広さ、長さ、高さ、深さ


古田公人兄

(テープ聞き取り、2005/11/19)

引用聖句:エペソ人への手紙3章17節-19節
17こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

今、兄弟にお読みいただきました18節のみことばの中に、広さ、長さ、高さ、深さと記されています。
これはイエス様の愛の大きさを単に象徴しているだけではないというふうに思います。イエス様は生きておられ、イエス様の愛は具体的、個別的なものだからでございます。

例えば、ある通りに沿ってビルが立ち並んでいるとします。そして、何かの目的を持ってそのビルのひとつを買いたいと思う人がいるといたします。
そうしますと、その人はそのビルの広さ、道路に面した長さ、高さ、地下の深さなどを当然のこととして、どれだけか知りたいと思うのではないでしょうか。そしてそれが期待通りのものであったら、何としてでもそれを手に入れたいと思うのだろうと思います。
もちろんイエス様の愛は建物とは違いますから、みことばにもありますように、「人知をはるかに越えた」と記されていますから、到底私たちの知り得ないものであり、また、頭で敢えて考えて知ろうとしますと、返って小さなものにしてしまうのではないかと思います。

しかし、みことばによってその広さ、長さ、高さ、深さを知ることができますと、私たちはすでに受け、また、今も受けているイエス様の愛がどれほど大きいかを知ることができるのではないのでしょうか。
そうしますと、期待通りの家、建物を見つけた人が、何としてでもその家を、建物を手に入れたいと思うのと同じように、私たちもイエス様をもっと愛したいと思うようになりますし、また、愛するようになるのではないでしょうか。もっと主に信頼したいと思うでしょうし、また、主を証ししたいとも思うのではないでしょうか。
イエス様が再び来られるのをわくわくしながら待つことができる。それはイエス様を知ることによって私たちは、そういうふうにしていただくことができるのではないかと思います。
ですからこの広さ、長さ、高さ、深さを今日はご一緒に考えてみたいと思います。

まず「広さ」ですけれど、広いということは、いうまでもなくグラウンドが広いとか、建物が広いとか。その、やっぱり一番広いのは、見渡す限りということではないでしょうか。
そうしますとそれは、イエス様の無限の、あるいは無差別の愛というふうに言えるのだろうと思います。
マタイの福音書11章28節。よく私たちが記憶に留めているみことばだろうと思いますけれども、

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

もう一ヶ所、

ヨハネの福音書4:14
14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

今お読みしました二つのみことばは、たぶん同じことを意味しているのだろうと思いますけれども、マタイの福音書の中では、すべて、疲れた人、そして今このヨハネの福音書では、だれでも、と記されています。
イエス様は手を伸ばして、さあ、だれでもみな、と招いていてくださいます。あなたがだれであっても、たとえこの世の人たちからは阻害されていても、また、どうしようもない者だと見なされていても、わたしの愛からもれることはない。そう呼びかけていてくださいます。

また、どれほどみじめであっても、わたしの食卓に着くことを遠慮する必要はない。わたしがあなたとともに食事をすることを望んでいるのだからと、主は呼びかけてくださいます。
あるいはまた、取り返しのつかないことをしてしまって、どうしたら良いのかわからない。いったい償いができるのかどうか、それさえわからない。そうであっても、わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます。わたしが、させてあげます。
これがイエス様のみこころです。いうまでもなく、宗教家のことばとは全く違う。そのことを思わせていただくのでございます。

次は「長い」ですけれど、長いということは、線路は続くよどこまでもという歌がありますけれど、やっぱり、どこまでも続くということを意味しているのだろうと思います。
そうしますと、それは捜し出してくださる。どこであっても捜し出してくださる愛であり、永遠までの愛ということを意味しているのではないでしょうか。
私は、どこまでも捜し出してくださる愛と言えばいつでも、私が行き着くところはルカの福音書19章のザアカイの物語でございます。

