引用聖句:ヨハネの福音書3章1節-10節
今お読みいただきました10節のところに、ニコデモさんはユダヤ人の指導者であり、教師であったとイエス様ご自身の口からも語られております。ですからニコデモという人はよく知られた人であり、当然のことですけれども学識があり、人格的にも優れた人であったように思われます。 その彼が、夜イエス様のところへやって参りまして、「神があなたとともにおられる」と彼はイエス様に向かって告白を致しました。すごいことを彼は言ったものだと思います。 イエス様は例えば、マタイの福音書の12章の28節で「、人々には神の国はもう来ている。」と仰せになっておりました。 マタイの福音書12:28
と、そういうふうに仰せになっておりましたから、ニコデモがこういうふうに口にしたときには、「そう、神の国はね。」と仰せになるかと思われるんですけど、イエス様が仰せになったことはちょっと違いました。 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 神の国はもう来ているとイエス様は仰っていながら、ニコデモには、新しく生まれなければ神の国を見ることはできません、と、ニコデモの語りかけたのに対しては、どちらかというと何かこう唐突とも思えるようなお答えをなさっているのであります。そしてそれこそ真理だとイエス様は仰せになりました。 ニコデモは9節のところで、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」と答えたと書かれています。イエス様は、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」とニコデモに仰せになりましたけれども、でもそれで口を閉ざしてしまうことはなさらなかったのであります。 イエス様は続いて、とっても大切なことをニコデモにお語りになっています。例えば13節のところでは、 ヨハネの福音書3:13
と、ご自身のことをお語りになっています。わたしは天から下ってきた者だ、とニコデモにご自身を明らかになさいました。 そして15節では、 ヨハネの福音書3:15
と、「信じる者は永遠のいのちを持つ。わたしのところにつながっていなさい、そうすれば永遠のいのちを持つのですよ。」とお語りになっています。 16節で、 ヨハネの福音書3:16
と繰り返されています。 神はひとり子をお与えになるほどに世を愛された。ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためなんだ。ひとりとして!、だれひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためだ。例外はないんだ。と、このときニコデモにお語りになっているのであります。 戻りまして11節では、 ヨハネの福音書3:11
今わたしが話していることは確実なことだと仰せになっています。19節。 ヨハネの福音書3:19
人々はイエス様を目にしても、イエス様の前に進み出ようともしないでやみを愛してるという現実の世界の有り様を、「ひとりとして滅びることがないように。」という神さまの御心にも関わらずに、人間の方は光の方ではなくてやみを愛しているんだ、と本当にイエス様はこのとき、聖書全巻が短い言葉の中に明らかになるほどに、ニコデモにお語りになっています。 そのイエス様のお言葉をいただいて、ニコデモがもうどう言ったかは何もここには書かれておりません。ニコデモはたぶんイエス様のお言葉のひとつひとつに思いをめぐらし、本当にイエス様のお語りになることを、自分のものとしたいと思っていたんでしょうけれども、たぶんこのときニコデモは、そうすることが出来なかったのではないでしょうか。 だからイエス様のお言葉に、ニコデモがどう反応したかということ自体が、もう一切書かれておりません。私たちにとって分かることはただ一つ、ニコデモが理解出来ようと理解できまいと、このことを今語っておかなければならない、とイエス様はお考えになった。ニコデモがどうあろうと、わたしは今ニコデモにそれを語っておこう、とお考えになって語っておられるという、そのことだけは疑いのないことだと思います。 イエス様は、そもそも何のためにおいでになったのか、と申しますと、言うまでもなく十字架に架かるためにおいでくださいました。 先ほどの16節のところで、「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため。」