不正の富で


古田公人兄

(御代田、2002/08/17)

引用聖句:ルカの福音書16章1節-13節
1イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
2主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
3管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
5そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
8この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
10小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
13しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

3日か4日前だったんですけど、大学を卒業して10年ほどになる人と夕食を共にしたことがありました。そのとき、彼はこういうことを申しました。
会社に勤めていて、まあ、とても信頼できる人の会社だったので、本当に誠心誠意仕事をしてきた。でもその尊敬する人、あるいはその周囲の人、どちらかとははっきり聞かなかったんですけど、心にたくさん傷をつけられた。
で、考えてみると、その人は自分の心にそんなに多くの傷をつけたと多分気付いていないだろう、ということは自分もまた、他の人に気が付かないうちに同じだけの傷を与えていることが、与えているんだろうと思う。
だけど私にはその人を許すことができないんですけどどんなもんでしょう、というふうに話をお聞きいたしました。
まあ私はその時、いろいろと聖書のみことばも思い出しながら話をしておりましたけれども、今日は人を許すということについてご一緒にみことばから聞いてみたいと思います。

イエスさまはペテロの質問に対して、マタイの福音書の18章の21節、22節ですけれども、無限に人を許しなさいとお語りになりました。

マタイの福音書18:21-22
21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
22イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

ペテロが兄弟が私に対して罪を犯したら何度許すべきでしょうか、七度まででしょうか、ペテロとしては非常に心広い気持ちで言ったと思うんです。七度まででしょうか。
でもイエスさまはそれに対して七度の七十倍だと仰せになりました。無限に人を許しなさい。
イエスさまが人を許すことについてまとまった形でお語りになったところは、今お読みいただきましたルカによる福音書の16章の1節から13節ではないかと思います。
まちょっと読んでみますと、何か不正な管理人だとか不正の富だとかという言葉が目につくんですけど、でもイエスさまの御心は何かなと思いながら読んでみますと、それは主人がこの不正な管理人を誉めた、というところではないかと思います。

自分が悪いことっていうか、主人の財産を乱費しておきながら、主人からそのことを注意された時にもっと悪いことをしてるわけなんです。
主人からたくさんお金を借りてる人、物を借りてる人のその借金を割り引いたっていうことですから、一見したところ彼は忠告を受けて更に悪いことをしてるようなんですけど、その主人は、その理不尽だとも思える管理人の行為を誉めたと書かれています。
ここにイエスさまの御心がある、と、どうしても思えてなりません。
それは、もちろん主人は管理人がしたことを受け入れただけではなくて、主人が喜んだからだと思います。しかも9節の所で、

ルカの福音書16:9
9そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

と、イエスさまが仰せになっているということは、主人の喜びはイエスさまの喜びだったということなのではないでしょうか。
主人はそこまで言わなかったんですけど、イエスさまは永遠の住まいに彼は迎えられると仰せになっています。
結局イエスさまが債務のある者をどれだけ憐れんでいて下さったかということを私たちはやはりまた知らせられるように思います。
ここでは、債務とは小麦だとか油だとかと書かれていますけど、でも聖書全体を通してみるとき、債務とは罪そのものではないかと思います。

コロサイ人への手紙2章14節です。ま、13節から読んでみたいと思います。

コロサイ人への手紙2:13-14
13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
14いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

ルカの福音書の16章に戻りますと、彼は主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、と書かれています。
イエスさまは油だとか小麦だとかと例を取りながらも、私たちの罪の問題をお考えになっていたに違いないと思います。

じゃ管理人とは何なのかということですけど、少しその管理人のことも併せて考えてみたいと思います。
創世記1章26節です。

創世記1:26-27
26そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
27神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

と書かれています。海の魚、空の鳥、家畜、地を這う全てのものを支配させようと仰せになりましたけど、勿論私たちは全地の主人では有り得ません。
主人はあくまでも主なる神、天地創造の主であります。主がお造りになり、そしてそれを主はご覧になって、全ては良かった、とお語りになり、その前の25節の後ろですね、神は見て、それをよしとされた、神はご自身お造りになったすべてのものを良しとなさった、祝福なさってる。
その、その全地を支配するようにと神様がお造りくださいました人というものはあくまでもやっぱり管理人、あるいは執事といってもいいかと思います。