成功したザアカイが自分の生きてきた生き方を振り返ってみたときに、いったい何のために自分は生きてきたのだろう。
本当に人の悲しむことを、人の嫌がることを私は金儲けのためにしてきた。そのことを思って彼は、いったい私はこのままではどうなるのだろうと、心の中で本当に深く探測をしていたときに、イエス様はわざわざ彼を捜して、捜し出そうとして、エリコの町までおいでくださいました。

ルカの福音書19:10
10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

とイエス様は仰せになっています。

だれも知らないザアカイの心の痛みをイエス様はご存知でした。「ザアカイ。今日はあなたのところに泊まることにしてあるから。」そのみことばとともにイエス様の光がザアカイの心の中に差し込み、そしてザアカイはイエス様の前に悔い改めをすることができ、救いを受けることができ、彼は新しい歩みを始めています。
「失われた人を捜して救うために来た。」とイエス様が仰っていますように、本当にイエス様はいなくなった一匹の羊でさえも惜しんで捜し出してくださいます。
百匹羊がいたら、九十九匹はいるのだから、もういいやとはお考えにならない。たとえ一匹であっても惜しんでくださる。同じように、わたしはあなたがどこで、どのようにしていてもあなたを捜し出そう。ヒマラヤの山の上にいても、太平洋の海の中にいてもあなたを捜し出そう。たとえ着ているものが変わり、表情がすっかり変わっていても、あなたを捜し出そうとイエス様は言ってくださいます。

もちろん色々な理由で人前に出たくなくても、あるいは自分の意思に反して、どこかに捕えられていても、わたしはあなたを捜し出そうと語ってくださいます。
また、それとは対照的に、表面的には豊かで、幸せで、何一つ不自由はないように見えても、イエス様はその心の中の孤独をつぶさに知ってくださいます。
それがザアカイでした。だからわたしはあなたを捜し出そうとお語りくださっています。

長さ、というときに、もうひとつやっぱり、永遠の愛というものが考えられるのではないでしょうか。

エレミヤ書31:3
3主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

私たちをお造りくださった、そのお方のみことばでございます。イエス様はアブラハムに対し、

創世記22:18
18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束なさいましたけれども、それは本当に長い時間を経てイエス様によって実現されています。
ですけれど、それよりもはるか以前、まだ世界のもといの置かれる前から私たちをキリストのうちに選んでくださっていたのでございます。
世の中に「永遠」というものがあるとすれば、このイエス様の愛こそが本当の意味の永遠でございます。

実態の無い永遠などというものは、言葉はあっても意味はありませんけれど、イエス様の永遠は、愛は本当の意味の永遠であると私たちはそのとおりに受け取ることができるのではないかと思います。
この世は移り変わってまいりますけれど、主なる神は変わることのないお方でございます。「わたしはあなたを決して見捨てない。」、そのみことばは文字通りに、決して見捨てないと約束をしてくださっています。

大切なあなたを、そしてわたしがあなたに与えた愛を、わたしは、あなたが奪われることのないように、眠ることもなく、まどろむこともなくそれを守ろうと言ってくださっています。
わたしはあなたのもの。あなたはわたしのもの。これほどまでにイエス様が愛してくださっている。そのことを私たちはやっぱり忘れてはならないのではないかと思います。

三つ目は、高いということでございます。広さ、長さ、そして高さ。
高いということは、愛の場合には崇高であるということではないでしょうか。あるいは、混じりけが無いということを意味していると言ってもいいと思います。
いくつかみことばから見てみたいと思います。イエス様が十字架にお架かりになった時、十字架の上でイエス様が祈ってくださったみことばでございます。

