引用聖句:ローマ人への手紙8章1節-2節
みなさんおはようございます。先日、赤ちゃんの出産のお見舞いに行きました。 「とてもかわいい。目から上は、お父さん似て、目から下はお母さんに似てらっしゃるかしら・・」とか話題がありました。私達はいつもこのように思います。 どうして赤ちゃんって親に似るの?と考えると当然のようであり、また不思議でもあります。 私も、子供の立場から親を見ると、良い意味でも悪い意味でも、父親に似てるなと思いました。顔かたちだけでなく、性格も似ています。どうして似てるか、自分でも親でも説明がつきません。厳然たる事実として、とても似ています。 今は医学発達して、それはDNAがあって情報伝達するのではないかと言われています。私が最近読んだ本では、私達の体の中に細いヒモのようなもので、たくさんある。ひとつの体の中からDNAを取り出して、かたまりにすると、2−3センチ立法ぐらいらしい。でも、それを伸ばしてみると、たいへんな長さになる。 その本に書いてありましたのは、びっくりしますけど、地球と太陽の間を、200回往復する距離になるとあったんです。これは、たいへんなことだと思いました。そこに全部、情報が書いてあって、親から子に伝わる。 自分のことを考えると父親に似ている。そしてその父親は、またその父親(おじいさん)に似ている。またおじいさんも、その父親に似て・・・・・・。ひおじいさん。ひひおじさん。ひひひおじいさん。ひひひひおじいさん。・・・・。 聖書によると、人類の歴史が、6,000年とすれば、仮に一世代20年で割ってみると300世代。ひひひひひひひひ・・・・(300回)・・・ひおじいちゃんが、創世記のアダムになり、エバになります。アダムやエバは、遠い存在に思えますが、300回と思うと案外あっというまに結びついているのを思わせられます。 私達は、親から説明のつかないものを受け継いでいる。そうすると、300世代を経て、私達は実は恐ろしいものを受け継いでいる。聖書はそう語っています。 それは、私達が意識しても意識しなくても、厳然たる事実だというわけです。そして、私達が受け継いでいる恐ろしいものとは、「神に対する反抗心」だというのです。創世記の2章を見てみましょう。 創世記2:16-17
創世記3:4-6
アダムとエバは、創造者なる神様が唯一禁止されたことに、意識的にそむきました。その結果、彼らは善悪を知るようになりました。 そして300代を経て、存在しています私達を見ればわかります。「自分が、」「自分が・・」と、私達は考えます。自分が一番、神のようになっていると言うことは、自分を吟味すればわかります。 そして、善悪を知るようになったということには、良い意味ではなく、ここでは悲劇的な意味で使われています。その結果今の私達があるからです。 ガラテヤ人への手紙5:19-21
産まれながらの私達の姿です。私達の行うことはこのようです。これらは、実は悪い意味で善悪を知ったからです。 「争い」をとってみましょう。それは、お互いに「自分こそ正しい。自分の考えていることは正しくて善である。」、と互いに考えるから争いになる。善悪の知識を自分で持つから、争いけんかになる。 もし、産まれながら善悪の知識を持たない歩みなら、争いや憤りも、ねたみも、なかっただろうと思います。 この世で、いろんな苦しみをする原因は、善悪の知識を持ち過ぎている。それを持ち過ぎるから、衝突を起こし不幸になる。皮肉なことであります。「自分は正しい。自分は正しい。」、正しい人ばかりの間で争いが起こります。 さて・・・、聖書の中に、びっくりすることがたくさん書いてありますが、その中のひとつは、私達人間が神様に似た者に作られているということです。 自分を見てみて、まわりの人々を見てみて、どうしてこれが神様に似た者だろう。これは絶対理解できないと思って、びっくりする。 創世記1:26
