって。それは師であり先生であるイエス様のなさることではない。弟子たちがやるべきだ。 トマスお前がやるべきだよ。ペテロ君だよ。ピリポお前がやれ。肘でつついたかもしれません。みんな誰も知らない世界。マタイ、君は何をしてるんだ。ヨハネ、アンデレ、ヤコブ、誰もやらないんです。みんなそうです。バルトロマイ君だよ。誰もやらないんです。みんな座ったまま。 イエス様はまず一人の弟子の前にかがみこまれて、そのサンダルの紐をほどき始められました。そしてサンダルを脱がせたら、その足を持ち上げてタライに入れて足首から洗われ始めました。その後踵、土踏まず、そして指一本一本。指の間も一つずつ洗われました。12人であります。足は24本。足の指は120本。(笑) まあ私たちは笑ってしまうかも知れませんけれど、当時の人の価値観からいったら仰天すべきことであります。 足を洗うというのは召し使いの仕事でありました。当時裕福な家庭、中級以上のクラスの家庭ではみんな召し使いをもっておりまして、さらに家の中に何人もいる召し使いの中でも職務規定がありまして、この召し使いは料理を作ります、この召し使いは洗濯をする、この召し使いは掃除、そして足を洗う、主人や家族の足を、客人の足を洗う担当の召し使いは召し使いの中でも一番位の低い者でありました。それは人の前にかがみ込む仕事であるからです。 人の前に膝をついて、かがみ込んで仕事をしなければならない。一番、目を低くしなければならない仕事であります。ですから自分たちが慕って先生、師とあがめてきたそのイエス様が突然そんなことをなさった。弟子たちの心はどんな気持ちでそれを受けたのかと思います。もちろん複雑だったと思います。 マルコの福音書1:7
バプテスマのヨハネは マルコの福音書1:7
かがんでその方のくつのひもを解くというのは、その方に対して自分は一番つまらない仕事さえもする価値、私にはないと言っておるんです。くつのひもを解くというのは、それほど下賎な仕事だと当時思われていたわけであります。しかしイエス様がそういうことをされ始めて、弟子たちがどのように驚いたかと聖書には書いてあります。しかしそれにお構いもなくイエス様は、一人終わったら道具を持ってイエス様の方が横に移動して、次の弟子の所に行っておられることが分かります。 ヨハネの福音書13章6節にこう書いてあります。 ヨハネの福音書13:6
とあります。ですから一人一人足を洗って、お拭きになって移動して行かれたんですね、イエス様が。自分の方からまわったと書いております。 今丁度東京でも桜が咲いて綺麗な、満開なシーズンでありますけども、イエス様はすべての四季を創られましたから、すべての被造物を創られましたから、あの桜もイエス様が創られた被造物の一つであります。あれは綺麗な花を創られた、そのイエス様の御手で創られたその同じ御手で、弟子たちの一番汚いところを洗おうとされた。 その二日後か三日後に釘が打ち込まれるその御手で、弟子たちの一番汚れているところをきれいにしてくださいました。 やがて全人類がそのお方の前にひざまずいて礼拝する、そのお方がご自分から先に人間の前でひざまずいてその姿勢をとってくださいました。 驚くべきことだと思います。 このときまで弟子たちは、三年間一緒にイエス様と危機を共にしておりました。私たちの間でも時々言いますでしょう。ある人の本性を知りたいと思えば、本当の性質、人間の人となりを知りたいと思えば、その人と一緒に一週間も旅行すればだいたい分かる。 そしてだいたいがっかりするようなことが分かる、ということをよく言いますよね。一週間も一緒に旅行をすれば、その人の本性が分かる、と言いますが、鼻につくわけですけども。 だいたいこのときまでに弟子たちは三年間イエス様と一緒に過ごしてきたんです。イエス様からご覧になったら三年間、弟子たちのことはすべて、朝から晩まで24時間一緒に行動されましたから、よくお分かりになっていることであります。 食事をなさるときも、お休みになるときも、旅をなさるときも、船に乗っておられるときも、道を急いでおられるときも、説教なさったときも、いつも弟子たちは一緒におりました。 いつもイエス様は間近に12弟子を見ておられましたから、一週間のしもべどころではなくてもう弟子たちのことはすべて、その本質まで分かっておられたわけであります。 