甘いぶどう


古田公人兄

(四国・西条家庭集会、2003/09/27)

引用聖句:イザヤ書5章1節-2節
1「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
2彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。

コリント人への手紙第I、14:1
1愛を追い求めなさい。

今お読みいただきました、イザヤ書5章の1節と2節のみことばは、一度聞くとなかなか忘れられない言葉ではないかと思います。
ぶどう畑を作って、よく肥えた山腹に、山腹っていうのは日当たりがいい一番いい場所なんでしょうね。ぶどうは水はけが良くって、しかも日当たりがいい所だと、いいぶどうができますけれども、そういう所にぶどう畑を持っていた。
石を取り除いてそこを掘り起こして、最上の条件を整えて、しかも良いぶどうを植えた。これなら必ずすばらしいぶどうができて、香りのいい、美味しいぶどう酒が作られるに違いないと思って、もうぶどうができたような気になってやぐらを立てた。しかも酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。
ところが酸いぶどうができてしまった。

言ってることは、そのぶどうを植えた人の収穫の早さを言ってるのではないことは明らかであります。良いはずのぶどうが、酸っぱいぶどうになってしまったというところに、このイザヤのみことばの要点があるのだという。
最良の苗を、最善の所に、考える限りの注意を払って植えたのに、酸っぱいぶどうになった。その例を一つ見てみたいと思います。
使徒の働きの18章に、コリントのことが書かれています。

使徒の働き18:1
1その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。

と、書かれています。そして、

使徒の働き18:9-11
9ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
10わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。
11そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

と書かれてあります。
パウロは、各地をみことばを語って旅しましたけれども、一年半も一所にいてみことばを語り続けたところは、そんなになかったと思います。たぶんコリントだけだったんじゃないかと思うんです。あとは、三ヶ月とか、あるいはもっと数日とかいう感じで、今のように飛行機と自動車で旅するんでしたら速いですけど、パウロの時代ですから歩いてか、馬に乗ってかわかりませんけど、本当に大変な、旅をするだけで大変だったでしょう。
そういう中で、一年半もコリントで腰を据えました。神さまは、この町にはわたしの民がたくさんいると、パウロにお語りになったとあります。このコリントの教会は、ですから、大変祝福された教会であったということは、このところからわかってまいります。

それから何年か経ちました。そのコリントの教会へ向けて、パウロは手紙を何度か書いています。本当にパウロにとっては、子どもたち、自分の生んだ子どもたちであるかのような教会であったと思います。

コリント人への手紙第I、1:27-29、31
27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
29これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
31まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

神さまは、本当に弱い者、小さい者、はずかしめられてる者、そういう者を選ばれたと書かれています。それは、神の御前でだれをも誇らせないためですと書かれています。
少し飛びまして、

コリント人への手紙第I、3:3
3あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

コリント人への手紙第I、3:21
21ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。

次に、

コリント人への手紙第I、4:6-7
6さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
7いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

コリント人への手紙第I、4:18-19
18私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。
19しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。

コリント人への手紙第I、5:1-2
1あなたがたの間に不品行があるということが言われています。
2それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。

コリント人への手紙第I、5:6
6あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

1章から5章までずっと見てまいりましたけども、一年半、パウロが腰を据えて、この町にはわたしの民がたくさんいると、主なる神がお語りになった町で、伝道した何年か後に、コリントの教会は、パウロがこのように書き送らなければならないような状態になっていました。
今お読みいたしましたところには、誇るだとか、誇りだとか、高ぶりだとか、高慢、あるいは思い上がるという言葉が、表現こそ違いますけど、同じ内容のものが繰り返し繰り返し表れています。そして、その「わたしの民」と呼ばれたコリントの教会の中には、ねたみと争いが渦巻いていたと知らせられます。
この状態を主なる神はご覧になって、何と仰せになるかなと思うんです。あの良いぶどうが、酸っぱいぶどうになったと、ため息と悲しみをもって、主なる神はご覧になっていたのではないかと思います。

