引用聖句:ローマ人への手紙10章10節
今、集会からは「主は生きておられる」というタイトルの雑誌が出ています。主は生きておられるということは、言うまでもなくダビデの証であります。 詩篇18:46
と、ダビデが証を致しております。 心で信じ、口で告白して救われるのだ、と言う時私たちはやっぱりこのダビデの証、あるいは告白の力強さと、そしてもうこれ以上ないほど完全な、短いですけど、本当に完全な証として、私たちはこの未言葉を頂くことが出来るのではないかと思います。 ダビデについてはよくご存知でしょうけど、やっぱりダビデの信仰はいつもいつも、私たちにとって一つのとっても大切な、何ていうんでしょう・・・基盤のようなものを教えてくれるのではないかと思います。 今日はダビデの信仰を見てみたいと思います。詩篇57篇のところにはこう書かれています。 「指揮者のために。『滅ぼすな。』の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに」と書かれています。 サウルは言うまでもなくユダヤの王様でしたから、ダビデはその王様から逃れて洞窟に逃げこんでいた、ということがこのことからわかります。どうして王から追われるようになったのかということは、サムエル記に詳しく書かれていますけど、要するにダビデが人間的にはとっても魅力ある、素晴らしい人で、しかも戦いに出て行くと誰も考えられないような成果をあげて、戦果をあげて帰って来る。本当に勇士の中の勇士だったのではないかと思います。 だからサウルは、あまりにダビデが素晴らしい男で、人々がみんな「ダビデ、ダビデ、ダビデ、ダビデ」と言うのに、まあ、ヤキモチを妬いてというか、やっかんでというか、そういう気持ちになって、これは生かしておくと必ずサウル王家に災いが起こる、と思ったんではないかと思います。 それでダビデを殺すようにサウルが命じました。そのサウルから逃れて、ダビデは洞窟にいた時、とありますから、考えてみると居場所がない!という、そういう言葉で言えるのではないでしょうか。 王から追われるということは、その国の中に居場所がない、そういう状況の中でダビデは7節、8節に信仰の告白致しております。 詩篇57:7-8
現実を見ると、そりゃもう家庭でも国でも、ダビデの場合は国の中に居場所がなかったんですけど、私たちの場合は、職場だとか、家庭の中に居場所がない、ということがよくあるわけですけど、本当にもう居場所がないんです。 そして、「たましいよ。目をさませ。」って言ってますからもう、たましいも本当に元気を失って、もう、グシャーっとしてるんですね。そういう状況の中ででも、「私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。」 神さまに信頼をして、生きて行きたい!!という、むしろ叫びなのではないでしょう。 現実を見ると本当にもう、心が萎えてしまう。もう立ち上がる勇気もない。もう見えるもの見えるものすべて、本当に力を失わせるものしかない。そういう状況の中で、神さまに「私の心はゆるぎません。」とあえてダビデは力を振り絞って、証をしてるのだ。祈っているのだ。と思います。 信仰ってのはこういうものじゃないかなあ、と思うんです。 満ち溢れる豊かな幸せの中で、そういう信仰なんてものは本当はあってもなくてもいいもの。こういう状況の中だからこそ、振り絞って、力を振り絞って、己がたましいを呼びさます思いをもって祈る時、このときにいただく平安と、そして希望。それこそ本当の救いの喜びなのではないかと思います。 「私は暁を呼びさましたい。」現実に洞窟の中は真っ暗です。懐中電灯なんか持っていなかった。本当に真っ暗だったと思うんです。 あかりを灯すと外から見つかる。だから本当にそういう中で、「暁を呼びさましたい。」というこのダビデの言葉の中に全てが、ダビデの置かれている状況の全てが表されているような気が致します。 もう一つ、詩篇59篇、やっぱり同じような状況なんです。 「指揮者のために。『滅ぼすな。』の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデを殺そうと、サウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに」と書かれています。同じような状況であります。 詩篇59:1-4