ルカの福音書23:34
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

いうまでもなく彼らとは、私たち一人一人を意味しています。
もう一ヶ所、

エペソ人への手紙2:4-6
4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
6キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それはただ恵みによるのですと記されています。
私たちに何かとりえがあるからでもなく、私たちが何かイエス様のために役に立つことをしたからでもなく、ただ一方的に、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかわからないのです。」と、そういうふうに、本当に主の目にはそういう者でしかないのに、主は一方的に恵みとして生かし、よみがえらせ、天の所にすわらせてくださいましたと記されています。

イエス様は、「わたしはあなたを愛している。」と仰ってくださいます。
「あなたがいい人だからではなく、力があるからでもなく、美しいからでもない。わたしの愛は取り引きするようなものではないから、たとえあなたがこの世では何の価値もない者であっても、最高のものを無償で与えよう。あなたのために祈ろう。
わたしとともに天の所にすわろうではありませんか。」と呼びかけていてくださいます。

ですけれど、イエス様の愛は本当に崇高なることこの上も無い愛でありますから、小さな計算によって私たちを扱うことをなさいません。

ヘブル人への手紙12:11
11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

ここに記されていることは、懲らしめ、ということばで示されています。
もちろんぼくたちにはそのとき、そのときは嬉しいものではありませんけれど、後になると、わかる。そうお語りくださっています。
なぜならイエス様は、わたしはあなたに必要なものを知っているとお語りくださるからでございます。

それを受けることが今はあなたにつらいかもしれない。たとえあなたに理解できなくても、そのために一時的にあなたの心がわたしから離れることがあるかもしれないけれど、でも必要ならわたしはそれを行なおうと、イエス様はお語りくださいます。
でもわたしは決してあなたを一人では放り出すことはしない。わたしもあなたとともに苦しみ、しのび、耐えよう。そして脱出の道を備えようと約束をしてくださっています。
だからこそ私たちは後になると、これによって平安な義の実を結ぶことができる。それがイエス様の約束であり、また、必ず成し遂げてくださる約束であると言えるのではないかと思います。

最後は、深い、ということでございます。
いうまでもなく深いとは、底知れぬところまでということではないでしょうか。徹底的に、且つ、最底辺にまでの間と言っていいのではないかと思います。
そのひとつの象徴がルカの福音書の2章の6節から7節に記されています。

ルカの福音書2:6-7
6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

イエス様は世界の始まる前から天で栄光をお持ちになっておられましたけれども、その栄光を捨てて、人間としてこの世に来てくださいました。
でも、その最初にイエス様が足を付けられた、と言うか、お休みになった所が飼葉おけの中であったと記されています。
イエス様はたとえ飼葉おけの中であっても、わたしはそこまで下りて行こうとしてくださいました。世界の最も低い所まで、イエス様は来てくださいました。

本当は、このとき、この世界よりも大きな世界が飼葉おけの中にあった、ということだろうと思いますけれど、でもイエス様は人間の目から見れば薄汚い飼葉おけの中にお休みくださいました。
そのことによってイエス様は、たとえあなたのいる所がどれほどみじめな所であっても、わたしはそこまで行こうというみこころを目に見える形で表わしてくださったのでございます。

その御姿のとおりにイエス様は、わたしはあなたがどのように汚れ、どのように罪にまみれていても、わたしはあなたを避けることはない。
あなたの本当に近くにわたしはいる。それどころか、あなたの足を洗うことさえ厭わないということをご生涯を通してはっきりと示してくださっています。
イエス様はこの世の支配者や権力者や知恵のある者や、そういった人々が望むように、仕えられることや、人からちやほやされることをお望みにはなりませんでした。本当にすべてのものからほめたたえられて当然であるお方が、ただ主なる神のみこころに徹底して従順であられたいとお思いくださいましたがゆえに、イエス様の愛は私たちに対してもまた徹底的なものであったと言えるのではないかと思います。

イエス様はその徹底的な愛の、まさにその極致として贖いの代価として十字架に架かって死んでくださいました。
ご自身のいのちを罪のうちに捕えられ、苦しむ者のために与えてくださいました。いや、そのためにわたしは人となろうとイエス様は天でお考えになり、すべての栄光を捨てて、この地上に降りて来てくださいました。
そのみことばを何ヶ所か読んでみたいと思います。

