引用聖句:詩篇40章1節-5節、17節
今お読みいただきました詩篇の40篇は、そこに書いてますように、「ダビデの賛歌」と書かれています。 本当に今からどれ位前でしょうか。三千年近く、二千数百年前だろうと思うんですけど、当時の世界としては並ぶ者もなかったほどの王様の祈りでございます。 詩篇40:1-2、17
本当に正直にダビデが祈っています。これはダビデの祈りですけど、詩篇の中にはダビデのほかに、ソロモンの祈りがあり、モーセの祈りがあり、そして多くの人たちの祈りが載せられています。150のこの祈り集は、本当に主をしたい求める人たちの祈りで埋め尽くされています。 聖書は本当にすごい本だなあと思います。詩篇があり、手紙があり、たくさん手紙がありますけど、そして福音書があり、黙示録があり、そしていわゆるモーセ五書と呼ばれる、創世記から始まる律法の、あるいは歴史の、イスラエルの人たちにとっては歴史の書物がございます。 どれくらいの時代にわたって書き続けられたのかわかりませんけど、少なくとも千年以上にわたって書き続けられたでしょう。 私たちのこの日本列島に人たちが住み始めて、日本という名前を国の名前とし始めてから、たぶん七世紀だったろうと思われるんですけど、それからせいぜい千何百年。私たち、随分長い歴史があるように思いますけど、千何百年。たぶんそれに等しいか、あるいはそれよりもずーっと長い時間をかけて、この一冊の書物が書き続けられたっていうことは、すごいなと思います。 そして今の詩篇だけでも、それだけ多くの人のものがあり、全体を通しますと、パウロのものがあり、ペテロのものがあり、本当にさまざまな人たちが書き続けた。それだけでもちょっと想像を絶する書物だろうと思います。 そして、この一冊の書物は、それだけにとどまらない。今私たちが読んでも少しも無駄がないということが特徴だろうと思います。そして私たちが、求める心をもって読みさえすれば、どこを開いても、私たちは慰めと希望を得ることができる。こんな書物も、やっぱりほかにはないだろうと思います。 そして何よりも、全体を通して神さまがご自身の意思を表わしておられる。一言で言えば、わたしはあなたを愛していると仰せになっている。その神さまの御意思が、この聖書、全巻を通して私たちに迫ってくる。そういう書物だろうと思います。 その、わたしはあなたを愛していると、神さまが私たちに呼びかけてくださるところを、今日は少し拾い読みをしてみたいと思います。 イザヤ書40:11
聖書は、神さまご自身を、あるいはイエス様を羊飼いに例え、私たちのひとりひとりを羊に例えておりますけれども、その主は、羊飼いのようにその群れを飼ってくださると語 っています。 僕は羊を抱いたことがないんですけど、でも子羊をふところに抱く時は、僕のような粗忽な者でも、やっぱり丁寧に、本当にこう抱くんじゃないかなあと思います。あんなにコロコロっとした生き物ですから。そして乳を飲ませる羊であれば、やっぱり乳の出が悪くならないように、本当に優しく導く必要があろうと思います。 神さまはそういうふうに、私たち一人一人の状況に応じて、もっともふさわしい形でご自身を表わしてくださり、私たちを導いてくださるというふうに思います。 本当にイエス様の愛の細やかさを、ここに見る気がいたします。 イザヤ書46:3-4
僕たちは、あたかも自分の力で大きくなったかのように思っています。もう、自分一人で生まれてきたかのようにも思っています。でも神さまは、愛のうちにわたしはあなたを創ったんだ。そして折々にふさわしい導きをあなたになしてきたと、仰せになっています。 あなたが、何でも自分でやったように思ってるかもしれないけど、わたしはあなたの必要を常に満たしてきた。だから、しらがになってもそうしようと、仰せになっています。本当に、一時一時、羊のところへ行って様子を見るだけじゃなくって、終始、あなたとともにわたしはいるのだとここで私たちにお語りくださっています。 もう一箇所、 エレミヤ書31:3
