神はどんなことでもできる


古田公人兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:ルカの福音書19章1節-10節
1それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
2ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
3彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
4それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
5イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
6ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
7これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
8ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
9イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

マタイの福音書19:24-26
24まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
25弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

金持ちが神の国へはいるのは大変難しいと、イエス様が仰せになりました。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっと易しいんだと、仰ったのであります。
ぼくたちは、金持ちなどと思いませんから他人事のように読めるんですけども、しかし金持ちなどというものは相対的なものであります。日本の国じゃ金持ちだと思わなくても、どこかの国へ行ったら大変なお金持ちだと思われます。
ですから結局これは、人はだれ一人神の国にはいることはない、らくだが私たちが救われるくらいだったら、らくだが針の穴を通る方がずっと易しいんだと、イエス様が仰せになったのであります。弟子たちはみんなびっくりしてしまいました。

それではだれが救われるんでしょうか。人にはできないけど神にはできる。イエス様は、自分の力で神の国へはいろうと思ったときはだれ一人はいることはできないけど、神様はそれをお赦しになるんだ。神様が手を差し伸べてくださったとき、らくだが易々と針の穴を通り抜けるように、だれであっても針の穴を通りぬけて天の国へと、神の国へと招き入れていただけるんだということをお話になったのだと思います。
神様にはどんなこともできると、イエス様がお語りになりましたけれども、じゃあ神様はどんなことをなさるんだろうと、やっぱり知りたくなります。その例を、今日はザアカイの救いからご一緒に学んでみたいと思うのであります。

神様がなさること、どんなことでもできるってイエス様が仰いましたけど、それじゃあどんなことをしなさるんですかっていったら、やっぱり一言で言えば、「あわれみ」ではないでしょうか。
本当に神様がもうどんなことでもなさるんですけど、その中で私たちにとってやっぱり一番大きなみわざは、あわれみをくださるということであります。お読みいただきましたように、ルカの福音書の19章の1節から10節は、短いですけどザアカイの話がのっています。
何度読んでも本当に読む度に新しい、神様からのメッセージをいただけるところだと思います。というのは、ザアカイは私そのものだからであります。たぶんどなたも、そうじゃないかなあと思います。ザアカイの特徴は、だれ一人心を許すことのできる人がいなかったという孤独であります。

ザアカイは本当に完全な孤独の中に住んでいたんだろうと思うんです。お金持ちだったと聖書が書いていますから、相対、さっきと言ったような相対的な話じゃなくて、本当にお金持ちだったんですけど、でもザアカイと親しく接する人はいませんでした。
イエス様がザアカイのところへ行って、「今日は泊まるから。」と仰ったときに、みんなが何と言ったかということを知ればそれで十分です。7節にあります。「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ザアカイがどんな目でみんなから見られていたかというのも、その一言で十分です。

もうちょっと前には、ザアカイが遅ればせながらイエス様を見に行こうと思って駆けて行ったときに、イエス様のところを人が取り巻いていて、イエス様をザアカイは背が低かったので見ることができなかったと書かれています。
知らないところから来た人じゃないんです。彼もエリコに住んでたんです。一人くらい「ザアカイさん、ザアカイさん。」と言ってもいいのに、だれ一人それをしなかったというところにも、ザアカイがどれほど孤独だったかということは、やっぱり明らかになるのであります。
そしてザアカイにとって、もう一つ人には言えない問題がありました。それは8節に言った言葉の中にあります。「だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」彼は、だまし取ったのであります。もちろん働いた分もあるでしょうけど、だまし取るなんてのはこれは人間の知恵だと、ザアカイは若いときそう思ってたでしょう。
ほかの奴らはできないけどぼくはできる。これこそぼくの才覚だと、ザアカイは若いとき思ってたに違いないんです。だから、そのことに生き甲斐を感じていたんですけど、いつ頃からか、ザアカイはそのことにこそ重荷を感じるようになってまいりました。若いときには誇りにしていたことが段々と重荷になっていき、今ではもうザアカイの心の中に、鉛の塊のように、そのことが居座ってしまっていたのだということを私たちは知るのであります。

イエス様はエリコにはいって町をお通りになったと、1節に書いてありますけど、単にこのエリコにお通りになったんじゃないんです。ザアカイがいちじく桑の木に登っているのをご覧になったときに、イエス様は上を見上げて、5節にありますけれども、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と、イエス様の方から声をかけられたんです。
エリコの人たちがだれ一人「ザアカイさん、ザアカイさん」と、声をかけてザアカイのために場所を空けることをしなかったのに、ですからだれ一人「あれはザアカイだよ。」と言ったはずがないんですけど、イエス様は「ザアカイ」と、ちゃんと名前をお呼びになって、その次です「もう今日はあなたのところに家に泊まることにしてあるから。」、イエス様はそのことをちゃんともう心の中に決めて、このエリコの町をおいでになったということをここでお語りになっているのであります。

