引用聖句:ヨハネの福音書11章38節-46節
今お読みくださいましたところには、イエス様がだれで、どのようなお方かということがつぶさに明らかにされております。 イエス様は42節にありますように、神から遣わされた方、すなわち神の御子であり、そして死者でさえもよみがえらせることのできる、言い換えれば、何でもできるお方であり、同時に私たちの心のうちをも読み取られる、共感を持って読み取ってくださるお方であるということが分かってまいります。 そしてこのお方は私たちに対して信じることを求めておいでになるということもまた、このところに明らかにされております。 イエス様はラザロをよみがえらせなさいました。多くのユダヤ人たちがその場に立ち会いましたけれども、その人たちの反応は大きく二組に分かれたようであります。 45節にありますように、多くのユダヤ人がそのことを見て、イエスを信じたと記されています。しかし46節です。 ヨハネの福音書11:46
と記されています。 この人たちは、同じくヨハネの福音書12章の37節に、イエスを信じなかった人だというふうに記されています。 ヨハネの福音書12:37
イエス様はマルタに対して、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」とお語りになりました。そしてこのとき、信じる者も信じない者もともにラザロのよみがえりを見る機会に遭遇いたしました。 信じるなら、神の栄光を見る。 このとき見た人たちの中には、イエスを信じない者もいたと記されています。とすれば、信じるなら、神の栄光を見る、と仰せになったその神の栄光とは、単にラザロの復活そのものではないということが明らかになってまいります。 いったい神の栄光とは何をイエス様はお語りになったのでしょうか。それはラザロのよみがえりを通して、信じる者が心の目で見るもの、そのことをお語りになったのではないかと思います。 すなわち、イエス様は何でもできる。イエス様のみことばは確かだ。この方は神から遣わされた神の御子である。この方のお話になることを信じるに値すると、そのことを知った者は神の栄光を見た、と言っていいのではないかと思います。 神の栄光を見るとは、神がおられることを知ることであり、神は何でもできる無限の力を持っておられるということを知ることであり、同時に、だから神のみことばは信頼するに値すると知ることではないかと思います。 確かに信仰がなくてはこの神の栄光を心の目で見ることはできない。そう言っていいのではないかと思います。 今日は神の栄光について、そういうわけで、実は昨夜もそうだったのですけれども、ごいっしょに考えてみたいと思います。 ヘブル人への手紙の1章の3節にイエス様のことがこう記されています。 ヘブル人への手紙1:3
御子は神の栄光の輝きである、と記されています。 言い換えるなら、神の栄光はイエス様その人のうちにあるということを意味しています。 ですからイエス様のみことばも、地上のご生涯も、そしてよみがえって天に昇って天におられる今も神の栄光はイエス様において現わされていると私たちは受け止めるべきではないでしょうか。 イエス様のみことばそのものが生きて働く神の栄光であることは、ラザロのよみがえりにおいてすでに明らかになりました。 聖書は、イエス様のみことばがことごとく真実であり、生きて働くことをさまざまな例をあげて私たちに示しています。 まさに死からいのちを、不可能を可能とする力がイエス様のうちにはある。イエス様のみことばにはある。そのことを私たちは心を開いて聖書を読むなら、だれであっても分かるのでございます。 イエス様の地上でのご生涯もまた神の栄光そのものであったと言っていいのではないかと思います。 ヨハネの福音書の12章の23節、24節でイエス様はご自身の十字架上での死について前もって弟子たちにご自身を一粒の麦に例えてお語りになりました。 ヨハネの福音書12:23-24
ご自身の十字架の死は、豊かな実を結ぶための死であるということをお弟子たちにお語りになるとともに、その十字架の死こそ栄光そのものであると、神の御力の現われそのものであるとイエス様は前もってお語りになりました。 十字架の死は確かに現象としては不法な者の手によって行なわれましたけれども、しかし、主なる神はそのことを十分にご存知の上で御子イエス様をこの世にお遣わしになり、そして十字架の上において救いのみわざを成し遂げてくださいました。 ローマ人への手紙の8章の3節を見てみたいと思います。 ローマ人への手紙8:3
すべては神のご計画のうちに成し遂げられたということがこのところに示されています。 コリント人への手紙第I、1:25
と記されていますけれども、まさに狡猾な人間の悪知恵をあざ笑うかのように神のみこころは暗やみの中においてもなお、完全な力をもって成し遂げられるということをこのみことばを通して知らせられてまいります。 イエス様の十字架の血はなだめの供え物として神にささげられ、全人類の罪がそのことによって赦されました。 同時に、私たちひとりひとりの身代わりとしてのイエス様の死は、私たちの罪の重い、重い債務証書を無効にしてくださいました。アダム以来、神様との間に高い、高い塀のように存在した敵対関係はここに打ち壊され、平和がもたらされました。 コロサイ人への手紙の1章の19節、20節を通してそのことを私たちは知らせられてまいります。 コロサイ人への手紙1:19-20