永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。どういう愛なのでしょうか。ちょっと想像ができない。 誠実を尽くし続けた。神さまがわたしたちに、イエス様が私たちに、誠実を尽くし続けてくださってたのだと知らせられます。そうでしょう、ご自身のいのちに代えてまで愛してくださったのですから。 ほかにも、聖書はこういう表現をたくさん見つけることができます。そして、そうした表現を読む度に思いますことは、やっぱりわたしはあなたを愛している、と呼びかけてくださる表現の豊かさなのではないでしょうか。 言い換えますと、愛の深さ、広がりが、さまざまな形の表現を通して私たちに語られています。 聖書はよく神の言葉だということが言われますけど、使われている言葉は人間の言葉なのです。全部人間の言葉なんです。でも、わたしはあなたを愛していると、呼びかけてくださっているところだけでも、拾い読みしていきますと、これは人間の言葉を使っているけど、人間には思いもつかないことを、やっぱり表現してる。これは人間の書物ではないと、誰でもわかることではないでしょうか。 心を空白にして、真っ白にして、素直に読めば誰にだってわかることだろう。と思います。 どんな優れた文学者が、ドストエフスキーのような人が、仮に書くとしても、これだけのものは絶対に書けない。これは人間の力で書かれたものではないと、やっぱり誰でも思わざるを得ないのではないかと思います。 考えてみますと、ぼくたちは海辺の砂浜を歩くときに、一粒一粒の砂はどれも同じような目立たないものですから、一粒一粒の砂を意識して踏み分けながら歩く人なんかいないと思うんです。一粒一粒の砂に、目を留める者さえいないと思うんです。 子どもくらいが、それをするでしょうけど、でも神さまの目からご覧になったら、たぶんぼくたちはそんなものでしかないと思うんです。 でもその一粒一粒の砂粒の特徴に応じて、わたしはふさわしい愛し方をする。そしてその一粒一粒の砂をひと時も忘れずに、わたしは愛し続けてきた。永遠の愛をもって、誠実を尽くしたと、仰せになっています。 神さまの愛がどれほど深いかということは、もう私たちは十分に知らせられるような思いがいたします。 でも愛する者への思いは、私たち人間であっても大変に複雑なのではないでしょうか。夫婦の間の愛、親子の間の愛、師弟の間の愛、それぞれにやっぱり思いは複雑であろうと思います。 一番分かりやすいのは、やっぱり親子の愛でしょうけど、子どもが小さいときは、カワイイ、カワイイで済みますけど、やがて大きくなると、とてもそれでは済みません。ハラハラさせられ、ドキドキさせられます。 それだけじゃなくって、やっぱりときには、私もそうでしたけど怒鳴りつけ、男の子ばっかり三人いますと、やっぱり殴りつけました。自分の過去を振り返ってみると、子どものことを振り返ってみると、似たようなものだったんです。 だから、とてもそういう意味では、怒鳴りつけたり、殴りつけたりするほどのような資格は自分には何もないんですけど、でもやっぱり必要なときに必要なことを、そういうものがあるのではないかなあと思います。 私はとても過去を振り返るとそんな資格がないからなどと言って、見ているだけではやっぱり子どもはちゃんと育っていかない。そう思うからこそ、私たちはやっぱりふさわしい折々に、ふさわしい接し方をするのだろうと思います。 さっき言いましたように、海辺の砂粒に等しい者でさえ、やっぱりそういう気持ちを愛する者に対して抱きます。まして神さまの愛はどうだろうと思います。本当に愛のうちに私たちをお創りになり、母の胎から、胎内にいるときから永遠の愛をもって誠実を尽くしてきたと仰せになる方は、やっぱり私たちの現状をご覧になった時に、ああ素晴らしい、可愛いとだけでは済まなかったようであります。 ホセア書13:5-8
ここでもやっぱり私たちが羊に例えられています。そして荒野で、かわいた地でまさにこの人間世界で、ということだろうと思いますけど、あなたを知っていた。 名前も性質も行ないも、丸ごとあなたを知っていたと、神さまは仰せになる。でも牧草を食べて、食べ飽きたとき、心は高ぶりわたしを忘れた。神さまなんかいない。神さまなんか私とは無関係だと言い張るような人間に対して、わたしは彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。わたしは、子を奪われた雌熊のようにと書いてます。 単なる熊じゃないんです。子を奪われた雌熊。どれほど張り裂ける思いを持って、わたしはその一人一人を見ているかということが書かれています。