引用聖句:ヨハネの福音書5章1節-9節
ご承知のように、聖書には神様の思いと、人の思いは天と地ほど違うと書いてあります。そして、そのわかりやすい1つの例は、自分自身に対して私達がどう考えているか、主なる神様は、どう考えておられるかということであると思います。 私達は、自分自身をどう考えているか、どう評価しているか。生まれながらの私達人間は、例外なく自分は正しい、自分は間違っていない、自分は常識的であり、自分の常識は正しい、と主張する者であります。 しかし、主なる神様は、あなたは正しくない、あなたは間違っている、あなたの常識は狂っている、とおっしゃいます。 そして更に、あなたが自分は正しい、自分の常識は正しい、と主張し続けるならば、あなたは本当の幸せは決して掴む事が出来ませんよ、とおっしゃいます。 あなたは、あなた自身を愛しているが、本当は、あなたは自分自身を憎むべきです。最大の敵は、あなたにとっては、自分自身があなたの最大の敵です。 本当の幸せを得る為には、あなたは、自分は正しい、自分の常識は正しいと言う主張を、否定しなければなりません。とおっしゃっておられます。まさに、私達が思う思いと、主なる神様が思われる思いは、天と地ほど違うものであります。 今、お読みいただきました、ヨハネの福音書5章のはじめの所に紹介されております1つの出来事を通しましても、いかに私達、人間の生まれながらの考えと、主イエス差のお考えが天と地ほど違うかっていうことが、如実に紹介されてあります。 1節から3節までお読みいたします。 ヨハネの福音書5:1-3
ユダヤ人の祭りでありますけれども、ペンテコステの祭りか、過ぎ越しの祭りであったことでありましょう。イエス様はよく、そのような人々がたくさん集まる所に出かけて行かれて、福音を述べ伝えなさいました。 この時も、そのような思いで、祭りの時にエルサレムに上られたようであります。そして、おもむかれた所はベテスダと呼ばれる池の近くでありました。 このベテスダと言うのは、「憐れみの家」と言う意味だそうでありまして、その遺跡が発掘されたそうであります。 羊の門の近くに、それはあったようでありまして、ご承知のように、当時エルサレムは防衛上の目的から、街全体が塀で囲まれておりまして、街の中に入るには、5つくらいの門がありました。 その中の1つが、この羊の門ということで、どうしてそのような名前が付けられたかということですけれども、その門を、羊の門を入ったすぐその中で、羊が売買されていた、羊の行き渡っておった、ということから羊の門と言う名前が付けられたようであります。 そのそばに池があって、5つの回廊が付いていた。 回廊って言うのは、なんか珍しい言葉で、あまり馴染みのない言葉ですけれども、要するに、屋根の付いた廊下と言うようなことのようであります。 そして、この3節の次に5節になっておりまして、4節がありません。下の脚注にこのように書いてあります。下の小さな3の所に、異本に3節後半、4節として、次の一部または全部を含むものがある。 「彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。」 こういうのが4節として書かれている聖書があるということであります。実際そういうことがあったんでありましょうか。 天使が時々降りて来て、病に苦しんで神様を求めている者に対して、不思議な癒しを行ったということでありましょうか。 天使のかしらはラファエルという名前の天使でありますけれども、このラファエルは「神様の医者」って言う別名を持っておりますので、そういう癒しの力を持っていた天使であったかと思われます。 ここにありますように、ベテスダの池の5つの廊下には、池の周りにたくさん大病で苦しんでいた人達が待機しておった、ということがわかります。 私達のことを考えましても、聖書の中に出てくる人達のことを考えましても、何か、すごい大病にかかった人達がとる態度が2種類に分かれるのではないでしょうか。 1つは神様、イエス様を求めてお願いし、すがる人達であります。もう1つの人達は、そうしないで、自分の考えで、自分の努力で、自分の常識に従って何とか直そうと努力する人達であります。そしてその結果は、天と地ほど違うものであります。 悩みをもって、必死の思いでイエス様にすがった人の例を、1、2見てみたいと思いますけれども、マルコの福音書2章を見てみましょう。 マルコの福音書2:1-5
