12の御言葉より


古田公人兄

(吉祥寺学び会、2005/10/18)

引用聖句:ヘブル人への手紙4:12
12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

御言葉の学びというテーマです。本当は、12の御言葉から学びたいということなんです。でも12は特に意味がありませんので、時間が来れば、10になるかも、9になるかもしれませんが、時間の許す限りご一緒に御言葉について学んでいきたいと思います。

最初に、アモス書3章7節の御言葉を取り上げてみたいと思います。

アモス書3:7
7まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。

主なる神は、私たちひとりひとりを愛してくださっていますから、なんでもあなたに知らせたいと考えておいでになります。
私たちには隠されて見えないこの世の本当の支配者も、そして私たちの将来の姿も、さらにまたいつの日か必ず備えられる天と地についても、言い換えますと世界のすべての秘密をあなたに明らかにしようと、主なる神はお語りになっています。

また、主は私たちに御言葉を通して悔い改めを求められます。あなたの悔い改めを通して豊かな交わりの時を持ち、祝福を与えたいと主なる神は望んでおられますから、御心をつぶさに明らかにしてくださいます。
主なる神は、罪ある者には、主なる神を否定する者には恐るべきお方でありますけれども、悔い改めるなら何一つおそれる必要はありません。
御心を明らかにすることによって、主は、私たちに悔い改めをお求めになっておられます。

もし、御言葉を通して、主なる神が御心を明らかにしていてくださらなかったら、私たちは、どうでしょうか。どう祈ったら良いかわからないし、何に信頼して良いのかわからないのではないでしょうか。
そうなってきますと、どのようなことがあっても、自分の考えで納得するか、あるいは暗闇を手探りで歩くようなことになってしまうのではないかと思います。
そして、不安と恐れに疲れ果ててしまう。私たちが、イエス様を知る前の姿をそこに見ることができるのはないかと思います。

主の御心が御言葉として語らえていることは、考えてみると、とても素晴らしいのではないかと思います。天と地の一切をお造りになり、そして、黙れ静まれとおっしゃると湖さえ静まったほどの、その天と地をご支配になっているお方の御心を、私達は御言葉を通してつぶさに知らせて頂くことができます。
それは、御言葉に慣れてしまうと、ついつい忘れてしまいますが、本当は、考えられないほどの幸せだと、言えるのではないかと思います。
「もっとお聞かせください。あなた様の御心を、お示しください。」とせがむような気持ちで御言葉の前に立ってさえ、当然ではないかなと思わされます。

つぎは、エレミヤ哀歌3章38節から学んでみたいと思います

哀歌3:38
38わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。

御心を御言葉によって明らかにされるということは、言い換えますと、災いも幸いも主なる神の御心によって起こるということであります。はっきり言うと偶然ではないということであります。
私たちは、希望しないことがあったり、あって欲しくないことが起こりますと、それを勝手に災いと名付けます。そして、待ち望んでいたようなことが起こりますと、それを幸いと名付けています。しかし、この御言葉にあるように主なる神は、ともに私の計画通りだとお語りになっています。
言い換えますと、これはすごいことだと思います。あなたのすべてに私は関わりを持っているとお語りになっていることではないでしょうか。本当の意味で愛しているとお語りになっているのだと思います。

どうしていいかわからない時も、本当に寂しくて心の中が泣いている時も、あるいは何かに絶望しているような時も、私たちが気づいていようといまいと、主は私たちに関心を持っていてくださるということが、この御言葉に含まれています。
私は決してあなたを捨てない、いつまでもあなたと共にいると仰せになるお方の御言葉だと思うと、やっぱり勇気が出てくるのではないかと思います。
なにひとつ、本当は恐れる必要はないということをこの御言葉は、語ってくださいます。

次の御言葉は、イザヤ書46章10節です

イザヤ書46:10
10わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。

これも、御言葉についての主なる神の御心がここに示されています。
終わりのことを告げ、まだなされていないことを告げると、主はここでお語りになっています。主の言葉は、真剣そのものの言葉だとこの御言葉を読むと思わされます。
そしてその御言葉は、こだまのように空しく帰ってくるものではないと、主はエレミヤ書の中でもお語りになっています。

