引用聖句:ルカの福音書16章1節-13節
3日か4日前だったんですけど、大学を卒業して10年ほどになる人と夕食を共にしたことがありました。そのとき、彼はこういうことを申しました。 会社に勤めていて、まあ、とても信頼できる人の会社だったので、本当に誠心誠意仕事をしてきた。でもその尊敬する人、あるいはその周囲の人、どちらかとははっきり聞かなかったんですけど、心にたくさん傷をつけられた。 で、考えてみると、その人は自分の心にそんなに多くの傷をつけたと多分気付いていないだろう、ということは自分もまた、他の人に気が付かないうちに同じだけの傷を与えていることが、与えているんだろうと思う。 だけど私にはその人を許すことができないんですけどどんなもんでしょう、というふうに話をお聞きいたしました。 まあ私はその時、いろいろと聖書のみことばも思い出しながら話をしておりましたけれども、今日は人を許すということについてご一緒にみことばから聞いてみたいと思います。 イエスさまはペテロの質問に対して、マタイの福音書の18章の21節、22節ですけれども、無限に人を許しなさいとお語りになりました。 マタイの福音書18:21-22
ペテロが兄弟が私に対して罪を犯したら何度許すべきでしょうか、七度まででしょうか、ペテロとしては非常に心広い気持ちで言ったと思うんです。七度まででしょうか。 でもイエスさまはそれに対して七度の七十倍だと仰せになりました。無限に人を許しなさい。 イエスさまが人を許すことについてまとまった形でお語りになったところは、今お読みいただきましたルカによる福音書の16章の1節から13節ではないかと思います。 まちょっと読んでみますと、何か不正な管理人だとか不正の富だとかという言葉が目につくんですけど、でもイエスさまの御心は何かなと思いながら読んでみますと、それは主人がこの不正な管理人を誉めた、というところではないかと思います。 自分が悪いことっていうか、主人の財産を乱費しておきながら、主人からそのことを注意された時にもっと悪いことをしてるわけなんです。 主人からたくさんお金を借りてる人、物を借りてる人のその借金を割り引いたっていうことですから、一見したところ彼は忠告を受けて更に悪いことをしてるようなんですけど、その主人は、その理不尽だとも思える管理人の行為を誉めたと書かれています。 ここにイエスさまの御心がある、と、どうしても思えてなりません。 それは、もちろん主人は管理人がしたことを受け入れただけではなくて、主人が喜んだからだと思います。しかも9節の所で、 ルカの福音書16:9
と、イエスさまが仰せになっているということは、主人の喜びはイエスさまの喜びだったということなのではないでしょうか。 主人はそこまで言わなかったんですけど、イエスさまは永遠の住まいに彼は迎えられると仰せになっています。 結局イエスさまが債務のある者をどれだけ憐れんでいて下さったかということを私たちはやはりまた知らせられるように思います。 ここでは、債務とは小麦だとか油だとかと書かれていますけど、でも聖書全体を通してみるとき、債務とは罪そのものではないかと思います。 コロサイ人への手紙2章14節です。ま、13節から読んでみたいと思います。 コロサイ人への手紙2:13-14
ルカの福音書の16章に戻りますと、彼は主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、と書かれています。 イエスさまは油だとか小麦だとかと例を取りながらも、私たちの罪の問題をお考えになっていたに違いないと思います。 じゃ管理人とは何なのかということですけど、少しその管理人のことも併せて考えてみたいと思います。 創世記1章26節です。 創世記1:26-27
と書かれています。海の魚、空の鳥、家畜、地を這う全てのものを支配させようと仰せになりましたけど、勿論私たちは全地の主人では有り得ません。 主人はあくまでも主なる神、天地創造の主であります。主がお造りになり、そしてそれを主はご覧になって、全ては良かった、とお語りになり、その前の25節の後ろですね、神は見て、それをよしとされた、神はご自身お造りになったすべてのものを良しとなさった、祝福なさってる。 その、その全地を支配するようにと神様がお造りくださいました人というものはあくまでもやっぱり管理人、あるいは執事といってもいいかと思います。 じゃ、その管理人はどうなったのかということでございます。創世記3章4節から6節です。 創世記3:4-6
