生きる


古田公人兄

(吉祥寺学び会、2013/12/24)

引用聖句:ルカの福音書2章10節-11節
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イエス様が、話しなさいと仰せになりましたから、話させていただきますけど、非常に恐れを感じています。
今お読みくださいました所から、救い主は、私たちを滅びから救い出し、永遠のいのちを与えてくださるということが解かります。ルカの福音書を通して救い主がお生まれになりました。御子は永遠の滅びから救い出して、永遠のいのちを与えるために与えられたと記されているからであります。
人は皆死にます。そうであるのに、永遠のいのちとあります。これはいったい何を意味するのでしょうか。今日は永遠のいのちについて4つの点からご一緒に考えてみたいと思います。

1つは、いのちと死
2つ目は、永遠のいのちはどこにあるのか
3つ目は、どうすれば永遠のいのちを自分のものとすることができるか
最後は、何のために永遠のいのちが与えられるのかという4つであります。

最初は、いのちと死について考えたいと思います。
生きている、当たり前のことのように思いますけど、どういうことなのでしょうか。日本語では、生命と生活は違う言葉で、違う内容を表しているように思うのではないでしょうか。ですけど英語ですと、どちらもLifeなんです。
そのことは、本当の意味で生きているということは、単に生命を持つだけではなくて、生活をしているということを意味しています。そして、生活こそが生きている特長なのです。

例えば、野生の動物を考えてみますと、それぞれの動物は、それぞれ違う習生を持っています。動物も種ごとに、住家を選び違った方法で獲物を捕らえ、違った方法で敵から身を守っています。
ですから猿が猫のような生活をすることはありませんし、ライオンが牛のような生活をすることもありません。言い換えるなら、生活こそがそれぞれの生き物にふさわしい生活をしていることこそが、その生物が生きているということを表しているのではないでしょうか。
生き物にふさわしい生活こそが、生きている証しであるとそういうふうに言えるのではないかと思います。

例として、動物園の動物を挙げてみたいと思います。動物園の動物は、どなたが行かれてもいつでもそうなんですけども、食べてるか寝ているか、ゴロゴロその辺を動き回っているか、この3つしかないんです。そして、みんな先ほど猿が猫のようなと言いましたけども、同じような生活をしています。
かつて、もうずいぶん前ですけども、動物園で白熊を見たことがありました。外にいる人間にまったく関心を持たずに、同じ所を行ったり来たり、行ったり来たり、ただただひたすら繰り返しておりました。言うまでも無く野生の白熊は、そんなことはしない。
ですから動物園では、白熊は確かに生命は持っていますけれども、本来の生活を失い、もはや本当の意味で生きているということは言えない。誰でもそのことに同意をしてくださるのではないかと思います。

人の場合も実は同じであります。人にふさわしい生活が伴っていなければ、実は本当の意味で生きているとは言えない、そういう風に言えるのではないかと思います。
では、人にふさわしい生活とは、いったいどういうものなのでしょうか。
人は、主なる神に似せて造られました。その際、主なる神は人にふさわしい生活をお定めになっておられます。

創世記1:26
26そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

このみことばが意味するところは、人は主なる神と交わりを持って生きる、主なる神が地をどういうふうに、すべての生き物をどういうふうに支配しようかと考えておられる考えを受けて、いつも主なる神と歩みを一つにして、地を支配する者として造られたということが解かります。
ですから人にふさわしい生活とは、主なる神との交わりを持って生きる、そういうものだということは明らかであります。
しかし、人は主なる神との交わりを失ってしまいました。

イザヤ書59:1-2
1見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
2あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

私たちの罪、咎が主なる神との間に隔ての壁となって、主なる神との交わりが失われたということが、この所に示されています。
主なる神との交わりを失うと、本当にたいへんです。何が正しく、何が間違っているかがとたんに解からなくなってしまいます。ですから何が正しいかは、結局自分で考えて決めるしかない。あるいは他の人が言うところに従うしかないということになってまいります。
でも、私たちは自分が頼りにならないということは、自分自身が一番よく知っています。今日はこう言ったけど、明日は状況によって反対のことを言うなどということはしょっちゅうであります。ですから、そういう頼りにならない者の集合で実はこの世が出来ている。その状態について、同じイザヤ書の59章は6節からこういうふうに記しています。