そもそも主なる神は、変わることのないお方であります。御心は純粋です。御言葉はどのような状況にあっても、世界がどのようになろうとも、成就し成し遂げるとお語りになっています。
主は御言葉を通して、私たちを教え、導いてくださいます。そして必ず責任をとってくださいます。ですから、もう絶望しかないと思われるような状況にあっても、もうどうして良いかわからないと言う状況であっても、安心して御言葉に、信頼すべきではないでしょうか。
期待しながら主の約束が実現することを、わたしは成し遂げると言ってくださっていますから、それを待ち望むべきではないかと思います。このようなお方の御言葉をきくことができる私たちは、本当に、幸せだと思います。もっともっと主に感謝していい。

つぎは、エレミヤ書の1章12節から学んでみたいと思います。

エレミヤ書1:12
12すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」

主は成し遂げるとイザヤ書で仰せになりましたけれど、驚くべきことにそのために、主は見張っているとここでお語りになっています。
主なる神が心の中に、御心に一番かけて下さっていることはなんでしょうか?それは、主を愛し主に信頼する者への約束の実現だと言っていいと思います。
そのためになら、見張ることなどはなんでもないと主はお語りになっています。

しかしこれは、主を拒絶する者には恐るべき御言葉ではないでしょうか。同じように主は見張っているとお語りになっています。でも、主に信頼する者にはまさに喜びと希望の御言葉だと言っていいと思います。主が見張っていてくださるのですから、不安も恐れも、不要だと言い切れるのではないかと思います。
人間は、だめなんです。疲れ、まどろみます。どんなに緊張していても、うとうととしてしまいます。でも、主は、まどろむことも眠ることもないお方ですから、この主が見張っていてくださることこそ本当の安心だと言っていいと思います。
私たちは、この主の御心を無にして悲しませてはならないと思わされます。

5番目の御言葉は、サムエル記第Iの15章22節です。

サムエル記第I、15:22
22するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

今までは、主は御言葉をご自身どのように考えてお語りになるかという点を見て参りましたけれども、ここからは、主は御言葉を聞く者に何を求めておられるのかをいくつか見て参りたいと思います。
ここにあることは、聞き従うことの大切さを主はお語りになっています。主は、いつも真剣です。いけにえよりも何よりも聞き従うことを望んでおられるとここに御心を明らかになさいました。
聞き従うなら主も喜んでくださり、そして豊かに祝福を与えてくださいます。

主は、イザヤ書によりますと、いつでも恵もうと待っておられ、憐れもうと立ち上がられるお方です。
また、イエス様は聞き従う者は、岩の上に家を建てた人のような者だと、仰せになりました。何があっても、だいじょうぶだとお語りになりました。
聞き従うと言うことは、実は二つの行為からなっています。聞くことと、従うことではないでしょうか。そして、従うことは、まず聞くことから始まると言っていいと思います。

使徒の働き10:44
44ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。

心を開き真剣に耳を傾けているすべての人々に、聖霊がお下りになったと記されています。
主は、心を開いて聞く者には惜しげなく御霊を与えてくださいます。そうすると、私たちは御言葉に従う者と変えて頂くことができるのではないかと思います。
御霊に満たされること、まさにこれこそ聞き従う肝要であり、そして、信仰生活の要であるのではないかと思います。

注意したいことは、私達をどれほど愛してくださっていても、主は主であられると言うことです。エレミヤは、耳を傾けて聞け、高ぶるなと、13章の15節で語っています。

エレミヤ書13:15
15耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。

主は、そう仰せになります。耳を傾けて聞け、高ぶるなと、主としての権威をもって、私達ひとりひとりにお語りになっています。
自分を完全に明け渡して、へりくだった気持ちで聞くことをいつも心がけたいものだと思います。

