引用聖句:出エジプト記20章3節-6節
マタイの福音書5:17-18
生けるまことの神であられる主のことばは、すなわちみことばですけれども、生きていて、そして天と地を造り出すほどに力のあるものです。 みことばはそれだけではなくて、同時に、本当にこの天地の中にあってちっぽけな私たちをも自由にし、また生かすものであり、みことばに信頼する者は決して失望させられることがありません。 たとえ真っ暗闇の人生であっても、みことばがあれば安心して生きて行けることができ、また逆にみことばを持たなければ、みことば以外のどのようなものをも持っているとしても、人は孤独でしかないと言っていいのではないかと思います。 そしてみことばの中で特に私たちの生活と、日々の生活と深く関わり合っているものは、戒めのみことばと約束のみことばではないかと思います。今日はその二つのみことばについてご一緒に考えてまいりたいと思います。 まず戒めのみことばですけれども、人は残念ながら戒めのみことばを守ることができないと言われています。 それはそれとして、しかし私たちは旧約聖書の戒めに実はそれほど注意を払っていないのではないかなと思います。自分のことを考えてみましても、旧約聖書の戒めはあまりにたくさんあり、また厳しいものであり、もう最初から守ろうという意思よりも横に置いておくというぐらいのつもりでいたように思います。 しかしその戒めをないがしろにしていることこそ、現代の最大の病気ではないかと思うようになりました。なぜなら、お読みいただきましたように、イエス様は マタイの福音書5:18
とはっきりと仰せになっています。 そしてそのイエス様の戒めのみことばもまた、非常に厳しいものであると言っていいのではないかと思います。たとえば、その同じマタイの福音書の5章の21節と22節を見てみたいと思います。 マタイの福音書5:21-22
このイエス様の戒めのみことばが厳しいのは、それが私たちの心に関わる戒めだからではないでしょうか。もしそれが行動にだけ関わるものであれば、それほど厳しくないかもしれません。 しかし実は旧約聖書の戒めもまた、実は心に関わるものであると言っていいのではないかと思います。 旧約聖書の戒めの中で最も大切な戒めは、先ほどお読みいただきました出エジプト記の20章のみことばではないかと思います。 出エジプト記20:3
ただわたしにだけ精神を尽くし、心を尽くして仕えよというそのみことばは、決して行動に関わるものではなくて、私たちの心と生き方に関わるものであると言っていいのではないかと思います。 ですからイザヤもまたそのことを語っています。 イザヤ書29:13
口先で近づき、くちびるで賛美をし祈るけれども、その心は日々の生活であり、あるいは今心にかかっていることであり、色んなことがあろうけれども、いずれにしてもわたしから離れていると主は仰せになります。 決して紀元前七百何十年前のことではなくて、今の私たちの真っ只中において、やはり主がお語りになることばではないかと思います。 もう一個所、 エゼキエル書14:3
どれほど祈っていても、どれほど賛美をしていても、しかし心の中に自分の偶像を持っている限りにおいて、わたしは顔をそむけると仰せになっています。 人は上辺を見ますけれども、主は心をご覧になります。ですから人はすべてだれであっても、心によって誉れをいただき、またさばきを受けると言っていいのではないかと思います。そして実は心だけではなくて、行動においてもまた、厳密に言えば私たちは本当にみじめな者でしかないと知らせられます。 ローマ人への手紙1章29節から32節を読んでみたいと思います。読めば読むほどにこのみことばの厳しさが身にしみてまいります。 ローマ人への手紙1:29-32
死罪に当たると書かれています。言い換えるなら、人はだれもが死罪に当たると聖書は語っています。 あなたがどう思おうと、自分はどうだと主張しようと、例外なしに死罪に当たる。これが主なる神の私たちひとりひとりに向けての宣告であると言っていいのではないかと思います。 人がそもそも本当の意味で生きる者となるためには、最初にお読みいただきましたように、戒めを守らなければなりません。それも、今見てまいりましたように、形ではなくて心から守らなければなりません。 しかし守ることができない。それこそが私たちの姿であるということはだれにでも分かることではないでしょうか。そしてそれがだれにでも分かるということこそ、まさに戒めが私たちに教えようとしていることなのだ。 実は戒めはそのことを私たちに教えようとしているのだと言っていいのではないかと思います。 要するに、戒めは私たちが守らなければならないこと、あるいは私たちがしてはいけないことを明らかにしていますけれども、それを守る力は私たちにはない。 そして同時に、いくら戒めを心に留めそれに従おうと思っても、戒め自体は私たちにその力を与えてくれない。これが戒めというものではないかと思います。 それどころか、戒めを守ろうとすれば守ろうとするほど、実は自分はみじめだということを知らせられてまいります。なぜならガラテヤ人への手紙の5章の17節にあるように、 ガラテヤ人への手紙5:17