どうしてこういうことが起こったのかということですけど、あらゆることの原因はただ一つ、それはいつも同じですけど、創世記の3章に戻ることではないかと思います。
そもそも神さまは、私たち人を1章の26節にありますように、格別の思いを込めてお造りになりました。

創世記1:26
26そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

このように神は、人をご自身のかたちに創造されたと書かれています。
神さまが、神さまのかたちに人を造ってくださったということは、僕たちのこういうかたちを、神さまがもっておられるということを意味するんではないことは明らかであります。
それは言い換えると、格別の愛を込めて人を造ってくださった、特別の思いを込めて人を造ってくださった。それは神さまのかたちにと、もうそれ以上の表現がないほどの特別の存在として、私たち一人一人を造ってくださった
ということを、意味しているのであろうと思います。これ以上ない、最高品種のぶどうを植えてくださったということでしょう。
植えてくださった場所は、神さまがやっぱり祝福のうちにお造りになったときでした。でもその特別のぶどうは、3章の4節で、蛇に耳を傾けました。

創世記3:4-6、8
4そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
8そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

蛇は女にささやきました。「あの木の実を食べてごらんなさい。そうしたら、あなたがたは神さまのようになれます。」、その蛇のささやきを受けると、女の心は動き始めたんです。
それまでは何でもない一本の木としてしか見ていなかった。そりゃ、食べてはいけないと言われてちゃ木の実としてしか見ていなかった木の実が、突然キラキラ、キラキラ輝く素晴らしい木の実のように見え始めました。そして、もうどうすることもできない気持ちが、気持ちより先に、むしろ手が伸びたんだろうと思います。
そして、「神さまのようになれる!」というその思いの中で、木の実を食べただけではなくって、いっしょにいた夫にも与えたと書かれています。

その結果は、ふたりは神さまの御顔を避けて園の木の間に身を隠してしまうことでした。神さまのようになれるはずでしたけど、本当は神さまの御顔を恐ろしくて見られないようなものになってしまった、と書かれてあります。
最良のぶどうが、酸っぱいぶどうになったということの雛形がここにあったわけです。
このアダムとエバがいたときを考えてみますと、この地上にはふたりしかいません。人間は、たったふたりしかいませんでした。
彼女と彼にとって、一番近い身近なところにいる、おいでになる方は神さまでした。そして、彼らは神さまと言葉を交わしましたから、神さまのようになりたいと思ったというのは、書かれている通りです。

八月に、ちょっと体調を崩しまして寝てたんですけど、寝ながら一冊の本を読んでおりました。グリム兄弟の童話なんです。そしたらその中に、こんな話があったんです。とても印象的な話ですから、ちょっと紹介させていただきたいと思います。

海のところに...、西条の町みたいな海かも知れませんけど、海のところに、魚釣りをする漁師が住んでたんです。そしてその漁師の前の海は、とってもきれいな澄み切った海で、本当にもう何とも言えないほど素晴らしい場所だったんですけど、生活は貧しかったんです。奥さんと二人で、あばら家で暮らしていました。
ある日、いつものように漁師が魚を釣り上げますと、一匹の鰈が獲れたんです。ところが、その鰈がものを言うんです。「漁師さん、漁師さん、私は本当は、王さまの子なんだけど、魔法をかけられて、こんな魚のかたちをしてるんだ。私を食べてもおいしくないんだから、放してくれ。」って言ったんです。
で、漁師はかわいそうに思って、「そりゃそうだな。」と思ったんでしょうね、だいたいものを言う魚なんていませんから。
彼はそれを放してやりました。きっとその後気持ちがよかったと思います。そして家に帰ってその話を奥さんにしますと、奥さんが「何てバカなことをあなたはしたんだ。」って言うんです。「何か願いごとしたら、きっとその魚は叶えてくれたのに。」って言われました。

「私はこんなあばら家に住むのは、もう飽き飽きしたから、もっときれいな家を、行ってもらって来なさい。」って言うんですよ。それから、仕方がないからそのところに行って、「魚さん、魚さん、」と言うと魚が出てくる。