敵は何も目に見えるものだけではないと思います。目に見える敵よりも、目に見えない敵の方が本当はずーっと恐ろしいし、私たちは心が休まる時がない。 本当にどうしてなんだろう?どうしてなんだろう?って考えても、たぶん答は出て来ないんだと思うんです。 ダビデも「私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。私には、咎がないのに。」と言っているところに、やっぱり、どうしてなんだろう?どうしてなんだろう?と、自問自答している、ダビデの心が表せているように思います。 何一つ思いあたることはないのに何故?と、そういう中で彼はただ神さまに祈るしかなかったっていうことを知らされます。 本当にダビデは、ダビデの信仰というものは、ぬくぬくとした生活の中から培われたものではなくて、本当に苦しみと悩みの中から生まれたものだ、育まれたものだ、と知らせられるように思います。 もう一つ、詩篇64篇のこれも同じような状況の中での祈りですけど、 詩篇64:5-6
人の心、内側は深い。語っていますけど、言うまでもなく温かくて深いんじゃないんです。まったく深い淵のように、光がまったく届かない闇の世界のように、人の心と内側は深い。本当にただそういう中で神さまだけにしかすがるものはない、というダビデの祈りがここに表れています。 人の内側のものと心とは深いものです。でもやがてダビデは、その言葉があるいは、そのことがやがてそのまま自分に当てはまることを知らせられたのではなかったのでしょうか。 王になくて、全てが自分の思い通りになると思ったときに、ダビデはそんな言葉では表せないほど、自分の心の内の暗闇を決定的に神さまに知らせられることになりました。 サムエル記第II、11:2-3
飛びまして、14節、 サムエル記第II、11:14-15、23-24
ダビデの家来たちが戦争に出ていたときの出来事であります。 王であるダビデは王宮に留まっていました。でもその王宮の屋上から一人の美しい女を見つけ、それがウリヤの妻、バテ・シェバだと聞いた時、ダビデはよりによってその夫ウリヤに手紙を持って帰らせた、戦場まで帰らせたと14節に書かれています。 「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」何と、その本人に持たせてるんです。 何かのきっかけで彼が途中でそのことを知ったら、どんな気になったかと思うんです。本当にもうそこには何一つ恐れることがなくなった人間のおごりと、いや、高ぶりと、もうこれ以上ないほど本当に無様な人間の姿が、その手紙の中に示されています。 そしてダビデの計画通り、ウリヤは激戦の中で死に、そしてダビデは自分と将軍であるヨアブ以外には、誰も知らないと思う安心の中でバテ・シェバを自分の妻に致しました。 サムエル記第II、11:27
サムエル記第II、12:1
サムエル記第II、12:9-10
自分と将軍ヨアブ以外には誰も知らないと、ダビデはタカを括ってましたけど、ダビデの行なったことは主の御心をそこなったと書かれています。 主なる神は全てをつぶさにご存知であった、ということが分かります。それどころか神さまの目には、ダビデの心の中までも明らかであったということが9節、10節に書かれています。 表面的にはウリヤは激戦の中で死にましたけど、神さまの目からは「あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、」と書かれています。「あなたがアモン人の剣で切り殺したのだ。」という神さまのみことばこそ、ダビデの心の暗闇の奥底まで指し示す光であったと知られされます。 ダビデの過ちはちょっとした過ちではなかった。それは本当に考えの出来ないほどの深ーい企みであったっていうことは、あの手紙を見れば言うまでもないことですけど、神さまはそれを「あなたは主のことばをさげすみ、あなたがわたしをさげすんだ。」とダビデにお語りになっています。 聖書全巻を通してこれほど厳しい神さまのお言葉は、ちょっと見つからないと思います。 あなたがしたことはウリヤにしたことだけではない、それはわたしにしたことなんだと神さまがお語りになっています。 人の心の内側は深いものです、とダビデは若い日に神さまの前に祈りましたけど、やがて自分自身がそうであることを知るようになってしまいました。本当に人間の心は分からないものだ、ということを主は示されます。 もう一人、「あなたはキリストです。」と告白した人を挙げるとすれば、言うまでもなくペテロではなかったでしょうか。 マタイの福音書16:15-16
このペテロの告白が、イエス様をキリストだと告白した最初の告白だったように思います。ペテロが弟子たちの中で、もう代表してっていう感じで「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と。このときのペテロの何か、息づかいまで聞こえてくるような感じが致します。 マタイの福音書26章31節、でもそれからそんなに時間が経たないうちの出来事だろうと思います。 マタイの福音書26:31-35
