引用聖句:創世記22章1節-5節
今朝の礼拝の時に兄弟たちがお祈りされましたけども、私たちには試練がそれぞれあります。そしてその試練の真っ只中で、イエス様にお祈りしておりますと、手を差し伸べて引き上げて下さるお方であります。 今、兄弟に読んで頂きましたこの箇所は、人類が遭遇しました試練の中で最も大きな試練であったものと思われます。 もうよく知られているところでありますけれども、神さまがアブラハムに、そのたったひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい、という試練であります。 アブラハムはですね、聖書の中で「神の友」と呼ばれているんですね。人間で神の友と呼ばれているのはアブラハムだけでありましょうか。 聖書の中で彼は、3回も「神の友」と呼ばれております。 歴代誌第U、20:7
とあります。あなたの友アブラハム。 次に少し後のイザヤ書ですね。 イザヤ書41:8
神さまが、わたしの友アブラハムと呼ばれております。 新約でも1回呼ばれてまして、ヤコブの手紙という一番最後のところですが、 ヤコブの手紙2:23
ものすごいことだと思いますけれども、アブラハムは3回も呼ばれてるんですね。 で、それにはやっぱりそれなりの理由があったわけでありまして、アブラハムは私たちとは段違いの大きな試練にあったからであります。 そして、その試練を神から見事に受け取って、勝利した方なんですね。 今日の箇所の、創世記の22章に戻って頂きますと、1節のはじめのところにすごいことが書いてあります。「これらの出来事の後」とあります。 神はアブラハムを試練に会わせられた。その試練に会わせられる前にこれらの出来事があった、とあります。 これらの出来事っていうのは、まあこの前に書いてあるわけでありますけれども、それらの出来事を通して、この最大の試練にあわせられる前に、アブラハムは神から準備をさせられているということが分かります。 これらの出来事っていうのは何かということでありますけれども、アブラハムはですね、その前に人間的な判断をして、大きな失敗を何回もしているんですね。それで彼はつくづく反省させられて、「あー。しまった。」、と自分がつい人間的な思いでやったら大失敗してしまったということを肝に銘じたことだと思います。 その1つは、ご承知のようにエジプトに行くんですけれども、カナンの地にいたアブラハムとその妻はですね、カナンの地が飢饉になったものですから、エジプトが穀物が豊かだということで、エジプトに行くんですね。 その時に妻のサライはとても美人だったそうで、それでアブラハムは、当時はアブラムといっていましたけれども、奥さんが美人なもんですから、エジプト人が自分を殺してですね、妻を取るんではないかと思って、心配して、人間的な心配であります、そして妻に言うんですね。「あなたはわたしの妹だということにしてくれ。」、と。 こういうその、策略を、人間の策略を練ってるわけでありますが、その結果彼は痛い目にあうことになるんです。 創世記12:10-13
これは主を信じる、神を信じている者としては実は恥ずかしい発想であります。人間の浅知恵みたいなもので、身を守ろうとしたわけであります。 創世記12:14-19
これはアブラムにとりましては恥なことでありました。悲しいこと、失敗であります。神さま、主をですね、悲しませるようなことをやったのはアブラムは悔いたに違いありません。 実は同じようなことを、また彼はギャラルという町でやるんです。創世記20章でもですね、同じようなことをやるんです。 今度はその場所はエジプトではなく、ギャラルというイスラエルのある地方でありますけれども、そこに行った時にもですね、やはりまったく同じようなことを、 創世記20:1-2