うちの家内がこう言うんで、あの家内は私にはもうどうすることもできないので何とかしてください。」って言ったら、「帰ってごらんなさい。そうすると奥さんはきれいな家にいます。」
で、彼が帰ってみると、本当にきれいな家にいるんです。これはありがたいって最初は二人はそう言うんです。何日か経ってみますと、奥さんはまた何か言い始めたんです。
「この家じゃ野菜も作れないし、家畜も飼えないし、もっと大きな家をもらって来なさい。」って言うんですよ。
それからまた行って、同じことを言ったら大きな家が与えられた。でも奥さん満足できないんですね。

しばらくはいいんですけど、「今度は王さまになりたい。王さまになりたい。」、で、その次は「皇帝になりたい。」って言うんです。
ようするに、「諸侯から皇帝になりたい。」って言うんですね。「そうそう、皇帝になりたい。」、そしたらその次はね、「ローマ法王になりたい。」って言うんですよ。
段々段々その次の思いつくまでの時間が早まっていくんです。最初はもう、感謝してる時間が長かったんですけど、段々段々短くなっていって、ローマ法王になった途端に今度は、何をもらおうかなって考え始めて、「神さまのようになりたい。」って言ったんです。
で、彼は行ってそのこと言ったら、魚は前と、いつもと同じように、「帰ってごらんなさい。元のとおりの家にいます。」って言うんです。帰ってみると、最初のあばら家になってたんです。

そしてもうひとつ、この話にはありまして、それは海の状況がいつも書いてあるんです。最初はきれいなきれいな
西条の海みたいなところなんですけど、その次は「家がほしい。」って言った時は、海がちょっと色がついてたんです。その次行くと、「大きな家がほしい。」と言ったときは、海から泡が立ってたんです。
その次行ったときは、そこから臭い匂いが噴き出していた。で、その次行ったときはカビが生えてて、最後に奥さんが、もうローマ法王になったら途端に神さまになりたいと彼をたたき出すようにして行かすんですけど、そのときにもう家を出るときから嵐だったんですね。
海はこんなに荒れまくるなかで、彼は魚に頼んだというそれだけの話なんです。

いったいこの話は何を意味してるのかなと、読みながら思ったんです。そしてここからは、僕が思うことですから、間違ってるかもしれませんけど、その奥さんというのは、実は彼の心そのものなんじゃないかなと思うんです。

最初は、魚が言うことを聞いて魚を放してやって、でも、「あっ。惜しいことをした。」と、彼は思い始めた。なぜ童話の中で、奥さんが欲しいと言ったことになっているかというのは、自分の心というものは、別の人格であるほど、実は制御しにくいものだ、だけどそれは奥さんのように、いつも二人で一体であると同じように、心の中から切り離せないものだ。
制御しづらいけど、同時に切り離してもならないものだという、そういうことをグリムの童話は言ってるんだろうと思うんです。

そしてもう一つ、海の色は結局、彼の平安を意味してるんじゃないかなと思うんです。本当は、最初はきれいな心の漁師だったのが、少しづつ少しづつ物をもらうにつれて、彼の心は臭くなり、やがて嵐のようになっていった。
本当は、物ができればできるほど、何の平安もなくなっていったということを表わしているんじゃないかなと思います。
結局ちょっとしたことから、私たちはもっともっとという思いにとらえられていく。エバは、すぐに神さままでいきましたけど、このグリムの話が言ってることは、本当にそうだろうなと思うんです。
もっともっと、もっともっとという思いがやがて、僕たちを、本当のところは心の平安という状態で、そして本当のところは、人間も神さまのようになりたいと思ったときに破滅に導いたということではないかと思います。

ルカの福音書の22章を見てみますと、イエス様といっしょにいたお弟子たちが、イエス様といっしょにいて、どういう心を持っていたのかということがありありと示されています。すごいことが、書かれてるんです。

ルカの福音書22:21-24
21しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
22人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」
23そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。
24また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。