管理人は、あくまでも主人の意思に従うべき、であります。 でもこの管理人は、すぐに神様の御心をないがしろにいたしました。取って食べてはならない、それに触れてもいけない、あなた方が死ぬといけないからだ、と神様が仰せになったと3節に書かれています。彼らはその戒めを知りながらも、蛇にそそのかされて、神様の戒めを破りました。 あなた方の目が開き、あなた方が神のようになり、という蛇の誘い掛けが女の心を動かし、そして二人は神様をないがしろにしてしまったのであります。 主人のようになりたい、と、神のようになりたいと思った二人は、結局、主人を主人としてではなく、自分と同じように扱いたいと思った、ということではないかと思います。 主人をないがしろにするということは、結局主人の財産を乱費している、とルカの福音書16章にあった、その管理人の姿をあらわしているのではないかと思います。 主人の財産を乱費している管理人とは、まさに主の御心にそむき、罪に捕らえられた人間そのものをあらわしているのだろうと思います。 そしてその人間がどうなったのかということは、そのあと8節から書かれています。ちょっと読んでみたいと思います。 創世記3:8
管理人は、常にご主人の意向を確かめながら、自分のしていることが果たして正しいことなのか、あるいは間違ったことなのかを絶えず反省し、また、主人と話をしながら管理にあたっていくべきであります。 人間で申しますと、いつも神様に祈って、イエスさまに祈って、ひとつひとつイエス様のお答えをいただきながら、人は励むべきものなのではないでしょうか。主人と管理人の間に、絶対に隔ての壁があってはならないということは云うまでもないことであります。 でも、木の実を取って食べたアダムとエバは、いや、神様のみことばにそむいたアダムとエバは、この時、神様の御顔を避けて園の木の間に身を隠しました。 とんでもないことが起こってしまったのであります。そうした管理人が成し得ることは、悲惨のひとことに尽きるのではないかと思います。 その一例が、エレミヤ書の2章の13節に挙げられています。とっても短いですけど、私はこの所を読むと、本当に神様がどれほど私たちの罪の姿を悲しまれているかということが、よーくこれ以上ないほどよくあらわされている所だと思います。 エレミヤ書2:13
豊かないのちの泉を捨てて、本当にすぐに涸れてしまう、いくら水を注いでも渇いてしまう、壊れた水ためを自分の手で掘る、そしていつも打ちひしがれている人間の姿を神様はこのようにお語りになっています。 主人の財産を乱費している管理人の姿そのものではなかったでしょうか。豊かな絶えることのない命の水から目をそらし、自分の力を誇示するかのようになにごとかを成す時、その管理人は主人の財産を乱費するばかりか、主人の心とは遠く離れた所に行ってしまうものだと知らせられるように思います。 結局、不正な管理人とは私自身のことであったと聖書を読む時に思わせれてまいります。 しかし同時に、その管理人が、別の主人から多くの債務を持っている人たちのその債務を書き換えさせたということは、主人に債務のある人を許したということを意味しています。 そしてルカの福音書16章に戻りますと、主人はその行為を喜んで下さった、というだけではなくて、その管理人をも受け入れて下さったということを私たちは知らされるのであります。 本当に大きな喜びであり、希望でございます。 ま、ここでひとつ、本質的な問題を考えてみたいと思います。それは、果たして人は他人の罪を許すことができるのか、という点でございます。 ルカの福音書の5章の18節から21節をちょっと見てみたいと思います。 ルカの福音書5:18-21
パリサイ人たちの問い掛けは、まさに、人は他人の罪を赦すことができるのかどうか、という点にかかっておりました。そしてこのパリサイ人たちの問い掛けは、決して的外れなものではなかったと思います。 的が外れていたのは、イエスさまを彼らが見誤っていたからであります。彼らはイエスさまをただの詐欺師かなんかだと思ったのでしょう。 だから結局,問題は彼らがイエスさまを見抜くことができなかった、あるいは、信頼することができなかったということであり、人は果たして罪を赦すことができるのかどうかということに関しては、彼らの問い掛けはまた一理あるものだと思います。 云うまでもなく、先ほど読みました創世記のあの果実の果物の実を食べた話をみるように、人の罪とは、まず神様に対するものであります。そして実際信仰者たちは、そういうふうに受け取ってきたようであります。 一例を見てみたいと思います。サムエル記第U、12章9節。これはダビデがもうどうにも言い訳のできないことをしてしまった時のことであります。 サムエル記第U、12:9
