引用聖句:ローマ人への手紙5章19節
聖書全巻を短いみことばを表わすとすれば、色んな表わし方があると思うのですけれども、今お読みいただきましたローマ人への手紙5章の19節のみことばも、やはりそうしたみことばの一つではないかと思います。 ローマ人への手紙5:19
旧約聖書の始まりの創世記から新約聖書に至るまでの一切が、ある意味で、この短いみことばの中に含まれているのではないかと思います。 ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた。アダムのそむきの罪によって、人はそれ以来例外なしに罪人となったと聖書は記しています。 もう罪人として生まれる。そういうふうに言うほうがいいのではないかと思います。 その罪人とはそこにありますように、不従順。不従順ということによって起こった。言い換えますと、神様に逆らう者として生まれるようになった。 そうしますとすぐに分かることは、この社会というものは神様に逆らう者、不従順な者によって構成されているのだということになってまいります。 それがどういうものであるかということについては、実はサタン自身が証しをしています。ルカの福音書の4章の5節、6節でございます。 ルカの福音書4:5-7
サタンはよりによってイエス様の前で、「国々の権力と栄光は私に任されている。私の手の中にあるのだ。」とはっきりと証しをしています。 サタンとはまさに高ぶる者ということを、私たちはこのところから知らせられてまいります。 この世が、サタン自身が言うように、いっさいの権力と栄光とがサタンの手に握られているとすれば、この社会のあらゆる面において、それは何らかの意味で形を取って表われてくるのだろうと思います。 今日はそのひとつとして、宗教についてごいっしょに考えてみたいと思います。 そして、このサタン自身の言葉を頭に置きながら考えてみますと、宗教は全て国家の権力と栄光に結びついていると言ってもいいのではないかなと思います。 私たちの国の宗教も、国家神道という形で、あるいは仏教もまた、国によって採用されたものでありました。儒教も中国や朝鮮ではそうでありましたし、今もイスラム教はそうであります。カトリック教会も聖教もまたそうであると言ってもいいのではないでしょうか。 言い換えますと、宗教というものは全てサタンの手の内にあるものだと、このサタン自身の言葉から私たちは推測をすることが許されるのではないかと思います。 そしてそういう中で偶像というものは、実は罠として人間の前に置かれたものだと、みことばが語っています。 詩篇の106篇34節からお読みします。 詩篇106:34-36
そういうふうに記されています。 偶像は常に私たちの目をまことの神様から離れさせる役割をしています。例外なしに、と言ってもいいのではないでしょうか。例外なしに偶像は私たちの目をまことの神様から離れさせるわなとしてあるのだと、みことばは知らせています。そして、そういう状況において人は低くされる。 イザヤ書2章の8節から9節のみことばを読んでみたいと思います。 イザヤ書2:8-9
もちろんこれは、謙遜になったというような意味ではありません。行き着くところまで落ちたという意味ではないでしょうか。 いうまでもなくそれは、サタンの支配のもとに置かれているということを意味しているのではないかと思います。 宗教は国家の権力と栄光とに結びつくことによって、神様との代わりに、実はサタンと手を結んでいると、みことばから私たちは知らせられてまいります。イザヤ書5章20節。その状況をこのイザヤ書のみことばは、はっきりと記しています。 イザヤ書5:20
まさに宗教こそ、この姿のとおりなのではないでしょうか。 光をやみと置き換え、やみを光と置き換えて、彼らはその中で人が低められる、その役割を果たしているなどと聖書のみことばから私たちは知らせられるのではないかと思います。 いうまでもなく、まことの神様は国家の権力や栄光とは無関係なお方でございます。 私たちをお造りくださったまことの神がどういう方であるか。三ヶ所ほどみことばを引いてみたいと思います。 まず、出エジプト記3章14節でございます。 出エジプト記3:14
ほかの全てのものが消え失せても、わたしはある。何一つ無いときに、わたしはすでにあったし、空間を越えて、時間を越えて、すべてのものを通して、わたしはある。これが神様ご自身の、ご自身の啓示でございます。 そしてエレミヤ書23章24節。 エレミヤ書23:24
聖なる方は、天にも地にも、満ちておいでになるお方であります。 そしてもう一ヶ所、テモテへの手紙第I、6章15節でございます。 テモテへの手紙第I、6:15-16
