葬儀メッセージ1


古田公人兄

(宮子久枝姉葬儀、2005/05/20)

ここでお話させていただく資格は何もありませんけれど、ただ私たちに向けられて発せられている聖書のメッセージをご一緒に考えるひと時をいただきたいと思います。

先ほど司会者の兄弟も仰いましたように、お母様はもうすでに天国に行っていらっしゃいます。この世の生涯が終わるとすぐに、信じる者の霊は天国に招かれます。
ですから明らかなように、この葬儀はお母様を天国に送り出す地点ではありません。何か私たちが盛大な儀式をして、そのことによって神さまの関心を向けて、そして天国に迎え入れてもらおうなどというようなものでもございません。
これはあくまでもお母様を偲んで、そのご生涯が私たちにとってどういうものであるかを、ともに考えさせていただく時であるということは、明らかではないかと思います。

先ほどごいっしょに唱和させていただきました、あの聖歌の463番の一節は、「われ贖われて自由にせられ、キリストにありて安きになり。」と始まりました。
そして三番は、「負い目は払われ重荷はなし。聖めの血潮に日々あらわる。」とございました。
贖われて自由にされた。キリストにありて安きになり。負い目は払われ、重荷はなしと、私たちが心を一つにして歌いましたけれど、この歌をご自身の葬儀の時に歌ってほしいと仰ったお気持ちは明らかではないでしょうか。

まさにその通りの気持ちをご自身、日々祈りの中で示されておられたのではないかと思います。
贖われ自由にしていただいた。本当に重荷はない。この喜びを持って、地上の83年のご生涯を終えられたことは明らかではないかと思います。
ですからこの聖歌をうかがいますと、お母様が何を中心にして生きてこられたかということは、おのずから明らかではないかと。

私たちの罪を贖うためにこのようにしてくださったイエス様。世界中に数え切れないほど書物はありますけれど、ただ一つ、聖書にだけ証しされているイエス・キリスト。
そのお方を中心にして、また支えにして、そして希望にして生きてこられたということは、本当に私たちにとってもまた喜びであり、感謝であると受け止めさせていただくことができるのではないかと思います。

姉妹がそれほどまでに大切にされた聖書とは、いったいどういう書物なのでしょうか。
いうまでもなく、人間の手によって書かれた書物でございます。しかし批判的な気持ちを持たずに、本当に心を開いて聖書を読みますと、そこには人間の頭では考えつかないことが書かれていると、どなたでもお感じになるのではないかと思います。
2ヶ所ばかりその例を挙げてみたいと思いますが、聖書はまず初めに、神が天と地を創造されたということばから始まっています。

神が天と地を創造されたという記述を、聖書は冒頭に掲げています。
すべてのものは、天も地も、そしてこの上に満ちるさまざまな生き物たちも、植物も、そして海も太陽もすべて、主なる神の創造によって始まったということが宣言されています。
世界中にはさまざまな神話がありますけれど、そうした神話は全部そういうことを言っているものはひとつもありません。

人間が神であったり、あるいは何かの中から神が生まれたと書かれています。聖書だけが、すべてを主なる神がお造りになったと記しています。
人間の発想とはほど遠いところにこの記述がございます。例えば日本では、井戸だとかかまどにも何かが宿ると考え、それを崇めてまいりました。
また豊臣秀吉だとか、徳川家康だとか、何とか天皇はみんな、何とか神社というところにそれぞれ祀られています。

でも人間がいなかったら、井戸やかまどもそうしたいわゆる神々がどこにいたのでしょうか。人間がいなかったら偉人もいません。
いわゆる、この世の神々というものが人間に依存するものであるとすれば、それは本当の神ではないということは明らかでございます。
本当の神は、ただ天と地とそこに満ちる一切のものをお造りくださった方でしかないということは当然ではないかと。

もう一ヶ所、先ほど聖書朗読の中でお読みいただきました、ヨハネの福音書のことばもまた、そういうことばではないかと思います。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ひとり子とは、いうまでもなくイエス・キリストでございます。
ここには、「神は世を愛された。」と記されています。世にあるひとりひとりを、ひとりひとりとして愛してくださったと同時に、いや、愛してくださっていると同時に、その全体をも世として、主なる神は愛してくださっています。
そしてそれゆえに二つのことがなされました。

