引用聖句:マタイの福音書9章1節-8節
今お読み頂いた箇所は、もちろんイエス様のことを紹介しているところです。そして、イエス様が権威を持つお方であることをはっきり記しています。 イエス様は創造主なるお方、すなわち主なる神と同じ権威をお持ちのお方です。 イエス様は、罪に捕らえられてむなしく過ごす人間を憐れまれて、人として来てくださいました。この憐れみの故に、ご自身が権威と栄光の主であるイエス様が、ご自身十字架にかかって死んでくださいました。 罪と無縁であるイエス様の十字架で流された尊い血によって、私たちの罪は、すべて贖われました。 それ故私たちは、罪赦された者として、主なる神の前に立つことが許されています。 これは本当に恵みによるものであります。 お読み頂きましたみことばが示すように、この中風の人はただイエス様のみことばによって立って歩くことができるようになりました。 イエス様が、手を出して何かをなさったのでもなく、何かをお与えになったのでもなく、ただみことばだけが生きてこの人のうちに働き、この人は歩き始めました。 人々は、そのような権威をお与えになった神を、恐れ、また崇めたと8節に記されています。 私たちもまたイエス様を、主なる神と同じ権威と栄光を持つお方として恐れ、崇めることが求められています。 今日は、その生きて働くイエス様のみことばについて、ご一緒に考えてみたいと思います。 イエス様のみことばを考える前に、そもそも言葉とはどういうものかということを短く考えてみたいと思います。 第1に言葉は、まずその人の意志を現します。私はこう考えるとか、明日どこそこへ行きたいとか、あるいは何々をしたいと言う時に、その言葉は、その人の意志を表します。 そして言葉が意志だからこそ、イエス様は主と告白する者は救われます。 ローマ人への手紙10:10
口から出る言葉こそが、私たちの救いのひとつの根拠としてイエス様が認めてくださることをそこに記されています。 同時に、言葉が意志であるが故に、人は言葉によって罪に定められます。 マタイの福音書12:37
いうまでもなく、言葉が心から出てくるものであるからではないのでしょうか。 マタイの福音書15:18-19
言葉は意志を表すものだということは、心にあるものを表すものだということが明らかであろうと思います。 主なる神もまた言葉を用いて、ご自身の御心と計画を私達に明らかにしてくださっています。 アモス書3:7
主なる神はすべてのご計画を、また御心を、言葉として明らかにしてくださっていると示されています。 そしてイエス様は、創造主なる主なる神の栄光の現われであり、主なる神と同じ権威と栄光をお持ちになっています。 人として、この世においでくださいましたけれども、イエス様はこの世におられる間も、主なる神の御心とご計画を、言葉で明らかにしてくださいました。 イエス様ご自身の証しによれば、イエス様の言葉は、主なる神のお言葉として明らかにしておられます。 ヨハネの福音書14:24
イエス様のみことばは、主なる神の言葉として私は口から出していると、イエス様はお語りになっています。 イエス様のみことばが、主なる神の言葉であれば、それは人間の言葉とは質的に違うのではないかと言えるのではないかと思います。 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話されるとヨハネの福音書3章の34節にありますように、またイエス様が主なる神のみことばについて証しなさったみことば、あなたのみことばは真理ですと言うヨハネの福音書17章7節の言葉が明らかにされていますように、イエス様のみことばは、変わることのない真理の言葉でございます。 ですから、イエス様のみことばが主なる神のみことばであり、変わることのない真理の言葉であるが故に、私たちはこのイエス様のみことばを恐れ、同時に全き信仰を持って受け止めることが求められています。 言葉について、もうひとつ考えますときに思い浮かぶことは、言葉は意志の表明に留まらず、話した人の人格を現すということではないのでしょうか。 私たちの日常生活の中で、そんなことを言うとはひどいやつだとか、あるいは、あのようなことを言える彼を見直すとか、そういうふうに言葉を人格として受け止めております。 主なる神の場合も、同じではないかと思います。 ヨハネの福音書1:1