イエス様は、わたしはこれから捕まえられますと、みんなに仰っているんです。その中で、お弟子たちの間で起こった話は、それはだれだろうということだったんです。あいつじゃないか。俺じゃない。でも、あいつかもしれんという、そういうところから彼らは話を始めました。そして、だれが一番偉いだろうというところに進んでいったんです。
人との比較の、他人との比較の中で、自分の値打ちをはかろうとする。いやむしろ、いつもいつも彼らは、本当は心の中でお互い同士、あいつはどうなんだろう、これはどうなんだろう、俺はどうなんだろうという思いを、それだけ考えてたわけじゃないと思うんですけど、そういう気持ちがいつも捨てられなかったということが、この一番大切なときになって、吹き出していることではないかと思います。

ルカの福音書22:33
33シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

この後で、ペテロがどうしたかということは聖書に書かれています。でもここで言っているシモンは、いやペテロは、後で彼がしたこととは全く違って、大変元気のいいことを言っています。そして、この元気のいいことを言っているペテロは、当然のこととして、23節、24節で、だれなんだろう、だれが一番偉いんだろうという議論をしていたんです。その中に加わっていたんです。
とすると、ここで言ってるこの言葉も、「イエス様、私だけは違うんです。」、というふうに、そういう気持ちで彼が言っていなかったとは、絶対に言えないんですね。
その気持ちが、大きかったか小さかったかはわかりませんけど、ほかの者はどうあろうと私だけは、という思いが
この言葉の中にはいっているのではないかと思います。

最良のぶどうが酸っぱいぶどうの実を結ぶ、いや、酸っぱい実のぶどうを結ぶということは、実は一人一人の本当にちょっとしたところから、いつもスタートするのだろうと思います。
先ほどのグリムの話がそうですけど、最初は魚を放してやって大喜びだったろうと思うんですけど、でも何か損をしたなというようなところから、もっともっとという気持ちになっていった。
その、イエス様のお弟子たちも、本当にイエス様とともにいいるそのことの喜びの大きさに比べて、お互い同士を比べるなんて、本当はちっぽけなことなんですけど、そのちっぽけなことを思い始めると、「だれが?だれがやったんだろう。やるんだろう。」と思っただけで、その次は、じゃ、「だれが一番偉いんだろう。」というところに
スッと話が飛んでるんですね。
そして、「主よ。私は覚悟ができております。牢であろうとも、死であろうとも。」というところまで話が進んでいきます。

人間の心の動きというものが、とてもよく出ているのではないかと思います。そしてこのことは、創世記であの話があり、そしてこのところで、イエス様の、本当のイエス様の祈りの中で選ばれた、本当に限られた選りすぐりの、と言ってもいいお弟子さんたちもそうであったとしたら、それはいうまでもなく、ここで書かれてるのは本当はペテロであると同時に、僕のことなんですね。
やっぱりそうだったもんです。僕もやっぱりそういうもんでしかないと思うんです。そして、それはやっぱりコリントの兄弟たちの一人一人も、やっぱりそんな者でしかなかったということを、聖書は正直に書いています。

やっぱり僕は、聖書ってのはすごい本だなと思うんです。人間が頭の中で考えて作り上げたものなら、こんな話は絶対に載せないです。お弟子たちは偉かった!という話だけ。
何か、本当に人間並みの、普通の人ではできないようなことをしたって話しか、きっと書かなかったと思うんですけど、本当に。
そして、そのコリントの教会へ向けて、パウロの勧めは「聖霊の宮であるということを忘れないで。」、ということでありました。

コリント人への手紙第Iの6章の19節から20節です。1章から6章までずっと、実はパウロはコリントの教会の現状を
赤裸々に書いてきました。それは高ぶるだとか、誇るだとかっていうことでしか表わせないほどの、寂しい状態でしたけど、でもあなたがたは聖霊の宮なんですっていうことを6章の19節、20節で書いています。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

あなたがたが、どれほどまだ肉に属するとしか思えなくても、でも本当は聖霊の宮なんです。あなたがたのために、イエス様はご自身のいのちで代価を払ってくださいました。あなたを愛するがゆえに、主は喜んで十字架にかかって、そしてあなたを聖霊の宮としてくださったのです。と、そのことを忘れないで