イエス様は、たまたまエリコの町へおいでになったのではなくって、一番最後10節です「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と仰せになったとおりに、ザアカイの心をお知りになったイエス様は、ザアカイの心に手を伸ばすために、実はこのときエリコにおいでになったということを私たちは知るのであります。
ザアカイはもう本当に嬉しかったんだと思うんです。みんながイエス様のことを話題にしている。どうもイエス様という方は、今までいた方と違うらしいということをザアカイは耳にしていましたけど、どんなお方か見たかった。イエス様に会えば何かが起こるんじゃないかという気持ちをザアカイもってたんでしょう。色んな人の噂話の中から。
そしてイエス様のところへ駆けて行って、いちじく桑の木に登って見たときに、イエス様のほうから声をかけてくださったばかりか、だれ一人喜んで来なかったザアカイの家へ、「わたしはきょう、あなたのところへ行って泊まるんだよ。」と仰せになった。そのことを聞いたとき、ザアカイの胸はちょうど、火の中の栗がパチンっと爆ぜるようにザアカイの心の堅い殻はそこで爆ぜたのであります。
だからザアカイはイエス様に8節で、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。まただれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
彼は、心にかかっていた、心の底に本当に鉛の塊のようにあったその心の重荷を、イエス様の前に正直に出して、そしてそれだけじゃなくて、本当に言葉は短いですけど、からだ全体の悔い改めをイエス様の前に立って言ったと、書いています。

ザアカイは立って主に言った。8節に書いてるんです。これは単に椅子にかけながらつぶやいたんじゃないんです、決断を、彼の決意を表わしてます。立ち上がって、本当にイエス様の前に彼は、すべてをさらけ出したのであります。
ザアカイはこのとき、完全な救いをいただいたに違いありません。イエス様が「きょう、救いがこの家に来ました。」と仰せになったことは、そのことを表わしているのであります。

人にはできないけれど神にはできる。金持ちが神の国にはいることよりも、らくだが針の穴を通ることの方がもっと易しい。それほど天国へはいることは難しいと仰せになりましたけど、ザアカイは主のあわれみによって易々と神の国にはいったのであります。
人にはできないけれどというのは、別の意味でもまた事実だと思うんですね。罪人のところへ行って、客となることは人にはできませんけど、あわれみは、神様のあわれみはその罪と汚れの真っ只中へはいって来てくださる。そして永遠のいのちへと招いてくださる。本当に、人にはできないけれどというのは、二重の意味で、神様にはおできになるんだということではないでしょうか。
イエス様は聖書全巻が人となって現われられた方であります。

ヨハネの福音書1:14
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と書かれています。聖書全巻は、イエス様というおひとりの中に結晶したのではないでしょうか。イエス様というおひとりの中に、神様の救いのご計画が全部成就したということではないでしょうか。聖書はそういうものであります。
ですから、イエス様はお亡くなりになるときに、ヨハネの福音書19章ですけれども、

ヨハネの福音書19:28
28この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

ヨハネの福音書19:30
30イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

と書かれています。聖書はイエス様の十字架上での死と復活において完了した。救いのみわざは完了したということであります。
われわれは、ですから只ザアカイがしたように、本当に神様のあわれみを「ありがとうございます。」と、受け止めて、悔い改めて、イエス様をお迎えし、共に食事をする、そのことがどれほど大切なことかということを、私たちは知るのであります。
私たちが悔い改めて、イエス様をお迎えし、共に食事をするとき、聖書全巻がイエス様という形をとって、私たちのうちに住んでくださる、イエス様の救いが私のものとなるそういうことであります。

あわれみを受けるためには神様はどのようなことでも、見過ごしなさらないということを、今日はひとつ知りたいのであります。ザアカイの心の動きを、イエス様は全部ご存知であったように、私たちの弱いところ、また痛いところ、そうしたところにこそ神様は目を留められます。
なぜなら、強いところや誇りとするところは神様を必要としないからであります。神様は必要なら、私たちに苦しみと悩みをお与えになります。