そしてその胸をかき裂き、その所で雌獅子のようにこれを食い尽くす。単に食い尽くすんじゃないんです。憎らしいから、あるいはどうしようもないから殺してしまおうじゃないんです。 その胸をかき裂く。私たちの問題は頭でもないし、足でもない、まさに胸だと、心だと、神さまは仰せになります。 そしてその心を、わたしは可愛さのあまりかき裂きたい、それほどの子を奪われた雌熊のように、本当にわたしはあなたの胸をかき裂きたい。そしてできることなら、その心を入れ替えたいと仰せになっているように思います。 もう一箇所、 エレミヤ書31:20
エフライムは、ぼくたちはと言ってもいいと思うんですけど、あなたがたはと言ってもいいと思うんですけど、本当にわたしの大事な子だったんだろうか。あるいはかつて、あれほど私を喜ばせてくれたその喜びの、この本当にそうなんだろうか。 どっかで入れ替わってしまったんじゃなかろうか。あるいは、わたしにとって大事な喜びの子だったと思ったのは、あれは夢にしか過ぎなかったのだろうかと、神さまが仰せになります。 わたしは、彼のことを思う度にはらわたはわななくと仰せになります。この刹那的な、本当に喜び、あるいは物質的な喜びに、すべての価値があるかのように思われている時代にあっては、心がわななくなどというような表現は、もうぼくたちが忘れてしまった表現じゃないかと思います。 でも神さまは、私たち一人一人の姿を見る時、わたしの心はわななくと仰せになっています。 神さまの愛が、私たちの想像を超えて広く、大きいものであったと同じように、神さまの心の痛みというものもまた、私たちの思いを超えて深いのだと、知らせられるように思います。 この神さまの愛の深みの窮み。そして同時に、それは御心の痛みの窮みにおいて、イエス様はこの世においでくださったのだと、私たちは旧約聖書を通して知らせられるように思います。 神さまの、私たち一人一人に対する愛と痛みが、人間の思いをはるかに超えているように、またイエス様の愛も、人間の思いをはるかに超えたものだということを、私たちはやっぱり聖書を通して知らせられていきます。 イエス様がどのような方であったかということ、どなたもすでに十分ご存知のことですけど、もう一度見てみたいと思います。 ゼカリヤ書9:9
救いをもたらしてくださる正しいお方が、私たちの王として来てくださるのだと語られています。そのお方はどういうお方か。柔和でろばに乗られる。それも雌ろばの子の、子ろばにと書かれています。 この時代のイスラエルの地方では、例えば宝石だとかあるいはその頃あったのかどうか知りませんけど、絹織物のような高価な布だとか、あるいは貴重な薬品だとか、そういうものは全部、想像ですよ、ぼくの想像ですけどらくだの背に乗せて、隊商によって運ばれたのではないでしょうか。 貴重なもの、富はらくだに乗せて運ばれたんだろうと思います。 じゃあ強いもの、権力は何によって運ばれたのかと言いますと、言うまでもなく馬です。これはもうまさに、力は馬に乗ってやって来ます。ですから普通の王なら、らくだの群れを引き連れて、馬に乗って威風堂々とやって来る。それがこの世の王だろうと思います。 でも本当に、愛の窮みにおいて、痛みの窮みにおいておいでくださった方は、ろばに乗っておいでになる。ろばは言うまでもなく、小麦だとか豆だとか、そうした私の日用のもの。しかしなくてはならぬものをまさに運んでくる、そういうものであろうと思います。 主は、あなたがたになくてはならぬものを運ぶものに乗って、ちょっと考えられないような様子でおいでになる。それも子ろばに、と書かれています。 本当に、さっき兄弟がお読みになりましたイザヤ書の箇所にもありましたけど、葦を折らない、燈心の芯を消さずにとありましたけど、まさにそういう、本当に弱い者、あたかも弱い者であるかのように、ご自身を無にしておいでになるのだということが知らせられます。 よく知られているイエス様の御姿ですけど、 イザヤ書53:2-3