主は、ご自分の命に換えてまで、私達ひとりひとりを愛してくださっています。また、ひとりひとりの名を呼んで語りかけてくださいますけれども、それは、私はあなたと豊かな交わりを持ちたい、あなたを永遠の命に導きたいと考えて下さるからではないかと思います。
私達もまた、イエス様と交わりを持ちたい。そして、豊かな祝福を頂きたいと望むなら、このお方に聞き従うことは当然ではないかと思います。

6つ目の御言葉は、ヨハネの黙示録3章8節の御言葉です。

ヨハネの黙示録3:8
8「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

聞き従うなら、主は御言葉によって私たちを育成してくださいます。私たちをキリストの充ち満ちた高さにまで満たし、キリストと同じ姿に変えたいと思っておられます。
そればかりか、私の言葉を守る者は、決して死を見ることはありませんと、イエス様はおっしゃいました。
また、主と共に食事をすることが許されると、同じヨハネの黙示録の3章の20節に書かれています。誰も閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいたと書かれています。いつでも、イエス様の所へ好きな時に駆け込んで行っていいということです。
私とあなたはひとつだということを、イエス様はこのことを通してお語りになっています。私の言葉を守る者は私の門からいつでもはいっておいで、私が、必要を満たそうと呼びかけてくださいます。

私達は、愛する人や尊敬する人の言葉は真剣に聞こうと致します。そして、その言葉を長く心に留めたいと思うのではないでしょうか。
イエス様は、私達が、誰よりもイエス様を愛することを求めておられます。それは不法な求めではなくて、そのために主はご自身の命を捨ててくださり、よみがえって、主となってくださいました。
ですから私達は、誰の言葉よりも、主のみことばを真剣に聞こうと心に留めたい、御言葉を守ろうと考えて、当然なのではないかと思います。そうでなければ、その人はキリストを愛しているとは言えないと、言っても良いのではないかと思います。

7番目の御言葉、ヘブル人への手紙1章1節から2節です。

ヘブル人への手紙1:1-2
1神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

ここには、御子によって語られましたとあります。キリストは御言葉だけによってではなく、御子ご自身によって、言い換えますと、そのお方のすべての行為、そして受難と復活、そのすべてを通してお語りになっているとここに記されています。
それは、神の御子が十字架にかかるためにこの世に来てくださったということです。そして私たちを一人一人として、ご自身の命に代えてまで愛してくださったということです。
そしてそのお方は、私たちの悩み苦しみ、痛み寂しさ、そのすべてを、知ってくださったということではないでしょうか。

しかも、十字架にかかって私たちの罪を赦してくださり、復活を通して罪の根源である死を滅ぼしてくださり、悪魔の支配から私たちを解放してくださったということが、御子によって語られているということの内容ではないかと思います。
つまり一言で言いますと、人間の知恵では知ることのできない、まことの愛をキリストは明らかにしてくださったということを意味しているのではないかと思います。
そして、父なる神は、その事実を悔い改めて信じなさいと仰せになります。

残念なことに、多くの人はそのようなことは信じられない、聖書に書かれていることは科学の知識と矛盾すると言うのです。また人は、いいところをたくさん持っていて、可能性を持っているから、キリストに頼らなくても、うまくやっていける。暗闇だって、なくすことができる。そういうふうに人は言います。
でも、それはみな、信じたくないということの言い訳けにしかすぎません。なぜなら、科学が未発達で、人間が病気や天災をひたすら恐れ神ならぬものにひざまづいていた時代でさえ、信じる者は決して多くはなかったのです。
富だとか名誉だとか、面子だとか、あるいは人からちやほやされる喜び、自分が中心でいる満足感、そうしたものはみな悪魔が与える媚薬ですけど、その悪魔が与える媚薬に酔う者はいつの時代であっても、まことを信じることはできず、また、信じたくないと言ってもいいと思います。

