引用聖句:マルコの福音書3章13節-15節
先週、ベック兄は、旧約時代のレビ人についてお話くださいました。レビ人は、主の臨在を現す契約の箱を運ぶ任務に当たりましたけれども、主は、レビ人に3つの奉仕を求めておられるとお話になりました。 一つは、主を礼拝することでした。そして主を礼拝することによって、主のご支配が、私たちの内に現実になるというものでした。2つ目の奉仕は、人に仕えることでした。人に仕えることとは、主への奉仕であり、真の奉仕は、信仰の表れでなければならないとお語りになりました。 そして、第3の奉仕は、悪の霊に対して戦うことであり、それは、イエス様が現実に勝利されていることを確信して、その上に立って戦う戦いでなければならない、そういうふうにお話くださったのだと思います。 そして、それだけではなくて、ベック兄は付け加えられました。あなたがたも、レビ人だけではなくて、あなたがたもそれを求められている。そういうふうにお語りくださいました。そしてそのことは、実は今読んでいただいたみことばからも、明らかであります。 マルコの福音書3章13節から15節、14節ですけれど、「彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」とあります。 イエス様が求められた奉仕の第1は、イエス様の身近にいることです。そしてそれは、イエス様と交わりを持ち、イエス様をよく知って、そしてイエス様に仕えることを意味しています。イエス様とトランプをするためじゃないことは、明らかであります。イエス様に仕えるためであります。そしてそれは、言い換えるなら、主を礼拝することです。 イエス様をよく知り、イエス様に仕える者は、やっぱり礼拝せざるを得なくなってくるのではないでしょうか。ですから、これは奉仕というよりも恵みであります。罪が赦され、主なる神との和解を受けた者だけに与えられるものだからであります。 そしてこの恵みにあずかる者には、イエス様は、大きな約束を与えてくださっています。 コリント人への手紙第IIには「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」とあります。すばらしいお約束であります。 コリント人への手紙第II、3:18
御霊がそうしてくださる。そこの所に注意をしたいと思います。そして、イエス様の再臨の時には、天に引き上げてくださいます。テサロニケ人への手紙第I、4章17節には「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。 主は、真の聖所で礼拝する者としてくださるということを、意味しています。 イエス様が求められた2つ目の奉仕は、福音を宣べ伝えることでした。でも、ご存知のように、福音を宣べ伝えることとは、やっぱり基本的には、主の御業なのではないでしょうか。そのことをパウロは、ガラテヤ人への手紙1章11節、12節で証ししています。 ガラテヤ人への手紙1:11-12
福音を ガラテヤ人への手紙1:12
直接にイエス様からいただいた。そういうふうにパウロは証ししています。そして事実、イエス様もそう仰せになっています。 使徒の働き1:8
聖霊が臨まれるなら、あなたがたは、わたしの証人となる。福音を宣べ伝える者としてふさわしくなると、イエス様はお語りくださいました。 主が遣わされるのでなければ、語られるのは、人間の言葉であり、人間の知恵にすぎないということを、みことばは明らかにしています。イエス様ご自身が、御霊によって、弟子たちを通してお語りになるのでなければ、それは神のことばではないということを意味しています。 そしてイエス様が求められた3つ目の奉仕は、悪霊を追い出すことでした。すなわち、イエス様の権威に信頼して、悪の霊と戦うことであったと解かります。旧約の時代ですけど、カレブは、そのことをよく知っており、イエス様の権威に信頼して戦いました。 ヨシュア記14:12