ところがこのアビメレクは、そのサラがアブラハムの妹ではなくて妻であることを、夢で神さまから知らされるんですね。それでアビメレクはアブラハムを呼び寄せて、詰問するんですね。 「何であなたはそんなことをしたのか。何でそんな嘘をつくのか。」 未信者のアビメレクから、アブラハムはそのように非難されて、こんなまた失敗をしてしまった、と反省させられたわけであります。悔い改めたに違いないんですね。 自分の思いで人間的な配慮をして、心配して、人を恐れてなった結果は主を悲しませ、主に恥をかかせてしまった。彼は信じている神さまに対して、本当に申し訳ないことをした、と心から悔い改めたに違いありません。 この、エジプトに行く前にカナンにいた、あるいはギャラルにいた時はですね、アブラハムにとりましては約束の地、カナンにいたわけであります。 かつてカルデアの地を出て、神さまが約束された地に行ったわけで、そこに住んでおったわけでありましたから、もしそこが飢饉になりましても、神さまがここへ自分を連れて来て下さったではないですか、と。 だから、この飢饉の責任は神さま取って下さい、と彼は信仰によってはですね、そう言ったら良かったんでありましょうけれども、しかし人がやったことを他人がですね、後でどーだ、こーだって言うのは易しいことであります。 後で世界最大の試練を信仰によって乗り切ったアブラハムは「神の友」と呼ばれるほどになりましたけれども、そのアブラハムも元々は普通の人間であったんです。 人を恐れ、人間的な浅い知恵を働らかして、何とか自分の身を守ろうとした普通の人間であったということをですね。神さまは私たちに教えなさるために、このようなことを起こさせなさったのではないかと思います。 そしてまたご承知のように、アブラハムは大きな失敗をもう一つ、別の性質なものでするんですね。 ご承知のように、子どものことについてであります。創世記15章。ここで主なる神はアブラハムにこのような約束をなさいました。 創世記15:1-5
まことの神さまは、直接アブラハムに声をかけれらて、あなたの子孫は星のようになる、おびただしい数になる、と仰いました。それは、今このときアブラムには子どもがありませんでしたけれども、やがて彼とサラの間に子どもが生まれるという約束であります。 それでその約束を、更に情け深いお方で、契約をしてそれを保障すると仰ったんですね。 まあ、現代では契約を結ぶのは、私たちにとってごく簡単であります。紙があります。印刷するのは簡単です。パソコンでもワープロでも何でも、すぐ印刷できます。あるいは紙に手書きでも結構です。 そして二人の名前を書いてハンコを押せば、それで契約は成立ですね。 ところが今から3800年くらい前には、紙もなければインクもなかったんです。だから契約だっていっても、じゃあどうしよう・・・ 当時の人たちは契約の時に、次のような儀式をすることにしておったようです。それは、 創世記15:9-10
この契約した人たちの当時の契約の行為としましては、生きたものを、動物を持って来させてそれを真二つに切ったんですね。血が流れます。 で、真二つにされたものを向かい合わせに置いて、間はすきまは細かったんですね。そこを契約した当事者がお互いに通り過ぎることによって契約は成立したんだ、とこのような儀式を当時もっておったようであります。 おそらく推察致しますに、もし自分が契約を破ったら、自分はこのぶった切られた動物と同じように、ぶった切られてもいいという意思表示だったかもしれません。 相手に対して、自分は命をかけて契約を守る。もし自分が破ったら相手は自分をそのようにしてもよろしい。相手に対してもそうする。そのような意思表示であったのではないかと思われます。それで、 創世記15:17-18
云々とあります。 この切り裂かれたものの間を、夕暮れになって、燃えているたいまつが通り過ぎた。神さまが通り過ぎなさった。契約を署名なさった。ということでありましょう。 神さまは、あの火という形でご自身の存在をよく、旧約時代はお示しになったんですね。かつてモーセがあの神さまに召しだされたときに、ホレブの山で柴が燃えておった。しかし、その柴は燃え尽きなかった、とありますけれども、モーセに対して神さまは柴の中の火、という形でそのご自身を啓示なさいました。 かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から、モーセに引き連れられて紅海を渡ってですね、シナイの半島に入って、約束の地カナンの地を目指す旅に出た時に、神さまはあの一夜火の柱となってイスラエルの民を導かれたとあります。 聖書の中では、神さまは火でご自身を啓示しておられたんですね。だからこの燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎることによって、神さまはあの契約を批准なさったということがうかがいしれます。 そのように、契約までしてもですね、子どものないアブラハム夫婦に対して、主なる神さまは子どもを与える、と仰ったんですね。 