主なる神について、人格ということを当てはめるのはあまりよくないのかもしれませんが、私たちの言葉としては、ここに示されている言葉は、主なる神の場合も言葉はなんと言うのでしょう、神様の似姿あるいは普通の言葉で言えば人格を現しています。 「初めにことばがあった。ことばは、神とともにあった。ことばは神であった。」、そしてそのことばは、人となって私たちの間に住まわれたひとり子なるイエス・キリストであると、ヨハネの福音書は証しをしています。 イエス様の言葉は、主なる神の言葉であり、従って主なる神の人格を現すものであり、したがって、主なる神と同じ栄光と権威の現われであると、私たちはイエス様のみことばを受け取るべきであろうと思います。 このように主なる神と同じ権威と栄光をお持ちであり、イエス様の言葉もまた、永遠に変わることのない主なる神の御意志と人格を現すことを見て参りました。 人間の言葉とは違って、主なる神の言葉はすべてに意味があり、そればかりか人間の言葉とは違う無限の力を持ち、あの中風の人が、ただみことばによって起きて歩くことができたように、私たち一人一人のうちに生きて働いています。 私たち一人一人のうちだけではなくて、そもそもこの全宇宙において、主なる神とイエス様のみことばは、秩序を定めそのすべてを支配しておられます。 そのことは、まず天と地の創造の初めにおいて、私たちは確かめることができます。 創世記1:1-3
ただみことばによって光は生じました。イエス様がみことばを、主なる神がみことばをご自身の意志として明らかにされたときに、私たちの目に見えるものが現われて参りました。 イエス様のみことばこそが、すべてのものを生み出す力であると、私たちは知らせられて参ります。 そしてヘブル人への手紙には、万物をみことばによって保っておられますと記されています。 ヘブル人への手紙1:2-3
万物は御子によって造られたと記されています。光よあれと仰せになった時に光ができた。 そして御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の現れであり、みことばによって生きて働くみことばによって、すべてを全世界と全宇宙を支配するみことばによって、万物の御心にかなうものとして保っておられると記されています。 みことばが創造の初めに先立って、そしてその万物の存在の終わりの時に至るまで、生きて働いていることが明らかにされているとすれば、主なる神もまた、そして御子であるイエス様もまた永遠に変わることのないお方であると言えるのではないかと思います。 主である私が変わることはないと、マラキ書の3章の6節で、主なる神はお語りになっています。 マラキ書3:6
すべてのものは変わりゆく、天地もまた変わりゆくけれども、主である私は変わることがない。 これこそ、主なる神の完全なそして本当に欠けるところのない自己紹介であると言っていいのではないかと思います。 そのうえで、イエス様もまた同じことをヨハネの黙示録の1章の17節で明らかにしてくださいました。 ヨハネの黙示録1:17-18
イエス様は今見て参りましたように、天地の創造に先立ってすでに存在なさり、そして天地の創造がイエス様によって成し遂げられ、この世のものがたとえすべて滅び去ってもなお天地をお造りになったお方は存在し続けるとお語りになっています。 さきほど見ましたヘブル人への手紙の言葉にあったように、イエス様のみことばは万物を保つ力であり、ですからそのみことばは当然のこととして、天地が滅びてもなお存在し続けます。 そのことを、イエス様ご自身が、「この天地は滅び去ります。しかし、私の言葉は、決して滅びることはありません。」とマタイの福音書24章の35節で、明らかにしてくださったのです。 マタイの福音書24:35
イエス様のみこばはイエス様のご意志であり、必ず成し遂げられるのです。イエス様にはそれだけの権威があり、また栄光をお持ちです。 この方のみことばは、今も大自然の中に、そして私たち一人一人の中に生きて働き、実を結びつけていると言えるのではないかと思います。 そのことをイザヤ書の46章10節は、私たちにすでに明らかにしてくださっています。 イザヤ書46:10
そういうふうに、主はご自身のみことばについて、また御心について、そしてご自身の権威と栄光について明らかにしてくださっています。 見て参りましたように、イエス様のみことばはイエス様と同じように、主なる神と等しい権威を持つ真理のみことばです。 そしてそれは、単なる言葉に留まらずに生きて働く神様の御力であると、聖書は記しています。私たちひとりひとりが、イエス様との出会いの経験を通して、そのことをまた体験させて頂いていると言っていいのではないかと思います。 最後に、私たちはどういう姿勢でイエス様のみことばの前に立つべきかについて、聖書のみことばから何カ所か引きながら、考えてみたいと思います。 みことばは主なる神のみことばであり、イエス様ご自身のみことばであるとともに、永遠に変わらない真理のみことばであるとすれば、私たちはただ漫然とそのみことばを耳にし目にするに留まってはならないということを、何カ所かみことばを通して、ご一緒に考えたいと思います。 まず旧約聖書から、 詩篇119:161
