引用聖句:ヨハネの福音書11章40節
しばらくの間、ご一緒に考えさせていただきたいと思います。 先ほど兄弟も言われましたように、もう年の暮れにあたりまして、私たちはこれまで一年間のいろんなことを思い返す時期であります。そして、いかにいろんな恵みをいただいたかということを、また改めて知らされる時でもあります。 聖書を通して、主はおっしゃっておられます。「主の思いと、私たちの人間の思いとは、天と地ほど違う」と、聖書は私たちに教えていることでありますけれども、これらを具体的なかたちでいろいろと教えられます。 例えばその一つが、「見える」「見えない」ということではないかと思います。私たちは、「自分は見える」と思っていても、実は主から見られたら、私たちは「めくら」である、という全く正反対のことをおっしゃいます。 主の思いは「天」ほど高くて、私たちの思いは「地」ほど低い。私たちは、「自分は見える」「自分は分かっている」と思い勝ちでありますけれども、本当は私たちは「めくら」だとおっしゃるわけでありますね。 私たち一人一人、自分のこれまでの半生を振りかえってみまして、「あぁ、ほんとにイエス様を知る前は、自分は自分で『見える』と思っていたけれども、実は、『大変なめくら』であった」ということを知らされますし、イエス様を受け入れた後は、「今までは分からなかった、見えなかったことが、だんだんと見させられてくる」、という思いを、みんな一人一人体験させられるものであります。 今、ここに掛け軸がかかっておりますけれども、信仰のない時にこの聖句をいくら読んでも、全く意味が分かりませんでした。打ち砕かれて、イエス様を受け入れた後、その意味がだんだんと、私たちに分からせられます。 以前は、「自分は見えるはずだ」「ちゃんと分かってるはずだ」と思っていた時に、この日本語の意味が分かりませんでしたけれども、「自分はめくらだ」「何も分からない」と思わせられた後、だんだんとその意味が見させられてくるという、実に不思議なことを主は私たちにしてくださいます。 先ほど、素晴らしい記念会がもたれましたけれども、これもまた関係者の方々が、主にあって、以前は、お見えにならなかったことが、見させられるようになって、「御国でおばあちゃまが、喜んで安らいでおられて、待っておられる」ということを見させられたがゆえに、素晴らしい記念会が持たれるようになったわけであります。 「天国での再会を思うと、心が踊ります」と、ある姉妹が先ほどおっしゃっておられました。信仰を持たれる前は、それが見えなかったわけでありましたけれども、信仰を持たれた今は、それが非常にリアルに、鮮明に、ビビッドに見させられている。「自分は本当に分からない。見えない者である」ということを、徹底的に知らされた後、見させてくださるという、実に不思議なことであります。 しかし、先ほど兄弟に読んでいただきましたように、「主を信ずれば、栄光を見させてくださる」、天国を現実に見させてくださるのも、主の栄光の現われの一つでありましょう。 イエス様はおっしゃいました。いよいよイエス様が、十字架にかかられる直前の場面でありますけれども、 マタイの福音書26:51-53
実際に私たちの目には見えなくても、「十二軍団」っていう軍団があるんですね。人間として、いろんな方が「信仰によって、それが実現する」ということを、今まで見せられてまいりましたけれども、エリシャはその一人でありましょう。 列王記第IIにこのような記事が載っております。ここに、「目に見えない軍勢が現実にいて、主を信じる者を助けてくださる」、それを体験したエリシャとそのしもべのことが書いてあります。 この時、アラムという敵軍とイスラエルという軍は戦っておりましたけれども、そのイスラエルに、エリシャという預言者、神の人がいて、敵のアラムの王様の戦略、戦い方を、すべて予告して、イスラエルの王様に告げておりました。それで、アラムの王は、自分の配下にスパイがいるんではないかと思って怒るわけですね。 そうすると、その配下の中の一人が「いや、実は、そうではなくて、敵軍イスラエルの内部に、神の人エリシャという人がいて、その人が全部王様のやろうとしている戦略をあらかじめイスラエルの王様に言ってしまうからなんですよ」と言うんですね。 アラムの王様は、びっくりしまして、「そんな素晴らしい人が敵にいたんではかなわない。自分がその人をひっとらえて、自分のために働いてもらいたい」と思ってですね、このエリシャを拉致しようと思ってまいります。そして、エリシャが寝ている時に、エリシャがいる地を取り囲んでしまうんですね。ドタンという地にいたんですけれども。 それで、夜が明けるとそのエリシャの召使いが、びっくり仰天いたします。 列王記第II、6:15-17
