どうすれば出来るのですか


古田公人兄

(吉祥寺学び会、2013/03/26)

引用聖句:マルコの福音書3章13節-15節
13さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
14そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
15悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

先週、ベック兄は、旧約時代のレビ人についてお話くださいました。レビ人は、主の臨在を現す契約の箱を運ぶ任務に当たりましたけれども、主は、レビ人に3つの奉仕を求めておられるとお話になりました。
一つは、主を礼拝することでした。そして主を礼拝することによって、主のご支配が、私たちの内に現実になるというものでした。2つ目の奉仕は、人に仕えることでした。人に仕えることとは、主への奉仕であり、真の奉仕は、信仰の表れでなければならないとお語りになりました。
そして、第3の奉仕は、悪の霊に対して戦うことであり、それは、イエス様が現実に勝利されていることを確信して、その上に立って戦う戦いでなければならない、そういうふうにお話くださったのだと思います。

そして、それだけではなくて、ベック兄は付け加えられました。あなたがたも、レビ人だけではなくて、あなたがたもそれを求められている。そういうふうにお語りくださいました。そしてそのことは、実は今読んでいただいたみことばからも、明らかであります。
マルコの福音書3章13節から15節、14節ですけれど、「彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」とあります。
イエス様が求められた奉仕の第1は、イエス様の身近にいることです。そしてそれは、イエス様と交わりを持ち、イエス様をよく知って、そしてイエス様に仕えることを意味しています。イエス様とトランプをするためじゃないことは、明らかであります。イエス様に仕えるためであります。そしてそれは、言い換えるなら、主を礼拝することです。

イエス様をよく知り、イエス様に仕える者は、やっぱり礼拝せざるを得なくなってくるのではないでしょうか。ですから、これは奉仕というよりも恵みであります。罪が赦され、主なる神との和解を受けた者だけに与えられるものだからであります。
そしてこの恵みにあずかる者には、イエス様は、大きな約束を与えてくださっています。
コリント人への手紙第IIには「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」とあります。すばらしいお約束であります。

コリント人への手紙第II、3:18
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

御霊がそうしてくださる。そこの所に注意をしたいと思います。そして、イエス様の再臨の時には、天に引き上げてくださいます。テサロニケ人への手紙第I、4章17節には「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。
主は、真の聖所で礼拝する者としてくださるということを、意味しています。
イエス様が求められた2つ目の奉仕は、福音を宣べ伝えることでした。でも、ご存知のように、福音を宣べ伝えることとは、やっぱり基本的には、主の御業なのではないでしょうか。そのことをパウロは、ガラテヤ人への手紙1章11節、12節で証ししています。

ガラテヤ人への手紙1:11-12
11兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
12私はそれを

福音を

ガラテヤ人への手紙1:12
12人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

直接にイエス様からいただいた。そういうふうにパウロは証ししています。そして事実、イエス様もそう仰せになっています。

使徒の働き1:8
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

聖霊が臨まれるなら、あなたがたは、わたしの証人となる。福音を宣べ伝える者としてふさわしくなると、イエス様はお語りくださいました。
主が遣わされるのでなければ、語られるのは、人間の言葉であり、人間の知恵にすぎないということを、みことばは明らかにしています。イエス様ご自身が、御霊によって、弟子たちを通してお語りになるのでなければ、それは神のことばではないということを意味しています。
そしてイエス様が求められた3つ目の奉仕は、悪霊を追い出すことでした。すなわち、イエス様の権威に信頼して、悪の霊と戦うことであったと解かります。旧約の時代ですけど、カレブは、そのことをよく知っており、イエス様の権威に信頼して戦いました。

ヨシュア記14:12
12どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。

カレブは、モーセから土地を分け与えられることを約束されていましたけど、この日、モーセの後継者であるヨシュアの前で、このように彼は言っています。「主がともにいてくだされば、私は勝つことができる。」、彼は、主の勝利を確信していました。
少年ダビデも、よく知られている所ですからひきませんけれど、巨人ゴリアテに向かって「私は、主の御名によって、お前に立ち向かう。」とそういうふうに言って、ゴリアテを倒しました。彼らは、主の勝利を確信し、恐れることなく戦い、そして勝利しています。
言うまでもなく、悪魔との戦いは、主の戦いであります。主に拠り頼むことなくして、勝利をすることはあり得ません。ですからパウロは、みことばと祈りに頼りなさいと勧めています。