「わたし」とは勿論主なる神であります。 サムエル記第U、12:9
まあ、神様がそういうふうにダビデに仰せになった時であります。13節、 サムエル記第U、12:13
ダビデの行いに対して神様は、あなたは主の言葉をさげすみ、私の目の前に悪を行ったと仰せになりました。ダビデがしたことは、ダビデと誰かの間の話ではなくて、それは私をさげすんだことだと、神様は仰せになっています。 そしてダビデもまた、私はまた、私は主に対して罪を犯しました、と答えています。 罪とはそういうものだと私たちは知らせられるのであります。 ルカの福音書の15章を見てみますと、15章の18節で、あの放蕩息子が悔い改めた時に、どう心に思ったかということが書かれています。 ルカの福音書15:18-19
放蕩息子は、父をないがしろにし、思いのままに生きようといたしましたけど、彼は挫折をし、父の所に戻ってまいりました。 その時の彼の心はここに記されています。 私は天に対して罪を犯した。 そして、最初にお読みいただきました、ルカの福音書の16章の1節から13節の所でも、あの、いろいろな債務を負っている人たちは、全部管理人の債務者とは書かれていないんです。主人の債務者と書かれています。 云うまでもなく、その債務は、ひとりひとりの持つ債務は、例え、目の前にいるのは管理者であっても、本質的には神様に対する債務である、ということをイエスさまはお語りになっています。 そして、あのコロサイ人への手紙では、罪を債務といっている、ということはさっき見たとおりでございます。 ですから、そういうふうに考えてみますと、本当のところは、私たちは罪を赦すことはできないのだ、と、いうことになってくるのではないかと思います。 いや、単に私たちが罪を赦すことができるかできないのではなくて、私たち自身が罪に定められるべき者だと、ローマ人への手紙の1章の最後から2章の初めにかけて書かれているのではないでしょうか。 ちょっとそのローマ人への手紙の1章から2章にかけて読んでみたいと思います。1章の29節から2章の1節まで読んでみたいと思います。 ローマ人への手紙1:29-32、2:1
29節から31節には、いろんな例が挙げられていますけど、そこには重いものと軽いもの、非常に大切なものと、まあ大したことのないもの、そういう区別はなされていないんです。一切は等しく死罪に当たる、と書かれています。そしてさばくあなたは同じことをしている、と聖書に書かれています。 胸に手を当てて考えてみる時、私はこのひとつひとつに対して全くそんなことはありませんと、イエスさまの前に申し上げることの出来る人はいないのではないかと思います。 本当にこういうことを思いますと、私たちは人の罪を赦すかどうかじゃなくて、まず私たちの罪が許されるかどうかが問題なのだ、ということに思い至るのではないかと思います。 罪を赦すことが出来るのは、神様だけであります。人間をお造り下さった方だけが、その罪を赦すことが出来るお方であることは云うまでもありません。 何故なら、私たちの罪は、全て神様に対する罪であります。創造者に対する罪であります。 だとすれば、その罪を赦すことの出来るのは創造者ご自身以外には有り得ない。そして私たちの罪を身代わりとなって負うことが出来るのは、やっぱり創造者ご自身なのではないでしょうか。 いい換えますと、罪のない人でなければ、私たちの罪の身代わりとなることは出来ないということであります。 罪のある私が死んでも、それは自分の罪のために死んだに過ぎません。自分の罪のためではなくて、人の罪のために死ぬことの出来るお方は、自分に罪のない、たった一点の罪の汚れのないお方でなければ有り得ない、ということは、いうまでもないことではないかと思います。 ペテロの手紙第Iの、2章の22節から24節はそのことははっきりと私たちに知らせてくれています。22節から24節を読んでみたいと思います。 ペテロの手紙第I、2:22-24