信仰を持ってない人には見えないものが、しかし現実にはあって、それを見させていただくには、信仰による以外にない。信仰を持っていると、見えないものも見させてくださるという、よく知られている一つの出来事でありました。 そして、このエリシャを取り囲んで守っておった天の軍勢の、その将軍は、目に見えるかたちである人の前に現われました。少し前のヨシュア記5章13節ぐらいからですね。 ヨシュア記5:13-14
云々とありますけれども、これまでヨシュアは多くの敵と戦ってまいりました。それはアマレクであり、オグであり、シホンでありました。そしてそれらの敵との戦いは、すべて平地で行なわれたんですね。 しかしヨシュアは今度は、エリコという城に立てこもっている敵と戦わなければならなかったんです。それは、ヨシュアにとりましては、最初の、初めての経験だったんですね。 ヨシュアは考えあぐんでいたと思われます。下を見て、考えながら、「どうやって攻めたらいいだろうか」と、歩いていたようであります。「彼が目をあげてみると」とありますね、13節。 下を向いて考えながら「どうしようか」と歩いていて、ふと上を見上げたんですね。そしたら、そこに「ひとりの人が、抜き身の剣を手にもって、彼の前方に立っていた」とあります。そしてその人は、「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」と。そして、この主の軍の将がエリコの城の城壁を崩すんですね。 ヨシュア記6:2
この将軍を通してでありましょうか。 ヨシュア記6:2
ヨシュア記6:20
人間が、自分で城壁を崩す努力を全くしないままに、城壁は崩れ落ちました。主の将軍とその軍勢が、ヨシュアおよびその民の信仰に応じて、城壁を崩してくれたんですね。 出エジプト記を見ますと、ご承知のように、モーセとエジプトの王パロのいろんな戦いが延々と起こっております。そして最後に、あのかたくななパロに対して、主はモーセを通して、「パロおよび、エジプトの人々の初子がみな死ぬ」という宣告をなさいます。 出エジプト記11:4-6
そしてこのことがすぐ実現いたします。パロの初子から、すべてのエジプトの人々の家庭の中にいる初子、それに家畜の初子にいたるまでみな死んだんですね。だれも手をくだしてないんです。人間的には、だれもそれらのことをしなかったんですね。みんな死んだんです。 目に見えない主の軍勢が、主のご命令によって、これらの人々を殺したんでありましょう。 もう少し後になりまして、サウルの息子のヨナタンという素晴らしい人物が登場してまいります。この人は、父サウルと違って、実に素晴らしい人格の、男がほれぼれするような、そういう男性でありますが、とても勇敢でもありました。 当時、このサウル王やその息子ヨナタンが対決していました、ペリシテ人というのがとても強かったんですね。ペリシテ人の方がいつも強かったんですけれども、そのペリシテ人に対して、ヨナタンは道具持ちとたった2人で敵をやっつけるという、素晴らしい不思議なことをやっております。 サムエル記第I、14:1
こうやって、彼らと戦おうとしているペリシテ人の陣地に、ヨナタンは道具持ちとたった2人で行くんですね。聖書の中にペリシテ人というのは、実にしばしば出てまいりまして、イスラエルの最大の敵軍でありますけれども、現在、「パレスチナ問題が世界の火薬庫だ」と言われておりますけれども、あの「パレスチナ」っていう言葉は「ペリシテ」っていう言葉からきているっていうことは、ご承知の通りであります。 この時から、すでに戦いが始まっておったんですけれども、 サムエル記第I、14:6-15
人間的には、たった2人で強力なペリシテ人の陣地に攻め込んでいって、そして相手を徹底的にやっつけたんですね。これもまた、目に見えない主の軍勢がヨナタンと道具持ちに対して、その信仰に答えて一緒に戦ってくださったからでありましょう。 同じサムエル記第I、7章の5節からのところに、このようなことが書いてあります。 サムエル記第I、7:5-9
「サムエルは主に叫んだ」とあります。 サムエル記第I、7:10-11
この時も、目に見えない主の軍勢が、サムエルの信仰に応えて、サムエルが主に叫んだその祈りに応えて、主の軍勢が戦ってくださったと思われます。イスラエルの兵士は何もしなかったのに、ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、ペリシテ人はイスラエルに徹底的にやっつけられるんですね。 当時イスラエルの人たちは、人間的に言えば、ペリシテ人に対して徹底的に劣勢にありました。だいたい、そのペリシテ人に統治されておりまして、「イスラエル人は武器を持っていなかった」とあるんですね。13章の19節にこのようなことが書いてあります。 サムエル記第I、13:19-21