じゃ、その管理人はどうなったのかということでございます。創世記3章4節から6節です。

創世記3:4-6
4そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

管理人は、あくまでも主人の意思に従うべき、であります。
でもこの管理人は、すぐに神様の御心をないがしろにいたしました。取って食べてはならない、それに触れてもいけない、あなた方が死ぬといけないからだ、と神様が仰せになったと3節に書かれています。彼らはその戒めを知りながらも、蛇にそそのかされて、神様の戒めを破りました。
あなた方の目が開き、あなた方が神のようになり、という蛇の誘い掛けが女の心を動かし、そして二人は神様をないがしろにしてしまったのであります。
主人のようになりたい、と、神のようになりたいと思った二人は、結局、主人を主人としてではなく、自分と同じように扱いたいと思った、ということではないかと思います。
主人をないがしろにするということは、結局主人の財産を乱費している、とルカの福音書16章にあった、その管理人の姿をあらわしているのではないかと思います。
主人の財産を乱費している管理人とは、まさに主の御心にそむき、罪に捕らえられた人間そのものをあらわしているのだろうと思います。

そしてその人間がどうなったのかということは、そのあと8節から書かれています。ちょっと読んでみたいと思います。

創世記3:8
8そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

管理人は、常にご主人の意向を確かめながら、自分のしていることが果たして正しいことなのか、あるいは間違ったことなのかを絶えず反省し、また、主人と話をしながら管理にあたっていくべきであります。
人間で申しますと、いつも神様に祈って、イエスさまに祈って、ひとつひとつイエス様のお答えをいただきながら、人は励むべきものなのではないでしょうか。主人と管理人の間に、絶対に隔ての壁があってはならないということは云うまでもないことであります。
でも、木の実を取って食べたアダムとエバは、いや、神様のみことばにそむいたアダムとエバは、この時、神様の御顔を避けて園の木の間に身を隠しました。
とんでもないことが起こってしまったのであります。そうした管理人が成し得ることは、悲惨のひとことに尽きるのではないかと思います。
その一例が、エレミヤ書の2章の13節に挙げられています。とっても短いですけど、私はこの所を読むと、本当に神様がどれほど私たちの罪の姿を悲しまれているかということが、よーくこれ以上ないほどよくあらわされている所だと思います。

エレミヤ書2:13
13わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

豊かないのちの泉を捨てて、本当にすぐに涸れてしまう、いくら水を注いでも渇いてしまう、壊れた水ためを自分の手で掘る、そしていつも打ちひしがれている人間の姿を神様はこのようにお語りになっています。
主人の財産を乱費している管理人の姿そのものではなかったでしょうか。豊かな絶えることのない命の水から目をそらし、自分の力を誇示するかのようになにごとかを成す時、その管理人は主人の財産を乱費するばかりか、主人の心とは遠く離れた所に行ってしまうものだと知らせられるように思います。
結局、不正な管理人とは私自身のことであったと聖書を読む時に思わせれてまいります。

しかし同時に、その管理人が、別の主人から多くの債務を持っている人たちのその債務を書き換えさせたということは、主人に債務のある人を許したということを意味しています。
そしてルカの福音書16章に戻りますと、主人はその行為を喜んで下さった、というだけではなくて、その管理人をも受け入れて下さったということを私たちは知らされるのであります。
本当に大きな喜びであり、希望でございます。

ま、ここでひとつ、本質的な問題を考えてみたいと思います。それは、果たして人は他人の罪を許すことができるのか、という点でございます。
ルカの福音書の5章の18節から21節をちょっと見てみたいと思います。

ルカの福音書5:18-21
8するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
9しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。
20彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
21ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

パリサイ人たちの問い掛けは、まさに、人は他人の罪を赦すことができるのかどうか、という点にかかっておりました。そしてこのパリサイ人たちの問い掛けは、決して的外れなものではなかったと思います。
的が外れていたのは、イエスさまを彼らが見誤っていたからであります。彼らはイエスさまをただの詐欺師かなんかだと思ったのでしょう。
だから結局,問題は彼らがイエスさまを見抜くことができなかった、あるいは、信頼することができなかったということであり、人は果たして罪を赦すことができるのかどうかということに関しては、彼らの問い掛けはまた一理あるものだと思います。
云うまでもなく、先ほど読みました創世記のあの果実の果物の実を食べた話をみるように、人の罪とは、まず神様に対するものであります。そして実際信仰者たちは、そういうふうに受け取ってきたようであります。
一例を見てみたいと思います。サムエル記第U、12章9節。これはダビデがもうどうにも言い訳のできないことをしてしまった時のことであります。