詩篇71:20
20あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。

必要なら本当に苦しみと悩みとをお与えになります。でもだいたいにおいて、私たちが苦しみと悩みに落ち込むのは、私たちの罪と愚かさのゆえであります。
神様は、ちょうど私たちが道を歩いているときに、そこに大きな落とし穴が掘ってあった。そういうところは私たちが歩いている状態をご覧になるときに、神様は「あっ。そこに落とし穴があるよ。」と語りかけてくださいますし、「そっちへ行くんじゃない。こっちへおいで。」と、手を持って引っ張ってくださいます。でも落とし穴に蓋をなさることは、なさらないんです。なぜなら、神様の声を聞き入れないで真っ直ぐ走って行って落ち込むこと。あるいは、神様がせっかく取ってくださる手を振り払って、そっちは嫌だ!と言って駆けて行ったとき落ち込むこと。それは決して私たちのために悪いことじゃないから、神様は落とし穴に蓋をなさることはなさらないのであります。
私たちはそのとき初めて「助けてくれ!」と叫ぶ。そうするとザアカイがそうであったように、主は喜んで助けてくださるからであります。

私たちは、自分たちの問題を正直に神様の前に、イエス様の前に持ち出すということが、とても大切だなあと思うのであります。もし落とし穴に落ち込んでも、「ここは、落とし穴じゃないよ。」と、うそぶいていた。「ここはちょっと涼しいから入ってるだけだ。」と、うそぶいていたら、イエス様はどうすることもなさいません。できないんです。
そういう者には、どうすることもなさることができないのであります。

この間、先週ですけど、御代田のキャンプに行っておりました。一人のまだ神様をお知りにならないご婦人と、ちょっとお話をするチャンスがあったんです。で、その方は非常に勉強がよくできる娘さんをもってられるんですけど、その娘さんが大学生である間にボーイフレンドができまして、学業よりもボーイフレンドと過ごすことのほうに心が向き始めまして、学校を辞めてしまったのであります。何か医学か、歯学かそういう学問だったそうであります。
親はかなり期待をしていたそうなんですけど、今はいわゆるお酒を提供する場で働いていらっしゃるということであります。親なら誰でもそうだと思うんですけど、心の中ではきっと苦々しい思いを持ってられると思うんですけど、その方は娘がいいと思って選んだ道ですから親はじっと見守ってあげるんだ、と仰いました。ちょっと信じられない気が致しました。

何かその言葉だけをお聞きしますと、悟っているというふうに言っていいと思うんですけど、でも言葉の端々には、例えばご主人に対する不満のようなものがあるんですね。ですから、やっぱり私はそれは悟っているというよりも、諦めているというだけじゃないかなあという印象をそのとき受けたのであります。
で、もしかしたらこの方は、幸せというふうなものについて考えたり、あるいは自分が不幸だということを知ったりすることが怖いのじゃないかなあという印象を受けました。それで、「喜びがありますか?」と尋ねてみたのであります。そう致しましたら、「一日一日が平穏に過ぎる。それが喜びです。」と仰いました。つまり本当は不幸だと思ってられる、ということをその言葉が表わしています。
つまり、自分の人生の大部分は真っ黒だ、と知ってられるんです。でもその黒じゃない部分、まだまだ色の付いてない部分があるとか、あるいは何か趣味だとかあるいは、何か自分が今日は何かやったと思うとか、そういうちょっと緑や赤の色のついているところを眺めて、自分は幸せだと思って生きてるっていうことを表わしておられたのだと思います。
一日一日が平穏に過ぎることが喜びですということは、まさにそういうことじゃないかなあと思ったのであります。

平穏なら幸せだというそういう言葉は、よくテレビのドラマに書いてるような、こう案内には書いてあります。人間の幸せってのはそういうものだというふうなことが、よく書いてありますけど、でも問題が人生の中で問題があることを不幸、あるいは不祥事として受け止めたり、あるいは問題に目を留めることさえ回避してつまり問題に蓋をしたり、解決を後回しにするといったことは、決して人間にとって本当は幸せであるはずがないのであります。
それは個人のレベルでもそうですけど、例えば政治や経済の世界を見ても解決を後回しにし、全部蓋してくると後で何が起こるかっていうこと。それこそ取り返しのつかないことが起こってくるのではないでしょうか。聖書はだからそういうことを決して言わないのであります。
本当の幸せは嵐の中にある。嵐の中に裸になって立ち向かうときに、神様の愛を私たちは豊かに受けることができる。聖書はいつもそういうことを書いていると思うのであります。