カレブは、モーセから土地を分け与えられることを約束されていましたけど、この日、モーセの後継者であるヨシュアの前で、このように彼は言っています。「主がともにいてくだされば、私は勝つことができる。」、彼は、主の勝利を確信していました。 少年ダビデも、よく知られている所ですからひきませんけれど、巨人ゴリアテに向かって「私は、主の御名によって、お前に立ち向かう。」とそういうふうに言って、ゴリアテを倒しました。彼らは、主の勝利を確信し、恐れることなく戦い、そして勝利しています。 言うまでもなく、悪魔との戦いは、主の戦いであります。主に拠り頼むことなくして、勝利をすることはあり得ません。ですからパウロは、みことばと祈りに頼りなさいと勧めています。 エペソ人への手紙6:17-18
胸あてやかぶとは、身を守るためのものですけれど、剣は、守るだけではなくて、攻め込むためのものであります。そして、御霊の与える剣であるみことばに堅く立ち、すでに主が勝利されていることを確信し、御霊によって祈りながら、悪魔と戦いなさいとここに勧められている通りであります。 今、見てまいりましたように、イエス様が12弟子に求められた3つの奉仕は、もちろん私たちにも求めておられますけれど、すべて御霊によって成されるべきものであったということが解かります。 ですから、奉仕に当たる上での鍵となるみことばは、やっぱりローマ人への手紙12章1節の後半ではないかと思います。 ローマ人への手紙12:1
こういうふうに記されています。言われていることは、主に自分を明け渡すことであり、そしていつもイエス様の身近にいることであります。 そうすれば、自ずから生活は、御霊に満たされたものとなるのではないでしょうか。 イエス様は、3つの奉仕を12弟子に求められましたけれども、その3つの奉仕は、並列的なものではないということは、言うまでもありません。 最初の奉仕、すなわちイエス様の身近にいる者だけが、福音を宣べ伝え、悪霊と戦うという残りの2つの奉仕にたづさわることが出来るのではないかと思います。 イエス様は、ご自身のそばにいない者は、どのような働きも意味がないとはっきりと仰せになりました。 マタイの福音書7:21-23
不法をなす者どもとは、非常に厳しいみことばです。「あなたがたを全然知らない。あなたがたは、わたしの身近に全然いなかった。」と仰せになっているのではないでしょうか。 信仰と生活が分離しているなら、人間の目には、どれほど用いられている働き人のように見えても、イエス様は「全然知らない」ということを、このみことばは厳しいですけど、はっきりと記しています。 12弟子は3つの奉仕を求められましたけど、何のための奉仕なのでしょうか。イエス様は、いったい何をご目的としておられるのでしょうか。それはエペソ人への手紙5章25節から27節にあるように、御からだなる教会を建て上げることを目的としておられることに、立たなければならないと思います。 エペソ人への手紙5:25-27
イエス様は、私たちの罪を贖うためだけではなくて、大きな大きな計画をお持ちになって、新しい天と地をお造りになった時に、キリストの花嫁として引きあげるべき教会を建てあげるために、十字架にかかってくださいました。 御からだなる教会を建てあげることは、イエス様の変わることのない目的であったということは、言うまでもありません。ですからイエス様は、あのレビ人に、主の任務、主の臨在を現す契約の箱を運ぶ任務をお与えになったと同じように、12弟子には、主の臨在を現す御からだなる教会にあって、働く者として用いようとなさったということを、心に留めるべきではないでしょうか。 しかし、大事なことはそこなんですけど、選ばれた者がそのままで用いられるわけではありません。用いられる備えが出来た時に、初めて選ばれた者が、用いられるようになるのであります。では、用いられる備えとはいったい、どのようなものでしょうか。エペソ人への手紙から見ていきたいと思います。 エペソ人への手紙1:7、17
ここには、御からだなる教会にあって、用いられる者とはどういう者かということが明らかにされています。 イエス様の救いを経験し、御霊を受け、主を知るようになった者がそうだと記されています。 御からだなる教会にあって、用いられる者は、救いを経験し、御霊を受け、それだけではなくて主を知るようになることが大切だと記されています。そして、大切なことは、御霊の導きだと解かります。 エペソ人への手紙3:16-19