ここに書いてあることと、私達の実感していることと180度の違いがあります。でも聖書に書いてあることは、すべて正しいわけです。この26節は真実だったのです。 さらに、神様は造ったものを見て、非常に良かったと言われたのです。神に似た者として造って,非常に良かったと認証されているのです。 ところが、今の私達は、とてもじゃないけど、正反対。この大きなコントラストにこそ、罪の恐ろしさがあります。私達は、彼らが堕落した後のそれを受け継いでいるのですから、今の私達のどこを見ても、神の片鱗すら皆無であります。 この神様がこのようにおっしゃって、非情に良かったと認証されたアダムは、禁断の木の実を食べる前であります。 食べる前の彼らは、どのような存在であったか書いてありませんが、私達のすべてにおいて、全く正反対であったと想像すれば良いのではないでしょうか。 私達は、神を尊敬しない、神を神として受け入れない。それらの私達の性質と全く正反対であった。私達は、神により頼まない。私達は、神に従おうとしない。彼らは、それと全く正反対であったと考えれば少しわかるような気がします。 堕落する前のアダムとエバにとって、主なる神はすべてのすべてであったと思います。 彼らは全面的に愛し、神を崇拝していた。ちょうどそれは、かわいい赤ちゃんがすやすや眠っている。その赤ちゃんが、母親を全く信頼している。母親もまた幸せである。ちょうど、堕落前のアダムとエバの一端を見るようです。 CSルイスと言う霊的に深いクリスチャンは、オックスフォード大學の先生でした。信仰のことばかりに熱心で、伝道に熱心で、この世の仕事には手が回らず、助教授や教授になれず万年、講師だったそうです。 このCSルイスは、「堕落する前のアダムとエバと、神様の関係。それは神から彼らに、絶え間なく喜びが降り注ぎ、彼らから神に絶え間なく賛美と賞賛が立ち上る循環運動。」であったのではないかと言っています。 そのような状態にあったアダムとエバは、まことに良かった。しかしその中で、すやすやに眠っていたかわいい赤ちゃんが、急に父親をののしりはじめたら、どうするでしょう?私だったら、赤ちゃんを、びっくりして地面に落とすショックです。 実は、アダムとエバが、禁断の木の実を食べたことは、神様にとって同じような出来事だったのです。そしてショックだったでしょう。 そのアダムと、エバの性質を、300世代を経て私達は、引き継いでいるのです。恐ろしいことであります。ですからパウロは、産まれながらにして悪が宿っている原理があると言うのです。ローマ人への手紙を見てみましょう。 ローマ人への手紙7:15-21
ここで、私達の中に悪が宿っているという原理があると言うのです。そしてこれは、私達、主を受け入れ、クリスチャンになった者すべての叫びであります。 パウロの叫びは、私達クリスチャンが同じように叫ぶものであります。このように叫ばない者ならば、救われていないと言わなければなりません。 救いに預かった者こそ、このような二律背反的な、自分の中の罪を認識するからであります。未信者はそのようなことを認識しないでしょうね。 「原理」という言葉はむつかしい言葉であって、普通われわれはあんまり使わない言葉です。何か、ひとつピントこない難しさがあるかもしれません。 しかし、この原理という言葉は、法則という言葉に置き換えれば、もう少しわかるでしょうか。原理=法則。 原理=法則とは、状況にかかわらずに同じように働くと言うことでありましょう。場所に制約されず、時間に制約されずに、同じように働く力・・と言えましょう。 私達が持っている罪の原理、私達の体の中に流れている罪の原理が存在しますから、私達はいつも争い、ねたみ、憤り、そねみ、・・するのだと言っています。 それは、私達の意志にかかわりなく、原理ですから、私達のど真ん中に存在し続け、いつでも出て来るものであり、自分の意志の力で、それをコントロールすることができないものだと聖書は教えています。 あるクリスチャンが、わかりやすい比喩でもって説明しています。 原理=法則の中で、身近な例は万有引力の法則です。