私たちが本当に恐れるべきものと恐れる必要のないものとが、ここに対比されています。 この世にあって、人は、迫害する君主を、支配者を、権力者を、あるいは身近な者を恐れますけれども、しかし私の心はあなたのみことばを恐れていますと、ここに祈り人は、祈っています。 本当に恐れるべきもの。それは主なる神とともに、御子イエス様とともに、そのみことばであると記されています。 詩篇119:127
みことばを恐れるだけではなくて、「愛する。」ものであるとここに記されています。 みことばを恐れるだけでは、私たちはやっぱり息苦しくなってくるのかもしれません。みことばを恐れ、しかも愛する時、私たちの心は満たされて参ります。 目に見える金よりも、人々が、これ以上大切にするものはないと思う純金よりもみことばを愛する時、私たちの心は絶えざる喜びに満たされてくることが記されています。 でも、みことばは恐れ、愛するに留まらずに、私たちはみことばを信じることが大切であるとイエス様はお語りになっています。 ヨハネの福音書5:24
みことばを恐れ、みことばを愛し、同時にどのような時にもみことばに信頼し、みことばを通してお語りくださっているイエス様に信頼することの大切さが、ここに記されています。 ただ、みことばを信じることを通してのみ、私たちはさばきにあうことがなく、死から命に移っているとイエス様が語りくださっています。 その時、私たちはイエス様とともに歩む者とされているのではないでしょうか。 ヨハネの福音書8:31-32
とどまること。居続けること。いつも、みことばと共にあること。それこそ私たちが、イエス様をもっと深く知り、そしてイエス様は私たちを完全に解放し自由にしてくださると約束がなされています。 目に見えるものや、過去を恐れることなく、私たちはイエス様の完全な守りのうちにあって、生きることができる。みことばに留まること。それが大切であることが記されています。 そしてみことばに留まることとは、最初に読みました、みことばを恐れること、みことばを愛することでもあると言えるのではないかと思います。 もうひとつ最後に開いてみましょう。 テモテへの手紙第II、4:2
みことばは、川の水が流れ込む池のように、そこに留まっていてはならないとイエス様はお語りになります。あなたに流れ込んだ恵みのみことばは、あなたからまた流れ出て、多くの人々を潤しなさいとイエス様はお語りくださっています。 みことばを恐れ、みことばを愛し、みことばに信頼し、みことばに留まり、その時私たちのうちからみことばが流れ出て、時が良くても悪くても寛容を尽くし、忍耐を持ってみことばを宣べ伝えなさいと記されています。 考えて参りましたように、イエス様を愛するとはみことばを愛することであります。みことばに従うこととは、イエス様に従うことであります。イエス様を恐れるとは、みことばを恐れることであります。 みことばは、イエス様のイエス様ご自身の権威と栄光を持つものであり、恐れと信頼をもってみことばを受けるなら、私たちはどのような時にも、喜びと希望を持って歩むことができることを、約束されています。 なぜならみことばこそが霊であり、命であり、また私たちをイエス様のもとにいつまでも変わることなく留めてくださる神の力であるからであります。 3箇所ほど、みことばを読んで終わりたいと思います。 ヨハネの福音書6:63
生きて働き、根本的にあなたを新しい者に変え、そして、あなたを命の中に導き留めるものがみことばです。 使徒の働き20:32
みことばこそが、私たちをイエス様に似た者と変えて成長させてくださると。人々の中にあって、御国を継ぐ者としてくださる。 最後に、 ヨハネの福音書12:48
先にいくつかみことばの前に私たちはどのように立つべきかということを御言葉から見て参りましたけれども、今、ともにお読みしました3つのみことばは、みことばがどのように私たちのうちに生きて働いてくださるかと言うことが記されています。 みことばは、みことばを受けることは恵みそのものですけど、同時に、みことばを拒む時、私たちはみことばによって裁かれるのだとここに明らかにしています。 本当に、愛すべきものはみことばであり、恐れるべきものはみことばであることを私たちは知らされます。ただ、みことばに留まり続けること、このことを生涯心に留めて歩みたいと思います。どうも、ありがとうございます。 |