イザヤ書59:6-11
6彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。
7彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。
8彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
9それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。
10私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。
11私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。

このみことばほど、現実の生活をよくあらわしているみことばはないと思います。
平和は誰でも望んでいて、どこででも耳にしますけど実際には平和はない。家庭の中にさえ平和はない。それが現実の世界であります。主なる神との交わりを失い、この世は、行き当たりばったりの生活をして、つまずきうめいているとここに記されています。
初めに本当の意味で生きるということは、単に生命を持つだけではなく、ふさわしく生活していることであり、生活こそが生きている証しだと申し上げました。しかし、人は主なる神との交わりを失って、主なる神が定められた人間にふさわしい生活を失っています。創造者の目には、人は死んだ、まさしく人は死んでいます。

私が子供の頃なんですけど、古い家に住んでいまして、ある時、電気屋さんが電線を新しいものに取り替えるために来てくださいました。電気屋さんは、天井裏の古い電線を見て、「これは死んでいる。」と言ったのです。要するにそれは、電流の流れていない電線、極端に言えば発電所に繋がっていない電線なんです。それをそう表現しました。
妙に印象的だったものですから、70歳になるまで覚えています。でもこの言葉は、実は死が何であるかを端的に表しているのではないでしょうか。死とは、ふさわしい生活を失っていること、もちろんそれは寝たきりであるとか、あるいはもう意識を失って病気であるとかというふうなこととは関係がありません。
寝たきりであろうと、意識を失って寝ていようと、主なる神との交わりがあるなら生きているのです。そして、主なる神との交わりを失えば、死んでしまいます。

以上、生と死について考えてまいりました。
2番目に、永遠のいのちは、どこにあるかについて考えてみたいと思います。現代の生物学は、生き物は偶然によって生まれたと言います。しかし、その証拠は何もありません。
今まで生き物が、命が、偶然によって生まれた例は確かなものは何一つありません。生き物はすべて、聖書は、主なる神の被造物であると確信を持って語っています。どのような意味においても、命は創造主なる神様だけに由来するものであります。

最初に読んでくださったみことばに、「神は、そのひとり子を世に遣わされた。」とありました。イエス様は、ひとり子でいらっしゃいます。神の創造主なるお方の御子であられます。
ですからイエス様は、ご自身で「わたしを見た者は、父すなわち主なる神を見たのです。」と証しをなさいました。また、ある時「わたしと父とは一つです。」と証しをなさっています。
イエス様と主なる神とが一つであられるなら、どうでしょうか。いのちは主なる神にあり、またイエス様にあります。そしてイエス様は、いのちがあるだけではなく、いのちそのものであられます。

ヨハネの福音書14:6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

イエス様がいのちであると、はっきりとお語りになっています。そのいのちそのものであるイエス様は、しかし実は、十字架で死ぬために人となって来てくださいました。
神の御子であられるイエス様は、生まれながらに罪を知らないお方であっただけではなくて、生涯罪を知らないお方として、言い換えるなら父なる神の御心に完全に従いとおして生きられました。こうしてイエス様は、罪のないお方として、全人類の罪の身代わりとなって、十字架にかかってくださいました。
コリント人への手紙第II、5章21節に「神は、罪を知らない方を、罪とされた。」と記されているとおりであります。

イエス様は、そうして十字架上で死なれましたけれど、ペテロが証ししたように、神の御子であるイエス様が、死に繋がれていることはあり得ないことでした。
いのちそのものであられるお方が、たとえ形の上で一時的に完全に死なれたとしても、それはそれで終わるものではありませんでした。イエス様は、3日目によみがえられています。
イエス様は、死に勝利をなさっています。