サムエル記第U、12:9
9それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。

「わたし」とは勿論主なる神であります。

サムエル記第U、12:9
9あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。

まあ、神様がそういうふうにダビデに仰せになった時であります。13節、

サムエル記第U、12:13
13ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」

ダビデの行いに対して神様は、あなたは主の言葉をさげすみ、私の目の前に悪を行ったと仰せになりました。ダビデがしたことは、ダビデと誰かの間の話ではなくて、それは私をさげすんだことだと、神様は仰せになっています。
そしてダビデもまた、私はまた、私は主に対して罪を犯しました、と答えています。
罪とはそういうものだと私たちは知らせられるのであります。
ルカの福音書の15章を見てみますと、15章の18節で、あの放蕩息子が悔い改めた時に、どう心に思ったかということが書かれています。

ルカの福音書15:18-19
18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。

放蕩息子は、父をないがしろにし、思いのままに生きようといたしましたけど、彼は挫折をし、父の所に戻ってまいりました。
その時の彼の心はここに記されています。

私は天に対して罪を犯した。

そして、最初にお読みいただきました、ルカの福音書の16章の1節から13節の所でも、あの、いろいろな債務を負っている人たちは、全部管理人の債務者とは書かれていないんです。主人の債務者と書かれています。
云うまでもなく、その債務は、ひとりひとりの持つ債務は、例え、目の前にいるのは管理者であっても、本質的には神様に対する債務である、ということをイエスさまはお語りになっています。
そして、あのコロサイ人への手紙では、罪を債務といっている、ということはさっき見たとおりでございます。
ですから、そういうふうに考えてみますと、本当のところは、私たちは罪を赦すことはできないのだ、と、いうことになってくるのではないかと思います。
いや、単に私たちが罪を赦すことができるかできないのではなくて、私たち自身が罪に定められるべき者だと、ローマ人への手紙の1章の最後から2章の初めにかけて書かれているのではないでしょうか。

ちょっとそのローマ人への手紙の1章から2章にかけて読んでみたいと思います。1章の29節から2章の1節まで読んでみたいと思います。

ローマ人への手紙1:29-32、2:1
1:29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1:31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
2:1ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

29節から31節には、いろんな例が挙げられていますけど、そこには重いものと軽いもの、非常に大切なものと、まあ大したことのないもの、そういう区別はなされていないんです。一切は等しく死罪に当たる、と書かれています。そしてさばくあなたは同じことをしている、と聖書に書かれています。
胸に手を当てて考えてみる時、私はこのひとつひとつに対して全くそんなことはありませんと、イエスさまの前に申し上げることの出来る人はいないのではないかと思います。

本当にこういうことを思いますと、私たちは人の罪を赦すかどうかじゃなくて、まず私たちの罪が許されるかどうかが問題なのだ、ということに思い至るのではないかと思います。
罪を赦すことが出来るのは、神様だけであります。人間をお造り下さった方だけが、その罪を赦すことが出来るお方であることは云うまでもありません。
何故なら、私たちの罪は、全て神様に対する罪であります。創造者に対する罪であります。
だとすれば、その罪を赦すことの出来るのは創造者ご自身以外には有り得ない。そして私たちの罪を身代わりとなって負うことが出来るのは、やっぱり創造者ご自身なのではないでしょうか。
いい換えますと、罪のない人でなければ、私たちの罪の身代わりとなることは出来ないということであります。
罪のある私が死んでも、それは自分の罪のために死んだに過ぎません。自分の罪のためではなくて、人の罪のために死ぬことの出来るお方は、自分に罪のない、たった一点の罪の汚れのないお方でなければ有り得ない、ということは、いうまでもないことではないかと思います。