それは、イエス・キリストが与えられたこと。そして、信じる者は永遠のいのちを持つこと。
主なる神が世を愛してくださったがゆえに、その二つのことが成し遂げられたと私たちは知らされます。この二つのことについて、ちょっと考えてみたいと思います。

イエス・キリストが与えられたと書いてございましたけれども、それは単に、来られたとは違うということを意味しています。
文字通り、すべてを世に与えてくださった。そういうことを、このことばは意味しておりますけれども、それは聖書全巻を通して見ますと、十字架の上での死であったと私たちは知らされます。

私たちの身代わりとなって、罪の身代わりとなってイエス・キリストが十字架の上で死んでくださった。いうまでもなく、身代わりとなりうるとは、その人に罪がないということが前提でございます。
犯罪人が犯罪人の身代わりになるというようなことはあり得ません。罪がない人だからこそ、罪の身代わりになることができた。残念ですけれどそれは人間にはできませんでした。
だからこそ、罪のないお方である神の御子がこの世に来てくださって、十字架に架かって、私たちの身代わりとして死んでくださり、私たちの罪を全部、そのご自身の死でもって解決してくださったと私たちは知らされます。

では罪とは何なのでしょうか。それほどまでに贖われなければならなかった罪とは何なのでしょうか。
それは先ほどございましたように、天地万物を始め、私たちひとりひとりを格別に愛のうちにお造りくださり、私たちを愛のうちに育んでくださっているそのお方を、ないがしろにして生きる生き方であると聖書は示しています。

この人間の世界のことだけを考えましても、子が親をないがしろにして生きるとすれば、これはおかしいとどなたもお考えになるのではないでしょうか。
会社員が社長や上司をないがしろにしていたら、たぶんおかしいでは済まないと思います。
まして、私たちを愛のうちに創造してくださった創造主であるお方を、私たちがないがしろにするとすればどうなるのでしょうか。聖書はそれを永遠の滅びだと言っています。

私たちがもし成田から飛行機に乗って、ロンドンへ行く飛行機に乗ったとしたら、その乗客が行き先を知っているかいないかに関わらず、その飛行機はロンドンに到着します。
それと同じように、信じていようと信じていまいと、それとは関係なしに主なる神をないがしろにして生きる者は滅びに至ると聖書は言っています。
でもだからこそ、と言ってもいいと思うのですけれど、それゆえに主なる神は世を愛し、あわれんでくださって、イエス・キリストを与えてくださいました。

イエス・キリストが十字架に架かって死んでくださったことにより、私たちの罪は贖われてしまう。キリストを信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためであると記されています。
神の御子が、罪ある人間の代わりに人を愛して、この世に来てくださって、十字架に架かって死んでくださった。
人間の頭ではとても考えつかないことではないかと思います。

もうひとつ、このヨハネの福音書は、信じる者は永遠のいのちを持つと私たちに約束してくださっています。
永遠のいのちとはいったい何なのでしょうか。病気にかからない、そういう形でこの地上で永遠に生き続けるということなのでしょうか。
もしそうだとしたら、「私は永遠のいのちなど要りません。」と言いたくなります。

もう百年に足らないいのちでも十分です。千年も一万年もこの地上で働き続けなければならない。さまざまな労苦を経験しなければならないとしたら、まさに救いは、永遠のいのちを受けないことにあると考えてしまいます。
だから永遠のいのちを受けるということは、病気にかからないということでもなく、もちろん、超能力を獲得するというようなことでもございません。

イエス様は十字架に架かって一度は亡くなりましたけれど、三日のちによみがえりを果たされました。キリストの復活によって、死はもはやキリストを支配しないということが明らかにされたのでございます。
私たちはこの死が、もう支配することもできないキリストのいのち、それを私たちはイエス・キリストから受け取ることができる。その時私たちキリストのいのちの中にあって生きるのだと聖書は約束しています。
それが永遠のいのちです。キリストにあって、キリストとともに生きる。