エペソ人への手紙6:17-18
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

胸あてやかぶとは、身を守るためのものですけれど、剣は、守るだけではなくて、攻め込むためのものであります。そして、御霊の与える剣であるみことばに堅く立ち、すでに主が勝利されていることを確信し、御霊によって祈りながら、悪魔と戦いなさいとここに勧められている通りであります。
今、見てまいりましたように、イエス様が12弟子に求められた3つの奉仕は、もちろん私たちにも求めておられますけれど、すべて御霊によって成されるべきものであったということが解かります。
ですから、奉仕に当たる上での鍵となるみことばは、やっぱりローマ人への手紙12章1節の後半ではないかと思います。

ローマ人への手紙12:1
1あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

こういうふうに記されています。言われていることは、主に自分を明け渡すことであり、そしていつもイエス様の身近にいることであります。
そうすれば、自ずから生活は、御霊に満たされたものとなるのではないでしょうか。

イエス様は、3つの奉仕を12弟子に求められましたけれども、その3つの奉仕は、並列的なものではないということは、言うまでもありません。
最初の奉仕、すなわちイエス様の身近にいる者だけが、福音を宣べ伝え、悪霊と戦うという残りの2つの奉仕にたづさわることが出来るのではないかと思います。
イエス様は、ご自身のそばにいない者は、どのような働きも意味がないとはっきりと仰せになりました。

マタイの福音書7:21-23
21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

不法をなす者どもとは、非常に厳しいみことばです。「あなたがたを全然知らない。あなたがたは、わたしの身近に全然いなかった。」と仰せになっているのではないでしょうか。
信仰と生活が分離しているなら、人間の目には、どれほど用いられている働き人のように見えても、イエス様は「全然知らない」ということを、このみことばは厳しいですけど、はっきりと記しています。
12弟子は3つの奉仕を求められましたけど、何のための奉仕なのでしょうか。イエス様は、いったい何をご目的としておられるのでしょうか。それはエペソ人への手紙5章25節から27節にあるように、御からだなる教会を建て上げることを目的としておられることに、立たなければならないと思います。

エペソ人への手紙5:25-27
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

イエス様は、私たちの罪を贖うためだけではなくて、大きな大きな計画をお持ちになって、新しい天と地をお造りになった時に、キリストの花嫁として引きあげるべき教会を建てあげるために、十字架にかかってくださいました。
御からだなる教会を建てあげることは、イエス様の変わることのない目的であったということは、言うまでもありません。ですからイエス様は、あのレビ人に、主の任務、主の臨在を現す契約の箱を運ぶ任務をお与えになったと同じように、12弟子には、主の臨在を現す御からだなる教会にあって、働く者として用いようとなさったということを、心に留めるべきではないでしょうか。
しかし、大事なことはそこなんですけど、選ばれた者がそのままで用いられるわけではありません。用いられる備えが出来た時に、初めて選ばれた者が、用いられるようになるのであります。では、用いられる備えとはいったい、どのようなものでしょうか。エペソ人への手紙から見ていきたいと思います。

エペソ人への手紙1:7、17
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

ここには、御からだなる教会にあって、用いられる者とはどういう者かということが明らかにされています。
イエス様の救いを経験し、御霊を受け、主を知るようになった者がそうだと記されています。
御からだなる教会にあって、用いられる者は、救いを経験し、御霊を受け、それだけではなくて主を知るようになることが大切だと記されています。そして、大切なことは、御霊の導きだと解かります。

エペソ人への手紙3:16-19
16どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
17こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

