引用聖句:ガラテヤ人への手紙2章20節
今年の夏のキャンプも明日で終わりになります。 この夏のキャンプで何度かここでお話をさせていただく機会をいただきましたけれども、いつもそのときは表立っては読んでいただかなかったのですけれども、このガラテヤ人への手紙の2章の20節を、実は私自身はテーマとして話させていただいておりました。 そういうこともあって、今日は、明日で終わるということもありますので、この夏話させていただいたことをまとめてもう一度考えてみたいと思います。 最初に学ばせていただきましたのは、マタイの福音書の5章の17節、18節のみことばでした。 マタイの福音書5:17-18
ここでイエス様はイエス様が、神の御子であるイエス様が人としてこの地上に来てくださったのは、律法を成就するためであるとお語りになりました。聖書は多くの戒めのみことばを載せています。 そしてその戒めのみことばは、単に、例えば洋服に描かれた模様のような、そういうふうに見過ごしていいものではなくて、ひとつひとつのみことばを私たちは真剣に追い求めることが求められています。 しかも、同じイエス様が5章の43節で仰いましたように、 マタイの福音書5:43-44
とお語りになっているみことばが表わしているように、表面的に戒めを守るのではなくて、心において守ることを神様は求めておいでになります。 しかし言うまでもないことですけれども、自分の敵を愛することなどだれにもできないのではないでしょうか。 人間は、人は神様が求めておられるような形で戒めを守ることはできない。それこそが戒めのみことばから私たちが経験的に知ることではないかと思います。 ですけれどイエス様は、わたしが来たのは律法や預言者を成就するために来たと仰せになりました。 イエス様ご自身がその戒めを成就するのだとここで言ってくださっています。事実、その通りに主は、なしてくださいました。 コリント人への手紙第II、1章20節。そこにこう書かれています。 コリント人への手紙第II、1:20
この方において神の約束はことごとく、「しかり。」となった。成就されたと記されています。イエス様ご自身が神の約束を成就してくださいました。 神の約束とは、神の戒めが命じるものを与えます。そして、戒めを実は成し遂げるのは、神の約束であると聖書は私たちに明らかにしています。 神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となったということが意味していることは、ですから、約束のみことばのみならず、神が与えられた戒めもまた、すべてイエス様において成就されたということを意味しています。 先ほど兄弟がお話になりました、十字架の上でのイエス様のもうひとつのみことば。 みことばというよりもヨハネの福音書の中にあることですけれど、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われたという、そのみことばが示しておりますように、十字架上でのイエス様ご自身がそのことを証しなさっておいでになります。 その上でローマ人への手紙の3章の20節から24節を読んでみたいと思います。 ローマ人への手紙3:20-24
あなたの敵を愛しなさい、というその戒めのみことばを私たちはだれひとり守ることはできないと思います。 ということは、20節にありますように、そのみことばを、戒めのみことばを守ろうとすればするほど、「自分には出来ない。自分は本当に敵をのろい、敵を嫌悪することは出来ても、敵を愛することは出来ないのだ。」という罪の意識をそこで私たちは知ってまいります。 しかしイエス様が十字架上で流してくださいました血はすべての、全人類の罪を贖うためのものでした。私たちの状態に関わらず、ただ悔い改めてイエス様を信じるなら義と認められるとこのローマ人への手紙の3章には記されています。 ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに価なしに義と認められるのですと記されています。神の恵み、とありますように、それは一方的に神様から私たちに与えられるものです。 すべての人はアダムの子孫として罪の中に生まれ、そして日々の生活の中で罪とともに生きる者でしかありませんけれども、ただイエス様が十字架上で流してくださった血によって罪が贖われ、どのような状況のもとにあっても、だれであっても、義と認められるとここに記されています。 これがどれほど大きな恵みであるかということを、ひとつの例を取って見てみたいと思います。 出エジプト記の20章に戒めの中の戒めが記されています。 聖書全巻はある意味でこのみことばのためにあるのだと言ってもいいくらいに大切なみことばではないかと思います。 出エジプト記20:2-5