、15節で、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため。」、と繰り返されていますけど、言うまでもなくそのためにはイエス様が十字架に架かって、すべての、本当に例外なくすべての人の罪のけじめをつけてくださらなければ、永遠のいのちを持つことはありえない。 だからイエス様は、もうこの世においでになったときから、ご自身が十字架に架かるために来たということはご存知だったはずであります。 ご自身の言葉でも、例えば、ルカの福音書の24章の26節、イエス様が復活なさった後で、エマオという村に向かって歩いてる二人の弟子たち、彼らはイエス様が十字架に架かって亡くなったということで、もうすっかり落胆しておりました。 彼らが希望だと思っていた希望は、あたかもうたかたのごとくに消えた、そういう気持ちで彼らはエマオに向かって歩いていた。そのときにイエス様が仰ったことは、「キリストは必ずそのような苦しみを受けて、それから彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」、と仰せになったことでした。 まず第一にイエス様が仰せになったことはそうだったんです。キリストは必ずそのような苦しみを受けて、それから彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。このお言葉、それからイエス様は、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中でご自分について書いてあることがらを彼らに説き明かされた、と書かれてあります。 まず第一にキリストはそのような苦しみを受けて、それから彼の栄光にはいるはずだ。イエス様はもちろんそのことを最初からご存知だから、ここでも第一にそのことをお語りになっている。 そういう状態でおいでになっていますから、イエス様は宣教の初めからもう、その最終の目的を意識なさっていたことは間違いありません。そしてご自身そのことを避けようと、十字架に架かることを避けようとは微塵もお考えにならなかったのではないでしょうか。 マタイの福音書16章20節から読みます。 マタイの福音書16:20-21
と書かれています。そういう状態で、そういうお気持ちでイエス様は一日一日をお過ごしになっていました。言い換えますと、イエス様の一日一日とは、十字架への一日一日であり、それだけにきわめて表面的にはともかく、お心の内には緊迫したものであったに違いありません。 私たち自身にとって考えてみますと、私たちであっても何か重要な仕事をしているときにはそのことだけを考えますし、それに関わりのあることだけを口に出します。例えば想像ですけど、外科のお医者さんは、手術の前に祈られることはあっても、手術の最中に今度買う自動車の色を何色にしようかなあなどと、考えられることは絶対にないと思います。 ましてそのことを口に出して、看護婦さんに、「ねぇ、何色がいいだろう。」なんて仰ることはありえないことだと思います。 ましてや十字架への道を歩まれるイエス様にとって、本当にご自身による旧約聖書の成就、旧約聖書に書かれている預言のひとつひとつの言葉の成就、それから十字架の死と復活の証し以外のことに気をそらせたり、無駄口をきかれることはなかったにちがいありません。 聖書の言葉というものは、ひとことひとこと全部必要があってイエス様をお語りになっている、本当に無駄なことは一つもないと思います。そう考えますと、この日のニコデモとのイエス様のお言葉も、旧約聖書の預言の成就、十字架の死と復活の証しとしてお語りになったその二つのことを、ニコデモにこのときに語っておかなければならない、たとえ今ニコデモがそのことをわからなくても、今語っておけば、いつの日にかにかニコデモが証し人として用いられる、そのことを主はご存知であり、その日のためにお語りになったのだと思われます。 また事実ニコデモは、そのように用いられました。ですから私たちもまた、ニコデモがイエス様からお伺いしたと同じように、このイエス様とニコデモとの対話を通して、旧約聖書の預言の成就と、十字架の死の復活の証しを、やっぱりここからお聞かせいただかなければならないように思います。 ニコデモとイエス様の対話の始まりは、ニコデモがイエス様に向かって、「神さまがあなたとともにおいでになります。」という告白から始まりました。たぶん、この告白がなければ、イエス様はここまでお語りにならなかったかも知れない。 神さまがあなたとともにおいでになります。