で、私たちから見たらこれはすごいことだと、神さまから直接そのような声があって、約束されたんですから。アブラハムは勇躍して、ずっと決心して待ったでしょう。 本当に心強い神さまの、直接のみことばでありますから。ところがそれからずっと長いこと子どもが与えられませんでした。 1年経っても、2年経っても、3年経っても、5年経っても、10年経っても与えられませんでした。だんだん人間は不信な思いが出てきたんですね。私たちと同じであります。 そしてついに15年経ちました。もう待ってられなくなったんですね。それも、もう妻のサライの方から待ってられなくなったんです。そして主人に次のように言い始めたんですね。 創世記16:1-4
それから、 創世記16:15
神さまの約束を信じ通すことが出来なかったのは、妻のサライの方でありました。そこからやっぱり、その囁きによってサタンが入ったんですね。 ちょうどエバがヘビの囁きによって、アダムにサタンを入れたように。ここでもやっぱり、女の方が先にやられたんですね。 まあ、現代でもそうではないかと思いますけれども。すいませんが・・・男は単純なんですけれども、そんなもののようであります。聖書がそう言っておりますから。 それでしかし、彼はあとで後悔するようになります。イシュマエルが生まれた後、実は15年目にですね、正統な子どもイサクが生まれるんですね。与えられるんです。 創世記21:1-3
これが正統な子どもであります。神さまがアブラハムの子孫は海の砂ほどになる、と仰いましたのは、このイサクを通してでなければなりませんでした。しかし不信の思いから先ほどありましたように、奴隷の子に、奴隷に生ませたイシュマエルのためにアブラハムは悩むようになるんですね。 創世記21:11
つい、自分が不信な思いでサライの言うことをきいてですね、主に信頼し続けることが出来なかった結果として生まれた、イシュマエルのことでアブラハムは非常に悩まなければならなくなりました。 神は思われたみたいで、この試練、大試練の前にイシュマエルを追放するということをちゃんとなさせておられるんですね。これはすごいことではないでしょうか。 創世記21:10
この奴隷のハガイとこの子、イシュマエルと一緒に追い出してください、とアブラハムに言ったんですね。 創世記21:10
創世記21:14
イシュマエルは追い出されたんです。ですからこの22章の大試練の時には、アブラハムにとりましてはもうイシュマエルはいなかったんですね。イサクしかいなかった。 それからサラに次のような経験をさせて、準備をさせなさっていることがうかがいしれます。それは22章の直前でありますけれども、 創世記21:33
とあります。永遠の神という言葉、ここで初めて聖書で出てきています。 今までは神さまは、神さまのもう一つの面であります、全能の神、という形でアブラハムに現れておられました。 創世記17:1
と。 アブラハムが99歳になった時に主は直接現れて仰いました。私は全能の神だ。神は全能である、ということをご自身啓示なさいました。 けれどもまだ永遠のお方である、ということは啓示していらっしゃらなかったんですね。そのとき。 だけどいよいよこの22章の最大の試練の直前に、アブラハムは何かを経験を通して神から啓示を受けたんですね。神は永遠の神である、ということで祈っておるんです。このことを知らされたんですね。 そのような準備を神さまは色々とアブラハムにさせなさっておられることが分かります。この最大の試練にあわせなさる前に。そしてこのことはまた、私たちにも同じようなことが言えるのではないかと思います。 私たちも、自分のこれまでの半生を振り返ってみましたら、色んな試練がありましたけれども、しかしその試練の前に色々な出来事があり、そしてその出来事を通して失敗をさせなさり、悔い改めさせなさり、自分の考えや力に頼ったらろくなことにならないという痛い思いをさせなさって、そしてそれらの経験の後ですね、次に試練を与えなさったということを、私たちもまた自分の中の出来事として思い返すことが出来るんじゃないでしょうか。 しかもこの22章で、人類最大の試練がイサクに与えられた時の状況をみてみますと、その直前まではアブラハムにとって、その一家にとってその直前は何の問題もなかったんです。 実は21章の後半をみますと、そのことがよく書かれておりますけども、21章22節にこのようにあります。 創世記21:22