マルコの福音書2:10-12
この中風の人、よく聖書に出てまいりますけれども、現代風に言うならば脳卒中のような病気だったそうであります。 そして、イエス様が近くに来られたっていうことで、彼は4人の知人に頼んで、戸板に乗せてもらって4人で担いでイエス様の所へ行って、何とかイエス様に直していただきたいと言う思いでありましたけれども、もうすでにイエス様がいらっしゃる家は満杯で入れませんでした。 そこで彼は友人に頼んで、当時、あの辺の家は、家の玄関から入ると同時にもう1つ、家の横側に屋上に上って行く階段がありましたから、そこを上ってもらって、屋上からイエス様がいらっしゃりそうな場所の屋根をはがして、4人でつり降ろしてもらった、ということであります。 その信仰に答えて、イエス様は見事にこの脳卒中の人を全快させなさいました。この中風の人にとりましては、他人の家の屋根をはがすということは後で弁償しなくちゃいけないわけですし、大変なことであります。 許可ももらったか、もらわないか、とにかくこのチャンスを逃したらもう金輪際、自分は直らない。もう必死な思いがヒシヒシと伝わってまいりますしね、もうそれに全身全霊を、全部を、自分の全部をかけたと言う感じであります。 その信仰に答えて、イエス様は見事に奇跡をあらわして下さいました。 この5節にありますように、イエス様は彼らの信仰を見て、とありますが、4人だけの信仰ではもちろんなくて、当人の信仰が一番重要であったわけであります。 4人の人達にとっては、他人の家を後で弁償するなどということの責任はないわけでありますから、やっぱりこの当人が、そう頼んでいたということがわかります。 このような例をあげていきますと、キリがありませんけれども、時間の関係で先に進めさせていただきます。 この脳卒中の人は、このようなすごい信仰をもって祝福され、直されましたけれども、今日のテーマでありますベテスダの池のほとりに待機して、水がかき回された時、一番乗りして入って行きたいと思ってる人達は、イエス様を求めなくて、ただ水が動くのをジーっといつまでも待ってた、と言う状況でありました。 自分が良いと思う人間的な常識、人間的な考えに従って行動しておったんですね。 当時イエス様は、あちらこちらで奇跡をなして下さり、ご自身が神の子であるということをあらわしておられましたから、そして、そのようなことは噂で彼らの耳にも、もうとっくに入っておったことだと思いますけれども、これらの人達は自分から動こうとしませんでした。自分から必死に全身全霊を込めてですね、イエス様にすがって行こうと言うアクションはとらない人達でありました。 私達が犯す間違いと似てるのではないでしょうか。 このヨハネの福音書5章に返っていただきますと、 ヨハネの福音書5:5-6
ここ初めて読んだ時、私は、どうしてイエス様は「よくなりたいか。」と仰ったんだろうかと思いました。 当人にとりましては、病人にとりましてはもう、良くなりたい一心でそのような所にはべっていたわけでありますから、当人がよくなりたいと思うのは当然ではないだろうか。どうしてこんなことを質問されたんだろうかと思ったことを覚えております。 しかし、良くなりたくない、治りたくない病人もいるんですね。特に、霊的な世界で考えてみますと、それは非常にはっきりとしてまいります。 他の人々が、霊的な池に入って治されて、幸せになっている。それを見ていて知っているにもかかわらず、自分は入ろうとしない人は随分、大勢いらっしゃいます。 私の親戚の者に対してましても、イエス様のことを伝えようと思いましたら、「いやもう結構です。」と言って、否定するんですね。 一時、この世的な苦しみがあった時は求めておりましたけれども、それが過ぎて一段落しましたら、「いやもう結構です。」、そう申しますと私自身も救われる前は、そのような気持ちを持っておりました者であります。 イエス様は、ですからここで、心の意思や意欲を重んじられまして、「よくなりたいか。」心まで萎えていないか、もう投げやりになっていないか、絶望感でも自分は到底治らないと投げているんではないか、と問われたのではないかと思います。 治りたいと言う意欲、あるのかどうか。空腹後、ある所を過ぎると、もう感じなくなるようであります。 次に進んでいただきまして、7節、8節。 ヨハネの福音書5:7-8