ローマ人への手紙6:9-10
9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

もはや死は、キリストを支配しない。もはやキリストは、死ぬことはない。イエス様のいのちは、よみがえりのいのちであり、永遠のいのちであるということが明らかにされています。
永遠のいのちは、どこにあるのかについて、考えてまいりました。この問いの答えは、御子イエス様というものであります。
では3つ目の問題は、どうすれば永遠のいのちを、私たちは自分のものとすることができるのかということでございます。アダムの罪によって、死が世界に入りました。

ローマ人への手紙5:12
12そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

こういうふうに記されています。
もう一度、動物園で生まれ育った白熊について考えてみたいと思うのですけど、動物園で生まれ育った白熊は、北極へ持って行って離せば、野生の白熊にもどるでしょうか。決してそんなことはありません。どうしたら、白熊の生活ができるのか、彼は解からなくなっているからであります。
ですから、もし野生にもどそうとするなら、それはもう生まれ変わること、すなわち生まれた時から、野生の白熊に育てられなければならないということは明らかではないでしょうか。そうすれば、本来の白熊にもどることになります。

人も同じであります。生まれたままの人は、今ここにありますように、死によって罪が入り、こうして死が全人類に広がってしまった以上、もう死んでいます。霊的に、父なる神との間の隔ての壁によって死んでいます。
ですから、人がいのちにあって生きるためには、主なる神との間のこの罪という隔ての壁が取り除かれ、和解が成し遂げられる、言い換えれば新しく生まれ変わらなければならないということが明らかではないかと思います。
イエス様は、その罪という隔ての壁を取り除き、主なる神との和解を与えるために、人となってこの世に来てくださいました。十字架上で死んでくださり、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。

ヘブル人への手紙9:11-12
11しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

永遠の贖いですから、過去の人も未来の人も全部この贖いにあずかることができる、完全な贖いであるということが明らかであります。
こうして、罪という隔ての壁は取り去られ、主なる神との和解がイエス様の十字架の死によって成し遂げられました。

ローマ人への手紙5:8-10
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
9ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

8節の初めに「私たちがまだ罪人であったとき」と記されています。
私たちが、まだ和解を持たなかった時、イエス様が死んでくださいました。そして、そのイエス様の御子の死によって、10節ですけど「和解させられた」と記されています。

コリント人への手紙第II、5:17-18
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

動物園の白熊は、生まれ変わらなければ、野生の白熊にはもどれないだろうと申しました。人も新しく生まれ変わらなければ、本来私たちが持つべき主なる神との交わりの中にあって生きるという、その生活を取り戻すことができない。
でもイエス様が、ご自身の死によって和解をもたらしてくださいましたから、私たちは、イエス様を信じるだけで、新しく生まれた者として、主なる神との和解を受け、主なる神との交わりの中にあって生きることができるという約束が与えられています。
どうすれば、永遠のいのちを自分のものとすることができるのかと考えてまいりました。それは、イエス様との交わりをいただくことであります。罪が赦されて、主なる神との和解にあずかり、神の子供とされた者はみな御霊を受けます。

コリント人への手紙第II、1:21-22
21私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
22神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち」ということは、和解が与えられた、そしてイエス様との交わりが豊かに与えられているということを意味しているのではないかと思います。
御霊を持つことは、イエス様を持つことです。あのパウロの証しは、そのことをはっきりと記しています。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

このパウロの証しが明らかにしているように、イエス様が私のうちに生きておられるなら、どうでしょうか、私たちがイエス様のよみがえりのいのち、すなわち永遠のいのちにあって生きることは当然であります。
私たちは、イエス様を信じた時から、イエス様のいのちにあって生きる、永遠のいのちにあって生きる者とされているということでございます。

どうすれば、永遠のいのちを自分のものとすることができるかについて考えてまいりました。
イエス様のところに行くこと、それが答えであります。イエス様は、待っていてくださいます。あなたは背が低いとか、あなたはお金を持ちすぎているとか、決してそんなことは仰らない。イエス様のところへ行きさえすれば、主は喜んで迎えてくださいます。
そして、イエス様のところへ行った者は、イエス様と交わりを持ち、永遠のいのちを持つ、私たちはそのことを感謝を持って受け止めたいと思います。