ここは、パウロが信者のために祈っているところであります。パウロは、信者が御霊によって強められることを祈っています。
イエス様の限りなく大きな愛を知り、また御霊に満たされることによって、どのような時にあっても主を証しすることができ、また悪魔との戦いにあって勇気を失わないようにと、彼は祈ってくれています。
大切なことは、御霊の満たしだと解かってまいります。もう一箇所、エペソ人への手紙4章

エペソ人への手紙4:3、12-13、16
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
16キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

信者が、組み合わされ、結び合わされ、そして奉仕し、成長することによって、御からだなる教会が建てあげられるとはっきりと記されています。大切なことは、御霊の一致だとここでは記されています。
イエス様は、御からだなる教会にあって、用いるために12弟子をお選びになりましたが、残念ながら弟子たちにはその自覚はありませんでした。まず彼らは、組み合わされ、結び合わされることを望みませんでした。むしろ自分たちの内で、誰が一番えらいだろうかと、そんなことを考え、また私たちを特別な地位に置いてくださいと願う有り様でした。
弟子たちの代表格だったペテロでさえも、彼は自分に絶対の自信を持ち、そして心の中で他の弟子たちを見下していたということが、イエス様との対話の中で明らかにされてまいります。

そしてユダは、イエス様を裏切りました。他の弟子たちも、ユダヤ人がイエス様を捕らえにやって来た時、イエス様が与えられた3つの奉仕の一番大切な身近にいるという、その奉仕を捨てて、逃げ去ってしまいました。
イエス様が、十字架にかかって亡くなられ、よみがえられた後も、弟子たちはこの世の力を恐れていました。

ヨハネの福音書20:18-22
18マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

イエス様がよみがえられたと、マグダラのマリヤは伝えたんですけど、でもみことばへの信頼を弟子たちは失っていましたから、イエス様を見上げることを忘れ、暗やみの中に戸を閉じて、入り込んでしまっていたと解かります。
イエス様は、そのような弟子たちを慰め、励まし、そして聖霊を与えられました。
弟子たちは、イエス様を見て喜びましたけれど、どうでしょうか。その喜びも一時的なものにすぎなかったことが解かります。どうしてそうだったのでしょうか。その答えは、ヘブル人への手紙4章2節に記されています。

ヘブル人への手紙4:2
2福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

まさにこの戸を閉じて、暗やみに逃げ込んでいる弟子たちは、このような状態に置かれていました。
みことばも、よみがえりの主を見たことも、信仰によって彼らに結びつけられることがなかったんです。ですから、聖霊を受けても、イエス様の復活を証しすることもなく、悪霊と戦う勇気もなかったと解かります。
ヨハネの福音書21章2節から4節がそのことをはっきりと記しています。先ほどの20章で、主を見たんです。聖霊を受けたんです。その後の出来事です。

ヨハネの福音書21:2-4
2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

大変に不思議な記事であります。皆が霊的に弱っていて、そしてイエス様を見ても解からなかったということではないでしょうか。「私は漁に行く。」「私たちもいっしょに行きましょう。」イエス様と出会う前の、古いあの惨めな生活に、彼らは戻ろうとしていたということが解かります。
イエス様は、もちろん彼らのそのような状態をよくご存知でした。だからこそこの日、この時、岸辺にお立ちくださいました。そしてその後、今日はお読みいたしませんけど、21章をずっと読んでいくと解かるんですが、イエス様は、彼らの必要を知って、交わりを持ってくださいました。
そして、彼らは霊的に回復を見るようになり、ついには、心を合わせて祈りに専念するまでに回復したと、使徒の働き1章13節に記されています。

使徒の働き1:13-14
13彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

全く生まれ変わったかのような、弟子たちの姿がここに見られます。
弟子たちは、最も大切な御奉仕、すなわちイエス様の身近にいる者として、立ち返ったということが、ここから知ることが出来るのでございます。彼らは、立ち返っただけではなくて、五旬節の日になって聖霊に満たされました。
使徒の働きから何箇所か読んでいきたいと思います。

