引用聖句:ヨハネの福音書9章1節-3節
ともかく、人生というものはやっぱり大変なものであるということは、間違いがないと思います。長く生きておりますと、どうにも理解できないことっていうのがたくさんあります。 本当に「この子のために!」と思って、人生を捨てたようなつもりで育てた子どもが、思い通りにいかなかったり、あるいは本当に「二人で新しい人生を築こう!」と思って結婚しても、心がなかなか一つにならなかったり。 それはもう、「そうじゃない。」なんて言ったほうが嘘だと言えるくらいに、人生というのはさまざまな問題があるのではないかと思います。 聖書にあまり慣れていらっしゃらない方、無理に聖書開けようとなさらないで、気楽にお聞きください。 「ソロモンの知恵」という言葉をお聞きになったことがあると思うんですけど、ソロモンの知恵と言われるくらい、日本で言えば菅原道真がそれにあたるんじゃないかと思いますけど、大変な知恵者の王様がいました。 その知恵者の王様が書いた、「伝道者の書」という書物が聖書の中に取り込まれてるんですけれども、その中でこういうことが言われています。 伝道者の書9:11
そっからが重要です、 伝道者の書9:11
そういうふうにソロモンが言っています。 競走は、本当なら足の早い人が勝つはずだけど、必ずしもそうはならないんだ。勇士が必ず戦いで勝つはずだと思っても、そうはならないのだ。 知恵ある人も食べるものにこと欠くことがあり、悟りのある人も本当に貧しい生活に陥ることが普通だと、そういうことをソロモンの知恵でもって語っています。 考えてみますと日本の歴史でも、子どもの頃、本当にワクワクしながら読んだ源義経でも、真田幸村でも、それからこの高知の地に関わりのある坂本竜馬でも、やっぱりみんなそう思って死んでいったのではないかと思うんです。 負けた人には、きっと納得がいかなかったと思います。「なぜだー!」ときっと叫びたい。そういう思いがあったのではないかと思います。 でも、真田幸村や坂本竜馬に限らず、「なぜ?」という問いは、誰もが抱く問いではないでしょうか。いつの時代にもやっぱり、人はそういう問いを抱き続けてきたのではないかと思います。 詩篇10:1-5
「神はいない。」と宣言をする。そして心の欲望のままに動き回って、でもそういう人の道はいつも栄えている。もう本当に、この祈りを知っている人の目から見ると、納得がいかなかったんです。悪者がどうして、「神はいない。」と言う者がどうしてこんなに栄えて、それに比べて自分は悩む者だと、彼は語っています。 「主よ。主よ。」というのは、「神さま。」ということですけど、「なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」と、彼は祈っています。 神さまに信頼するからこそ、出る問いではないかと思います。 納得のいかない苦しみというものは、人生に少なくないと思います。最初に申し上げましたように、本当に心を込めて育ててもそうはいかないというようなことは、やっぱりたくさんある。 その中でも、聖書ではヨブの悲劇というのが、その最たるものではないかと思います。 ヨブ記1:8-12
サタンが神さまの前に出て来ましたときに、神さまは、「おい。サタン。ヨブのような潔白で正しい、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はこの地上にひとりもいないね。」と仰せになりました。 それを聞いてサタンは、「どういたしまして。ヨブは訳もなく神さまを恐れているのでしょうか。神さまがたーくさん、祝福を与えてくださってるからこそ、ヨブは神さまを恐れているのです。」と言ったんです。「だから、もし神さまの手が伸びて、彼のすべての持ち物を奪い去ってください。そうすればきっとヨブは神さまをのろうに違いありません。」 神さまは、「では、おまえが思うようにやってごらん。ただしヨブのいのちに手をかけてはならない。」と、そういうふうに仰いました。 こうして、ヨブには不幸が次々と襲うようになりました。 まず、ヨブのたくさんの子どもたちが、色々な理由で、あっという間に次から次と死んでしまいました。敵が襲って来たり、大風が吹いて家が潰れたり、そんなことでヨブの愛する子どもたちが死にました。 それだけではなかったんです。ヨブのからだは本当に、足の裏から頭の頂まで、と聖書は書いてますけど、できものが、悪性の腫瘍、腫れ物、と聖書は書いてますけど、それができました。ヨブは陶器の欠片を取って、ゴリゴリゴリゴリからだをかいていたと書かれています。 もう、寝るにも寝られないほどの痒さと、からだの腫れと、そういう中にヨブがおかれたと書かれています。 