誰でも尊敬するような、杉や松の大木のような姿ではなくて、本当に子どもが折ってさえ折れるような若枝のように、そして砂漠の根のように細い、ただ長いだけの根っこのように主は来られる。彼は悲しみの人であったと書かれています。 神さまが私たちを、やっぱり一人一人を思う痛みの窮みが悲しみであったのだろうということは、言うまでもないことだろうと思います。私たちの現実の姿をご覧になるとき、イエス様の顔に喜びなんか浮かぶよりも、悲しみしかなかったんじゃないかなあと思います。 そのイエス様の表情を、まさにここでは記しています。 そして今の旧約聖書のところは、いずれもイエス様の内面を表わすものですけど、じゃあ外側はどうだったのだろうということであります。 ヨハネの福音書13:4-5
と書かれています。 出来損ないの弟子としか言えない弟子たちの足を、イエス様が洗い始められたということなんです。「足」っていうのは、ある意味で人生の象徴なのではないでしょうか。私たちはよく、足跡を振り返ってというふうな形で、今までの歩みを申します。 あるいは人生の何々をさまよってとかいう表現をすぐ、よくとりますように、やっぱり足は私たちの生き様の一つの象徴です。 その足を主が洗ってくださるということは、私たちのすべてを洗ってくださるのだということをここに記しています。例えその足が、その歩みが、その人生が、人間の目から見たらどのようなものであろうとも、主はご自身の手でもって洗う、そして拭い取ってくださるというところに、イエス様の愛の深さを思います。 マタイの福音書26:48
口づけというものは、言うまでもなく愛の表現でしょう。その愛の表現をもって、イエス様を裏切ろうとしていたユダに対するイエス様のお言葉に注目したいと思うんです。 「ユダ、何のために来たのだ。俺は何でもわかってる。」、とは仰せにならなかったんです。「ユダ、おまえには破滅しかない。」とも仰せにならなかったんです。 「友よ。何のために来たのですか。」 イエス様の御心は、ユダ、今からでも遅くはない、悔い改めさえすれば十分間に合うのだという、イエス様の呼びかけであったことが、疑う余地がないと思います。すべてをご存知でありながら、なお最後の最後まで、ユダのために主ご自身がお祈りになっていたということを、私たちはこのことを通して知らせられるように思います。 そのことをもっとはっきりと知らせられるところがあります。 ルカの福音書22:60-61
まさにその通りになりました。ペテロは、三度「イエス様なんか知らない。」と口にしたそのときに、鶏が鳴いた。主は、イエス様は振り向いてペテロを見つめられたと、書かれています。 もちろん非難する目ではなかったろうと思います。このときの主の眼差しは、本当にペテロの弱さをすっかりご存知のうえで、ペテロのために本当に祈っておいでになった主の眼差しであったろう、悲しみの眼差しであったろうと思います。 私たちは、主がどれほど、一人一人に本当に深い愛をもって接しておられたかということを知らせられるように思います。 もちろんそれは、お弟子たちだけに対するものではありませんでした。 ルカの福音書19:1-10
ザアカイの話は、私には自分の話としてしか読めません。このザアカイは、取税人のかしらで金持ちだったんですけど、その金はザアカイが自分で言ってるように、だまし取った、そういう金が多かったんだということです。 普通金持ちっていうのは二種類あると思うんです。誰からも尊敬される金持ちと、もう一つこのザアカイのように誰からも嫌われていた金持ちです。7節にあります。みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいたって書かれています。 エリコの町の人は、誰一人ザアカイを尊敬なんかしてなかったんです。ザアカイの所へ行くときは、税金を払いに行くか、金を借りに行くか、金を返しに行くかその三つだったんじゃないかなと思います。言い換えると、喜んで行った人なんかひとりもいない。行かずに済むものなら誰だって行きたくなかった。そういう人でした。 だからエリコの町の人から見たら、ザアカイは嫌われ者でしかなかった。嫌われ者っていうか、なんか嫌な奴だなあっていうくらいでしかなかったんでしょうけど、でもイエス様の目からご覧になったらそうじゃなかったんです。 イエス様の目からご覧になるザアカイは、これまで本当に人を人とも思わずに、だまし取るようにして金を貯めてきたけど、友だちは誰一人もいない。自分と胸を開いて語ってくれるような人は誰一人いない。なんと自分は孤独なんだろう。 