だからあの聖歌の中にもございましたように、本当に重荷はなし、負い目は払われた。自由にせられたと私たちは心からそれを喜び、また、歌うことができるのではないでしょうか。
だれかに教えられて、心にもないけれど歌おうかというものではない。本当にひとりひとりが、その生きていることの中の経験を通して、自分の経験として歌うことができる。それが永遠のいのちを受けた者の姿であると言えるのではないかと。

この世に生きている間には、色んなことがございます。さまざまな問題が起こります。
でも、どのようなときにも、どのような状況にあっても、イエス様を信じ、永遠のいのちを受けた者は、平安でいられるということを多くの、いやすべてのイエス様を信じる者が経験的に知っていることではないかと思います。

イエス・キリストは私たちの身代わりとなって十字架に架かってくださいました。
私たちの罪をすべてそこで解決してくださいましたけれど、よみがえって、今も生きておいでになります。
そして私たちひとりひとりを名前をもって呼んでくださるお方として、私たちを愛してくださっています。だから私たちは、ひとりひとりイエス様のことを思うと、やっぱり喜びが湧いてきます。

一人でいる寂しいときにも、寂しさよりも主がともにいてくださるという喜びを深く感じ、さまざまな問題の中でどうしていいかわからないときにも、主は必ず解決の道を備えてくださると希望を持つことができるのではないでしょうか。
私たちはイエス・キリストを信じることによって、本当に一人ではない、いのちに代えてまで愛してくださっている方がともにいてくださると確信し、そのお方に向かって心の中にあるすべてのことを祈りとして注ぎ出すことが許されています。
そして、その祈りを注ぎ出すとき、私たちはイエス・キリストのいのちの中にございますから、本当に生きる勇気と希望を豊かに与えられ、キリストを私たちは経験的に知るようになります。

先ほど朗読されました、もうひとつの聖句。それは詩篇の23篇でしたけれども、

詩篇23:1
1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

と語っています。

詩篇23:2-4
2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

もしかしたら、このみことばもお母様がいつも読んで、そして励ましの源として生きてこられたみことばではないかと思います。イエス様を信じるということは、そういうことでございます。
主は私の羊飼い。この羊飼いは、羊のためにいのちを捨てる羊飼いだと知りますと、本当に私たちは、たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、恐れる必要はないと心の底から信じることができるのではないか。

お母様の生涯の結末はいうまでもなく、天国でございました。
永遠のいのちを受けて、この肉のからだはこの地上での生涯とともに終わりますけれども、やがて主が再び来られるとき、朽ちない者によみがえると約束されています。
わたしたちは霊が単に天国へ行くだけではなくて、再び朽ちない者によみがえる。それがどういうことを意味するのかは私たちにはまだ示されていませんけれども、聖書は朽ちない者によみがえると約束しておられます。

だから私たちの・・・

(テープ A面 → B面)

・・・みこころをつぶさに知ることができます。

特別の能力をもった職業的な宗教家だとか、あるいは、特別の儀式だとか、あるいは修行だとか、施しだとか寄付だとか、そんなものは一切意味を成しません。
ただ砕かれた心をもって、イエス・キリストの前に進み出るとき、私たちは例外なく受け入れていただけます。
人は人の表面を見ますけれど、主なる神は心をご覧になります。

何にもなくても、どれほどみじめな生き方であっても、過去がどれほど恥ずかしいものであっても無関係に受け入れてくれます。
主はひとりとして見捨てることなく、ご自身のものとして受け入れてくださると約束されているからではないでしょうか。
お母様は今、天国で、「イエス・キリストを信じて良かった。生涯の最高の成果はイエス・キリストを信じたことだった。」と、イエス様にお語りになっているのではないかと思います。

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

イエス・キリストの、私たちひとりひとりに向けての約束でございます。
元気な人、事業に成功した人、世界のリーダーである人と書かれていないのです。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
正直に自分の心を見るなら、このメッセージが私たちひとりひとりに向けて与えられているということを、だれであっても気付くのではないかと思います。

どうもありがとうございました。




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