天と地をお造りになった創造主なる神様以外に、どのようなものをもあなたは神としてはならないというみことばであります。 最も大切な戒めであるとともに、私たちが生きていく上で基本となるべき指針であると言ってもいいのではないかと思います。 しかしこのみことばもまた、実はイエス様によって成就されています。 イエス様を信じることとは何でしょうか。 それは、神様は真実なことであって、お語りになったみことばを必ず成し遂げられるということを信じることであり、同時に、神様は死者をよみがえらせることのできるお方であるということ。 すなわち、不可能なことはないということを、実は信じることを意味しています。言い換えますと、ただ神にのみ栄誉を帰する。そのことはイエス様を信じることによってのみ、私たちがなし得ることであると知らせられてまいります。 神は真実な方であり、語られたことを必ず成し遂げられるお方である。死者をよみがえらせるほどに、神には不可能なことはない。このことを信じることこそ、神を神とすることであると言っていいのではないでしょうか。 イエス様を信じる以外に、私たちはこの戒めを、実は守ることが出来ません。そして同時に、あるいは逆に、イエス様を信じるなら実は神を神とするという、この戒めを完全に守っているのだと言っていいのではないかと思います。 最初にお読みいただきました、ガラテヤ人への手紙の2章の20節の中でパウロは、 ガラテヤ人への手紙2:20
と語っておりました。信仰によって生きるなら、罪赦されて、神との平和の中に生きることが許されます。 良心の呵責や過去のひとつひとつの事がらに対する後悔や、あるいは永遠の滅びへと至る死を恐れる恐れから解放され、人は平安の中に生きることができます。 すべてを御手から受け、悲しみや痛みさえ感謝をすることができるようになってまいります。 パウロが、「私が、生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と語ったことのひとつは、そういうことではないかと思います。 次に学ばせていただきましたことは、ヨハネの福音書の11章の40節でした。 ヨハネの福音書11:40
神の栄光を見るとは、単に奇蹟を見るというだけのことではありません。 単にそうしたことを見るのではなくて、奇蹟、あるいはイエス様のみわざを通して神は何でもできる、と無限の力を知ることであり、 また、みこころは必ず成し遂げられる、主なる神はひとり子なる御子をさえ遣わして、十字架につけることをあえてなさいました。 また、そのお方をよみがえらせられました。神のみことばこそ信頼に足りる。 そのことを知ることこそ栄光を見ることだと言えるのではないかと思います。 人間は本来、神様が何をお考えになっているか、何をなそうとしておらっしゃるかということを知ることは出来ません。造られたものが造り主の気持ちを知ることなどできるはずがありません。 しかし、ただ聖書のみことばによって、私たちはしかも御霊の説き明かしを通して神様のみこころをつぶさに知ることが許されています。 コリント人への手紙第Iの2章の9節から12節にそのことが記されています。 コリント人への手紙第I、2:9-12
悔い改めてイエス様を信じるなら、だれであってもキリストの御霊を受けることが約束されています。 そしてまさしく、聖書に書いてあるとおりですと9節に書かれているように、人間には本来、知ることも、想像することもできないことであっても、それはみことばを通して、また御霊の説き明かしを通して私たちはみこころをつぶさに知ることができる、と知らせられております。 信じる者は御霊の働きを通して私たちは神の栄光をつぶさに見ることが赦されるのではないでしょうか。 そして私たちが知るべき、最も大切なことのひとつは、ローマ人への手紙の6章の4節から8節にある事実ではないかと思います。 ローマ人への手紙6:4-8