このアビメレクと将軍ピコルというのは異邦人、異民族であります。近くに住んでいた人たちもですね、いつかこのアビメレクとアブラハムは仲良くやっていかないと生活が脅かされるというような関係にあったんですね。 で、その相手の人たちがアブラハムのところへ来て、「仲良くしましょう。あなたと契約を結びましょう。これからもお互いに何の問題も起こさないようにしましょう。」、という申し入れをしてきていることが分かります。 創世記21:23-24
次のページになりまして、 (テープ A面 → B面) その間争いが起こらなくなった。彼らから攻めてこられる恐れがなくなった。そして当時の人々にとりましては、水の確保っていうのが最大の関心事、問題だったんですね。で、井戸がちゃんとあるってことが、生活上の基盤だったんです。 ここでアブラハムは井戸を与えられます。 創世記21:30
云々とあります。そして34節を見ますと、アブラハム一族は平和な恵まれた家庭を営んでたことがうかがいしれます。 創世記21:34
日に日に成長していくイサクを見ながら、この家庭では笑いが絶えなかった。そのような主から恵まれた幸せな家庭であったということがうかがいしれます。 何の問題もなかった。生活も保障されておった。他の民族との軋轢もなかった。井戸もあって、食べ物にも恵まれて、たくさんの羊や牛もいた。 全て恵まれて、他から見たら幸せな一族だなあ、と思われるような家庭だったんですね。 その時突然、もの凄い試練がふって降りてきました。22章ですね。これは私たちがまた経験するところではないかと思います。 私たちも振り返ってみまして、ある日、ある時、あのような試練を与えられた。しかしそれは突然ふってわいたような試練であった。その前は何の問題もない幸せな生活を送っておった。日々恵まれた日々であった。しかし次の瞬間、突然想像もしてなかったような試練がおろされた。ということを経験しているのではないかと思います。 あるいは過去のことだけでなくて、これからも同じようなことが起こる可能性があります。神はそのようなことを起こしなさろうと計画しておられる可能性があります。 今ここに何の問題もない。全て恵まれて順調にいっている、というような方がいらっしゃるかもしれません。しかしそう思っておられる陰で、実は主が次の試練を用意しておられるのかもしれません。 あまり物騒なこと言わないで、と仰るかもしれませんけれど、主がなさるのはいつもそうなんです。 この前、カナダのトロントでキャンプがありまして、参加致しました。トロントからナイアガラの滝までは、バスで2〜3時間くらいでしたでしょうか。 ある日ナイアガラに見物に行きましょう、ということでツアーが組まれたんですね。行って参りました。 もうご承知のように、ナイアガラはおそらく地球上で最大の滝の一つでありましょう。そばへ行くとすごいスケールであります。そしてその滝壷はものすごく深くて、ゴオゴオという音をたてて、水しぶきを上げてものすごい量の水が落ちております。 しかしその滝を見ておりますと、滝全体を見渡せるようなレストランがありましてですね、そして窓ガラス越しによく見える。素晴らしく眺望の良いレストランがあるんですね。 そこから見ておりますと、水が滝に落ちる直前までは水面はとても静かなんです。もう、鏡のように静かで何の問題もないように見えるんですね。本当に静かです。 ところが次の瞬間、その水しぶきが真っ逆さまに滝壷にゴオゴオと音をたてながら水しぶきを上げて落ちてるんですね。 ちょうどこのとき、ペリシテ人の間でアブラハム一族はまあ、何の問題もないような本当に幸せな、平和な日々を送っておったことが推察されます。ところが次の瞬間、主なる神さまはアブラハムに人類が受けた最大の試練をお与えなさいました。 創世記22:1
とあります。試練という言葉が使われております。 サタンも人間を試みるものだと書いてあります。主イエス様がパブテスマのヨハネからヨルダン川でパブテスマを受けられた後、主イエス様に対して試みる者が近づいて、荒野で試みたとありますですね。 またサタンは、私たちをも試みるものであります。神さまは私たちの中にある良いものを引き出しなさるために、私たちに試練をお与えなさいます。サタンは私たちの中にある悪いものを引き出すために、私たちを試みます。 ここで神さまは、アブラハムの中にある良いものを引き出しなさるために、彼に試練を会わせられました。神は彼に、「アブラハムよ。」、と呼びかけられると彼は、「はい。ここにおります。」、と答えた。 神は仰せられた。 創世記22:2