そしてその本質は、まったくがっかりするようなことばっかりだっただろうと思います。三年間もイエス様から素晴らしい教えを聞きながら、彼らはまったく分かってなかったんですね。 まあ彼らが言ってたのは、弟子の中で誰が一番偉いかというようなことだったんです。今晩の食事はどうするか、っていうことだったんですね。何も分かっていなかったのであります。 ペテロは、「イエス様とご一緒なら死んでもいいです。」、と言っとりましたけれども、その舌の根も乾かぬうちにイエス様を三度も否むっていうことも、イエス様もとっくに承知でありました。 よみがえられたイエス様にトマスが出会わなかったんですから、出会った弟子たちからそれを聞いてトマスは、「いや、自分の目で確かめなければ信じられない。」、とまもなく言うんですけれども、そのこともイエス様はよくご存知でいらっしゃいました。 やがて、この数日後に重い十字架を肩に背負わされて、イエス様はゴルゴタの道を歩かれるんですけれども、そのとき足を洗ってくださった24本の足のどの足も、イエス様を助けようと思ってイエス様のところに来ることはありませんでした。みんな自分のこと考えてた。それらのこと、すべてご存知でいらっしゃった。 そして、三年間も色々教えたのに何も分かっていない弟子たちのために、そして考えることといえば自分ことだけしか考えていない、やがて天国に行かれたときには、自分のその肉の兄弟を両側に付けてくださいとか、そんなことばかりしか考えてなかったような弟子たちの心も、全部ご存知のうえでなおかつイエス様は鼻につかない、一番低いとされている仕事を彼らに対してなしてくださったのであります。 でも私たちは、他人と一緒に一週間も旅行しますと、よく他人の本質が目に付くんですね。特にあらが目に付きますでしょ。 ところがもし、一緒に旅行する人が愛する人であれば、目に、鼻に付かないんですね。愛する家族と一週間旅行しても鼻に付きませんでしょ。愛する恋人同士が一週間旅行しても、鼻に付くどころか、益々愛し合うというようなものであります。 愛があれば鼻に付かないですね。鼻に付くというのは、愛情が足りないからなんです。 愛が足りないときに一週間も旅行すれば鼻に付くんですよ。深い愛があれば何週間一緒に旅行しても鼻に付かないんです。イエス様は、三年間も一緒に弟子たちと旅行されて、嫌なことすべてご覧になりながら、全然鼻に付かれてないんですね。 ヨハネの福音書13:1
その愛を残るところなく示された、とあります。 いかに弟子たちが自分の罪を分かっちゃいない、どうしようもない人間であるということを分かりながら、イエス様の弟子に対する愛がそれをおおってあまりあったんですね。 そして次に実に驚くべきことが書いてあります。ユダの足も同じように洗われた、とあります。これは実に驚くべきことではないでしょうか。ユダが裏切るってのはもう知っておられたんですね。 ヨハネの福音書13:11
しかし、12節にあります。 ヨハネの福音書13:12
ごく淡々と書いてありますね。「イエスは12人の弟子の足を全部洗い終わり」、ごくサラッと書いてあります。しかしそこにはものすごく大きな意味があるように思われます。 自分を裏切るのを知っておられて、そのユダの足も他の弟子に対してとまったく同じように洗ってあげておられるんですね。 私たちだったら、土台人の足を洗うなんてことをまったくしないでしょうけど、もし万一、まかり間違って、何かの間違いで人の足を洗い始めたとしましても、その人たちが裏切ると知ってたらですね、そこのところだけタライを持って、素通りしてスキッとしますでしょ。 もしそんなことしてたら、もしそんなことをイエス様がなさったら、ヨハネはその目前でつくづく見てるわけでありますから、何か書いておったはずです。何にも書いてないんです。よく側でみんな見てる、誰もが気が付かないような形でユダに対して足を洗っておられるんですね。これは実際に驚くべきことではないかと思います。 人間では出来ない。人間には絶対出来ないことであります。 もっとも汚れている所、もっとも汚い所をイエス様は洗いたいと仰いました。 そしたらペテロがですね、「イヤイヤそうしないでください。」って遠慮したんですね。やっぱりペテロ、一番おっちょこちょいで、思ったことをすぐに行動に、言葉に出しますが、 ヨハネの福音書13:6