4つ目の問題は、何のために永遠のいのちが与えられるのかということであります。この答えはコリント人への手紙第II、3章18節に記されています。

コリント人への手紙第II、3:18
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

永遠のいのちが与えられるのは、イエス様との交わりのある生活を通して、イエス様に似た者となるためだと言うことができるのではないかと思います。では、私たちはイエス様との交わりのある生活をしているのでしょうか。ルカの福音書2章にちょと戻りたいと思います。
初めてのクリスマスの時、御使いは「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と言った後で、「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」と語っています。
それに続いて、天の軍勢が神を賛美しています。

ルカの福音書2:14
14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

初めてのクリスマスでは、イエス様はみどり子としておいでになり、飼い葉おけの中に休まれました。
確かにイエス様が、人として来てくださったのは一回かぎりの出来事でした。しかし、イエス様が十字架の死からよみがえり、天に昇られてからは、みどり子としてではなくて、御霊としてイエス様は、私たちのうちに来てくださっています。
今、イエス様を信じる私たちは、この初めてのクリスマスの夜の飼い葉おけのようなものではないでしょうか。イエス様を自分のうちに、一人ひとり自分のうちにイエス様をお迎えしているからであります。

馬小屋の飼い葉おけは、決してきれいなものではなかったと思います。でもイエス様が寝ておられた時、人々はきっとイエス様だけを見て、誰一人飼い葉おけには目を留めなかったに違いありません。
イエス様以外のものは、もう目に入らなかったからです。嬉しくて嬉しくて、ただイエス様だけを見て、喜びに満たされました。
私たちの場合はどうでしょうか。私たち自身という飼い葉おけを通して、イエス様が輝いておられるでしょうか。それとも、飼い葉おけにすぎない私たちが願っているのでしょうか。

言い換えるなら、私たちの日々の生活は、すでにイエス様をうちにお迎えした者として、ふさわしいものとなっているのでしょうか。
本当の意味で生きるということは、単に生命を持つだけではなく、ふさわしく生活していることであり、その生活こそが生きている証しだと最初に申し上げました。
私たちは、言葉を変えると、イエス様と交わりのある生活をしているのでしょうか。イエス様を裁き主として恐れているでしょうか。イエス様を愛し、イエス様に従い、イエス様が再び来てくださるのを待ち望む生活をしているのでしょうか。

もしそうであるなら、その人は永遠のいのちを持つだけではなく、永遠のいのちにあって生きている。単に持つだけではなくて、永遠のいのちにあって生きているということができるのではないかと思います。
そうであるなら、たとえ寝たきりであっても、意識を失っていても、その人は生きています。
しかし、生活が伴わなければ、イエス様と結びついた生活が成されていなければ、永遠のいのちを持ってはいても、新しいいのちにあって生きているとは言えないのではないかと思います。

天使は、私たちの生活を見て、このクリスマスの夜に天の軍勢が神を賛美して言ったとありますけど、本当に「あ、ここにイエス様がおられる」と賛美の声をあげることができるでしょうか。天使はあげたくて、あげたくてしかたがないのです。
一人ひとりを見て、「ここにイエス様がおられる、イエス様が確かにここにおられる」と喜びの声を天使はあげたくてしかたがない。天に大きな喜びがあると、あのルカの福音書15章でイエス様が仰せになった通りであります。
私たちは、天使の希望に沿う生き方をしたいと思います。イエス様が輝いて、パウロが言ったように、土の器にすぎない私たちのうちに、イエス様が輝いておられる、そういう生活を続けたいと思います。

コリント人への手紙第II、4:6-10
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

「イエス様、そのとおりです。」と私たちも言いたいと思うのです。
「パウロさん、それはあなたはそうだったけど、私はちょっとね。」とやっぱり言うことのないように歩みたいと思います。
どうもありがとうございました。




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