これはもう仰天するようなことであったに違いありません。アブラハムはもう何と言って表現していいか分からないようなことだっただろうと思います。 しかしアブラハムは、神さまの言葉を聞き損じたはずがないんですね。アブラハムは何回もこれまでに神さまの言葉を直接聞いておりますから。 信じられないような内容のことをやりますけれども、神さまからの直接のみことばであります。命令であります。 次の4文字の言葉はものすごい言葉だと思います。3節の「翌朝早く」という言葉ですね。 たった4文字でありますけれども、ものすんごい意味が含まれているようであります。 創世記22:3
神さまがアブラハムに、イサクをささげなさいと仰ったのは、前の晩でありました。翌朝早くアブラハムはその命令に対して行動した、というんでありますから、これはものすんごいことであります。 何にも反論してないんですね。そしてその神さまの仰ることを実行するに、一番早い時にしてるんですね。これは実に驚くべきことではないでしょうか。 もし私たちだったら、「神さまそんなこと仰いますけれど、そんな恐ろしいことそう簡単に出来ません。心の余裕を与えて下さい。来週致しますから。来週、来たら、来月致しますから。来月来たら、来年致しますから。」 神さまはひとり子イサクをささげるのに、「いつささげなさい。」、と仰ってないんですね。 創世記22:2
とだけ仰ってるんです。いつそれをしなさい、と仰っておられないことをいいことに、私たちだったら一寸延ばしに延ばすんじゃないでしょうか。 「恐ろしい。そんなこと出来ません。だいたい神さま、あなたがイサクを与えて下さったんではないですか。そのイサクを通して、そのイサク、私たちの子孫は海の砂ほどにもなる。空の星ほどにもなる、と仰ったではありませんか。 今イシュマエルもいません。イシュマエルがいましても彼は奴隷のめかけの子であります。正統な子であるイサクを通してそのように私たちの子孫をおびただしく増やすと神さま自身が仰ったではありませんか。 それを、そのたった一つの絆であるイサクをささげよ、と仰いましたのは、神さまどのような意味でありましょうか?」 って、私たちでしたらですね、大いに反論して、喰らいついて神さまに聞くんじゃないでしょうか。 それは、そうしたくないから、という心があるから。 ところがすごいことに、アブラハムは一切聞かなかったんですね。彼が神さまの命令を実行するに一番早い、一番早い時期にそれを始めた、ということはおそるべきことであります。 翌朝早く。今までのアブラハムの色んな失敗を通して、あるいは神さまがご自身を更に啓示なさったことを通して、アブラハムの信仰はすごい高齢に達しておったんですね。このとき。 創世記22:4-5
これこそ信仰の極致であります。 私と子供とはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る、と言った。これ、すごいことであります。 神さまから、その子どもを全焼のいけにえとして殺して、ささげなさい、と言われたその人がですね、自分はその子どもと今から、その神さまが仰った場所に行って、礼拝をして、あなたがたのところにその子どもと戻って来る、と言ったんでありますから、これはすごい信仰でありますから。 神さまはイサクをささげよ、と仰いましたけれども、しかし何とかしてくださる。どのような方法か分からないけれども、しかし何とかしてくださる、という絶対なる確信が、アブラハムにこの時あったんですね。 ですから自分達は、ちょっと隣にコンビニでも行くような感じで、ちょっと行って、向こうで礼拝をして、2人で帰って来ると言ったんですから、これすごい信仰であります。 そのときのアブラハムの心を、ヘブル人への手紙の著者はですね、このように書いております。 ヘブル人への手紙11:17-19