頭で考えては絶対に分かることではありませんし、また私たちの体験を通して分かることでもないと言えるのではないかと思います。 ただこの約束のみことばを読み、また御霊の説き明かしを通して、私たちはこのみことばに触れる時、それが神様の目からご覧になった真実である、と確信をもって受け止めることができてまいります。 たとえ今生きている姿は、やっぱり以前と同じようにみじめな者でしかないにしても、真実なるお方である方が、あなたの古い人はキリストとともに十字架につけられたのだと宣言してくださるからには、私の罪のからだは滅びたと確信をもって受け止めるべきであります。 もうあなたは死んでいる、と聖書はお語りになります。 そしてわたしのいのちを受けて新しい人として今あなたは生きている、と同時に、約束のみことばは私たちにそのことを知らせてくださいます。 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのですと記されています。 なぜ「葬り」などという言葉がこのところで使われているのでしょうか。私たちは、キリストの死にあずかってすでに死んだのですと言えば済むだけのところを、葬られたのです、と記されています。 言うまでもなく、葬られたのは死んだ人です。生きている人を葬ることはありません。ですからこのみことばは、あなたは死んでいるということを私たちが注意をして受け止めるようにと記しているのではないかと思います。 それに注意をすることが、私たちの信仰生活の上で徹底的に重要であることを意味しているのではないかと思います。 ひとつの例えを考えてみたいと思うのですけれど、ぼくが子どもの頃、昭和20年代ですが、まだ馬車や牛車が国道を走っていました。馬車がたくさん荷物を積んで、カタカタカタカタ言いながら走っていました。そして今はもちろん自動車が走っています。 馬車は馬の力によって走っています。仮に同じ形をしていても、自動車は馬の力ではなくて、エンジンの回転によって車輪を動かして走っています。 もし自動車を手にした人が、昔の、馬車を走らせていたときの考えから抜け出ることができなくて、馬をくくりつけたままで自動車を走らせたらどうなるでしょうか。 エンジンをかけることは出来ません。エンジンをかけたら馬は途端に死んでしまうでしょう。ですから自動車に馬をつけたままで走らせようとしたら、結局馬車の時代と同じように、馬の力だけによって自動車が引っ張られて行くという変なことが起こります。 自動車を走らせるためには、かつての動力の源であった馬を取り除かなければならない。そしてそのとき初めて、新しい乗り物としての自動車が十分な性能をもって走ることができるようになってまいります。 馬は私たちの古い人であります。そしてエンジンは言うまでなく、キリストの御霊を意味しています。 私たちが十字架につけられた古い人にこだわっている限りにおいて、私たちのうちに与えられたキリストの御霊は何をすることもできずに、ただそこにおいでになるだけでしかない。 私たちが馬を取り除けてエンジンだけを働かすようにしたときに初めて、自動車がその性能を完全に発揮するように、御霊は私たちをみこころのままに育て、導くことがおできになってくるのではないかと思います。 大事なことは、知らなければ馬を取り除かないということなのです。馬は不必要だということを知るからこそ、いや、馬がついていればエンジンを働かすことができないのだということを知るからこそ、馬を取り除きます。 パウロは、最初に読んでいただきましたガラテヤ人への手紙2章の20節で、 ガラテヤ人への手紙2:20
と言っています。この事実を知らなければ、私たちはいつまでも馬をつけた自動車に走っているような無用な者でしかない。 この事実を知ったとき、御霊に従って、御霊に満たされて歩むことができる。 「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 と、パウロが語っていることは、御霊が内に住んでくださっていて、私は今御霊に導かれて生きている。それは信仰によるのだと証しをしているのではないかと思います。 その次に学ばせていただきましたのは、二個所のみことばでした。ひとつはコロサイ人への手紙の1章の19節から22節のみことばです。 コロサイ人への手紙1:19-22
初めに申しましたように、十字架の血によって平和をつくってくださいました。イエス様の尊いいのちと引き換えに、万物は主なる神と和解を成り立たせてくださいました。 救われた者は、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立つことができる者とされた、と記されています。 もう一個所、エペソ人への手紙の5章の25節から27節を読んでみたいと思います。 エペソ人への手紙5:25-27