云々とありますが、ペリシテ軍の支配下にイスラエルがあったことが分かります。そして、ペリシテ軍はイスラエルが反乱しないようにするために、鍛冶屋を許さなかったというんですね。 鍛冶屋がなければ武器が作れません。そして農業するために必要な、くわや鋤や、斧や、かまは、イスラエル人は、ペリシテ人の鍛冶屋のところにいって、一ピム払ってそれをみがいてもらっておったという状況でありました。 そのイスラエルは、ペリシテ人と戦おうというわけでありましたから、これはもう勝敗は、横綱と赤ん坊のような勝敗であったに違いありません。その状況にあって、イスラエルはペリシテ人を徹底的にやっつけたんですね。人間的に何もしなくて、ただ主に叫んで「私たちは、主に対して罪を犯しました」と罪を告白して、悔改めて、ただそれだけして。 そしたら後、主の目に見えない軍勢が、彼らのために働いてくださって、人間的にはとても信じられないような大勝利をイスラエルにもたらしたということを、私たちはここで教えられます。 振り返って考えてみまして、私たちにも「エリコの城」というべきものがたくさん存在します。解決不可能に見えるような問題がたくさんあります。未信者の主人の救いとか、人間関係だとか、思いもかけないいろいろな問題が次々と私たちに与えられます。 自分の力でどうしようと思っても、どうすることもできないような問題であります。この世のどんな方法を持ってしても解決不可能な問題であります。 しかし、エリシャのように、あるいはヨナタンのように、あるいはサムエルのように、主にすがって必死に叫んだら、主の軍勢が働いてくださるというのは、聖書の一貫した約束であります。 地方の集会にまいりますと、いろんな話しを聞かされます。ある姉妹がおっしゃっておられましたけれども、嫁姑問題が非常に深刻であった。姑にとられては、かわいいたった一人の息子さんがいらっしゃって、そのお母さんは、若くしてご主人を亡くされましたから、女手一つでその息子さんを立派に育てられ、宝のようなものだったんですね。とても自慢されるような、そういう息子さんだったんですね。 ところが、その息子さんが結婚されることになりました。息子さんの心は、どうしてもやはり奥さんの方へまいります。姑の嫉妬が当然あります。そしてそれは、嫁にあたってくるわけです。 お嫁さんも、当時は信仰を持っておられませんでしたから、そのようないろんな、辛い、悲しい対応に対して、とても耐えられない。もうそれは、とても深いものがあったようであります。長い期間そうでありました。 そして話すことは、「もう、とても一緒にいたくない」、「もし救われて天国に行っても、あなたと一緒に天国に行くんだったらいやだ」と思っておられたということであります。信仰を持たれる前。 ところが、そのような中にあって、他のいろんな状況もあって、やがてそのお嫁さんは、信仰を持たれるようになったんですね。そしたら姑に対する考えが、ガラッと変わったとおっしゃいます。 今までの非常に厳しい、非常に激しい感情が、不思議に消えていったとおっしゃるんですね。それは、自分でもどうしてか分からない。今まで、もう厳然として、間にそびえておった厚い壁が、いつの間にか消えてなくなったとおっしゃるんですね、 相手のことが、いとおしく思うようになった。愛せるようになった。そうしたら、その姑のお方も、やがてまもなく信仰を持たれて、本当に仲睦まじい間になられました。以前そのお二人の心の間にあった、厳しい壁が主の軍勢によって取り壊されたのでありましょう。不思議であります。ご当人たちは、その壁を・・・ (テープ A面 → B面) ・・・しか続かなかったんですね。元の木阿弥、また元の感情がムラムラと起こってまいります。「エリコの城」のような壁だったんですね。 それがイエス様に必死にすがったら、イエス様を受け入れたら、いつの間にか不思議に、この城壁が崩れていった経験をなさったわけであります。 また、あるカップルのことをよく思い出します。このカップルも地方にいらっしゃいましたけれども、行くたんびに、いろいろな夫婦の間の葛藤を相談しておられました。その問題も、もう嵩じに嵩じて、人間的にはどうすることもできないようなレベルにまで、深さにまでいってしまっておって、もうどうすることもできないんですね。 何人かいらっしゃるお子さんの、どの子をお父さんの方がとって、どの子をお母さんの方がとるかという相談までなさっておられました。その極限のところでイエス様に出会われました。すっかり変わられました。180度変わられました。 今まで「自分は目が見える」「自分は正しい」「自分は分かってるぞ」と「悪いのは相手だ」とばっかり主張しておられました、その両方が、「実は、自分は見えなかった」「自分はめくらであった」「自分は間違っておった」「相手に可哀想なことをして申し訳ない」と、イエス様を知られたその瞬間から、お互いにそのように変えられました。劇的な変化であります。 