この万有引力は、どこでも普遍的に働いています。たとえば、この一本のえんぴつがあります。これは、重さで計れば10グラムくらいでしょうか。そしてこれを吉祥寺で計っても、ロンドンで計っても、北京で計っても、北極や南極で計っても10グラムでしょう。そしてずっと10グラムです。 それは地球の引力で、10グラムでひっぱられてる法則があるからです。それが法則です。 ひっぱられ、地面に落ちます。手のひらで、努力で、落ちないように支えます。万有引力の力と、わたしの意志の力と、どちらが強いかはあきらかです。 しばらく意志の力で、10グラムを支えても、だんだん重く感じます。やがて手をおろしたくなります。意志の力では万有引力に太刀打ちできません。 全く同じように、私達の骨の髄に罪の原理があり、それゆえに私達は、争ったり、そねんだり、怒ったり、ねたんだり、いつでもどこでも、いつまでも続くものです。それを私達は、自分の意志の力でコントロールすることはできないと聖書は言うのです。 「ああ、わたしは怒りっぽい。怒りっぽいために、いろんなトラブルを起している。これからは、自分の意志の力で決心して怒らないようにしましょう。」 今日1日ぐらいは続くでしょう。明日からは、もう続かないでしょう。自分の意志の力で、自分の中から出てくる罪の力と戦うことは、私達にはできない。聖書は、それを私達に厳粛に告げ、またそれは、私達が自分の身を持って体験していることであります。 たとえば、「ねたみ」の感情。ねたむことに、努力はいらないですね。そのような環境に私達が置かれたら、中から自然にねたむ心が出てくるのです。 私には、ねたむ気持ちは全くないのに、自分を叱咤激励して頑張って、やっとねたむようになったって人は絶対いないはずです。 ねたむという環境が整えば、ごく自然にねたむんですね。それは、私達の中にねたみがあるからなのです。自然に努力しないで出てくるのです。それは罪の原理として、法則として私達の中にあり、いつでも出てくるのです。 私達がアメリカに行っても、北極に行っても、南極に行っても、場所を問わず出てくるのです。環境さえ整えば必ず出てくるのです。 学校を卒業して、二〜三十年すれば、同窓会が開かれます、同窓会で、かつて机を並べた友達と再会します。それぞれ近況を報告します。団らんします。 (テープ A面 → B面) 自分の立場と、かつての学友の今の立場を比較すると、ねたみが起こります。ほかの人の立場より低かったら、自分の善悪の立場では悪いことなのです。善悪の知識では、昔机を並べた人々と同じか、上であらねば善でない。そしてごく自然にねたみが始まるのです。うちから。努力しなくて。 それは、罪を原理として持っているからと聖書は言うのです。その血を受け継いで入る。ですから、私達の姿は、ローマ人への手紙に書いてある姿です。 ローマ人への手紙3:10-17
また、ヨブ記を見てみましょう。 ヨブ記21:14-15
赤ちゃんは、とてもかわいいものです。親から見て無性にかわいいものであります。なんとも形容しがたい。人間の愛の中で最も、非利己的、没我的に思えます... 赤ちゃんは、存在するだけ、「おぎゃっ」とミルクを欲しがって寝ているだけでも、その存在から親が得る幸せ、喜びは測り知れません。 赤ちゃんが欲しくて欲しくてしょうがない。人間にとって、赤ちゃんを持ちたいというのは本能的な欲求でしょう。赤ちゃんは、予定通りすやすや眠って喜びを与えてくれるだけなら良いのですが・・。 ある日その赤ちゃんが、親に向かってののしり、悪口を言い反抗する。親はびっくりして言葉もない。神様はそのような目にお遭いになられたのです。 この、ちょうど桜が散ってしまいましたが、先週は満開できれいな時でした。あの桜の木は、53週くらいは、枯れているようでした。その中から、あんなきれいな花が咲き、創造のすばらしさを覚えます、すべての森羅万象の美しさ。 それほど威力のある神様の言葉も、言葉だけでは罪を贖えず、血を流さねばならなかった。