マルコの福音書10:45
45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

これ以上、徹底的ということがありえましょうか。「徹底的」という言葉があるとすれば、まさにこのみことばこそが徹底したものであると言えるのではないでしょうか。
仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである。

ピリピ人への手紙2:6-8
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

天と地ほどの違いがある、という言葉がありますけれども、どんな言葉もこのイエス様の天にあられるときの姿と、地にあられるときの姿の違いを言い表わすことはできません。
どれほど、深い、と言っても、この天にあられるときの姿と、地にあられるときの姿の、その落差の大きさほどの深さを表わしうるものはございません。
神の御姿であられるはずのお方が、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、死にまで従ってくださった。広さ、長さ、高さ、深さと、お読みいただきましたみことばにありましたけれど、まさにこの「深さ」ほど、イエス様の愛を徹底したものであったと言っていいのではないかと思います。

もう二ヶ所ほどイザヤ書から読んでみたいと思います。

イザヤ書53:3
3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

イエス様から何かを頂けるときには、みんな人はちやほやし、大きな声を上げて、歓呼の声を上げてイエス様を迎えましたけれど、イエス様がユダヤの官憲に捕まえられたあとは、まさにこのありさまであったのではないでしょうか。
イエス様は悲しみの人で、本当に私たちのために涙を常に流してくださり、また、私たちの弱さも、問題のありかもすべてご存知でいてくださいましたけれど、人は、イエス様から顔をそむけ、尊ばなかったのではなかったでしょうか。

イザヤ書53:7
7彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

ここにも、イエス様の徹底したお姿を私たちは見ることができます。

主なる神のみこころに徹底しようとなさったイエス様は、人としてあられた姿もまた、徹底したものであった。一寸の隙もイエス様はサタンに与えようとはなさいませんでした。
ただ、主なる神のみこころだけを、そして、そのひとつも疑うことなしに、わたしは主なる神に従いたいとお考えになっておりましたから、どんなことがあっても口を開かず、ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、神の御子が耐え忍んでくださった。
世界よりも、宇宙よりも尊いお方が、汚れた人の世の中で無惨に扱われて、それをしのんでくださった。これほどの深さがいったいこの世の中にありえるのでしょうか。

イエス様は本当に、イエス様において初めて私たちは「愛」というものを知ることができる。そのことを、こうしてみことばをとおして私たちは知らせられるのでございます。
イエス様は私たちのためにすべてを捨ててくださいました。私たちのために、世界の基の置かれる前からお持ちになっていたご自身のいのちをゴミのような形で十字架の上でしのんで捨ててくださいました。
神の姿であられる以外に考えられるはずのないお方が、みじめな罪人として十字架に架かってくださいました。

私たちのために一切をしのび、一切を捨て、一切を贖い取ってくださったと言える。それこそ徹底したイエス様の愛であり、主なる神への従順であると言えるのではないでしょうか。
そして、実は、本当に恐れ多いと言ってもいいと思うのですけれど、私たちもまた、キリストとともに死んだとイエス様は言ってくださっています。
アダムとともにこの世に持ち込まれたものは、すべて捨て去られなければなりません。主なる神の創造のみわざが新しい天と地において完成するためには、十字架とともに古いものはすべて過ぎ去り、すべてが新しくなる。そのための十字架であったと知らされます。

わたしは世界に対して十字架につけられ、世界もわたしに対して十字架につけられたとパウロはガラテヤ人への手紙の中で言っていますけれども、本当に十字架を通してすべてが新しくなった。
それとともに、アダムにある古いあなたは十字架とともに死に、キリストの復活とともに、キリストとともに生きるようになったと主はお語りくださっています。
その新しく生まれた者の姿を、イエス様は驚くべきみことばをもって語ってくださいます。