というそのみことばが示すとおりだからであります。 私たちのうちには義とされるものは何一つ見出すことができません。自分の肉には、御霊のみこころにかなうものは何一つ見出すことができません。そしてローマ人への手紙の1章32節にあったように、私たちは例外なしに死罪に当たる者であると知らせられてまいります。 ローマ人への手紙の7章の24節でパウロは悲痛な叫びをあげています。その前の15節で、 ローマ人への手紙7:15
ローマ人への手紙7:18
ローマ人への手紙7:24
戒めを守ろうとするならば、だれであっても自分自身に絶望せざるを得ないのではないかと思います。真っ暗闇の世界にいるということが、ひしひしと分かってまいります。 そしてそこからの脱出の道は、自分のうちにはまったく存在しないということもまた、明らかになってまいります。まさにそこに、まさにそのとき、実は光が差し込むのではないでしょうか。 真っ暗闇の世界にいることを知る者だけが、そこに一筋の光が上より差し込んでいることを見出すことができるのではないかと思います。それこそが約束のみことばであると言っていいと思います。 約束のみことばとは、どのようなものなのでしょうか。いくつか見てみたいと思います。 ヨハネの福音書14:6
自分の力で戒めを守ろうとすることがとんでもない的外れであったと、このみことばによって知らせられてまいります。 わたしを通してでなければ、主なる神のみこころにかなうことは決してできない。主なる神のみもとに近づくことはできないと語られています。 ヨハネの福音書3:18
御子を信じるならさばかれない。すべての戒めは御子によってすでに成就された。そのことを知らせられてまいります。 ヨハネの福音書11:25-26
約束のみことばは、ただイエス・キリストという一点に集約されてまいります。 イエス様を信じるなら、あなたは永遠のいのちを受ける。キリストを信じるなら、罪に定められることは決してない。道であり、真理はただこのお方にだけ存在をしている。そのことを私たちは主なる神のみこころとして知ることができるのであります。 ローマ人への手紙10:4
キリストが律法を終わらせた。決して律法を廃棄されたのではないのです。律法を終わらせた。律法を成し遂げられた。キリストが律法を成就された。だからその義によって私たちは同じように義とされると知らせられてまいります。 同じくローマ人への手紙の3章22節。 ローマ人への手紙3:22-24
戒めを守ろうと努力をすればするほど、私たちは自分のみじめさを知ると申しました。 ですけれど、そのときまさに約束のみことばが私たちのうちに生きて働いてくださいます。ただ恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、一切が私たちの努力や功績や、あるいは生き様によってではなくて、一方的にイエス様からの恵みとして私たちはそれを受けることができると知らせられてまいります。 イエス様が宣教を始められました、一番最初にお語りになったみことばが、マルコの福音書1章の15節に記録されています。 マルコの福音書1:15
福音とはいうまでもなく十字架のことばであり、キリストのことばであり、同時にイエス様ご自身であると言っていいのではないでしょうか。 ヨハネの福音書1:14
と記されています。 そしてヨハネの福音書の1章の1節に、 ヨハネの福音書1:1