いったい何のために自分は今までやってきたのだろうという、そういう思いでいっぱいだったのではないでしょうか。イエス様は、そのザアカイの心をご存知で、この日エリコにおいでになったということがわかります。 5節に、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」、もうエリコの町へ来るときから、わたしはあなたの所へ泊まる予定で来たのだと、仰せになっています。そして10節で、「わたしは、失われた人を捜して救うために来たのです。」 もちろん、二つの意味があろうと思います。この地上へ来たと仰せになることと、エリコの町へ今やって来たということと、いずれにしてもザアカイのために来たのだと仰せになってます。 この地上のイエス様は、私たち一人一人の身代わりとなって十字架に架かってくださいました。私たち一人一人の、神さまとの間の隔ての壁をご自身が罪の塊となって、十字架に架かってくださることによって打ち壊してくださいました。 だから今は、イエス様をこの地上で見なくても、主は私たちの一人一人を時と空間を越えて救ってくださることがお出来になります。ただザアカイがそうであったように、悔い改めをし、主の前に赦しと感謝をささげる者にはということではないでしょうか。 ザアカイの悔い改め、面白いと思うんです。彼はあんまり模範的な悔い改めではありませんでした。でも「だまし取った物は、四倍にして返します。」私はだまし取りました。それは悪いことです。だから四倍にして返しますというその言葉の中に、ザアカイの悔い改めが充分示されていたのではないでしょうか。 イエス様の前に出るとき、私たちは試験官の前に出るんじゃないんです。試験官だとしたら、イエス様は心の底をご覧になる試験官で、私たちがどういう模範解答をするかなどということはまったく無関係です。 本当に悔いているか、本当に主の救いを必要としているか。ザアカイは、イエス様がおいでにならないかなあ、ならないかなあと思って待ってたんではないでしょうか。だからこそ、彼は走って行っていちじく桑の木の上にまで登った。どうしてもイエス様を見たかった。ひと目、自分の目でイエス様に触れたかった。その心を主はご存知でした。 そしてザアカイが自分の罪を主の前に言い表わしたとき、「きょう、救いがこの家に来ました。」と主は仰せになっています。 本当に何のとりえもない者の足を洗ってくださる方。本当に、いつもいつもイエス様の顔に泥を塗る者でしかないのに、その者に対し涙を流し、本当に「友よ。」と呼びかけてくださるお方。そのお方の十字架の死と復活によって、私たちはすべての罪が赦されて、本当にイエス様とひとつになって、今このところに置いていただいているのだ。 私たちは、もう自分のいのちを生きているのではない、イエス様の生きと血を生きてる。だから、あなたには永遠のいのちがあると、仰せになっています。 私たちのいのちだったら、もうとっくに失われています。なぜなら、アダムが木の実を食べたときに、私たちの霊は死んでしまったんです。肉は生き延びましたけど、霊は死んでしまいました。 その霊を、いのちを、イエス様ご自身が十字架に架かって死ぬことによって、今私たちは一人一人その中に生きているのだということを、私たちは知らせられます。 もう一度詩篇の40篇を読んで、終わりたいと思います。 詩篇40:1-2
これはダビデの祈りですけど、ザアカイの祈りだったと言っても間違いがなかろうと思います。そしてやっぱり、私の祈りであり、イエス様の救いを経験した一人一人の祈りなのではないでしょうか。 ザアカイは、切なる思いで主を待ち望んでおりました。主はそのザアカイの方に身を傾け、ザアカイの叫びをお聞きになり、滅びの穴から、泥沼から引き上げてくださいました。 詩篇40:17
救われたからといって悩みがなくなるわけじゃない。いや、やっぱりその中に、でもそれを通して私たちは、もっともっと主に近くいることができるのではないでしょうか。正直に、私は悩む者、貧しい者ですと、主の前に打ち明けられる者は本当に幸せなのではないでしょうか。 目に見える肉のいのちではなくて、本当に永遠のいのち、霊のまことを私たちはいただいています。そのことを本当に忘れないで、歩み続けたいと思うのでございます。 どうもありがとうございました。 |