ペテロの手紙第Iの、2章の22節から24節はそのことははっきりと私たちに知らせてくれています。22節から24節を読んでみたいと思います。

ペテロの手紙第I、2:22-24
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

「キリストは罪を犯したことがなく」と書かれています。罪のないお方だけが、私たちの罪をその身に負って下さることが出来るのであります。そして神様の御心に一点の逆らうこともなく、御心に従い通すことの出来るお方だけが、神様から良しとしていただける・・・。

私たちの罪の赦しのために十字架に架かって下さった救いのみわざであったと知らせられるのではないかと思います。
私たちは罪を赦すということをよく申しますし、イエスさまもペテロに対して誰かが私に対して罪を犯した時、何度赦したらいいのでしょうかと尋ねた時に、無限に赦しなさいと仰せになりました。
ですけれども、イエスさまの目からご覧になる時、私たちが人の罪を赦すというようなことは、あの不正な管理人がしたことと全く同じなのではないでしょうか。
自分が主人の財産を乱費しておきながら、そのことを主人から指摘された時に、今度は他の人の罪を赦して、自分の罪をいっぱい背負いながら、せいぜい人の罪を赦してる。ま、その程度のものだと主はお語りになっています。
でもそれでいいと同時に主は仰せになっています。何故なら本当の赦しはイエスさまが完了して下さってる。あなたは、その主の御後に従う者になりなさい、と呼び掛けて下さっているからではないかと思います。

もうひとつ、あの、ルカの福音書の16章を読んでいて嬉しいことは、私自身が罪人であることにかわりがなくても、そして、一見主人からあなたは悪いことをしていると云われて、なお悪いことを重ねたように見えながらも、永遠の住まいに迎えていただけるという約束のみことばではないかと思います。
ちょっと読んでみたいと思います。ルカの福音書の16章9節。

ルカの福音書16:9
9そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

勿論、永遠の住まいに召して下さるのはイエスさまです。でも、そこには同じように罪人であった債務者たちが、既に招かれているということがここに記されています。
そして、その既に招かれている、自分と同じような債務者が喜んで出迎えてくれるということが、イエスさまの約束として与えられています。
何という喜びであり、希望でしょうか。私たちは、本当にたかだか不正な管理人のような者でしかなくても、主は永遠の住まいに招いて下さる。本当にイエスさまの御心を感謝のうちに知らせられる思いがいたします。
ま、このルカの福音書の16章は、不正、不正という言葉が何度も繰り返されまして、何となくその、管理人の悪さということだけが強調して受けとめられるように思いますけど、でも、不正の富とは、もう明らかでしょうけど、それは結局イエスさまが不正の富と仰せになり、不正の管理人と仰せになったのは、あなたが他人を赦しても、あなたが偉いのでもなく、あなたの誇りでもない、ただ、赦す資格のない者が赦されて、赦すだけだ。従って、他人を赦して自分を偉いとか、あるいは自分を立派だとかと考えないようにと、ま、そういう主のいましめの御心がこの言葉の中に宿っているのではないかと思います。

ま、以上、「赦す」ということについて考えてまいりましたけど、「赦す」ということを考えてまいりますとどうしても、もうひとつ「裁き」ということを思い浮かべてしまうのであります。

いうまでもなく、裁くことと赦すこととは正反対であります。
ですから裁くことについて考えますと、赦すということの意味が、また、別の観点から明らかになってくるのではないかと思います。ですから残された時間は少し裁くということについてみてみたいと思います。
ローマ人への手紙、2章、1節から8節を読んでみたいと思います。

ローマ人への手紙2:1-8
1ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
2私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
3そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
7忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
8党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

ここには、人間同士の裁きと、神様の裁きと、二つの裁きとが書かれていますけど、まず、人間同士の裁きを今日は考えてみたいと思います。
ま、ここでは、他人を裁くということと、その対極が悔い改めだと書かれているのではないでしょうか。
他人を裁くということと悔い改めが対比されている。そして、他人を裁くということの反対が、人を赦すということだとしたら、人を赦すということもまた悔い改めとの関わりの中で、実は私たちは考えるべき問題ではないかなと思わされてまいります。
結局、他人を裁くことも赦すことも、本当は私たちにはその資格はないということなのではないでしょうか。
どちらもイエスさまにのみ、あるいは主なる神にのみ出来ることであります。そしてこの所を読みますと、他人を裁くというのは、要するにその本人に悔い改めがないからだということなのではないかと思います。
他人を裁く時、人はよく他人の悔い改めを求めて裁きますけど、聖書はそんなことは云っていない、少なくともこの所は云っていないんです。
「あなたの悔い改めを」と、主は仰せになっているのではないかと思います。私たちはよく誤解をしてしまう。他人の悔い改めを求めてしまうのではないかと思います。
結局、そうであるなら、他人を許すにも実は悔い改めが必要である、ということになるのではないでしょうか。
ルカの福音書16章のお読みいただいたところの管理人にもう一度戻ってみますと、彼は心の中でこう申しています。3節です。

