引用聖句:マタイの福音書12章46節-50節
今日はご一緒に、家族というものはどういうものなのか、聖書は何と語っているのかということを考えてみたいと思います。 いうまでもなく家族は、ひとりひとり人間の集まりです。ですからやはり、人とはどうようなものかということを最初に考え、それから、家族についてご一緒に考えてみたいと思います。 人とはどのようなものかということを考えますときは、いつも創世記に立ち返ることになってまいります。今日も、やはり創世記の1章からまず見てみたいと思いますけれども、 創世記1:26-27
ここに、神様が人をお造りになった目的がはっきりと記されています。神様のみこころに従って地を支配すること。そのために人は造られました。 当然のこととして、そういう仕事ができるためには、創造主であられる主なる神のみこころを聞き、また、従う。それが必要でした。同時に、人は目的のある人生、人生に目的を持って造られた、持つ者として造られたのだということが分かります。ですけれど、神様のみこころとは違った人が出現してしまいました。 創世記2:16-17
神様はこういうふうに人にお命じになりました。地を支配することが仕事として与えられましたけれど、しかし、従うことのできる者でなければ従わせる者とはなり得ない。これは鉄則なのではないでしょうか。 自分が従うことができるからこそ、ほかの者に従わせることができる。そのひとつの最もおおきな課題が、その知識の木からは取って食べてはならないということでございました。 これは絶対に人が生きる目的を、生き生きと生きるためには守らなければならない神様のみことばであったはずであります。 創世記3:6
見たのです。彼らは。木の実を見た。イエス様は、見えると言い張るところに罪が残る、とある時パリサイ人に仰いましたけれども、見るということは、すばらしいことであるとともに、やっぱり非常に危険なことでもあるということが分かります。 見た途端に彼らは分かったのです。これは取って食べるにいいものだ、と。みこころとは違うものを彼らは見いだしました。 創世記3:7
途端に彼らは恵みから目をそらし始めました。 自分の姿、それも、他人の目にどう映るかということに彼らは心が奪われてまいりました。 創世記3:8
神様を避けて、こそこそとし始めた。園の木の間に身を隠したということが、そのことをよく示しています。 もう神様とはひとつでなくなりました。神様のみこころを受けて、それに聞き従う者から、神様の御顔を避ける者へと変わってしまいました。 神様が仰せになりました。 創世記3:11-12
これ以上ないほど冷たい言葉であることは分かります。結局、責任回避であるとともに、自分は正しいということを主張し始めたということであります。 創世記3:19
目的のない人生を人は生きるようになった。ちりに帰るために、60年、70年、100年生きるのだということを神様がお語りくださいました。 むなしさが人の人生に切り離すことのできないものとして備わったと言ってもいいのではないかと思います。 創世記3:24
人は追放されました。神様から離れ、追放されたということは、確固たる存在の場を失ったということを意味します。 もう、流浪の生活を送る者となったということを、追放という事実は意味しています。恐れと不安が人生をいつも支配するようになった。そのことが、この事実によって引き起こされてまいりました。 そうして神様の恵みから目をそらし、神様の御顔を避けるようになったアダムの家族は、いったいどのようなものであったのでしょうか。アダムとエバの夫婦の関係については、3章の12節でアダムが言ったあの言葉で、もう十分表われています。 創世記3:12
もうそれ以上のことは何も必要がないほど、二人の関係が冷え冷えとしたものであることがここに示されています。 兄弟の関係はどうなったのかということがすぐ4章で、カインとアベルについて示されています。 よくご存知のように、カインは弟アベルを殺してしまいました。それも嫉妬。嫉妬する心から殺してしまったのですけれど、その前に6節で神様はカインに、 創世記4:6
というふうに問いかけられています。 でも、カインもまた、神様の良心に訴える問いかけを聞くことのできない心に変えられてしまっておりました。いや、あるいは最初からそういう者として生まれてきたと言ってもいいと思います。聞き分けることのできない心を持つ。 そして神様が、 創世記4:7-8
抑えることのできない心。聞くことのできない心とともに、抑えることのできない心を持って、彼は生まれてきたのだということが分かります。 そして彼は、カインは、アベルを殺してしまいましたけれど、しかし振り返ってみますと、創世記の3章の12節にあった、あのアダムの言葉は、すでに心の中でエバを否定していたということと、実は大して違いがない。 アダムもまた、殺人こそしなかったけれど、カインとそれほど違う者ではなかったということが分かります。 そしてもう一つ。アダムとエバの二人の親とカインとアベルの二人の息子の関係はどうだったのでしょうか。4章の1節で、 創世記4:1
創世記4:25
創世記5:3
もう5章の3節には、カインとアベルのことは触れられておりません。そして、カインとアベルの記事の前後を通して、アダムとエバがその二人の息子と何の関係も持っていなかったという事実に驚かされます。 アダムはセツが生まれたときに、「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられた。」この言葉もまた、底知れぬほど恐ろしい言葉なのではないでしょうか。そこには痛みが何ら表現されていません。 そしてアダムとエバはカインとアベルに対して、何の関係も持ち得なかったということが4章全体を通して記されています。親と子がすでに断絶するものとして生まれてきたという事実を、このところは示しています。 創世記の27章には、イサクの家族の話が出てまいります。イサクはとっても温厚な、本当にもう、すばらしい人でした。 そして、創世記の24章の67節で、彼は彼女を愛したと記しています。イサクの家庭は夫が妻を愛することから始まりました。 しかしその家庭がどのようなものであったのかは、創世記の27章をずっと読んでいただくと分かってまいります。妻は夫と裏切りました。 イサクが、「長男を祝福しよう。」という言葉を聞いていた妻のリベカは、自分が偏愛する弟のヤコブに祝福を奪わせようとして計略をめぐらしました。 そしてそのヤコブは、父を欺きました。27章の18節から20節だけ、ちょっと見てみたいと思います。 創世記27:18-19