例えばよくご存知のダビデの過ちであります。ダビデは、人としてしてはならないことを二つもしてしまったのであります。人妻を自分のものとし、その夫を殺すという、本当にしてはならないことを二つしてしまったんですけど、その過ちを指摘されましたときに彼は、「まことに私は自分背きの罪を知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」、と神様に悔い改めたのであります。
彼は王様だったですから、何とか理屈をつけて言い逃れをしようとすればできなかったわけじゃないのであります。今の王様じゃないんです。二千年、二千何百年前の王様ですからそれこそ「おまえは何を言う。」といったその一言でも本当はすり抜けられる、それくらいのものだったんでしょうけど、彼はそうしなかったんです。
ああだったからとか、こうだったからとかそのときの状況に責任をなすりつけるんじゃなくて、「私は罪を犯しました。」と、彼は本当に神様の前に悔い改めたのであります。

私たちがもしそういうふうに問題があるときに、やっぱり、ああだったから、こうだったからと言って責任を回避したり、あるいは一日一日が平穏に過ぎるから、そのことはそうあったけどほかのところはぼくはいいでしょ、だから幸せですと言ってしまったら、もうことはそれでおしまいであります。
でも正直に自分の問題を神様の前に出したら、神様はあなたのすべては十字架の血によってもう赦されているんだと、宣言してくださる。だからぼくたちは、安心してイエス様にすがることができるのではないでしょうか。

列王記第Iの19章の中で、エリヤが神様の声を聞いた話が載っておりますけど、あのとき神様は細い声でお語りになったといいます。でもその声の前に、地震があり、火があったと書いてあります。やっぱり神様は、問題を通してお語りになる。エリヤもあのときたぶんわきまえが無かったのでしょう。でもその後で、彼は神様からの御声を受けたのであります。
問題に出会ってこそ、私たちは、神様がともにいてくださることを知りますし、十字架の愛を経験して初めて人生の暗闇が消えて、そこに光が差し込むのであります。本当の幸せを経験すると言ってもいいと思います。

よく色んな方の話を、なんか自叙伝のようなものを読んでますと、人は問題に突き当たって成長するということが書かれてるんですけど、ぼくはでもそれは嘘だと思うんです。なぜなら、口ではみんなそう言いますけど、心の中ではそうは思っていない。
例えば問題があったときに、それを蓋をするっていうのはそういう一つの表われですけど、この間もなんか非常に優秀な大蔵官僚を次官にすることができなかった、そのことに対して宮沢蔵相は、「彼は不運だ!」って言ったっていうんです。
問題があったら成長するって本当に思ってるんなら、不運じゃない。彼は幸せだって言ってもいいと思うんですけど、やっぱりだれ一人彼は幸せだとは言わない。やっぱり彼は不運だ。やっぱり心の奥底は、問題があると人は不幸だというふうに考えます。
ですから人は、多くの人はそういう・・・

(テープ A面 → B面)

そしてせっかくの祝福の機会を逃してしまうのではないでしょうか。イエス様はそういうときにこそ、私たちの中に心の深みにまで手を伸ばしてくださる。私たちはそのときこそ、本当に暗闇の中から光の中へと移らせていただく、大きなチャンスであろうと思うのであります。

ローマ人への手紙の7章15節。パウロがやはり自分の弱さを知ったときの言葉であります。

ローマ人への手紙7:15、17
15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
17ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

自分のうちに罪があるということをパウロが知ったそのことこそ、パウロにとってやっぱり十字架の光に当てられるきっかけになったのではなかったかと思うのであります。

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

外見的には何も問題が無かったんです。外から見れば、パウロは百点満点に近い生き方をしていたんです。でもパウロは、自分は本当はもっとやりたいことができないんだ。それどころか本当はやりたくないことしかできないんだと、彼が知ったときに、彼は十字架の血だけが、イエス様だけが自分のそのすべてを救ってくださる方だと体験したのであります。

コリント人への第II、12:9
9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

私たちが強いときは、主は何一つなさることができないのであります。私たちはイエス様から差し伸ばされる手を振り切って、たぶん駆けて行くでしょう。滅びに至る道は広く、大きいから。
私たちが弱いときにこそ、主は大いにご栄光を表わしてくださるのであります。

コリント人への第II、12:10
10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

とパウロは言ったのであります。

ピリピ人への手紙3:7-9
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

イエス様の新しいいのちにあずかったとき、私たちは初めて本当のいのちを受けることができる。私たちも元々もっている性質は、アダム以来の罪によるものであります。一度イエス様の十字架とともに死に、私たちが新しいいのちを受けるときに、私たちの暗闇は光の中に移しいれられ、私たちは本当に湧き上がる喜びをいただくことができるのであります。