私達の罪がどれほど恐ろしいものであったかは、私達の想像を絶するものであります。 ここにいらしゃっる多くの方々は、イエス様を救い主として受け入れておられるクリスチャンだと思います。 イエス様は、神様の御子でいらっしゃることを受け入れておられると思います。でも、もし受け入れておられない方がいらっしゃたらと、つぎのことをお話しさせて頂きます。 赤ちゃんを見にいきますと、「良い赤ちゃんですね。かわいい赤ちゃんを産みましたね...。」と言います。 「産む」という言葉を使うとき、産むほうと産まれるほうは同種類であります。人が産むとき、産んだほうも人で、産まれたほうも人であります。犬が犬を生む。鳩が鳩を産む。象が象を産む。 「造る」という言葉を使うとき、造る側と造られる側は同種類ではありません。人が造れるのは、赤ちゃんではなく人形です。人が人を造っても、生きた赤ちゃんを造れません。 聖書の中に、まことの神様は、イエス様をお産みになったとあります。神様は、人を造られたとあります。 詩篇2:7
神様はイエス様に、「わたしが、あなたを生んだ。」とおっしゃいました。生んだという言葉を使われたイエス様は、神の子であることは明白です。そして私達、人間は、 創世記1:26
神様は、人を造られました。 イエス様が罪を贖うために十字架につき、復活された。そのことを信じるときに、木や、粘土で、造られたでくのぼうのものが、イエス様と同じものとして、神様に見られるようになると、聖書は教えているのです。 それがどれほどすばらしいことか。途方もなく大きく、私達のちっぽけな頭では、とても理解することができない。私達は、天国に行ったときにはじめて、その全部を知らされることと思います。 ただ私達は、そのためになすべきことは、自分の骨の髄に罪の原理が流れていて、そしてその罪をイエス様が贖うために、イエス様が十字架につき、そして甦られた。ただ、そのことを信ずる。私達は、でくのぼうの人形から、生きたまことの神様の子に類するものとして取り扱われる。 有名な哲学者は、「人の心の中には、神の形をした空洞がある。その空洞は、どのようなものをもっても満たすことができないけれど、イエス様だけが、ぴたりと満たすことができる。 同時にまた、神様の側にも空洞があって、その空洞のひとつひとつは、私達の形をしているて、私達が神様のところに帰るとき、神様は一番喜ばれる。」 これもまた真理ではないでしょうか。神様の空洞、そこにはひとりひとりの名前が書かれた、個人的な空洞。 先ほど、兄弟に読んで頂いた、ローマ人への手紙8章のはじめのところです。 ローマ人への手紙8:1-2
さきほど、万有引力の法則の比喩で見てみましたけれど、原理というのは、私達の意志の力をはるかに越えるものであります。 いくら努力しても、この法則の力に、私達はいっぺんでやられてしまいます。そして、恐ろしい普遍的な恐ろしい罪の原理を血管の中に持っている。 その罪の原理、罪の法則から出てくる、いろんなものを自分たちの力でコントロールすることはできない。 短気ですぐ怒りやすい人は、それを抑制することはできない。ねたみやすい人は、そのねたみの気持ちを抑え続けることはできない。争いやすい人は、ほかの人と争わないで過ごすことはできない。それは、原理であるからです。人の力では打ち勝つことのできないものです。 ある状況になると、自分の中からそういうものがエンドレスに生まれてくる。それが原理なんです。それをアダムとエバから、私達は受け継いで持っている。そこに私達の不幸の原因がある。そう聖書は教えています。 ですから、原理というのが、それほど恐ろしい大きな力であって、私達はそれに対してなにひとつどうすることもできない者である以上、その原理に打ち勝つには、もうひとつ別の原理で打ち勝つしかないと言うのです。原理の力には、別の原理の力でしか、対処することができないのです。 ローマ人への手紙8章の2節になりますように、それは、いのちの御霊の原理なのです。