8節のイエス様が彼に言われたことは、人間的に言えば、まったく常識に反することであります。人間の生来持っている常識では、とても理解出来ないことであります。 38年も寝たきりの人が、急に起きて床を取り上げて歩くということは、人間の常識をまったくくつがえすものであります。 そして、聖書は最初から最後まで私達人間の常識に挑戦してくるものであります。私達人間の常識を否定するものであります。 初めに、神が天と地を創造されたと言う御言葉からして、私達の常識をくつがえすものであります。ヨハネの黙示録の最後にいたるまでそうであります。 そして、その中心テーマでありますイエス様の十字架も、私達の常識をひっくり返すものであります。 私達が自分の常識に固執して、自分の常識は正しいとして、自分の考えにどこまでも、自分の考えを主張する時に、恵み深いイエス様の力は私達に、まったく与えられません。 ヨハネの福音書5:9
自分の力で、彼がそうしたわけでないことは、自明のとおりであります。彼が、自分の力でそういうことは出来ないということと、イエス様がして下さるっていうことは関係ないんですね。 いやむしろ、彼が自分の力がないということを認識していることが、イエス様が働いて下さることの前提であります。 彼にはもちろん、起きて床を取り上げて歩く力はありませんけれども、しかし、イエス様がその力を瞬間的に与えて下さいます。その力は、イエス様の命令の中にあります。 彼が、イエス様の命令に常識を捨てて従おうと思った、その瞬間にイエス様から彼にその力が映されます。 おそらく一番驚いたのは彼でありましょう。説明がつきません。常識では説明のつかないことであります。 ただひとつ、彼が言えるのは、「私はただひとつのことを知っています。私は今まで、38年間寝たっきりでしたけれども、今は歩けるということです。」ということだけでありましょう。 癒しは瞬間的に来ました。 その昔、アダムとエバが、神様に禁じられたことを行った、その罪を犯した時に瞬間的に全人類に罪が来ましたと同じように、常識を脇に置いて、自分を正しいとせず、イエス様の仰ったことは常識的な意味には理解出来ないけれども、それに従おうと思ったその瞬間に、癒しは来ました。イエス様が栄光をあらわしなさいました。 そのような例もまた、聖書のあちらこちらにたくさん紹介されてありますけれども、時間の関係で、その1つぐらいを紹介させていただきたいと思います。ルカの福音書17章であります。 ルカの福音書17:11-14
先程の、脳卒中の人とまったく質において同じであります。10人のらい病人がいました。彼らの苦しみは、私達の思いをまったく超えるものであります。 そして、彼らは健康な人には近づけないようになっておりましたから、遠く離れた所に立って大声でイエス様にお願いしました。「イエス様、どうぞあわれんで下さい。」 イエス様はこれを見て言われました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」 イエス様のこの言葉を聞いた時、10人はどう思ったでありましょうか。10人の人達は、それぞれある時、自分の体のある部分に白い斑点が出て、そして、それがどういう病気であるか判定してもらう為に、祭司の所に行ったんですね。 そして、その祭司が「あなた、これはらい病です。」と判定したものであります。その結果、それ以降、彼らは実に悲惨な日々を送らざるおえなくなりました。 もう人々から隔離されて、食べ物も城壁の外にいさせられて、食べ物は城壁からカゴで吊り下ろされて食べるとか、ある隔離した谷にいさせられて、そこに食べ物を上から吊るし下ろしてもらうとかも、そのような生活を余儀されるようになりましたのは、実は自分の病気だとはいえ、その病気をらい病だと判定した祭司のせいでもありました。 その祭司に「あなたは行って、見せなさい。」とイエス様は仰ったんですね。 ですから、10人のらい病人の立場にたって考えれば、彼らの常識に従えば、「そんなこと仰っても、あの人達は私の病気を決め付けた人ですよ。もう一度あの同じ人の所に行って、何がいいことあるでしょうか。もっと悪いことが起こるばっかりです。とんでもない。」って言うようなことを人間の常識だったら考えるんじゃないでしょうか。 ルカの福音書17:14