神様は、偶像を作ってはならないとお命じになりましたけれど、神様を偶像になどできるものではないと、ここでは知らせられてまいります。 どんな形に作っても、それは似ても似つかぬものしか人間には作れないのだ。 祝福に満ちた唯一の主権者、このひとことだけでも人間の力では表わすことができないお方だと分かってまいります。 天と地をお造りになった方は、国家の権力と栄光などというようなものとは、このお方のご自身の姿を考えますと、比較にすることもできない。 国家の権力と栄光などというものは何の価値もない。このお方の前ではまるで、本当にゴミにも等しいものだということが言えるのではないかと思います。 例えて言うならば、太陽の光の中の電灯だと言ってもいいのではないでしょうか。どんなに明るい電灯であっても、それは太陽の光のもとでは何の力も持たない。何の価値もない。それが国家の権力と栄光というようなものではないかと思います。 そして電灯は闇の中だけで役立つものであります。宗教もまた、国家の権力と栄光と同じように、闇の中でこそ力を持つものであって、まことの神の光の中に引き出されるとき、それは何の価値も持たないものだと明らかに私たちは知ることができてまいります。 まことの神様はサタンが支配する中においては、どこにでも満ちておられる方でありながら、ご自身をお隠しなさいます。イザヤ書45章15節にみことばが記されています。 イザヤ書45:15
やみの支配する、サタンの支配するこの世の中ではまことの主なる神はご自身をお隠しになると知らせられてまいります。ですから私たちはまことの神様を国家の権力と栄光の結びついた中に捜しても、見いだすことはできません。 サタンの証しにあった、あのルカのことばのように、「国々の権力と栄光は私の手にゆだねられている。」とサタンは豪語しています。そういうところにまことの神を、主なる神を捜しては、私たちは何一つ見いだすことはできません。 あるいは不従順な神様から離れた人間の知恵、能力、努力、修行、そういったこの世の宗教が勧めるもの、そういうものを通しても私たちはまことの神様を知ることはできないということは明らかなのではないかと思います。そしてイエス様もまたそうなのです。ご自身を隠す神であられます。 イザヤ書53:1-9
そういうふうに記されています。 このみことばからは主なる神ご自身の御姿を私たちは歴史を通してでなければうかがうことはできません。イザヤのことばを聞いた人はだれひとり、これがイエス様のことであろうとは分からなかったと思います。 まことにご自身を隠す神であらせられます。そしてイエス様がこの世においでになった御姿もまた、ご自身を隠す神であられました。 ルカの福音書2:6-7
主は馬小屋の中にお生まれになりました。飼葉おけの中で第一日目をお過ごしになりました。 そしてこの地上の歩みの最後を主は十字架の上で経験、お過ごしになったのでございます。 マルコの福音書15章24節から読んでみたいと思います。ちょっと長いのですけれど、 マルコの福音書15:24-32
ここにもイエス様がご自身を隠す神であられるということがはっきりと記されています。 イエス様のご生涯は、その誕生の場面と最期の場面を、今、手短に拝見いたしましたけれども、国家の権力と栄光などというものは、全くそこには立ち入る余地はありませんでした。 そして、そればかりか、人間的な誇りさえ徹底的に否定された形で、主は、地上のご生涯を終えられたのでございます。まさにここにこそ、イエス様がサタンとは何の関係もお持ちにならなかったということをこれ以上ないほど、はっきりと記しています。 このイエス様の十字架を、コリント人への手紙第Iの2章の6節から10節に、私たちはまとめて見ることができるのではないかと思います。 コリント人への手紙第I、2:6-10
御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 さっき、まことの神様である主なる神を、私たちの知恵や知識や努力や訓練や、修行などというようなものによっては、私たちは知ることができないと申しましたけれども、ここに、そう書かれています。 この世の支配者たちは、だれひとりとして霊の目を開かれることがなかったとも記されています。 そして、すべてのことは、ただ御霊の啓示によってのみ、私たちは知ることができる。 まことの神様は、御霊を通して、御霊によって私たちに啓示を与えてくださり、私たちはそのことによって初めて、目が開かれて、まことの神を、神様を知ることができるということではないかと思います。 初めにお読みいただきました、ローマ人への手紙の5章の19節には、こう書かれています。 ローマ人への手紙5:19
ひとりの従順とは、いうまでもなく、十字架の死に至るまでの従順ということを意味しています。イエス様の十字架のみわざによって義人とされるのです、とここに、新しい時代の幕開けが記されています。 アダムの不従順によって罪がこの世にはいり、全ての人が罪人として生まれてくる、その時代にあって、ひとりの方の十字架の死に至るまでの従順を通して、新しい時代が始まった。そのことを私たちはここから知らせられてまいります。 そしてそれは、ただ恵みによるのだと記されています。エペソ人への手紙2章5節でございます。 エペソ人への手紙2:4-5
罪人として生まれてくる、本当に霊的に死んでいた、その死んでいた私たちが、キリストとともに生きる者とされた。あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですと記されています。 ひとりの人の、ひとりの人の従順だけが私たちを新しいいのちへと導く。それは、恵み以外の何ものでもないということが、ここで記されています。もちろん、国々の権力や栄光とも、そして、さまざまな宗教の教えや実権とも、全く無関係であります。 ただ恵みによって、人は救われるのでございます。コリント人への手紙第Iの1章です。 コリント人への手紙第I、1:26-29