コロサイ人への手紙の中では、救われたひとりひとりが聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせるためでしたと記されていますけれども、このエペソ人への手紙の中では、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自身の前に立たせるためでした、と記されています。 コロサイ人への手紙とエペソ人への手紙のこの二つのみことばが意味するところは、イエス様の十字架には二つの目的があった。 ひとつは、私たちひとりひとり、引いては全人類のための罪の贖いであり、もうひとつは、教会の創造であったと言えるのではないでしょうか。 もちろん教会とは、悔い改めて、回心した人のみがキリストに召し集められた目であります。 残念なことに、世の多くのキリスト教会は聖書のみことばから判断すれば、教会ではないとしか言えない状況にあると思います。私自身がそうでありましたから、変な自信ですけれど、自信をもってそう言えます。 悔い改めもなく、回心もなく、ただ何となく人気投票のような形で教会に集い、御霊に導かれることもなく、人間の計画の中にひとつひとつの歩みが記されていく。そういうものであったと言えるように思います。 まことの教会は言うまでもなく、キリストがかしらであり、そしてキリストのからだなる教会で、いや、教会しかまことの教会はあり得ないのです。 私たちの頭が物事を考え、判断し、行動を指令するように、かしらなるキリストが導かれるままに歩むときに、その教会はまことの教会であると言えます。 同時に、私たちの手足や目や耳を私たちの体から切り離して使うことができないのと同じように、体全体がひとつの統一のある形で働くように、御霊に導かれた一致が教会の中になければなりません。 幸いなことに、私たちはキリストのからだなる教会に集うことが許されています。このこともまた、大切なことであると思います。 決して知らないで済むことではない。知れば知るほど、私たちはそれがどれほど恵みであるか、また私たちの信仰において何を目的とすべきかが明らかになってくるのではないかと思います。 その一部分を同じエペソ人への手紙の4章から見てみたいと思います。 エペソ人への手紙4:12-16
私たちは、キリストのからだなる教会に連なる恵みにあずかっていると申しましたけれども、それは決して最終段階にあるのではない、ということをこのみことばは示しています。 結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられなければならない。そのことを知らせられてまいります。 13節には、 エペソ人への手紙4:13
と記されています。 まだ私たちはそうではない。だけど私たちは一致の中に、一致の中にキリストご自身を証しする者となっていくのだ、ということを、いや、キリストを証しする者でなければならないということをこのみことばは明らかにしています。 そして16節にあるように、キリストによって、からだ全体は、その力量にふさわしく働く力によって、しっかりと組み合わせられ、結び合わせられ、成長して、愛のうちに建てられる。そのとき、キリストのからだなる教会は、キリストの花嫁としてキリストとひとつになる。私たちは交わりの大切さと証しの大切さをこのみことばを通して知らせられてまいります。 罪が赦されるのはひとりひとりです。 ですけれど、御霊を受けて新しいいのちに生きる新生は教会を通してです。なぜなら、よみがえられたキリストが天に昇り、神の右の座にお着きになったとき、神から受けた聖霊をお下しになって初めて、教会が成立いたしました。 それ以来、聖霊はこの地上にとどまっておられますけれども、その聖霊は教会を通してお働きになってまいります。 くどいようですけれど、それはキリストのからだなる教会を通してであります。人間が計画して作り上げて、人間の組織で動かすものではない。 キリストがかしらである、からだなる教会を通して、私たちは新生を知ることができる。御霊は群れを通してお働きになるのだ、ということを忘れてはならないと思います。 キリストを信じる信仰はひとりでは何の働きもできない。ただ群れとしてあるときにのみ、イエス様はご自身を存分に明らかにし、ひとりひとりを結び合わし、組み合わし、成長させ、奉仕の働きのうちにあってキリストの満ち満ちた身たけにまで育て上げてくださるのだということをぼくたちは絶対に忘れてはならないと思います。 最初にお読みいただきましたガラテヤ人への手紙の2章の20節をもう一度読んでみたいと思います。 ガラテヤ人への手紙2:20
このことは、ただキリストのからだなる教会を通してのみ、実現したことであると言っていいと思います。 そして、 ガラテヤ人への手紙2:20
神の御子を信じる信仰によって、私たちは罪が赦され、そしてキリストのからだなる教会に連なるひとつの器官として、新しいいのちに生きる者とされた。 その恵みを忘れることなく歩みたいと思います。 どうもありがとうございました。 |