いのちの原理の御霊によってだけ、この恐ろしい罪の原理に打ち勝つことができる。私達の意志や努力や、計画では太刀打ちできない。 「いのちの御霊の原理」、イエス様の十字架の上での犠牲の死、そして甦られた命。それを信ずるときに、私達は、不思議にこの甦りの命を自分のものとすることによって、今まで、全然知らなかった素晴らしい原理を、自分のうちに導き入れることができるようになる。 その時に、あの呪わしい罪の原理から解放される。そこに方法がある。そう教えています。 それは、えんぴつの10gが、地面に対してひっぱる力を支えようとしても、せいぜい一時間かそこらであります。それ以上は、10gでも重くなります。しかし、別の原理で戦えば、自分の努力なしにそれが支えられる。それは、私が自分の筋力で支えるのをやめて、机の上にこうして置けば、それが支えられて、地面に落ちることがなくなるのです。 机という原理に支えられて、万有引力という原理に打ち勝っているのです。別の原理に支えられて、万有引力に打ち勝っている。原理には原理でしか対応できない。法則には、別の法則でしか太刀打ちできない。 自分は怒りっぽくて衝突するから、他の人とうまくいかない。自分は他の人を見ると、うらやましくてねたんでしまう。自分の考えをすぐ主張してケンカになってしまう。そのようなことは、私達の力ではどしようもできないのです。 私達の中に住み着く罪の現われですから、その現象であるねたみや怒りに対処しようとしても、もぐら叩きだと言うのです。そう聖書は厳粛に告げているのです。そして、十字架こそ、それを信ずる信仰こそ唯一原理的に対処する方法であると教えているのです。 そしてまた、それは私達クリスチャンが実体験を通して、本当であると知らされていくところであります。多くの方々の証しが、「光よあれ」の中にありますが、そのどのひとつをとっても、いのちの御霊の原理が働いて、罪と死の原理から解放されたということの、いろんな記述の現われです。 いろんな方が、いろんな形で経験されていますが、煎じ詰めれば、そのエッセンス、共通点は、主イエス様が甦られた、その命の御霊をもって、私達の心の中にはいってくださり、そして私達が、どうすることもできない罪の原理に打ち勝ってくださって、私達を変えられた。すばらしく変えられた。人間の常識では説明のつかない、すばらしい体験をさせられたというのが、書かれているところであります。みんなそれを体験しているのです。 クリスチャンは、みんなそれを体験させられているのです。それらの体験を通して、聖書が書いてあることが、なんと真実であるかと教えられるのです。 最後に、ローマ人への手紙の5章からお読みしましょう。 ローマ人への手紙5:17-21
聖書にはいろんなことが書いてあって、むつかしくも思えますが、実はそんなにむつかしくない。 すばらしい体験を通して、させられて、実感し、経験し、聖書に書いてあることがその通りだと知っていく、教えられていく。私達が、自分の罪の性質を自分で認めて、抑制できない、コントロールできないことを徹底的に認めさせられて、そしてイエス様に「なんとかしてください。」、甦られた命のイエス様に、「なんとかしてください。」と、心から願えば、その時、その直後から、実に不思議なことがおこります。 今までだったら言い争う環境でも、言い争わずに平安にいる。「あれ、いつもと違うな。」、今までだったらすぐケンカを売っていたのに、「あれ、なんだか平安で、そんなこと、どうでも良くなった。言い争わない。」、「以前だったら、ねたんでいたのに、全然ねたみが起きて来ない。」、そのような不思議な変化を経験させられるのでは、ないでしょうか。 命の御霊に自分の中に来て頂く時、イエス様が働いてくださる時、今まで、自分が体験しなかったことを体験させられます。 そのことを通して、「ああ、聖書に書いてあることは真実だ。そして、イエス様はなんと素晴らしい方だ。」と、教えられる。 どうも、ありがとうございました。 |