彼らは自分の判断を脇に置いて、自分の常識を否定して、まったく自分の常識と反対のことを仰ったイエス様の言葉に従って行ったんですね。行く途中でいやされました。 列王記第IIの5章に紹介されております、ナアマンと言う将軍がおりますけれども、彼もまた、まったく同じような経験をいたしました。 彼もまた、らい病に侵されておりましたけれども、神の預言者エリシャからヨルダン川に行って7たび身を浸しなさいと言われました。そしたら直りますと言われました。 彼は自分の常識に従って、そんなことはありえない。もし神の人が家から外に出て来て自分の前で、なんか厳かな最もらしい言葉をしゃべって、そして手とか足でなんか占いかまじないみたいなことをして厳粛になんか、そのようなことをやってくれたら直るかもしれないと思って、期待して来たのに、こともあろうに、彼が自分に言うのは、あの泥水のヨルダン川に行って、7たび身を浸せということか、とんでもない。 もし100歩譲って川に浸って直るものならば、自分の故郷のダマスカスの綺麗な川に浸したほうが、もっと直るんではないかと思って、怒って、帰ろうといたします。人間の常識であります。 ところが、帰りかけた将軍に部下の1人が言いました。「父よ。あの方が、預言者が仰ったのはごく簡単なことじゃないですか。どうぞそれを行って下さい。」 そう言われてナアマン将軍は思いかえして、預言者エリシャの言ったとおりに泥川のヨルダン川に行って、身を7たび浸しましたら、赤ん坊の肌のように、らい病は綺麗に直ったということでありました。 彼もまた、自分の常識を否定して、常識に反するようなことを言われた、それに従った時に奇跡を体験しました。主の恵みを受けました。主の祝福をいただきました。 私達もまったく同じことを経験させられている者であります。 ナアマンはもちろん、自分が身を浸した水そのものに、自分のらい病、恐ろしいらい病を直す力があるなどと思ってもいなかったことでありましょう。水そのものには、そんな力はもちろんありません。ただ、イエス様が道具として使われただけであります。 しかし、常識では考えられないようなことを言われて、そのイエス様の言葉に、神様の言葉に従った時に神の力を経験することになりました。 私達もまったく同じようなことを、ひとりひとり体験させられている者でありまして、私達の戦いは、自分自身との戦いであります。自分を正しいとする思いとの戦いであります。自分の常識との戦いであります。 主は、私達の常識では考えられない大きな恵みを、私達の常識では考えられないような簡単な方法で、お与えなさいます。だから、人と神の思いは天と地ほど違います。 主はいかに、いつくしみ深いか、憐れみ深いかということを、今日のこのヨハネの福音書5章の最初の所を私達に教えるものであります。 この38年間、伏せっておった人は、あの脳卒中の人のようには、自分から必死にイエス様を求めない人でありました。 自分では、池のほとりに待機して、そして水が動いた時に一番先に行けば直る、その方法がいいんじゃないかと、彼は自分で自分の常識に従って思っておった人でありました。 しかし、イエス様は本当に憐れみ深いと思わせられるのは、そのような人にイエス様が近づかれて、救いを与えておられるんですね。 主の憐れみは尽きないからだ、と聖書にあります通りであります。 最後に、列王記第II、先程ナアマンのことを触れましたけれども、その箇所をお読みして終わりにさせていただきたいと思います。5章であります。 ナアマンが、自分に言われたことは、自分の常識では受け入れられないと思って、怒って帰ろうとした時であります。 列王記第II、5:13-14
今日はこれにて失礼いたします。 |