ヨブが苦しみに遭ったのは、彼がなにか落ち度があったからではありませんでしたし、ヨブに欠点があったわけでもありませんでした。 しいて言えば、ヨブが正しすぎたからこそ、サタンの餌食にされたと言ってもいいのではないかと思います。 そういうことはよくあることだろうと思います。正しすぎる人が、この世の中で色々な、本当に苦しい目に遭わせられるということは、決して稀なことではありません。 ヨブは次々と不幸が起こって来ましたけど、その不幸を彼は、神さまから来たものだと理解いたしました。彼は奥さんにこう言っているんです。 「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない。」 結局自分の不幸やこの皮膚病は、全部神さまから来た。と彼は受け取ったんです。 でも、だからと言ってもいいと思うんですけど、なぜそれほどの、これほどの苦しみを神さまが自分にお与えになったのかという点で、彼は納得がいきませんでした。 神さまから来たんじゃないと思えば、ある意味で気楽だったかもしれませんけど、ヨブは全部、自分の人生は全部、神さまがご存知だということを確信していましたから、これも神さまから来たに違いない。 あるいは、神さまが許されなければ、こんなことは起こるはずがないと彼は思っていました。 そして、彼は神さまに祈りました。 ヨブ記3:20-23
本当に想像を絶する苦しみの中で、死を待ち望んでも、死は来ないとヨブは語っています。 なぜ苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。一日一日、本当に辛い思いの中で生きているのに、なぜ、毎日毎日が与えられるのだろう。そういう思いが、この祈りの中に出ています。 今度は神さまに、ヨブが申し上げるんです。 ヨブ記7:19-21
神さまの目がいっつも自分の上にあるから、そして私が罪を犯したとあなたは仰せになるけど、私にいったい、神さまに対して何ができるでしょうと、ヨブは尋ねています。 たくさんあるんですけど、もう一ヶ所だけ見てみたいと思います。 ヨブ記13:22-24
私の罪と咎がいったいどれほどなのか教えてください。なぜ、こんな苦しみを私は受けなければならないのですかとヨブは言っています。 こうして見てきますと、ヨブの苦しみの原因は、子どもたちがあっという間に全部死んでしまったということと、そして自分の身を襲った、その腫れ物の病であるということは、言うまでもないことですけど、実はそれだけではなかったということが、今のヨブの祈りをとおして明らかになってまいります。 それは、苦しみの中では生きることの意味を見いだすことができないんだということに、ヨブの最大の苦しみがあったということです。 もし、生きることの喜びがあったら、たとえ苦しみの中でも耐えることができる。でも、生きていくことの希望と、そして喜びがない今の自分にとって、一日一日があることこそが苦しみなんだとヨブは言っています。 そして同時にもう一つ。どれほどヨブが訴えても、神さまが一言もお応えにならない。そのことにヨブはとっても苦しみました。 そしてヨブ記をずっと読んでいきますと、最後になって、神さまはヨブにお話になりました。ヨブ記では38章、39章、40章、41章と、ながーく、神さまがお語りになるんですけど、今日はそこを読む暇がありませんけど、しかし仮にそこのところを読んでも、実はその神さまのおことばには、ヨブが一番知りたかったことに対しては一言もお答えがありませんでした。 あなたは、神さまであるわたしが地の基を定めたとき、どこにいたのかとか、あるいは、あなたは雪の倉にはいったことがあるかとか、そういうことばかり神さまは仰ったんです。 結局神さまが仰ったことは、人間には分からないことがたくさんあるということをお話になったことだけでした。 イエス様もまた、一度だけだと思いますけど、「どうして?なぜだ。」と、神さまにお尋ねになったことがあります。マタイの福音書の27章の46節です。 「パッション」という映画があったんですけど、「パッション」という映画は、十二時間の、たった十二時間の出来事を一本の映画にしてるんです。 それはイエス様が、ゲツセマネの園でいらっしゃるときに捕らえられて、辱めを受けて十字架に架かって亡くなる。そして、よみがえられたという。その十二時間の出来事を一つの映画にしたものだったんですけど、その映画が示してる、その十字架の場と同じところの出来事なんです。 十字架の上で、イエス様、仰いました。 マタイの福音書27:46
これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、仰ったんです。 イエス様は全部神さまが、父なる神が仰せになるとおりに、お語りになり、また動かれました。ですからイエス様はつぶさに神さまのみこころが分かってたんですけど、十字架の上で、もちろん十字架に架かるってことはイエス様は十分、ご存知だったんです。 というよりも、そのためにこの地上においでになりました。 ぼくたちが本当に子どもの頃から犯しているさまざまなわがまま、あるいは人に対する意地悪な心、そして神さまをないがしろにする振る舞い。それは、十字架に架けてもなお足りないほどのものが積もり積もってる。 そのすべてを身代わりになって死んでくださるためにイエス様は来てくださいました。 ですから十字架に架かることはご存知だったんですけど、その、恥のかたまりとして十字架に架かられたとき、神さまが沈黙をなさってたということにイエス様は、非常に心が傷つかれたようであります。 そして、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、ここで祈りをなさいました。でもこのときも神さまはお答えになりませんでした。 このことから分かることは、イエス様の問いかけには全部神さま、お答えになったんです。そしてイエス様は、神さまのみこころが全部分かってたんです。 ですけど、このときだけは、神さまからお答えがなかった。ということは、言いかえますと、「なぜ?」という問いに対しては、神さま、お答えにならない。そのこと自体が、神さまのみこころだと知らさられます。 でも神さまは、私たちひとりひとりが、本当に弱い人間であって、「なぜだ。」という、そういう問いかけを本当にもたざるを得ない、そういう存在だっていうことは、十分ご存知です。私たちの弱さをご存知ですと言ってもいいと思います。 また、当然のことですけど、私たちを無視しておられるのではないということも事実です。 エレミヤ書の29章の11節は、そのことをはっきりと知らせています。 エレミヤ書29:11
神さまは、私たちのために、平安を与える計画を持っていてくださると、ここで仰せになっています。 だから、イザヤ書の41章の13節ですけど、神さまは私たち一人一人に、こう語っておられます。 イザヤ書41:13
「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」、わたしはあなたに平安を与える計画を持っている。だから、恐れないでわたしに信頼しなさいと、語っていらっしゃいます。 「なぜですか?」、「どうしてなんですか?」という、そういう問いかけに対して、もし、神さまからお答えがあれば、ぼくたちは原因があり、結果があったというふうに、なにか分かったような気持ちになるかもしれません。 でも考えてみますと、自分のことだけ取っても、実はそうじゃないなと思うんです。 ぼくはどうしてこんな性格なんですか?って神さまに尋ねて、神さまが、おまえの親のせいだよって言われたら、分かったような気になりますけど、なんにも実は解決にならない。 全部そうなんじゃないでしょうか。隣の人とどうも気まずくなった。あのとき、ああ言ったから悪かったのかな。あるいは、悪かったんだって言われても、でも、そう言わざるを得ない何かがあったに違いない。 そうすると、そう言わざるを得ない何かは、どこから起こったんだろう。そうするとやっぱりあれだったのかなって元から元へと戻って行くだけで、本当は、なんの解決にもならないんだ。 映画のシーンなら、それで終わるかもしれませんけど、生きてる者は、明日なにが起こるかってことは分からないんです。そういう中で一日一日を精一杯ふるまうしかない。 そうすると、「あれが悪かったんだよ。」って言われたって、本当のところは、もうどうしようもない。 原因と結果というものは、なにか分かってるような気持ちにさせますけど、本当のところは、人間を解放するものではなくって、むしろ不幸にするものだというふうに、私たちは知らせられるのではないでしょうか。 大切なことは、頭で理解して分かることではなくって、神さまに信頼すること、それによって得られる心の平安だと言ってもいいのではないかと思います。 最初にお読みいただきました、ヨハネの福音書の9章の2節から3節のみことばは、そのことを示しています。 イエス様が道の途中で、生まれつきの盲人に出会われました。イエス様の弟子たちは、この世の習慣にどっぷりとしみ込んでいましたから、「先生。あの人が目が見えないのは、両親のせいですか。それとも彼のせいですか。」っていうふうに尋ねてるんです。 「そうじゃないよ。」って言われたらきっと、「それじゃあ、あの家の方角が悪いんですか。」とか、あるいはもっと別の理由をきっと並べて聞いたと思います。 でもイエス様のお答えは、全然違うんです。 「両親でもありません。