雅歌4:7
7わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。

もう、何と言っていいかわからないほどのイエス様のみことばではないでしょうか。わが愛する者よ。それだけでも十分ではないでしょうか。でも、あなたのすべては美しく、と言ってくださいます。
ぼくのどこが美しいのですか?と本当にお尋ねしなければならないような者ですのに、すべては美しい。何の汚れもない。イエス様とともに死に、イエス様の復活とともにキリストのいのちを受けて、新しく生まれたからこそ、このみことばを私たちはいただけることは、いうまでもないのでございます。

まさに徹底的に愛してくださっています。イエス様の愛の深さまで思い至ってまいりますと、本当に体が震える思いがいたします。
アダム以来、人はすべて罪人ですから、神の恵みの座からは遠く離れています。人間の力では何をしても、どのようにしても主なる神との間の断絶は埋めることができず、永遠の滅びに定められる者でありましたけれども、イエス様が地の底の深みにまで降りて来てくださり、それも、もっと低い所まで降りて来てくださり、十字架に架かって死んでくださいました。
このお方を信じる者は、だれであっても十字架の贖いによって罪赦された者とし、神の子どもとし、永遠のいのちを与え、天の御国へと招こうと主は約束し、また、そのみわざを成し遂げてくださっています。

以上、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを見てまいりましたけれども、いうまでもなく大切なことは、知識として学ぶことでもなく、また、知識として知ることでもないと思います。
疑いの心を持たずに、イエス様を心の目で見ることではないでしょうか。そうするとイエス様の愛、イエス様のいのちが私にもすでに与えられており、また、今も与えられていることを知るのではないかと思います。
そのようにしてイエス様の愛を知るなら、私たちもイエス様をもっと深く愛したいと思いますし、また、もっと深く愛するはずではないでしょうか。

考えてみますと、いったいぼくたちがだれかを愛することがどうしてできるのかと思いますと、それは、私たちに親切にしてくれる、あるいは、いつも笑顔で迎えてくれる、優しい言葉をかけてくれる、自分を受け入れてくれる、困ったときには親身になって心配してくれるなど、さまざまな理由が考えられますけれど、イエス様の愛はそのすべてを越えて大きい。
お読みになりましたみことばの中にありましたように、まさに、人知をはるかに越えて大きい、そのことを知らせられてまいります。
私たちは本当に考えることも狭く、経験も乏しく、心もしょっちゅう揺れ動く者ですけれど、

テサロニケ人への第I、5:16-18
16いつも喜んでいなさい。
17絶えず祈りなさい。
18すべての事について、感謝しなさい。

と勧められています。いつも喜ぼう。絶えず祈ろう。すべてのことに感謝しようと意識して今日を振り返るなら、私たちは必ず、私たちのために十字架に架かられたイエス様を見ることができる。
また、あなたのために流されているキリストの涙を知ることができる。あなたのために差し出されている中にキリストの手を見ることができる。
あなたはわたしのもの。わたしはあなたのもの。と呼びかけてくださっている声を聞くことができる。だから、いつも喜ぼうとすること。絶えず祈ろうとすること。すべてのことについて、感謝しようと、どれも意識してするときに、私たちはイエス様の愛の中にどれほど深く捕らえてくださっているのか。どれほど主が愛してくださっているのか。そのことを知るのではないでしょうか。

人間の愛は自分勝手でうつろいやすいものですけれど、イエス様の愛は、本当に、今見てまいりましたように、広く、高く、長く、そして深い。混じりけのない永遠の愛で愛してくださっています。
そのことを本当に知るなら、私たちはイエス様をより深く愛することができる。知らなければ、愛することができない。
私たちが救われたのは、ほめたたえる者となるためですとエペソ人への手紙の1章に何度も繰り返されています。機会があったら是非そのところをお読みいただきたいと思います。
どうもありがとうございました。




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