ここは、パウロが信者のために祈っているところであります。パウロは、信者が御霊によって強められることを祈っています。 イエス様の限りなく大きな愛を知り、また御霊に満たされることによって、どのような時にあっても主を証しすることができ、また悪魔との戦いにあって勇気を失わないようにと、彼は祈ってくれています。 大切なことは、御霊の満たしだと解かってまいります。もう一箇所、エペソ人への手紙4章 エペソ人への手紙4:3、12-13、16
信者が、組み合わされ、結び合わされ、そして奉仕し、成長することによって、御からだなる教会が建てあげられるとはっきりと記されています。大切なことは、御霊の一致だとここでは記されています。 イエス様は、御からだなる教会にあって、用いるために12弟子をお選びになりましたが、残念ながら弟子たちにはその自覚はありませんでした。まず彼らは、組み合わされ、結び合わされることを望みませんでした。むしろ自分たちの内で、誰が一番えらいだろうかと、そんなことを考え、また私たちを特別な地位に置いてくださいと願う有り様でした。 弟子たちの代表格だったペテロでさえも、彼は自分に絶対の自信を持ち、そして心の中で他の弟子たちを見下していたということが、イエス様との対話の中で明らかにされてまいります。 そしてユダは、イエス様を裏切りました。他の弟子たちも、ユダヤ人がイエス様を捕らえにやって来た時、イエス様が与えられた3つの奉仕の一番大切な身近にいるという、その奉仕を捨てて、逃げ去ってしまいました。 イエス様が、十字架にかかって亡くなられ、よみがえられた後も、弟子たちはこの世の力を恐れていました。 ヨハネの福音書20:18-22
イエス様がよみがえられたと、マグダラのマリヤは伝えたんですけど、でもみことばへの信頼を弟子たちは失っていましたから、イエス様を見上げることを忘れ、暗やみの中に戸を閉じて、入り込んでしまっていたと解かります。 イエス様は、そのような弟子たちを慰め、励まし、そして聖霊を与えられました。 弟子たちは、イエス様を見て喜びましたけれど、どうでしょうか。その喜びも一時的なものにすぎなかったことが解かります。どうしてそうだったのでしょうか。その答えは、ヘブル人への手紙4章2節に記されています。 ヘブル人への手紙4:2
まさにこの戸を閉じて、暗やみに逃げ込んでいる弟子たちは、このような状態に置かれていました。 みことばも、よみがえりの主を見たことも、信仰によって彼らに結びつけられることがなかったんです。ですから、聖霊を受けても、イエス様の復活を証しすることもなく、悪霊と戦う勇気もなかったと解かります。 ヨハネの福音書21章2節から4節がそのことをはっきりと記しています。先ほどの20章で、主を見たんです。聖霊を受けたんです。その後の出来事です。 ヨハネの福音書21:2-4
大変に不思議な記事であります。皆が霊的に弱っていて、そしてイエス様を見ても解からなかったということではないでしょうか。「私は漁に行く。」「私たちもいっしょに行きましょう。」イエス様と出会う前の、古いあの惨めな生活に、彼らは戻ろうとしていたということが解かります。 イエス様は、もちろん彼らのそのような状態をよくご存知でした。だからこそこの日、この時、岸辺にお立ちくださいました。そしてその後、今日はお読みいたしませんけど、21章をずっと読んでいくと解かるんですが、イエス様は、彼らの必要を知って、交わりを持ってくださいました。 そして、彼らは霊的に回復を見るようになり、ついには、心を合わせて祈りに専念するまでに回復したと、使徒の働き1章13節に記されています。 使徒の働き1:13-14
全く生まれ変わったかのような、弟子たちの姿がここに見られます。 弟子たちは、最も大切な御奉仕、すなわちイエス様の身近にいる者として、立ち返ったということが、ここから知ることが出来るのでございます。彼らは、立ち返っただけではなくて、五旬節の日になって聖霊に満たされました。 使徒の働きから何箇所か読んでいきたいと思います。 使徒の働き2:1-4