この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」、「神さまの愛が、この人を覆うためです。」 そういうふうに、イエス様はお語りになりました。言いかえますと、神さまの恵みが、豊かにこの人の上に注がれるためだと仰ったと言ってもいいと思うんです。 恵み、ということは、要するに一方的に与えられるものであって、理由があって、与えられるものじゃない。それが恵みです。 もし一日働いて、一日分の賃金を得たら、それは当然の報酬です。ですけど、なんにもしなくても与えられるからこそ、それが恵みである。 この若者は確かに、目が見えないという大変な不幸というか、不便というか、それは受け取りようによってなんとも言えることであって、一概に不幸とは言えませんけど、不便な生活をしていたとも言います。 それに対してイエス様は、彼にはだから、恵みがあふれるばかりに注がれるのだよと、このときお語りになりました。 9章を読んでいきますとそのことが分かります。ヨハネの福音書の11章の40節で、同じようなことをイエス様は仰っています。 ヨハネの福音書11:40
このとき、このことばを受けたマルタという人の男兄弟であるラザロが、死んでたんです。ラザロが死んで、だからその女兄弟であったマルタは大変な悲しみ・・・ (テープ A面 → B面) 神さまは栄光を現わしてくださるということを、このときお語りになったのです。 これはいうまでもなく原因と結果という、そういうレベルの話とはまったく違う。信じるなら一方的に神さまが栄光を現わしてくださるということを、イエス様はお語りになっています。 現実がどれほど厳しくまた悲惨に見えても、また、現実に悲惨であったとしても、そのひとつひとつに神さまの恵みが注がれ、また神さまが栄光を現わしてくださるんだということを、イエス様はこのときお語りになりました。 そして、ラザロの女兄弟たちはその栄光を見させていただいたと書かれています。 このイエス様のみこころを、みことばを読みますと、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」、もしあなたが信じるならというところに、実はすべてがかかってるということを知らせられます。 何を信じるのかということです。そこのところをもう一度考えてみたいと思います。 言うまでもなく、私たちの身代わりとなって死んでくださった方です。 私たちのわがままと、私たちの意地悪と、どうしようもない私たちの罪の性質とを、身代わりとなって解決してくださった方であります。 ピリピ人への手紙2:6-8
短いところですけど、印象的なことばがいくつもあります。 それはまず、「神のあり方を捨てられた」ということです。それはどういうことなのかっていうことですけど、まずご自分が無になられた。なんの価値のない者になられたということでしょう。 そして仕える者となられたということです。そして、自分を卑しくされた。十字架の死にまで従われたということです。 不思議なことばだとお思いになりませんか?人間が理想とするものとは、まったく違う姿がここに描かれています。 人間は、どんな小さなものでも持ってるものをしっかりと握りしめたくなります。 満員電車に乗ると、それがよく分かるんです。自分が持ってる吊り革を絶対に手放したくない!と思うんです。 僕がその吊り革を手放して、前にある網棚に手を伸ばしたら、後ろの人が吊り革にぶら下がることできて、両方いいと思うんですけど、実は頭の中ではそう思うんですけど、心はそうは従わないんです。 一度自分の握った吊り革は自分の吊り革だと思って、絶対に手放そうとしない自分を、僕は見いだします。 自分を無にするどころか、大きく見せたいんです。そして、仕える者どころか、尊敬を受けたいんです。 多くの人をできることなら指揮して、高い地位について、尊敬されて生きたい。それこそ、あるいは自由に生きたい、それこそ人々が理想とする姿ではないでしょうか。 若い方はどうか知りませんけども、僕は子どもの頃、小学校の卒業式で、身を立て名を揚げよ励めよと歌って卒業しました。僕が卒業したとき、そうだったのか、六年生を送るとき歌ったのかはもう定かでないんですけど、つまりそんなときから、子どもであったときから、身を立て名を揚げよ励めよと叱咤激励されて、育ってまいりました。 そういう姿とはまったく違う姿が、イエス様の姿であったとここに記されています。 イエス様は、 ヨハネの福音書16:33