ここにありますように、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えた。」とあります。一旦イサクを殺してささげなければならない。しかし神さまは死んだイサクをよみがえらして、自分に返して下さると信じた。 最悪の場合はですね、そう信じたからともの者にですね、あなたたちはここで待ってなさい。山ふもとでいて、私と子どもは山の頂上へ行って、礼拝して、帰って来るから、と言ったというわけであります。 これは、実はアブラハムがもうすでに自分の経験を通して、確信していたことでありましょう。イサクが与えられた時に、アブラハムは100歳でありました。妻のサライは90歳でありました。 もうこれは、人間的にはですね死んだ体だったんですね。子どもが生まれるはずのない体でありました。そのことをアブラハムもサラもよく知っておりました。 自分たちの体は死んだもんだ。そこから命が与えられた。死んだ者から一つのいのちが与えられた。ですからイサクが仮に死んでもいのちが与えられる、よみがえらされる、ということをアブラハムは自分の経験を通して確信していたことでありましょう。 そしてまたこのことは、イエス様が十字架の上で死なれてよみがえられるっていうことを予告したものでもあります。 信仰はすごい、と思いましてですね、信仰をもっているということはすごいことだと。 創世記22:6
ね、信仰がある者の幸いですね。父と子は一緒に進んで行った。本当に素晴らしい光景だと思います。 創世記22:7-9
で、9節に至るまでアブラハムは神が自分に告げなさったこと、つまり自分の子イサクを祭壇の上で殺してささげなければならないということをイサクに告げてなかったようであります。 それは、7節で分かりますですね。「お父さん。」「何だ。イサク。」イサクは尋ねた「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊はどこにあるのですか。」 イサク自身が尋ねておりますから、イサクには知らされてなかったっていうことが分かります。 で、アブラハムは8節でもまだ言ってないんですね。だけど9節では、いよいよこの祭壇を築いて、このたきぎをその上に並べて自分の子、イサクを縛り祭壇の上のたきぎの上にイサクを置いた、とありますからこの直前にアブラハムはイサクに神から言われたことを打ち明けたに違いありません。 イサクはこのとき、何歳になっておったか聖書は書いてありませんけれども、しかし6節にありますように「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、」とありますから、イサクを大きなたきぎを背負うほどの力があった。そしてそれを背負って、山へ登るほどの体力があったということが分かります。 おそらく少年でありましょうか。まだ青年にはいかなかったかもしれません。少年、もう子どもではなかったということが分かります。 そのイサク、もう体力的にはですね、110何歳になったアブラハムよりもイサクの方がおそらく体力があったでありましょう。ですからイサクがその気になれば体力的にはお父さんを打ち負かすことが出来たわけであります。 そのお父さんが、急に神さまからの命令を打ち明けて、自分を全焼のいけにえにする。お父さんが自分をナイフでほふる。ということが分かったイサクは、もしそれが自分にとって受け入れられないものであれば、イサクは抵抗することが出来たはずですね。その体力は充分にあったはずであります。 ところが、イサクは全然抵抗していなかったことを聖書は私たちに告げております。年老いた力のない父であるアブラハムが、自分の子イサクを縛って、祭壇の上のたきぎの上に置いた、とあります。イサクは従順に従ったことが分かります。 これ、イエス様の姿を予告するものでありましょう。この6節でもイサクの姿はイエス様を彷彿させるものがあります。 自分がやがて燃やされることになるこのたきぎを、イサクは背負いながらですね、黙々と山に登ってるんですね。それはやがてイエス様がご自分を架けられるその重い十字架を背負われて、ビィアドロローサ、悲しみの道を歩かれてゴルゴタに行かれた、そのイエス様の姿を象徴しているのではないかと思われます。 それにしましても9節にありますように、アブラハムはですね、告げられた場所に到着した時に祭壇を築きました。正確に測って、その祭壇が崩れないように、その上に正確にたきぎを組み上げていきました。 やがてその上に重いイサクを乗せなければなりませんから、その重荷に耐えれるように築いたんですね。祭壇を築くために、アブラハムは近くから石を拾ってきたに違いありません。あちこちから石を拾ってきてその石を積み上げる時に、アブラハムにとりましてはいくら信仰がありましてもそれは、辛い、悲しいことであったに違いありません。 