(テープ A面 → B面)

・・・逃げないとすぐにささやく。本当に僕たちは、やっぱりそういう者なんですよね。どこまでいってもそういう者でしかない。
だから、聖霊の宮であることを知らないのですかと、パウロが語っているのではないかと思います。

聖霊の御心って、一体何なのかなと思うんですけど、聖霊の御心って一言で言えば何でしょうか?
僕はこれじゃないかなと思うんです。それはマタイの福音書の20章の26節から28節だと思います。

マタイの福音書20:26-28
26あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。先に立ちたいと思う者はしもべになりなさい。わたしも仕えられるためではなくて、仕えるために自分のいのちを与えるために来たのですと、主がお語りになった。
聖霊の御心はこれだろうと思うんです。そしてこれは、人間には実はできないんです。人間は、偉くなりたいと思う者は偉そうにしたいんです。やっぱり。そして人の先に立ちたいと思う者は、やっぱりしもべにはなれないんです。
だから、この心のうちに聖霊が住んでくださることによって、内から変えられて、新しいいのちを受けて、仕えられる者、しもべになれるんだということを、イエス様は復活によって明らかに成し遂げてくださったのではないかと思います。

コリント人への手紙第Iの、全体を通してのパウロの勧めの要点は、最初にお読みいただきました、14章の1節の
「愛を追い求めなさい。」に尽きるのではないかと思います。
じゃあ、愛とは何かっていうことです。
あの、争いがあり、ねたみがあり、思い上がっているとしか言えないようなコリントの教会が、本当に聖霊の宮として、新しいいのちの中に生きるためには、何が必要かっていうことをパウロは、「愛を追い求めなさい。」という形でここに記しています。

愛とは何でしょうか。コリント人への手紙第Iの13章の4節から7節が、それを明らかにしてくれているのではないかと思います。

コリント人への手紙第I、13:4-7
4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
6不正を喜ばずに真理を喜びます。
7すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛を追い求めるって言ったときに、その愛は、僕たちは何かをすることだと、小さな頃から教え込まれてるんじゃないかなと思うんです。
愛のある人になりなさいって言ったら、いかにも、本当に人にはできないことをやる、そういう者のように小さい頃から教えられてるもんですけど、聖書がいう愛は全部と言っていいくらい否定形なんです。
「しない」っていうかたちでしか愛は表わせないということを、ここに示しています。
「愛は寛容であり、愛は親切です。」、そこまでは確かにそうなんです。その次からは、「人をねたみません。」、「自慢しません。」、「高慢になりません。」、「礼儀に反することをしません。」、「自分の利益を求めません。」、「怒りません。」、「人のした悪を思いません。」、「不正を喜びません。」というふうに、「すべてをがまんします。」というふうになっています。

いうまでもなく、この愛の姿は、イエス様の中に完全な姿として私たちは見るのではないでしょうか。本当に、主なる神ご自身が、卑しい人間の形をとってこの世に来てくださって、父なる神の御心のままに従って、十字架の上にまでかかって死んでくださった。
それによって私たち一人一人を、すべての罪を赦してくださったという、そこにおいてこの愛は私たちが目に見える形で示された。
同時に、その愛は聖霊の宮である私たちの内に、実は住んでくださっている。

私たちが、私たちの内に住んでくださっている、イエス様の御霊に耳を傾けるとき、私たちは愛を追い求める者として、同時に聖霊の宮として、本当に喜びのうちに御心にかなう者と変えられていくのだ、ということではないかと思います。
代罪(?)してくださるイエス・キリストに、そのご支配に自分を明け渡すとき、私たちは本当に、一度は酸っぱい実しかつけられなかった者でも、イエス様のいのちから伸びた枝に大きな甘い実がつく、そのことを私たちは感謝のうちに確信をもって待ち望むことができるのではないかと思います。
同時に、あのグリムの話にありましたように、本当に高ぶりは最初は小さい、本当は小さいんですけど、でもそれは他人の人格と同じくらいに抑え難いものだ。そして巨大になるんだということを、やっぱり忘れてはならないと思うんです。
いつもいつもそういう者だからこそ、いつもいつも聖書に導かれて、祈りの生活をしたいと思います。