そもそも、なぜ人が信じることがきでるのかということは、ただ恵みによってのみ信じることができると聖書は書いています。
神は、世界の基の置かれる前から、私たちをキリストのうちに選んでくださっていました。そして、そのひとりひとりをキリストは迷い出た羊として探し出してくださり、信じる者としてくださったのです。ですから、私たちは信じるようになりました。
その恵みを、「ありがとうございます。」という気持ちを持てば、誰であっても信じることができる。それは、知識の問題でもないし、まして科学の問題でもない。そのことを、私たちは知らされて参りました。

8番目は、ヨハネの福音書5章24節です。

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

信じるなら永遠の命が与えられると約束していてくださっています。キリストのものとされる。
そうしますとあのパウロのように、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」と、同じように言うことができるのではないかと思います。
確信を持って受け止めることができるのではないかと思います。そして、新しい歩みが始まります。

もちろん、生きている限り様々な問題が消えることはありません。本当に、いつも思うのですけど、歳はひとつづつ増えていきますし、物は1年づつ古びていきます。
ですから必ず問題はありますけども、喜びと希望に満ちた日々を私たちは頂くことができるのではないでしょうか。
たとて世界を手に入れても、まことの命を失ったら何になるのかと言う、本当に祈る心を持ってお語りになりました。私たちもまた、キリストを信じてまことの命を頂き、なによりも、豊かな人生を歩みたいものだと思います。

9番目のみことばは、サムエル記第Iの3章10節でございます。

サムエル記第I、3:10
10そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

主は、私たちを救ってくださいますけど、それは祭司とするためであると、ペテロの手紙第Iの2章の9節に記されています。

ペテロの手紙第I、2:9
9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

言い換えますと、祭司とするということは、主は私たちを用いたいと考えていることを意味しています。
この先、幼子サムエルもまた主によって用いられようとしておりました。そしていつもそうなんですけど、用いられる者はいつも主の御心はなんであるかを知らなければなりません。
ですから、主がお語りくださることを、注意深く、注意深く聞く心の備えがなければならないと言っていいのではないかと思います。

「主よ、お語りください。しもべは聞いております。」、この心の備えがあるならば、主は語ってくださいます。
このサムエルに主がお語りになった時、実はサムエルは寝ておりました。主は、サムエルを起こしてまでお語りになりました。
なぜ、そのようなことをなさったのかと思います。それは、サムエルのような立場の者にとって、夜だけが本当に心を主に集中できる時であったと言っていいのではないでしょうか?

そして私たちにとって、目に入るもの、耳に聞こえるものから離れて、また自分の見るものからも解放されて、主の前に静まることができるのは、一人きりでいる時ではないかと思います。
サムエルにとってはそれは夜でしたけど、私たちもまたそのような時を意識して持つべきであるとこの御言葉から考えさせられるのでございます。
そしてそれは言うまでもなく、環境の問題ではありません。その気になれば、集会のような場はもちろんですし、満員電車の中であっても、飛行機の中であっても、私たちは、目に入るもの、耳に聞こえるものから離れて、また自分の見るものからも、解放されて、主の前に静まることができるだろうと思います。

問題は、いつも、心がどこにあるのだろうかと言うことに思います。「主よ、お語りください。しもべは聞いております。」、この心の備えを持ちたいと思います。
そして、また本当の意味で私たち人間の口では、主なる神とキリストの御力と愛、そのすばらしさを語ることはとてもできません。いくら真剣に心を込めて紹介しようとしても、言い足りないか、余計なことを言ったかどちかです。
つまり主の偉大さをそこなうことこそあれ、それを正しく語ることはできないとどなたも経験なさっていることではないかと思います。

しかし主は、結果ではなく、心をご覧になるお方ですから、主を愛すると御霊さまが助けてくださって、キリストの愛と恵みを誰であっても、言葉はまずくっても、伝わるように語らせてくださるのではないかと思います。
主が望んでおられるからと言ってもいいと思います。