「キリストは罪を犯したことがなく」と書かれています。罪のないお方だけが、私たちの罪をその身に負って下さることが出来るのであります。そして神様の御心に一点の逆らうこともなく、御心に従い通すことの出来るお方だけが、神様から良しとしていただける・・・。 私たちの罪の赦しのために十字架に架かって下さった救いのみわざであったと知らせられるのではないかと思います。 私たちは罪を赦すということをよく申しますし、イエスさまもペテロに対して誰かが私に対して罪を犯した時、何度赦したらいいのでしょうかと尋ねた時に、無限に赦しなさいと仰せになりました。 ですけれども、イエスさまの目からご覧になる時、私たちが人の罪を赦すというようなことは、あの不正な管理人がしたことと全く同じなのではないでしょうか。 自分が主人の財産を乱費しておきながら、そのことを主人から指摘された時に、今度は他の人の罪を赦して、自分の罪をいっぱい背負いながら、せいぜい人の罪を赦してる。ま、その程度のものだと主はお語りになっています。 でもそれでいいと同時に主は仰せになっています。何故なら本当の赦しはイエスさまが完了して下さってる。あなたは、その主の御後に従う者になりなさい、と呼び掛けて下さっているからではないかと思います。 もうひとつ、あの、ルカの福音書の16章を読んでいて嬉しいことは、私自身が罪人であることにかわりがなくても、そして、一見主人からあなたは悪いことをしていると云われて、なお悪いことを重ねたように見えながらも、永遠の住まいに迎えていただけるという約束のみことばではないかと思います。 ちょっと読んでみたいと思います。ルカの福音書の16章9節。 ルカの福音書16:9
勿論、永遠の住まいに召して下さるのはイエスさまです。でも、そこには同じように罪人であった債務者たちが、既に招かれているということがここに記されています。 そして、その既に招かれている、自分と同じような債務者が喜んで出迎えてくれるということが、イエスさまの約束として与えられています。 何という喜びであり、希望でしょうか。私たちは、本当にたかだか不正な管理人のような者でしかなくても、主は永遠の住まいに招いて下さる。本当にイエスさまの御心を感謝のうちに知らせられる思いがいたします。 ま、このルカの福音書の16章は、不正、不正という言葉が何度も繰り返されまして、何となくその、管理人の悪さということだけが強調して受けとめられるように思いますけど、でも、不正の富とは、もう明らかでしょうけど、それは結局イエスさまが不正の富と仰せになり、不正の管理人と仰せになったのは、あなたが他人を赦しても、あなたが偉いのでもなく、あなたの誇りでもない、ただ、赦す資格のない者が赦されて、赦すだけだ。従って、他人を赦して自分を偉いとか、あるいは自分を立派だとかと考えないようにと、ま、そういう主のいましめの御心がこの言葉の中に宿っているのではないかと思います。 ま、以上、「赦す」ということについて考えてまいりましたけど、「赦す」ということを考えてまいりますとどうしても、もうひとつ「裁き」ということを思い浮かべてしまうのであります。 いうまでもなく、裁くことと赦すこととは正反対であります。 ですから裁くことについて考えますと、赦すということの意味が、また、別の観点から明らかになってくるのではないかと思います。ですから残された時間は少し裁くということについてみてみたいと思います。 ローマ人への手紙、2章、1節から8節を読んでみたいと思います。 ローマ人への手紙2:1-8
ここには、人間同士の裁きと、神様の裁きと、二つの裁きとが書かれていますけど、まず、人間同士の裁きを今日は考えてみたいと思います。 ま、ここでは、他人を裁くということと、その対極が悔い改めだと書かれているのではないでしょうか。 他人を裁くということと悔い改めが対比されている。そして、他人を裁くということの反対が、人を赦すということだとしたら、人を赦すということもまた悔い改めとの関わりの中で、実は私たちは考えるべき問題ではないかなと思わされてまいります。 結局、他人を裁くことも赦すことも、本当は私たちにはその資格はないということなのではないでしょうか。 どちらもイエスさまにのみ、あるいは主なる神にのみ出来ることであります。