同時に、交わりの中に居続けることが大事なんじゃないかなと思います。やっぱり、交わりの中に出るのが面倒臭いこともありますし、億劫なこともありますし、本当に、「今日は家で寝ていたいな。」、と思うこともしょっちゅうなんですけど、そして耳の痛いことを聞くことも、私なんか、家の中の交わりでもしょっちゅうなんですけど、実はその耳の痛いことこそ本当は大切なことなんだということを、やっぱり知らせられます。
交わりの中に、本当に耳が痛くても、腰が痛くても、交わりの中に居続けることだけが、私たちのいのちが生き生きと新しいいのちに結びついている、そういう状況を導いてくれるのじゃないかなと思うんです。

この間仕事で北海道へ行ったんですけど、旭川で飛行機に乗ろうと思ったんですが、飛行機が混んでまして、夕方の四時位まで乗れなかったんです。それで仕方がないから、仕方がないからと言うといけないんですけど、三浦綾子さんの記念館があるもんですから、本当はもっと行きたいとこあったんですけども、そこへ行く時間も無かったんで、三浦綾子さんのところへ行ったら、一つか二つ、とっても印象的な言葉があったんです。
一つは、「自分は罪がないと思っていることこそ、最大の罪ではないか。」ということを、三浦綾子さんの言葉として書いてありました。
言い換えると、「私は正しいと思ってることこそ、最大の罪ではないか。」ということ。それはそうだろう。
もう一つ面白かったんです。それは、「慣れるっていうことは、恐ろしいことだ。」って彼女が言うんです。慣れると、感謝すべきことでも不満の種になるって言うんです。

それには彼女自身の体験がありまして、三浦綾子さんって人は、長く病気で入院されてたんですね。そうすると、色んな人が次々とお見舞いに来られる。
お見舞いっていうと、だいたい何か持って行きますよね。何か持って行かない人は、お金を包んで置いて行ってくれるそうなんです。
あるとき、何度も来てくれてる人が、いつも何か持って来てくれてたんですけど、何にも持たずに、何にも置かずに帰ったっていうんです。そのときに、何かやっぱり、「あれ?」と思ったらしいんですね。
そして彼女は、そのことを思った。慣れるっていうのは恐ろしいことだ。慣れてしまうと感謝、本当は来てくださったこと自体が感謝なんだけど、なんかそこに不満の一つが生じたということを書いておりました。

みことばもそうじゃないかなと思うんです。やっぱり慣れてしまうと、スーッと、確かに読む速度は速くなりますけど、それだけ心に響かなくなる。
その窮めつけはパリサイ人だったんじゃないかなと思うんです。彼らは聖書を読んで知ってた。そして聖書に書いてある通りの戒めを守ろうとしてた。でもそれは、生きた神さまのみことばとしてじゃなかったんですね。
だから、イエス様が来られて、本当に、「あなたの右の手が悪いことをするんなら切って捨てなさい。右の目が悪いことをするんなら、目を投げ捨てなさい。」、「貧しい者は幸せだ。神の国はそのような人のものだ。」と仰ったとき、たぶんその言葉はイエス様の言葉ですから、静かだったと思いますけど、本当に暗やみに光る稲光のように、そのみことばは響いたんじゃないかなと思います。
暗やみを引き裂く光のように、そのみことばは、心ある人の心を打ったのではないかと思います。

私たちも、慣れるっていうことは恐ろしい。あのグリム童話の漁師も、慣れちゃったんですね、やっぱり。何かをもらうってことに。
ある意味でそういう話だろうと思いますけども、やっぱり本当に良いぶどうが酸っぱいぶどうになったと、イエス様が嘆かれることのないように、せっかく、良いぶどうとして植えていただいたんですから、甘い大きな実を、内に住んでくださる御霊によって結んでいただけるように、そういう生活を送りたいと思います。
どうもありがとうございます。




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