と仰いました。 負けるが勝ちという言葉がありますけど、イエス様は、人間が理想とするものを全部捨てて、まったく逆の形で十字架に架かられたということ。それ自身がすでに世にお勝ちになったという姿なのではないでしょうか。 だからこそ、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。」、この世の理想とするところに私たちは価値を置くからこそ、私たちは不幸になる。 この世の理想とするところから自由になると、私たちは心の底から解放されるということを、このみことばは示しています。 イエス様は私たちに向かって、「わたしのところへおいで。」と呼びかけていてくださいます。本当に慰められるみことばです。 マタイの福音書11:28
疲れた人、重荷を負っている人は、・・・元気がいい人はどうでもいいと、言い換えると仰ってるんです。 「なんでも僕はできるから大丈夫。」って人は来なくてもいいですよ。でも、疲れた人、重荷を負っている人は、まずわたしのところへ来なさい。わたしが休ませてあげます。 まさにその典型であったとも言っていいひとりの女性が、サマリヤという所に住んでいました。 五人も過去に夫をもってたんです。どういうふうにして五人の人と別れたのか。死に別れたのか、あるいは別の形で別れたのか、そのことは聖書は書いてないんですけど、今、六番目の人と住んでるんですが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないという、そういう、本当にみじめな状況に住んでいた女性がいました。 彼女は人の目が怖くて、昼間、井戸に水を汲みに行くことができなかったんです。 朝晩の涼しい時間に水を汲みに行くことができませんでした。だから人の目を避けて、誰も井戸へ来ない真っ昼間に、彼女は井戸へ水を汲みに行ったんですけど、そこでイエス様と出会いました。 そのときイエス様が仰ったことばは、 ヨハネの福音書4:14
わたしのところへいらっしゃい、そうすれば休ませてあげると仰いましたけど、それは心の底から泉がわき出るんだと、別の表現でこのときお語りになりました。 永遠のいのちの水がわき出ます。もちろんそれはイエス様が与えてくださるものなんです。 でも大事なことは、イエス様が与えてくださるものは、なにか傘を差したり、あるいはコートを着るように外から来るのではなくて、底から、心の底からわいて来るものだっていうことです。 そしてそれはその人ひとりにとどまらず、泉となり、と書いてますように、わき出て周囲にあふれ出ていくもの。自分ひとりがイエス様のところへ行って、休ませてもらう。それだけじゃないんです。 そうするとその中からわき出るいのちの水は、やがて家族にも、そして大切な友人にも、というふうに注がれていく。 十字架の救いはそこに特徴があります。 一銭のお金も要りませんし、なんの寄付をすることも要りませんし、お札一枚買う必要もありませんし、教会へ行く必要もないんです。ただ、イエス様のみことばを、聖書を心で受け取って、感謝して祈ること。 そしてそれも、人間は弱いですからひとりで祈ってると、神さまに祈ってるのがいつの間にか、実はサタンの祈りに変わっちゃうんです。「あれください。これください。それもください。」なんていう祈りに変わってしまうと、本当にその思いは汚されます。 ですからできることなら、いっしょに集まって祈る。イエス様は仰ったんです。二人か三人がわたしの名において祈るところには、わたしもかならずそのところにいますと約束してくださっています。 イエス様のところに行って、本当にいのちの水をいただいてほしいと思います。最後に一言だけ、余計なことかもしれませんけど、神さまってどんな方ですか?天地万物をお造りになった方が神さまじゃないでしょうか。 そうすると、例えば僕が、轆轤を回して茶碗を作るとします。出来のいい茶碗はできませんけど。でもその茶碗は、ぼくの心が分かるはずはないんです。結局、人間と神さまの関係っていうのは、そんなものなんです。 天地万物をお造りになった方の気持ちが、人間に分かるはずがない。ただひとつ、聖書を通して、神さまのみこころが人間に与えられてる。だから、聖書は読むものじゃないんです。 読むってことは頭で考えることでしょ?そうじゃなくって聖書は聴くものなんです。心で聴くもの。それが聖書です。 僕はそういうふうに思います。頭で考えると、「なにこれ?」、「おかしいじゃない?」、「ここ、つじつまが合わないんじゃない?」、「これ、どうも変だね。」って、頭だとすぐ来るんです。 でも心で読むと、心で聴くと、「疲れた人は、わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」、「ありがとうございます。」と思えるのではないでしょうか。 今日は本当にありがとうございます。こうしてイエス様のことを話させていただいたことを感謝します。どうもありがとうございました。 |