マタイの福音書26:69-75
聖書ってのは本当にすごい本だなあと思います。ユダヤの人たちが王の中の王と思って、誇りにしていたダビデの本当の有り様を赤裸々に記しているだけではなくて、初代教会の人たちが誰よりも信頼し、また初代教会の人たちの指導者であったペテロのぶざまな姿をそのままに書き記しています。 本当にそうだなあ、だからこそ聖書は信頼ができる神の言葉だ、ということを私たちは知らせられるように思います。でもダビデといい、ペテロといいあまりにも弱く、愚かな人間の現実の姿を見る時、私たち、あの最初にお読み頂きましたローマ人への手紙10章10節の言葉、「人は信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」、というみことばをどのように受け止めたらいいのかなあ、と思い惑ってしまう気が致します。 でももちろん、人間の姿がどうあろうともみことばこそが真実なのではないでしょうか。だからこそ、ペテロは自分の姿を知っているがゆえに、彼は救いはあわれみでしかなかったと、語っています。ペテロの手紙第Iの2章10節です。 彼は、私は最初にイエス様に向かって、あなたはキリストだと告白したから、だから私は救われたとは絶対に言えなかったんです。 彼が言ったことは、2章10節 ペテロの手紙第I、2:10
もちろんこの手紙は兄弟たちに宛てた手紙ですけど、そしてあなたがたは、とペテロは言ってますけど、実はわたしはと言ってるのと本当は同じなんですね。 ペテロにとって、あなたがたと私の間には何の分け隔てもなかった。私は以前は神の民ではなかったのに今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに今はあわれみを受けた者です、と言っているのと、実はまったく同じであります。 ペテロの信仰告白について、もう一箇所だけ見てみたいと思います。 ペテロの手紙第I、1:18-19
傷もなく、汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によって贖い出された。銀や金のような、そういうお金を使って買い出されたのではなくて、実はキリストの血によって贖い出された、と書かれています。 この「銀や金のような」、というのは二通りの意味があるんではないかと思うんです。そういうお金で勘定出来るようなものではない、もう比較にならないほど尊いものだ、という見方が一つ。 もう一つはアルミニウムや紙や銅貨ではなくて銀や金だって言ってることは、今度そうじゃなくて、あなた方が尊いから買い出されたのではないということと言ってる。まあ、そういう二つの意味がとれるように思います。 そして私たちは頭の中では、これはそんなお金のような、人間が判断する価値ではなくてキリストの尊い血によった、と頭の中は考えるんですけど、心の中はそうじゃないんです。 実は私たちはすぐに、自分が立派な人だから贖い出されたんだと、本当思ってしまいがちなのではないかと思うんです。 イエス様が弟子たちに、いつも私たちにお語りになったことはそのことでした。私の見る目はあなたがたの見る目と違う。あなたがたは価値はあるとか、立派だとか、素晴らしいとかっていうことに価値をおくけど、私はそうじゃないんだ。いつもお語りにならざるを得なかったんです。 すぐに私たちは暇があると、私たちのうちで誰が一番偉いんだろう、などと言い合うような存在でしかなかったからではないかと思います。 まあ僕は果物が好きで、時々自発的に買い物を名乗り出て、買い物に行くんですけど、スーパーマーケットへ行くと立派な果物が並んでます。本当に立派な果物が並んでます。 ヨーロッパやアメリカから来る人が、みんな言いますね。「日本の果物は素晴らしい。大きくて、立派だ。」って。でも一言必ず付け加えます。「高い!」 本当にそうだと思います。でも町の八百屋さんへ行くと、ちょっと違う果物がやっぱりあります。7つ、8つ袋に入って、ずっと安い値段でありますけど、やっぱりみんな小さい。そして人間は大きくて、立派なのは、高い。小さくて、それほどじゃないのは安いって言ってます。味はほとんど変わらなくてもそういう風にちょっとした違いで値をつけていきます。 イエス様だったらどう仰るかなあと思うんです。イエス様だったらたぶん、大きくても、小さくても一つの花が咲いて、ある期間育ってなった果物でしょう、とたぶん仰ると思うんです。 本当にその実がもし小さくても、その実が小さいのはその実のせいじゃないでしょう。