と記されています。 悔い改めてわたしを信じなさい。それこそがイエス様の私たちへの呼びかけであるとともに、イエス様はそのみことばの成就のために、そのみことばが私たちひとりひとりの上に生きて働くために、実はこの世に来てくださり、十字架に架かって死んでくださいました。 私たちはそのイエス様を、キリストを信じることによって、だれであっても恵みのゆえに救いを受け、永遠のいのちをいただくことができます。 言うまでもなくそれは、このみことばが示すように、悔い改めなしにはありえないことであり、同時に私たちが本当に自分のみじめさを知るとき、その救いの必要性を痛感し、そこから悔い改めと信仰へと導かれてくるのではないかと思います。 私たちはただ悔い改めとみことばへの信頼だけが求められています。信じるなら自由を受け、永遠のいのちを受け、私たちは本当の意味で生きる者と変えられてまいります。 世の宗教とみことばがどれほど違うかは、この一点において明らかにされているのではないかと思います。 最後に、キリストのいのちにあって生きるとはどういうことなのかについて考えてみたいと思います。 今申し上げてまいりましたように、戒めを守ろうと思うなら、私たちは本当に自分は無力だということを知らせられてまいります。同時に死罪に当たるという神の定めを心の中に深く刻まれてまいります。 しかし同時に、約束のみことばはキリストのみことばを信じるなら生きると私たちに語りかけてくださいます。主は真実なお方だからであります。 十字架上においてイエス様はそのことを完全に成し遂げてくださいました。ですから、どれほど私たちがみじめであっても、それは関係がないと知らせられてまいります。 事実、私たちはみじめです。自分を知らなければ、みことばの光に照らされなければ、みじめだということは分からないかもしれませんけれど。 イエス様を知るようになればなるほど、イエス様を深く知るようになればなるほど、自分のみじめさが分かってまいります。 本当に肉の願うことは御霊に逆らう、それ以外にはないのだと知らせられてまいります。 そしてみじめだからこそ、約束のみことばを必要とし、それにより頼む以外に道はないと心に受け止めることができるのではないでしょうか。 みじめだからこそ、みことばだけが救いだと、みことばに信頼することができるようになってまいります。 コリント人への第II、1:20
神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。 いうまでもなくその前提には、戒めもまたこの方において「しかり。」となった。わたしは律法を廃棄するためにではなく、成就するために来たのだと仰せになった、その通りのことがすでに成し遂げられたと語られています。 神の約束は、神の戒めが命じるものを私たちに与えます。そして同時に戒めが命じるものを実は神の約束がすでに成し遂げてくださっていたと知らせられてまいります。それこそがあの山上の垂訓でのイエス様のみことばでした。もう一度見てみたいと思います。 マタイの福音書5:17
律法と預言者は十字架において成就されました。キリストの復活を通して私たちはそれにことごとくあずかることができる者とされています。 約束のみことばに信頼するとき、実はそのみことばに信頼するということを通して私たちは、神は真実で正しい方であると神に栄光を帰していることを意味します。 戒めの中の戒めと言っていい、あの出エジプト記20章の3節から6節までのみことばは、実はキリストを信じるということによって私たちもまたそれを守ることができるのだと知らせられてまいります。 もう一度出エジプト記20章の3節から6節のみことばを読んでみたいと思います。 出エジプト記20:3-6
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 キリストのみことばを信じる。キリストのみことばに信頼する。それ以外にはこの戒めの中の戒めを私たちは決して守ることはできません。 ただ、信仰によってのみ、私たちは戒めを守ることができる者とされています。 ローマ人への手紙1:17
とローマ人への手紙の1章の17節に記されています。 パウロの証しはガラテヤ人への手紙の2章の20節ではないかと思います。 ガラテヤ人への手紙2:20
このパウロの証しは決して目で見えることではありませんし、私たちが知識によって知りうることでもありません。パウロはそれをただ信仰によって私はそれを生きていると語っています。 私たちもまたただ信仰によって、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって、いのちに生きる者と変えられ、また変えられていると言えるのではないかと思います。 キリストを信じる信仰、これこそがすべての戒めを私たちが守ることができる鍵であると言っていいのではないかと思います。 ヨハネの福音書6:28
戒めを守るために、 ヨハネの福音書6:28-29
主なる神が求めておられる戒めを守る道であり、主なる神のみこころにかなうことであり、あなたが永遠のいのちを得て、神の子どもとされる道であると知らせられてまいります。 どうもありがとうございました。 |