さすがに躊躇してるんですね。ペテロはさすがに躊躇して、その心の動きをここに出してるんですね。 イエス様は仰いました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」、弟子たちのもっとも汚れている所をイエス様がご自分から洗いたい、と仰いました。 そして同じことを、今イエス様が私たちに仰います。私たちのもっとも汚い所、もっとも汚れている所をイエス様は洗いたい、と仰ったんですね。 そして私たちにそれを洗わしてくれないんだったら、イエス様は私たちと関係がありません、と仰ったんですね。 イエス様は、私たちの罪の贖いのために十字架について死んでくださった。三日目によみがえられた。そのことを私たちが信じなければ、イエス様と私たちは何の関係もない、とイエス様は仰るんですね。 イエス様は、仕えられるためではなくて、仕える者として来ましたと仰いました。 マタイの福音書20:28
と仰いました。 そしてヨハネの福音書13章のところに、イエス様はこのように仰いました。自分がこのようなことをしたのは、模範を示すためである、と仰いました。 弟子たちに、また私たちに、どうしたらよろしいのか模範を示すために、わたしはこうしているのです、とイエス様は仰いました。 ヨハネの福音書13:15
と、仰いました。 ピリピ人への手紙2:6-7
この7節ですね、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」、とあります。無にされたとあります。 実は去年の12月の下旬にですね、数学オリンピック、クリスマスの集いとなりまして、そこに招かれて出席させて頂きました。ご承知のことと思いますけれども、間もなく数学オリンピックが日本で行なわれることになっておりまして、全世界から相当大勢の方々が、数学の天才みたいな人たちが、各国から選りすぐりのチームとして送り出されて、東京でコンペをやんです。 コンペでしょう、そのために野口兄姉がですね、 (テープ A面 →B面) が来て、「この、0(ゼロ)という数字は実に不思議な数字ですね。」、というようなことからお話させて頂いたんですね。 0という数字はまったく何も無いわけですから、一番弱い、一番無力な、一番つまらない数字のようであります。 しかし実は、0ってのは一番強い数字なんですね、というようなことをお話させて頂きまして、0っていう数字に何を掛けてもみんな0になってしまうんですね。0に百万掛けても0×百万は0なんです。0に一億掛けても0なんですね。0に兆とかすごい数字がありますが、全部何掛けても0であります。 で、お聞き致しました、その数学のお偉いさんがたくさんいらっしゃいましたから、0に全体掛けても0でしょうかと聞きましたら、「そうです。」と言いました。やっぱり全体掛けてもやっぱり0なんですね。0に何掛けても0なんです。 ということはやっぱり0が一番強いのですね、実は。0はどんな相手であっても、相手が何であっても0に掛けられた数字は0と同じレベルにみんな平たく、ワイワイ騒いでいたのが静かにさせられて、みんな無いものにさせられる。静かになっちゃうんですね。 0が一番強いんです。 で私たちの問題は、私は100万よ、いや僕は1億だ、自己主張するところが問題じゃないかと思います。ということを申し上げたんですけれども。 イエス様はここにありますように、「ご自分を無にして」、とあります。イエス様が0になられたんですね。そこに私たちの幸せの根源があります。 イエス様が0になられましたから、その0であるイエス様に触れたら、ワイワイ騒いでいた人たちがみーんな静かに、平らに、無いかのごとくさせられてしまうんですね。 聖書の中にそんな記事がたくさんありますけれども、例えばゲラサっていうところに住んでおりました、汚れた霊にとり憑かれた一人の男がおりました。狂人みたいになっておりました。墓場で暴れとったんですよね。他の人が鎖をつないだり、足かせをかけたりしましたけれども、何とかの馬鹿力でそれを全部切っちゃったっていうんですね。 そして、夜となく昼となく大声で叫んで、石で自分の体を傷付けておった、そのような人がいたんですね。 そこにイエス様が船でご自分から近づかれました。