10番目はコリント人への手紙第Iの1章17節18節です。

コリント人への手紙第I、1:17-18
17...それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

ここからは少し、教会というものもあるべき姿を主はどのように望んでおられるのか少し考えてみたいと思います。
福音は十字架の言葉です。十字架のない福音はあり得ないと言えます。しかし不幸なことに、十字架の言葉を大胆に語る教会は多くはありません。
キリストの十字架がむなしくならないために言葉の知恵によってはならないのですと、はっきりと記されていますのに、この世の多くの教会は十字架よりも、もっと現代の人々に受け入れられやすい言葉を語ろうとします。人間はすばらしい能力を持っている。もっとすばらしくなるとさえ語ります。科学的な知識と矛盾のない所だけを語ろうとします。

また、教会は民主的でなければならないと考えています。あるいはまた、聖書に矛盾するものであっても、人々の感情に訴えるものなら、取り入れて魅力ある教会を作ろうなどと真剣に考えています。
ですけれども、そうした試みは結局のところ、主なる神よりも人間を恐れるものであると言い切れるのではないかと思います。
混じりけのない純粋な御言葉を、混じりけのあるものとしているに過ぎないと言っていいと思います。

十字架を宣べ伝える集会、教会。十字架に頼る信仰。ここに主はおいでになり、お働きになります。
この世の人たちが十字架の言葉を、ここにありますように愚かだと思うのは、残念ですけれども仕方がありません。しかし教会がそう思っていたら、どうでしょうか?
イエス様がおっしゃったように、私はそのような者を恥じると仰せになりました。なぜなら、十字架を否むことは、キリストを否むことであると言えるからであります。

つぎの御言葉は、エペソ人への手紙6章17節の御言葉です。

エペソ人への手紙6:17
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

永遠の命を受けた者も、この地上の生活にある限り絶えず悪魔の策略にさらされます。ですから、その6章の11節に次のように書かれています。

エペソ人への手紙6:11
11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

その武具のひとつの御霊の与える剣である神の言葉を受け取りなさいと書かれています。御霊の与える剣とは、どのようなものでしょうか。
それは、最初に兄弟にお読み頂きましたヘブル人への手紙4章12節の御言葉でございます。

ヘブル人への手紙4:12
12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

御言葉の剣は、悪魔の策略をも明らかにします。そしてそれをえぐり捨てることのできる剣だと知らされます。
もちろんそれは、自分の心のうちにあるよこしまなもの。良くないなと思っても、それに引きずられてしまう弱さ、御言葉の剣は、そう言ったものを明らかにし、そこに働いてくださるのです。

しかし、すべての御言葉の剣がそのように鋭敏なものではない。ただ、御霊が与えるとあるように、御霊から受け取る時だけ、その剣は、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す、そういう剣ではないでしょうか。
御霊から受けたものではない剣は、そうしたいろいろな人の考えや謀を判別するときに、自分の心の内にある問題に向かわないで、他人を裁くために使われるのではないかと思います。
御言葉はいつも、人を裁くなと書いています。そして、なまくらな包丁は手を切りやすいように、御霊から抱くのではない剣は、相手を傷つけ、自分も傷つき、やがて、疲れ果ててしまうのではないでしょうか。御霊を頂くことがどれほど大切であるか。そのために御言葉を信頼して聞き取ることがどれほど大切であるか。そのことを深く思わされます。

この学びの準備を通して私は、御言葉というものは、単なる言葉ではなく主なる神の御言葉であると知るためには、キリストを愛するということがなくてはならないのだと知らされたように思います。
キリストを愛するものでなければ、それが主なる神の御言葉であるということを経験できないし、また本当の意味でわからないと思わされました。

そして、同時に、主は私にひとつの問いかけをしておられることを知らされました。それは、「私があなたを愛しているほどに、あなたは私を愛しているのか。」と、主から問いかけられた思いが致します。
「はい、主よ、私があなたを愛することはあなたがご存知です。」とペテロのように答えられる。いつもそのように答えられる者に導いて頂きたいと思います。

どうも、ありがとうございました。




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