そしてこの所を読みますと、他人を裁くというのは、要するにその本人に悔い改めがないからだということなのではないかと思います。 他人を裁く時、人はよく他人の悔い改めを求めて裁きますけど、聖書はそんなことは云っていない、少なくともこの所は云っていないんです。 「あなたの悔い改めを」と、主は仰せになっているのではないかと思います。私たちはよく誤解をしてしまう。他人の悔い改めを求めてしまうのではないかと思います。 結局、そうであるなら、他人を許すにも実は悔い改めが必要である、ということになるのではないでしょうか。 ルカの福音書16章のお読みいただいたところの管理人にもう一度戻ってみますと、彼は心の中でこう申しています。3節です。 ルカの福音書16:3
まあ、全く僕と同じであります(笑)。でも彼がいっていることは、結局私はなーんと惨めな人間なんだろう、ということであります。彼は、主人から不正をしているといわれた時に、一言も弁解をしようとしませんでした。 いや実はああいう訳があってこういう訳があって、ということを彼は一切申し上げようとはしませんでした。そして、主人が語る通りを彼はそのまま受け止め、そして、ああなんと自分は惨めな人間なんだろうと、ここの所で心の中で語っています。 この叫びは、実は、使徒パウロの叫びでもあったのだと思います。 ローマ人への手紙の7章、15節から、 ローマ人への手紙7:15
ローマ人への手紙7:18-19
ローマ人への手紙7:24
あの、不正な管理人の姿は、叫びは、パウロの叫びと全く同じものであったと知らせられます。 そしてパウロは、誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか、私たちの主イエスキリストの故にただ感謝します、と、つないでおります。 ただ、十字架だけであります。私たちが自分の手でなし得ることは何ひとつない。本当に惨めの極み、惨めの塊でしかないけど、でも主に目を向ける時、私たちは喜びと希望をいただくことが出来るとパウロは語っています。 結局全てはここからはじまるのではないでしょうか。 何という惨めな人間だろうと、あの不正な管理人は叫びました。パウロも叫んでいます。そしてあのルカの福音書16章のちょっと前、15章にあの放蕩息子がありますけど、彼もまたそうだったんです。 なんという惨めな人間なんだろう、父の所へ帰ろう。それしかない。私たちは結局全てはここからはじまるのではないかと思います。 このところに立ちますと、他人を裁くことは考えられないと思います。反対に、当然のこととして、人を赦すということの意味もまた、明らかになってくるのではないかと思います。 今朝、実は『日々の光』を読んでおりました。本当に驚くほど、今日ここでご一緒に学んでまいりましたことを明らかに記している所でありました。びっくりいたしました。ま、そういうものだろうと思います。 少し、今日、8月17日(朝)の日々の光を読んでみたいと思います。 ヤコブの手紙5:16
創世記18:27-28
ルカの福音書23:34
マタイの福音書5:44
ヨハネの福音書17:9、20
ガラテヤ人への手紙6:2
ヤコブの手紙5:16-17
であります。 行きつく所はやっぱり祈りなのではないでしょうか。 日々の悔い改めと、日々の祈りだけが本当に人を赦すことが出来る、また、主に委ねることが出来るのではないでしょうか。 私たちは悔い改めが少なく、祈ることが少なく、裁きが多く、自分を義人する者ではないかと思います。本当に主の前にへりくだって悔い改めの日々を歩みたいと、今日、新たにまた思わされております。 悔い改めのない者は他人を裁きます。そして悔い改めのない者の赦しは、自己義認とうぬぼれへと落ち込むのではないかと思います。俺は赦してやったという気持ちに捕らえられてしまうのではないかと思います。 信じる者の間に裁き合う心がある時、それは他の人ではなくって、自分自身の悔い改めがないことを意味しているのだということを、深く心にとどめたいと思います。 そして同時に、悔い改めのない赦しは無責任となり、信じる者の集まりをサタンの罠に落とし込むのではないかとも思います。安易な赦しもそして安易な悔い改めも、私たちはあくまでも避けて、自分の悔い改めと祈りのうちに交わりと信仰の時を持ちたいと思うものであります。 どうもありがとうございました。 |