という告白は、旧約聖書に親しんでいる者にとっては、これはちょっと考えられもできないほどの重大な告白であります。もちろん、神さまは私たちひとりひとりに、旧約聖書全巻を通して、「主はあなたとともにいる。」、「わたしはあなたとともにいる。」ということはいつもお語りになってますけども、ニコデモのような立場の人が、誰かに向かって「神があなたとともにおいでになる。」と言ったからには、それは、「あなたは神。神からおいでになった。神からおいでになった方だ。」という告白は言うまでもないことであります。 とくに彼は、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。神がともにおられる。」という、この告白こそは、インマヌエル、「神、ともにいます」という、その告白であったのであります。 ですから私たちも、この告白を聞くときにはやはり、それと最もインマヌエルという言葉と最も関係の深いイザヤ書の7章から9章に立ち返らなければならないと思います。 イザヤ書7:10-14
インマヌエルというのは、「神、ともにいます」という意味であります。アハズは王さまでしたけれども、「主からのしるしを求めよ。」という神さまの御声に従うことはしませんでした。 それゆえに、主みずから与えられるしるしがイエス様の誕生の次第だとイザヤは語りました。インマヌエルとは、「神、ともにいます」ということですから、まさにニコデモが証しした通りに、処女がみごもって男の子が産まれる、とここで預言がなされているのであります。 とびまして、 イザヤ書8:9-10
神が、ともにおられる方に聞こうともせずに、敵対する者のはかりごとを主は黙認なさいますけど、一時は黙認なさいますけども、しかしそれは破られ、失敗します。まさに主を十字架に架けることがそうでありました。 十字架によって問題人はいなくなった、と人々が喜んだのも束の間、主は十字架の死と復活を通して、全世界にご自身の勝利を明らかになさいました。本当にその前に人々はわなないたのではないでしょうか。 イザヤ書8:12-14
ユダヤ人たちは「カイザルは王だ」、と十字架に架ける代わりに、彼らは大きな声で叫びました。カイザルが王だ。そしてイエス様を釈放するピラトに対して、それは謀反だと叫びました。 ヨハネの福音書19:12
彼らはそういうふうに言ったのであります。まさに主はユダヤ人にとってつまずきの石となられました。「救いを得るためには、まことに聖なる方を恐れとすべきである。」と、書かれていますけれども、そうすればこの方が聖所になられる、すなわち神の国を見ることが出来ると神さまはここでお語りになっています。 イザヤ書8:20
「人々は光よりもやみを愛した。」、とイエス様は仰せになりましたけども、おしえとあかしに尋ねなければ、人は人として光の中に向かうことは出来ない、と書かれています。おしえとあかしに尋ねる者だけに、夜明けが来、光が差し込みます。 イザヤ書8:22
イザヤ書9:1-2
メシヤの到来にすべてをかけるように、と主はお語りになっております。とびまして、 イザヤ書9:6-7
インマヌエルなる方、神がともにいます方が私たちのためにお生まれになる、それは神さまが成し遂げられることだと書かれています。ニコデモがイエス様に向かって、「神さまがあなたとともにいます」、とおいでになりますと言ったときに、ニコデモほどの学識のある者ならば、彼は旧約聖書を学ぶことが仕事だった、本当に仕事だというより、生き甲斐だったはずであります。 ですからそのニコデモにとって、このイザヤ書のところが思い出せなかったはずがない、そうなのではないでしょうか。本当にニコデモは、このところへ立ち返りさえすれば、すべてのことがおのずから明らかになったはずだと思います。イエス様こそキリストである、と彼は確信が出来たはずであります。 ユダヤ人たちの体制に従うのではなくて、神がともにおられる方、ダビデの王座に着くべきお方、おしえとあかしをなさるお方にニコデモは、このときをきっかけとして聞き従うべきでありました。 しかし事実はそうではありませんでした。このときはまだニコデモはその一歩を踏み出すことが出来ずに、そこで立ち尽くしてしまったように思います。ニコデモほどの人が、神さまがイエス様とともにいらっしゃる、とまで告白しながら、なぜそれから一歩が踏み出せなかったのかということを考えるときに、ニコデモがイエス様のところに夜やって来たという、その事実がきわめて象徴的な出来事のように思われます。 聖書は救いの書物でありますし、希望の源であります。