それまで、あまり心に求めなかったことを、御霊の導きのままに話出したということではないでしょうか。 あるいは、考えもしなかったことを、私たちは自分の国の言葉で考えますよね。自分の考える言葉で考え、そして話す。他国の言葉で話し出したというのは、そういう意味で、それまで考えてもいなかったことを、御霊の示しのままに、御霊の導きのままに、話し始めたということを象徴的に現しています。 実際、他国の言葉で話したんですけど、その意味はそういうことではないでしょうか。 使徒の働き2:14
皆が聖霊に満たされたと4節にありました。そして、皆が聖霊に満たされたうち、あのイエス様から使徒と12弟子として選ばれた人たちは、共に立って、ここで一つになって話し始めています。 もちろんペテロが代表して話したんですけど、霊において彼らは、この時一つになっていたことは、明らかであります。 使徒の働き2:22-24、36、38
イエス様が、すでに勝利されていることを確信し、もはや何者をも恐れることなく、彼らは大胆にイエス様を証しし始めました。これ依頼、教会は、今に至るまでイエス様を証しし続けています。 イエス様の身近にいるというその奉仕に立ち返ったから、彼らはイエス様を証しし、悪霊と戦うという第2、第3の奉仕にも踏み出すことができたのではないかと思います。 この五旬節の日の、弟子たちの姿から私たちは、2つのことを知ることができます。 一つは、聖霊に満たされることの大切さであります。御霊を受けたら、自動的に御霊に満たされるわけではないということであります。 私たちは、よみがえりのイエス様に出会い、聖霊を受けましたけれども、御霊に満たされたのは、五旬節の日になってからでありました。聖霊に満たされて、彼らは御からだなる教会にあって、本格的に働き始めました。 今見たとおりであります。主のご臨在を証しし始めたのであります。御からだなる教会にあって用いられるためには、御霊の満たしがどうしても必要であると解かります。では、御霊の満たしを妨げているものは、いったい何なのでしょうか。みことばは、それは自分自身だとしています。 ガラテヤ人への手紙5:16-17
大変厳しいみことばですけど、しかし同時に、大変恵みのみことばだということもできるのではないでしょうか。 私たちは、地上にいる限り、意識して罪から離れ、そして日々御霊に満たされることを祈り求める必要があるということを、このみことばは明らかにしています。 そして、12弟子の姿から知るもう一つのことは、やっぱり交わりの大切さということではないでしょうか。彼らは、五旬節の日、いっしょにいたんです。そしていっしょにいて、皆が聖霊の満たしを受けました。彼らは、この日、たまたまいっしょだったというのではありませんでした。 その前から彼らは一つ所にいて、心を合わせて祈りに専念していたと記されていたとおりであります。こうして皆が聖霊の満たしを受けたから、一つになって、御からだなる教会にあって用いられる者となったということが解かります。 信者にとって、最も大切なことは、信仰生活においてですけど、交わりの中にいることではないでしょうか。交わりの中にいなければ、御霊の一致などというものは、あり得ませんし、結び合わされ、組み合わされて共に成長するということもあり得ません。 すべては、ないないづくしであり、御からだなる教会が建てあげられるなどということは、決してあり得ないのであります。 私たちは、苦しい時も、悲しい時も、不安の中でも、耐えられないような孤独の中でも、イエス様が中心となっておられる交わりの中に、留まるだけではなくて、留まり続けなければならない、そのことを深く思わされるのであります。 ぶどうの木の枝は、ぶどうの木についているから、実を結ぶのだとイエス様が仰せになられました。どんな時にも「ああ、もういやだな。」と思う時にも、イエス様を頭とする交わりの中に留まり続けようではありませんか。一つだけみことばを読んで終わります。 ヨハネの手紙第I、1:3
教会の交わりなら何でもいいというものでは決してありません。御父および御子イエス・キリストとの交わりでなければ、それは交わりではない。イエス様が頭となっておられなければ、イエス様をいつも見上げる交わりでなければ、それは交わりではない。 私たちは、私たちの交わりが本当の交わりかどうかを、やっぱり吟味する霊の目を与えられていると思います。それを無駄にしないで歩み続けたいと思います。 どうもありがとうございました。 |