使徒の働き2:1-4
1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

それまで、あまり心に求めなかったことを、御霊の導きのままに話出したということではないでしょうか。
あるいは、考えもしなかったことを、私たちは自分の国の言葉で考えますよね。自分の考える言葉で考え、そして話す。他国の言葉で話し出したというのは、そういう意味で、それまで考えてもいなかったことを、御霊の示しのままに、御霊の導きのままに、話し始めたということを象徴的に現しています。
実際、他国の言葉で話したんですけど、その意味はそういうことではないでしょうか。

使徒の働き2:14
14そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

皆が聖霊に満たされたと4節にありました。そして、皆が聖霊に満たされたうち、あのイエス様から使徒と12弟子として選ばれた人たちは、共に立って、ここで一つになって話し始めています。
もちろんペテロが代表して話したんですけど、霊において彼らは、この時一つになっていたことは、明らかであります。

使徒の働き2:22-24、36、38
22イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
23あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
24しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

イエス様が、すでに勝利されていることを確信し、もはや何者をも恐れることなく、彼らは大胆にイエス様を証しし始めました。これ依頼、教会は、今に至るまでイエス様を証しし続けています。
イエス様の身近にいるというその奉仕に立ち返ったから、彼らはイエス様を証しし、悪霊と戦うという第2、第3の奉仕にも踏み出すことができたのではないかと思います。
この五旬節の日の、弟子たちの姿から私たちは、2つのことを知ることができます。

一つは、聖霊に満たされることの大切さであります。御霊を受けたら、自動的に御霊に満たされるわけではないということであります。
私たちは、よみがえりのイエス様に出会い、聖霊を受けましたけれども、御霊に満たされたのは、五旬節の日になってからでありました。聖霊に満たされて、彼らは御からだなる教会にあって、本格的に働き始めました。
今見たとおりであります。主のご臨在を証しし始めたのであります。御からだなる教会にあって用いられるためには、御霊の満たしがどうしても必要であると解かります。では、御霊の満たしを妨げているものは、いったい何なのでしょうか。みことばは、それは自分自身だとしています。

ガラテヤ人への手紙5:16-17
16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

大変厳しいみことばですけど、しかし同時に、大変恵みのみことばだということもできるのではないでしょうか。
私たちは、地上にいる限り、意識して罪から離れ、そして日々御霊に満たされることを祈り求める必要があるということを、このみことばは明らかにしています。

そして、12弟子の姿から知るもう一つのことは、やっぱり交わりの大切さということではないでしょうか。彼らは、五旬節の日、いっしょにいたんです。そしていっしょにいて、皆が聖霊の満たしを受けました。彼らは、この日、たまたまいっしょだったというのではありませんでした。
その前から彼らは一つ所にいて、心を合わせて祈りに専念していたと記されていたとおりであります。こうして皆が聖霊の満たしを受けたから、一つになって、御からだなる教会にあって用いられる者となったということが解かります。
信者にとって、最も大切なことは、信仰生活においてですけど、交わりの中にいることではないでしょうか。交わりの中にいなければ、御霊の一致などというものは、あり得ませんし、結び合わされ、組み合わされて共に成長するということもあり得ません。

すべては、ないないづくしであり、御からだなる教会が建てあげられるなどということは、決してあり得ないのであります。
私たちは、苦しい時も、悲しい時も、不安の中でも、耐えられないような孤独の中でも、イエス様が中心となっておられる交わりの中に、留まるだけではなくて、留まり続けなければならない、そのことを深く思わされるのであります。
ぶどうの木の枝は、ぶどうの木についているから、実を結ぶのだとイエス様が仰せになられました。どんな時にも「ああ、もういやだな。」と思う時にも、イエス様を頭とする交わりの中に留まり続けようではありませんか。一つだけみことばを読んで終わります。

ヨハネの手紙第I、1:3
3私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

教会の交わりなら何でもいいというものでは決してありません。御父および御子イエス・キリストとの交わりでなければ、それは交わりではない。イエス様が頭となっておられなければ、イエス様をいつも見上げる交わりでなければ、それは交わりではない。
私たちは、私たちの交わりが本当の交わりかどうかを、やっぱり吟味する霊の目を与えられていると思います。それを無駄にしないで歩み続けたいと思います。
どうもありがとうございました。




戻る