もう私たちは何一つ恐れる必要がない。口にはだせないと思っていたようなことでも、全部それは古い自分とともに十字架につけられたのであり、私たちは今まったく新しい者として、一日一日生まれているんだっていうことであります。昨日の続きが、今日ののじゃないんです。今日の続きが明日のんじゃないんです。
今日は新しい今日であり、明日はまたイエス様にある新しい明日であります。過去は一切関係のないのであります。
そのことを本当に、ぼくたちはそう思いませんけど、神様がそう宣言してくださる。だからありがとうございますと、それを受け入れる。そのことこそあわれみであり、恵みであろうと思うのであります。

今日の続きが明日だと思えば、過去が本当に私たちを胸苦しくさせます。でも過去はもう関係がないんです。イエス様とともに十字架についちゃった。もう何も関係がないのであります。そのことを経験的に知りますと、やっぱり本当に嬉しくなります。
六月にお亡くなりになった兄弟は、七月の三十一日にご葬儀があったんですけども、そのときにこの「永遠のいのち」という小冊子が配られました。その後ろに兄弟の証しが載っています。
そこに、召されるときが近づいた日々の、兄弟の祈りというのが載っています。短いですから読ませていただきたいと思います。

「大好きなイエス様、私は迷える子羊でした。真理を捜し求めておりましたが、見出すことができませんでした。
あなたさまと出会い、あなたさまこそが、真理そのものであると知りました。イエス様ありがとうございます。
嬉しい。嬉しい。本当にイエス様ありがとうございました。
イエス様を信じる前の六十五年間の私の人生は、全部無意味でした。あなたさまに出会って、信じて救われてからが、私の本当の人生です。
イエス様ありがとうございます。嬉しい。嬉しい。感謝でいっぱいです。」

ちょっと飛びまして、

「大好きな大好きなイエス様、私の中に何かイエス様の喜ばれないことがあるなら、どうぞ教えてください。
私は悔い改めますから、どうぞ罪を赦してくださり、私を主に受け入れられる聖い者となしてください。
イエス様ありがとうございます。あなたさまだけが、私を聖めることがお出来になります。
十字架の上であなたは血を流し、肉を裂いて私の罪の赦しをしてくださいました。
嬉しい。嬉しい。本当にイエス様ありがとうございます。」

兄弟はこの祈りをして、天に旅立たれたのであります。ご存知のように、アメリカのボストンで六十五年間、真理を捜し求めて生きてこられましたけど、全部無意味だった。イエス様に出会った時、それが全部無意味だったと仰ったのであります。
兄弟の前の奥さまのお姉さまが、日本においでになったときの話を、集会の姉妹がお話になってらしたけれども、「彼はアメリカではいつも難しい顔をしていた。イエス様に出会ってからはいつもニコニコとされてた。」っていう、その違いを、信仰をもっておられないんですけど、お証しなさったというんですね。やっぱりすごいなあ、それは外から変わる、そして同時に内から変わる。
兄弟が日々変わっていったんじゃない。昨日の兄弟と今日の兄弟は違うんです。イエス様によって新しい兄弟になったということであります。

せっかくですから、この一番後ろにリンデさんの祈りが載っています。後半だけ読ませていただきます。

「神の賜物は、私たちの主イエス・キリストの交わりにおける永遠のいのちです。
私はまだこの肉のからだに留まる限り、本当の故郷に到達していません。私はまだ主から離れている旅人のような状態に置かれています。
私は主と、顔と顔とを合わせていませんが、信仰によって歩み続けています。しかし私は安らかです。願わくばこの肉のからだを去って、私の天の故郷に行き、主のみもとに行きたいと思います。
ですから私は、主が来られるまで、主に喜ばれるように、すべてのことを一生懸命にやりたいと思います。私の故郷と、私の目標は、天にあります。」

本当に若くして天に召されるリンデさんが、聖書の中にこの祈りをはさんであったと、ここに書かれています。もう本当に永遠のいのち、天の御国、故郷を思うとき、喜んで行きたいと思う気持ちがよく表わされているのであります。

私たちはイエス様のあわれみによって、難しい難しい針の穴をスルリっと抜けて招き入れていただける。自分の力じゃ何をしたらいいんでしょうか。彼が聞いたときに、「ダメだ。」とイエス様は仰せになりました。
ただ神にはできる。イエス様にはおできになる。自分の力でするんだったら大変ですけど、イエス様がスルリっと抜けさせてくださるんだから、嬉しいです。
本当に感謝だと思います。

ありがとうございました。




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