二人の心の間に立ちはだかっておりました、「エリコの城」のような城壁が、この時もまた主の軍勢によって取り壊されました。二人は、人もうらやむ、仲睦まじいカップルと変えられました。子どもたちも幸せであります。 実に不思議なことですけれども、私たちが「自分は目が見える」「自分は見えてて分かっている」「分かってないのは相手だ」と思う思いがある間は、本当に私たちに幸せが与えられません。反対に、「自分はいかに見えてない者であるか」ということを徹底的に知らされた時に、本当の幸せが与えられます。 主なるイエス様は、「不思議な方」だと呼ばれるとありますけれども、実に不思議なことを私たちの間になさるお方であります。 私も、自分の今までの半生を振り返ってみまして、たくさんの奇跡を体験させられましたけれども、その中でも大きく4回助けられたと思っております。大きな奇跡を、4回体験させられております。 そのどれ一つ取りましても、それが主によって解決されていなければ、自分の身の破滅だったと思っております。そのような素晴らしい奇跡を、4回してくださって、助けられております。そのように助けられた理由を自分の中で探すならば、やはり聖書の中にありましたように、悔改めて、主に叫んだからではなかったかと思っております。 つい数日前に、ある兄弟姉妹と話をしておりました。この兄姉は可愛いさかりのお嬢さんを白血病でなくされたんですね。9歳の、とても可愛い、愛すべき性質のお嬢さんであったようであります。 普通の子どもと違って、とても利発で、とても自然に対する素直な憧憬の思いから、その創り主であるイエス様に対して思いを馳せておられると思えるような、そのような言動をずっとなさっておったお子さんであったそうであります。そういうお子さんは、親から見たら、本当に涙が出るほど可愛いものであります。 その可愛いさかりの9歳になるお嬢さんが、突然白血病で亡くなられたんですね。ご両親は、当時まだ信仰を持っておられませんでしたから、その両親の立場に立って考えれば、人間的な思いでその心の中を推察いたしますならば、それはもう言葉で言い表わせないような悲しみの、苦しみの、どん底でのたうち回って、苦しんでおられたに違いありません。 しかしその両親が、ベック兄のお話を通してイエス様に出会われたんですね。「その可愛いお嬢さんは、今、天国に安らいでおられる。今、本当に永遠の幸せの中にいらっしゃる」ということを、ベック兄を通して知られるようになったんですね。 それから両親はすっかり変わられました。すっかり、言葉で表せないような苦しみから解放されて、ほんとに喜ばれるように変わられたんですね。それ以来ずっと、喜んでおられます。目に見えない世界をイエス様から見させられたからなんですね。 目に見えない世界は厳然としてあります。そして、それを信仰によって主から見させられる時に、人間は変えられます。他のどんなことを持ってしても変えられないような、激しい大きな感情を持っておられる方の心でも変えられます。 嫁姑の、ほんとに長い間の「相手憎し!」と思うような経験を、たくさん積んでおられた方の心が、変えられます。もう「目に入れても痛くない」と、「自分の命を代えても守りたい」と思われるような、ほんとに心から愛しておられる可愛いお嬢さんを亡くされて、苦しみのどん底で苦しんでおられたその方が、急に喜ばれるように変えられます。 問題を持っていない他の人々よりも、もっと、かえって喜ぶように変えられます。 今まで見ておられなかった世界を、イエス様によって見させられた時に、人は変えられるんですね。イエス様に叫んだ時に変えられます。主の軍勢が働いてくださいます。主ご自身が、私たちの心に働いてくださいます。 目からうろこ、心のまなこのうろこを取ってくださるのは、イエス様だけであります。そして、それを取っていただきました時に、私たちは、ほんとにいかに自分が「めくら」であって、いかに本当に価値のあるものに目がふさがれていて、そして、ただ目に見えるものだけで判断して、喜んだり悲しんだりしてた。 しかし、それはほんとに浅いものであって、うわべだけのものであって、その「背後に素晴らしい世界がある」ということを、現実に見せられた時にのみ、私たち人間は変えられる。素晴らしく、変えらえるものであります。そんなように変えてくださるのは、イエス様だけであります。 今、この掛け軸の意味・・・。以前私たちは全く分かりませんでした。当時、私たちは「自分は見えている」「分かっている」と思っておりましたけれども、全く分かりませんでした。自分を悔い改めて、その「見える!」と言っていた傲慢さを悔い改めて、イエス様のところにひざまずいて、出ていって、胸を叩きながら見上げた時に、今まで見えなかったものを見させられて、私たちは、素晴らしく、変えられます。 そのように、私たちに「本当の幸せ」を与えてくださるのは、イエス様だけであります。 |