たぶん一つの枝にたくさん実がなったからか、あるいは、親木が年を取って大きな実をつけることが出来なくなったのか。 先週高知でお聞きしたんですけど、ヤマモモはそうじゃない、と仰るんですね。若いときは小さな実しかつかなくて、だんだん大きくなっていくってお聞きしましたけど、そうだとしたら、いずれにしてもやっぱりそれは実のせいじゃないんです。 でも人間はすぐにそれは実のせいだ、と考えてしまいます。 一合の升の中に入ってる小豆は、人間の目から見たらみんな同じ色をして、同じ大きさにしか見えませんけど、もしかしたらあの升の中で小豆粒同士が言い合ってるかもしれない。 「お前はダメだな。ちょっと薄いな。」とか、「お前はちょっとあそこがへこんでる」だとか。 たぶん神さまの目からご覧になったら、どんなに出来る素晴らしい人間だと思っても、あのダビデだったと思うと、そしてどれほど素晴らしい信仰の勇者だと思っても、あのペテロだったと思うとき、私たちは本当に、何が出来るからとか、どうだからではなくて、ただ、あわれみのゆえに救われたのだ、というこのペテロの言葉に、告白に、本当にひれ伏す思いが致します。 ペテロの手紙第I、2:22-24
本当に自分から十字架の上に架かってくださって、私たちの罪をその身に負ってくださったキリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 詩篇51篇、「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」と書かれています。」 あなたは私をさげすんだ、と神さまからみことばを頂いた時のダビデの祈りでございます。 詩篇51:1-4
詩篇51:14
ダビデはもちろん、自分が何をしたかは知ってたんです。でもほっかむりできると思っていました。その心を神さまがご存知であった、ということを知った時に、あなたに罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないましたとしか、ダビデは言えませんでした。 でもこの悔い改めを神さまは、ま、喜ばれてではなかったんでしょうけど、「よし。」、としてくださったのだと私たちは知らされます。 列王記第I、9章。ずっと後の日になってですけど、ダビデが死んでその子ソロモンが王になった後で、神さまからソロモンに賜ったみことばが、列王記第Iにあります。 列王記第I、9:4
というふうに仰っています。 ダビデは全き心と正しさをもってわたしの前に歩んだ。神さまが仰ってます。言うまでもなく、わたしはあのダビデをそういう者として取り扱うんだ、と神さまが宣言をなさってる、と私たちは知らされます。 ダビデは全き心と正しさをもって歩み続けたわけじゃなかったんですけど、でも悔い改めて立ち返ったから、わたしは彼が全き心と正しさをもって生涯を歩み続けた者として取り扱おう。そういうものとして、わたしは彼を救いの中に置こう、と神さまが宣言してくださっているみことばだと私たちは知らされます。 同時にペテロに対しても、そして私たちに対しても、たとえあなたがどうあったとしてもわたしはあなたを罪のない者として扱おう、と宣言してくださってる。それが十字架の死であった、と知らせされるのではないでしょうか。 神さまは本当に、もしご自身が十字架の上で死んでくださることがなければ、私たちを罪のない者として扱われるわけにはいかなかった。でもイエス様が私たちの身代わりになって、全部の罪を片付けてくださったからこそ、もうあなたは罪のない者として扱うのだ、と仰ってくださっています。 ペテロの手紙第I、3章20節。ペテロはそのことをよく知ってたんです。自分が救われたのは、ただ贖いによるのです。あの、恵みに、あわれみによるのですと言いましたけど、3章21節に彼はこう語っています。 ペテロの手紙第I、3:21
「バプテスマは」、と書いてますけど、「信仰の告白は」と言ってもいいのではないでしょうか。 信仰の告白は肉体の、つまりそれまでの私たちが行なってきた罪を、全くなくしてしまうものではない。ないものとして扱う、そういうものなんだと言ってくださってます。 ヨハネの福音書6:63
本当にあわれみ以外にはないのだ、ということを私たちは知らされます。 ただいただく御霊によって、いただくいのちによって、私たちは永遠のいのちの中にすでに生かされてるし、そしていつの日かこの世を去った後、つぶさにそのことを私たちは経験することが出来るのだ、と主は約束してくださっています。 本当にそのことを、私たちは感謝のうちに心に留めて歩みたいと思います。どうもありがとうございました。 |