宗教では言えないことばなのではないでしょうか。 罪人である人間には、恵みによる以外に救いはなく、真理もいのちもない。そして神は、だれをも誇らせないために、人間的なさまざまな誇りとするものとは無関係に選んでくださったということを、ここで記されているのでございます。 恵みを受けて悔い改め、救いにあずかりますと、その時からすべてが変わります。先ほどのみことばにもありましたように、御霊がすべてを明らかにして、私たちを導いてくださいます。 そして、その御霊のお働きのひとつに、私たちは自分のありのままの状態を知るという、そういうことがあるのではないでしょうか。 詩篇の119篇130節のみことばを見てみたいと思います。すばらしいみことばですけれど、 詩篇119:130
みことばの戸は、光の中に、光として差し込み、私たちにすべてを示してくださいます。何が示されるのでしょうか。 エペソ人への手紙5章12節から14節にそのことが記されてまいります。 エペソ人への手紙5:12-14
エペソ人への手紙5:8
と勧められています。 救いを受けるとみことばの光が差し込み、すべてが明らかにされてまいります。自分のありのままの状態を私たちは正直に知るようになってまいります。 そしてその時、必ず、それは私たちをみじめにさせると言っていいのではないでしょうか。あまりにも自分の正直な姿が、自分でさえも耐えられないほどのものであると私たちは感じることも少なからずあるのではないかと思います。 私自身も、今年は夏を通して、中国のことに関心があったものですから、中国のここ百年の歴史の関わるさまざまな本を読みました。中国人が書かれたもの。日本人が書いたもの。それ以外の外国人が書いたもの。 さまざまな書物を、ここ百年について読みましたけれども、そこには戦争があり、内乱があり、そして権力、支配者の権力闘争があり、餓死があり、密告があり、家族による密告があり、友人による裏切りがあり、考えられないほどの中国の方々の苦難が記されています。 でもそれを読んだ時、自分もまたそうなのだということを本当に深く知らせられました。 このひとつひとつは、自分とは無関係な出来事ではないのだということを知らせられ、私も一時、本当にありのままの自分の姿を、その書物を通してですけれども、主は特に明らかにしてくださったと思いました。 若い兄弟姉妹方に申し上げたいことがあります。もちろん、お歳を召した方にもそうなのですけれども、特に若い兄弟姉妹方に申し上げたいことがあります。 それは、みじめになる、と、私は申し上げましたけれども、そのありのままの自分の状態を知り、みじめさを知ることは、聖霊のみわざだということでございます。 だから、自分はもうダメだと決して思ってはならないということでございます。そうではなくて、恵みの中にあるからこそ、私たちは自分のみじめさを知ることができる。ダメな者だから、みじめな者だからこそ、恵みが与えられた。 先ほどの、コリント人への手紙第Iの1章にあったとおりのことでございます。 イエス様は私たちを、イエス様ご自身の満ち満ちた姿にまで成長させようとして、私たちにありのままの姿を、明日も、明後日も示し続けられるのではないでしょうか。 決して、そのみじめさのあまりに絶望するのではなくて、それこそが主から恵みを受けていることの証しとして、悔い改め、主をほめたたえることを、私たちは続けるべきではないかと思います。 ローマ人への手紙7章。そこにパウロ自身の証しが記されています。 ローマ人への手紙7:24-25
ローマ人への手紙8:1-2
飛びまして6節。 ローマ人への手紙8:6
いのちと平安のためにこそ、私たちは、自分のありのままの姿を知らせられなければならない。それをそのまま主の前に悔い改め、そして、主をほめたたえるべきなのではないでしょうか。 エペソ人への手紙1:12
何よりも、主なる神と御子イエス・キリストと御霊さまとを、私たちはほめたたえることを通して霊的に満たされ、また、満ち満ちた身丈にまで成長を続けていく。もちろん悔い改めなしには、それは有り得ないことは、いうまでもありません。 自分はダメだ、と思う時、それはある意味で、偶像を作っているということ。心の中に偶像を作っているということなのではないでしょうか。 だからこそ、その偶像と自分を引き比べた時に、自分はもうダメだ、と思ってしまう。そうではなくて、私たちはイエス・キリストを見上げる。イエス・キリストにのみ、私たちは逃げ込む。 イエス様の十字架の血によって、すべてが赦された。そしてイエス様の十字架の死と復活とともに、新しく造られた者として今生きていることをはっきりと心に刻みつけるべきではないかと思います。 ただひとりの人の従順によって義と認められる、と書かれているみことばは、真実でございます。 イエス様の十字架の死に至るまでの、十字架の死によって私たちはすべてが赦された。そのことを忘れないで、イエス様とともにある新しい歩みを歩みたいと思います。 どうもありがとうございました。 |