一方的に神様があわれんでくださって、私たちを和解へと導いてくださいました。まさにイエス様の十字架上での死は旧約聖書以来の約束のみことばの成就であり、神のご栄光の現われそのものであったと受け止めるべきではないかと思います。 しかし、イエス様ご自身は十字架の死をもってすべてが終わりとなった、そのようなお方ではありませんでした。 ローマ人への手紙の6章4節に、イエス様はよみがえられた、と記されています。 ローマ人への手紙6:4
とあるように、イエス様の復活もまたご栄光の現われであったことは明らかであります。 また使徒の働きの2章の32節、33節はそのイエス様のよみがえりを通して、さらにはご昇天を通して神の右にお座りになったイエス様から聖霊が下されたと記されています。 使徒の働き2:32-33
この聖霊の注ぎを受けて教会が誕生しました。このとき以来、聖霊はこの地上にとどまって私たちとの深い交わりのうちに働いていてくださることは明らかなことであります。 十字架の死も復活も、そして聖霊を与えてくださったことも、すべては神の栄光そのものであると言っていいことは疑う余地がありません。 ですからイエス様はご自身を、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見る、と仰せになりました。 ヨハネの福音書12:45
わたしを信じる者は、まことの神を信じるのだということを仰せになっているのであります。 信仰をもって聖書を読むなら、私たちはそこにイエス様の無限の愛と力を見いだすことができます。しかもそのイエス様の愛と力はほかならぬ私個人に働いて、私もまた栄光の主であるキリストの栄光のうちにあることを見いだすことができるようになってまいります。 ローマ人への手紙6章4節から8節をお読みしたいと思います。 ローマ人への手紙6:4-8
私たちは、イエス様につぎ合わせられたと5節に記されています。だからイエス様の死とともに私は死んだ。そしてつぎ合わせられているからこそ、キリストのよみがえりとともにキリストのいのちに生きる者とされたと私たちは知らせられてまいります。 アダムの性質をもって生まれて来た古い人は、イエス様とともに十字架につけられました。イエス様のいのちを受けてキリストとともに生きる者として、今、新しい創造のうちに私たちは生きている。 そのことを信じるなら、私たちは確信をもって受け止めることができるようになってまいります。 ガラテヤ人への手紙2章の20節は、そのパウロの証しとしてよく知られているものではないかと思います。 ガラテヤ人への手紙2:20
とパウロは証しをしています。 信仰によって見るとき、私は、私はキリストとともに十字架につけられた。もはや私ではなくて、キリストが私のうちに生きておられるという、まさに神の栄光そのものの私のうちに見ることができるとパウロはここに証しをしています。 信仰をもって信じるなら、神の栄光を見る。イエス様の変わらない、永遠に変わらないお約束と言っていいのではないかと思います。 残りの時間を少し、神の栄光を見たふたりの人を例に少し考えてみたいと思います。 ひとりはマタイの福音書の8章5節から13節にある百人隊長です。 マタイの福音書8:5-13
この百人隊長はイエス様と、そしてイエス様のみことばとに絶対的な信頼を置いていました。 イエス様のみことばなら必ずしもべは直る。このお方のみことばは生きて働くことばであって、絶対に間違いはない。どうしてだか知りませんけれど、彼はそう確信をしていました。 自分は本当にあなた様をお迎えする資格のない者でしかないけれども、ただ恵みの一端をお与えくださいと願ったと言い換えることもできるのではないかと思います。そして彼は確かに神の栄光を経験いたしました。12節の、 マタイの福音書8:12
というイエス様のみことばとともにイエス様の心の痛みが響いてくるような気がいたします。 もう一個所。マルコの福音書の15章33節から39節を見てみたいと思います。 マルコの福音書15:33-39
どういうわけか、この人もまたローマの百人隊長でした。 御国の子らは外へ追い出されて、泣いて歯ぎしりをするとイエス様は仰せになりましたけれども、まさにその通りにユダヤの指導者を含めて、ユダヤの多くの人々は聖書をよく勉強していましたし、さまざまな戒めを守ることに熱心でしたし、確かに神様のお約束をよく知っていました。 それに比べて、あのマタイの福音書に出て来た百人隊長も、そしてここで「まことにこの方は神の子であった。」と言った百人隊長も、そういった聖書もユダヤ教のしきたりも神の約束にもほとんど無関心、あるいは無関係に生きてきたのではないかと思います。 しかしあのしもべを直していただいた百人隊長も、このイエス様の十字架の死に立ち会った百人隊長も、神の栄光を確かに見ることができました。信仰は心だということが語られています。 自分の知識や経験を頼りに生きることは、信仰の妨げとなりやすい。自分の知識や経験は何の役にも立たない。そのことをはっきりと知って、幼子のような目で心を開いて素直に聖書を読むなら、だれであっても分かってきます。 すなわち、自分は死に値する者だ。しかし、キリストの愛のゆえに生きることができる。すでに生かされていると知ることができます。そのとき私たちは神の栄光の真っ只中にすでに置かれていることを確信をもって受け止めたいと思います。 二個所ほど聖書を読んで終わります。最初にローマ人への手紙の10章の17節です。 ローマ人への手紙10:17
信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。 ローマ人への手紙10:9
何の努力も訓練も必要ではない。ただ心を開いて、主の前に小さくなること。そのことを思わされます。 どうもありがとうございました。 |