人間の父として、自分のたったひとり子、一番愛するイサクを自分の手でほふらなければならないわけでありますから、これはいくら信仰があっても、人間として、親として辛いことであったに違いありません。 私も子どもの親として、アブラハムがこのときですね、どんな思いで石を集めてたか、どんな思いでその石を組んで、祭壇を築いたか、その心に想像を馳せますと、本当に胸が締め付けられるような思いが致します。 信仰がありましてもそれとは別に、やはりそれは悲しいことであります。私たち誰しも、家族が一人亡くなり、二人取り去られて、っていうことで家族の死に立ち会わなければならない者でありますけれども、しかし病気や怪我でですね、家族が亡くなって逝くのを見るのと、このアブラハムのように自分がその子どもを自分の手でほふらなければならないというのは、全然違うものだと思います。 イサクから見れば、自分がこの世で最期に見る映像は、父が自分に馬乗りになってですね、はだけた胸にナイフを振り下ろしてくる、その映像かと思うとアブラハムは本当にそれは心が痛んだことだと思います。 アブラハムが神の御告げをイサクに告げた時に、二人は抱き合って泣いたことだと思います。そしてそのイサクの手をアブラハムは軽く縛って、そして築いた祭壇の上に置きました。 イサクの胸ははだけられました。イサクの首のところはあらわにされました。そのイサクの体の上にアブラハムは馬乗りになって、ナイフを右手に取って振り上げたんですね。 創世記22:10-11
振り上げたナイフを握った右の手を、アブラハムはゆっくり下ろしながら、「はい。ここにおります。」と答えたに違いありません。 創世記22:12-13
雄羊の命が取られて、代わりにもう一人の人のいのちが助かりました。イエス様は十字架の上でいのちを取られなさったから、他の人のいのちが助かりました。 他の人のいのちが助かるためには、別の人のいのちが必要でありました。 創世記22:4
とあります。イサクをささげるモリヤの山に行くまでに三日間かかったとあります。 聖書の中で「3」という数字は常に復活を意味しております。この三日っていうのは、イエス様の復活を象徴しているものでありましょう。そしてこの三日間、イサクは実はアブラハムの心の中で死んでいたと思われます。 そして三日目にイサクは生きた姿で返されました。イエス様が三日後にあのヨセフの墓からよみがえられたことを象徴しているのではないかと思います。 アブラハムは、人類が受けた最大の試練をすごい信仰をもって勝利致しました。 創世記22:14
創世記22:16
云々とあります。 ここで、「誓う。」、と仰っておられます。神は、「わたしは自分にかけて誓う。」、と仰いました。今まで主なる神はアブラハムに色々仰いましたけれども、いつも主は「仰せられた。」とあります。 ところがここで主はアブラハムに、「誓う。」と仰いました。 人類最大の試練をアブラハムは見事に信仰にあって乗り切った。そしていかにアブラハムが主を恐れているか、よく主がお分かりになった後、「仰せられた。」ではなく、「誓う。」、と仰られるようになったんですね。 アブラハムが「神の友」と呼ばれるようになったその理由がここにあります。しかしこれら一連の、この創世記の非常にドラマティックな、すごい出来事を通して、主なる神は私たちに教えておられます。 アブラハムはまさに、人類が到達した信仰の極致に達しましたけれども、そして神がその友と呼ばれるまでに至りましたけれども、しかしそのアブラハムも以前は本当に臆病な、不信な、人を恐れ、自分の知恵でですね、自分の判断で、姑息なことをやっておった普通の人間にすぎなかった、ということを教えておられます。私たちと変わらなかった人間であった。 しかしそのアブラハムが多くの試練を通して、痛い経験を通して、失敗を通して段々とその信仰が練り上げられていった時に、最後はこのような試練さえも乗り越えられることが出来るようになって、すごい祝福を主から与えられるようになって、主から友と呼ばれるような者になっていった。そのことを聖書は、私たちに教えているのではないかと思います。 つまり私たちも、今はまだ信仰がホヤホヤで、フラフラしてて、不信な思いがあり、主に頼り切れない思いがあり、そして人を恐れ、自分の浅知恵で何か、色んなことをはかるような者かもしれませんけれども、しかしその私たちもやがて、アブラハムが変えられたように、多くの試練を通して練られていくならば、私たちもまた神に喜ばれる者と変えられていくものである。そういうものである。 |