ルカの福音書16:3
3管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。

まあ、全く僕と同じであります(笑)。でも彼がいっていることは、結局私はなーんと惨めな人間なんだろう、ということであります。彼は、主人から不正をしているといわれた時に、一言も弁解をしようとしませんでした。
いや実はああいう訳があってこういう訳があって、ということを彼は一切申し上げようとはしませんでした。そして、主人が語る通りを彼はそのまま受け止め、そして、ああなんと自分は惨めな人間なんだろうと、ここの所で心の中で語っています。
この叫びは、実は、使徒パウロの叫びでもあったのだと思います。

ローマ人への手紙の7章、15節から、

ローマ人への手紙7:15
15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

ローマ人への手紙7:18-19
18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。

あの、不正な管理人の姿は、叫びは、パウロの叫びと全く同じものであったと知らせられます。
そしてパウロは、誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか、私たちの主イエスキリストの故にただ感謝します、と、つないでおります。
ただ、十字架だけであります。私たちが自分の手でなし得ることは何ひとつない。本当に惨めの極み、惨めの塊でしかないけど、でも主に目を向ける時、私たちは喜びと希望をいただくことが出来るとパウロは語っています。
結局全てはここからはじまるのではないでしょうか。
何という惨めな人間だろうと、あの不正な管理人は叫びました。パウロも叫んでいます。そしてあのルカの福音書16章のちょっと前、15章にあの放蕩息子がありますけど、彼もまたそうだったんです。
なんという惨めな人間なんだろう、父の所へ帰ろう。それしかない。私たちは結局全てはここからはじまるのではないかと思います。
このところに立ちますと、他人を裁くことは考えられないと思います。反対に、当然のこととして、人を赦すということの意味もまた、明らかになってくるのではないかと思います。

今朝、実は『日々の光』を読んでおりました。本当に驚くほど、今日ここでご一緒に学んでまいりましたことを明らかに記している所でありました。びっくりいたしました。ま、そういうものだろうと思います。
少し、今日、8月17日(朝)の日々の光を読んでみたいと思います。

ヤコブの手紙5:16
16互いのために祈りなさい。いやされるためです。

創世記18:27-28
27アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
28もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」

ルカの福音書23:34
34父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

マタイの福音書5:44
44迫害する者のために祈りなさい。

ヨハネの福音書17:9、20
9わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
20わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

ガラテヤ人への手紙6:2
2互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

ヤコブの手紙5:16-17
16ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
17エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

であります。
行きつく所はやっぱり祈りなのではないでしょうか。
日々の悔い改めと、日々の祈りだけが本当に人を赦すことが出来る、また、主に委ねることが出来るのではないでしょうか。
私たちは悔い改めが少なく、祈ることが少なく、裁きが多く、自分を義人する者ではないかと思います。本当に主の前にへりくだって悔い改めの日々を歩みたいと、今日、新たにまた思わされております。
悔い改めのない者は他人を裁きます。そして悔い改めのない者の赦しは、自己義認とうぬぼれへと落ち込むのではないかと思います。俺は赦してやったという気持ちに捕らえられてしまうのではないかと思います。
信じる者の間に裁き合う心がある時、それは他の人ではなくって、自分自身の悔い改めがないことを意味しているのだということを、深く心にとどめたいと思います。
そして同時に、悔い改めのない赦しは無責任となり、信じる者の集まりをサタンの罠に落とし込むのではないかとも思います。安易な赦しもそして安易な悔い改めも、私たちはあくまでも避けて、自分の悔い改めと祈りのうちに交わりと信仰の時を持ちたいと思うものであります。
どうもありがとうございました。




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