聖書の言葉に信頼する者は失望することがないはずであります。ニコデモはもちろん真剣に、そして救いを求める気持ちを持って聖書に親しんでいたはず。いや、そういう気持ちを持って聖書に向かっていたからこそ、彼は旧約聖書の教えの中に何かもうひとつ成就しきれていないものを、感じていたに違いない。 聖書の成就のために、何かここにもうひとつあるべきだ、と彼は思っていただろう。でもそれが何なのか、というところに彼は確信が持てなかった、そうとしか思えません。結局、預言のみことばに信頼しながらも、預言の成就を信頼しきれなかった。そういうふうに言っていいのではないかと思います。 預言のみことばにどれほど信頼していても、預言の成就に信頼がなかったら、当然こととして希望のない毎日になってしまう、そうになるに違いないと思い (テープ A面 → B面) 聖書の成就を、聖書の結末を知ることがどれほど大切か、そして十字架の死と復活にしっかりと立った信仰を、その上でみことばに信頼し通し尽くすことがどれほど大切かを、私たちはここから知らせられます。 大切なことはすでに成就されたみことばに信頼し続けることであります。そしてすでに成就されたみことば、十字架の死と復活とそして私たちの罪の贖い、それに信頼する者は、決して失望することがない。十字架の死と復活が曖昧になったり、イエス様の十字架の死には、私たちのためなんだイエス様の十字架の死と復活は、ぼくたちの罪が全部解決されて、新しいいのちにぼくたちが生きるためだったんだという、その点を曖昧にしてしまいますと、私たちはやっぱり心がグンナリしてしまう者であります。 十字架の死と復活と、そしてそれによってなされた、主のみわざとを確信し信頼し続けるなら、たとえ現実がどれほど厳しいものに見えても、それは人間の目の見る世界であって、主がご覧になる世界ではない。 主の世界に、主の十字架と復活を通して私たちは本当はもう入ってるんだ。人間の世界から、一歩壁を通って主のご覧になる世界に入ってる。それこそ聖書のみことばの世界であります。私たち、そこに今新しいいのちを受けて、今もうそこに立っている、そのことをしっかりと覚えたいものだと思います。 現実がどれほど厳しくても、それは滅び去る人間の世界の物事であり、私たちに約束されている勝利と主のご栄光は、その世界の向こうに一点の曇りもなく輝いているのだ、ということを私たちは知ることができるのであります。 イエス様は、今このときをわからなくても、後の日に証し人としてのニコデモに必要になるように、とすべてを語り尽くされた。ニコデモのこの短い出会いのときを、主は一瞬たりとも無駄になさらなかったはずです。 主は無駄になさる方じゃない。ニコデモの中にすべてをこのとき、本当にニコデモだけじゃありませんけど、ひとりひとりにすべてを、必要なすべてをそのときそのとき語り尽くされてる。そのことを思います。 イエス様がどれほど深くニコデモを愛されたか、このときまだイエス様のもとから立ち去らざるを得なかったニコデモを、イエス様はでもニコデモがどうなるか、最後まで全部ご存知だった。その上でニコデモだけが知らなかった。その上でこのとき、ニコデモにすべてをお語りになっているなと思います。 そして、それは私たちひとりひとり、私たちの命がまだ始まる前に、主のいのちの書に私たちのすべてが書き込まれてると、詩篇139篇に書かれています。 詩篇139:13-16
私たちが、今みことばに触れるように出来たのは偶然じゃない。そして私たちがやがて、すでにイエス様のいのちをいただいて、やがていつの日かこの地上のいのちが終わったときに、永遠のいのちの中にまた導き出されるということも偶然じゃない。いのちの書にすべて約束されている通りであります。 イエス様は、「信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族もみな救われます。」と仰いました。ぼくはいつでも何かあるときに、この言葉に立ち返るんです。「救われます。」という約束は、本当にぼくが信じさえすれば、無条件でなされるという約束、それは神さまの世界からご覧になったとき、もう救われてるということと同じことではないでしょうか。 人間の目で見た世界ではそうは見えないけれども、神さまの目からご覧になったときに、もう人間の目とはまったく違う世界があって、そこでは救われてる。あなたが信じるかどうかだ!と仰せになってます。 おんなじことがすべてに当てはまるのではないでしょうか。イエス様のみことばはそういうものだと思います。 どうもありがとうございました。 |