そしてその狂人がイエス様に触れた瞬間に、彼は0にさせられたんですね。急に静かに、まともになって着物を着て、正気にかえって座るようになったんです。その狂人が。 人間的には有り得ないことであります。ワイワイ騒ぎまくっていたが無に、静かに、平らに、無いかの如くさせられました。 ザアカイという取税人のボスがおりました。当時は取税人は自分である程度税金を査定して、今の日本みたいに税務署から一律に決められるのではなくて、取税人が自分で査定して、各人に税金を割り当てておったようであります。 ですから彼のさじ加減、悪巧みで不当に税金をとりたてることが出来たんですね。彼は人を騙してたくさんのお金を取って、私腹を肥やしていました。 そのザアカイの所にイエス様の方から行かれました。「今晩君の家に泊まるようにしてある。」、イエス様の方から行かれたんですね。そしてイエス様はその家に泊まられるようになって、悪人のザアカイはすっかり静かに変えられました。 彼は、「主よご覧下さい。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。まただれからでも私がだまし取った物は四倍にして返します。」、と言って大喜びしたとあります。 イエス様に触れた瞬間に静かな、まともな人間と変えられました。 そしてまた、これらのことは私たちにも同じことが言えるのではないかと思います。私たちもまたかつては人を騙すような、そのようなよこしまな者でありました。私たちもまたかつては心が荒野にいるような、墓場にいるようなそのような状態であって、人を傷つけ自分を傷つけていたような者でありました。 しかしそのような者のところに、私たちのところにイエス様の方から近づいて来てくださいました。誰も自分の方から近づいてない。イエス様の方から近づいてくださり、そのときに私たちは大いに、まったく変えられました。 イエス様に触れた瞬間に、私たちは自分がまったく0になりました。いや0にさせられました。 自分が、「私は百万よ。いや僕は一億だ。」とかしてたのがまったく間違って、「自分は0。あるいは、0以下のマイナスのそういう者である。」、ということを知らされました。そのときに救われました。 ちょうど私たちがイエス様に触れて、自分が無になったときに、自分が低くなったときに水の流れが低くなったときに低くなったところへ流れていくと同じように、低くされたわたしたちのところに聖霊が流れてきて、私たちのうえに留まったときに、私たちは救われる。 主を信じ、大いにザアカイと同じように喜ぶ者と変えられました。0にさせられて救われた。その状態をずっと持ち続けることが出来れば理想的であります。 しかしそれは非常に難しい、ほとんど不可能であるということを例えば、ウォッチマンニーなんかもそう言っておりますし、残念ながら私たちが経験しているところでもあると思います。 救われたときに無になって、聖霊をたくさんその頭上にいただいて喜んだ者が、しかしそのうち問題が解決されたりして、だんだんと自我がまた頭をもたげてきます。 私たちの罪の力はそれほど弱いものではないので、だんだんと、しかし私自身の経験、あるいは私の周りのクリスチャンの歩みを見ておりまして言えることは、0からだんだん鎌首を上げて、大きくなっていけばいくほど、反比例的に喜びはなくなっていく。幸せでなくなっていく。 そしてまた主は、私たちをあわれんでくださって、色んな環境をととのえてくださり、私たちが低くならざるを得ないような状況にととのえてくださって、私たちが自分の身を低くして0の方向に向かって小さくなっていくときに、反比例的に喜びが大きくなる、幸せになる。ということを聖書は一貫して教えておりますし、またささやかながら私たちの経験を通して言えることであります。 残念ながら0の状態を持ち続けることは理想的でありますけれども、なかなか現実は難しいんであります。 しかし0になることこそ、そこにこそ、そこにしか本当の喜びがない。そこに少しでも0に近づきたい。そしてその状態で歩み続けたいと願うことが、クリスチャンである私たちの歩みの原点ではないかと思います。 最後に一箇所お読みして終わりたいと思います。 コリント人への手紙第II、8:9
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