と、そういうふうに彼は語っています。平気で父親を彼は欺きました。そしてそのことを知った兄のエサウは、ヤコブを殺そうと心に決めたと27章の41節に記されています。 しかし、それだけのことがありながら、27章の最後、46節から28章の2節あたりにかけてなのですけれど、父親イサクはヤコブに対して毅然とした態度が取れなかったということが記されています。それどころか、ヤコブの尻拭いをするかのような行為を彼は取っています。 そして妻のリベカは本来ならば自分がすべてのことを計画したことであること、そういう立場であることを知るならば、夫を恐れて当然であるのに、夫ではなく長男を恐れています。ここにもまた、逆立ちした関係が見いだされてまいります。 恐れと不安にこの家族は取り付かれてしまいました。驚くほど現代の家族とそっくりの状況が、すでにこのイサクの中に現われています。 家族の問題はいうまでもなく、人間の問題そのものであります。あのアダムのエバが木の実を取ってから、彼らの心に起こったことがそのまま家族の中に罪として引き継がれてまいりました。 自分中心の心、神様にそむく心、そうしたものが、彼らが身を隠したということばの中に、やみの中に生きるものへと変わっていったということが分かります。 結局、創世記の記事を読んでまいりますと、家族の問題の原因は、個人にあるのではない。 私たちはさまざまな家族の問題を見いだしますけれど、あの温厚で大人しいイサクの家庭でさえも、妻を愛した家庭でさえも、想像を超えた出来事が起こった事実が示すように、それは個人に問題があるのではなくて、人間そのものが神様にそむき、神様から離れたことにあるのだということに思い至ってまいります。 事実、イサクの家族だけではなくて、アブラハムの家族も、そしてダビでの家族もまた問題ばかりでした。 もちろん、おかれている家族の個人さというものは確かに存在します。家族構成というものもそれぞれ違うでしょう。 また、環境もそれぞれに違いますから、表面に現われてくるものには違いはありますけれども、しかし絵に描いたような美しい家族の姿というものは、実は夏の朝顔のように、束の間のものでしかないのだ。 それはむしろ幻にすぎないのだということを聖書はこれ以上ないほどはっきりと語っています。 考えてみますと、例えて言ってみますと、家族はジグソーパズルのようなものではないかなと思うのです。 一つ一つは、人格者も優れた人も、魅力的な人も確かにいるでしょう。ですけれど、神様の手が加わらなければそれは本来あるべき形に組み合わせられることが出来なくて、角と角とが突き合わせられ、そして、そういう状態でガサガサガサガサ動く。そういうものではないかなと思います。 結局、夫婦、親子、兄弟の関係に先立って、神様との関係がもう一度立ち直されない限り、家族の問題もまた解決しないのだということが分かってまいります。 では、どうしたら解決されるのかということですけれど、神様にそむき、神様から離れた人間は、自分の意思、自分の努力では神様との関係を元に戻していただくことが出来ないということでございます。 ローマ人への手紙3:20
ここで言っていることは、人間は律法を守ることができないという、その事実ですけれど、しかし要するに、自分の力では人間は神様を喜ばすことができないということであります。 だから、だれひとり神様の前に義と認められ、神様の前に立つことのできる者はいない。人間の力では神様を何としても、神様をではなくて、神様から離れたままでしかいられないのだということが、このところから分かってまいります。 ではどうしたらいいのかということですけれど、人間の力、人間の努力、人間の意思では神様の前に立てることができないとしたら、可能なことはただ一つ。恵みだけなのではないでしょうか。何の資格もなく、何の価もない者が神様の前に立たせていただけるというのは、恵みしかありません。 ヨハネの福音書1:16-17
恵みとまことはイエス様によって実現したと知ることができます。自分の力ではどうすることのできない者のために、イエス様が身代わりとして十字架に架かってくださり、罰を受けてくださいました。 エペソ人への手紙1:7
恵み、とヨハネの福音書にありましたけれども、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのだとここに記されています。御子の血が流されて、すべての人の罪が赦されました。人間の力ではどうすることもできなかったから、神様が罪の解決をしてくださいました。 罪を知らないお方であるイエス・キリストが十字架で死んでくださって、流された血によって罪が贖われました。 ローマ人への手紙4:24
イエス様は三日後によみがえられましたけれども、それこそ人間には絶対にできないことであったことはいうまでもありません。 そのイエス様のよみがえりを信じるなら、神様はイエス様をよみがえらせなさったと信じるなら、義と認められるのだと記されています。 信仰が無くてはならないということが分かります。 例えて考えてみますと、日本の国の中に住んでいますと、だれであっても、ある年齢になると小学校へ入ることができます。 しかし、生まれた時に出生の手続きを取っていないとか、さまざまな理由で手続きを取っていなかったら、入ることはできません。 だれでも入るのだけれど、現実には入れない者がいるということでございます。 同じように、イエス様が十字架上で死んでくださって全ての人の罪が赦されましたけれど、しかし、神様のもとに帰りたいと思わなければ、神様を信じる必要もなく、また、神様を信じることもなく、義と認められることはないということを意味しています。 信じるなら恵みとして義と認められ、神様の前に立つことができる。そのことは本当に恵み以外のなにものでもないと言ってもいいのではないかと思います。 そして、神様との間に和解が成し遂げられました。 エペソ人への手紙2:16
その次です。 エペソ人への手紙2:16
その前には、たぶんユダヤ人とそれ以外の異邦人との関係を書いているのだろうと思います。 書いていますから、その両者というのは、そういうものだと思いますけれど、いずれにしても、十字架によって神様との和解ができたとここに記されています。 ユダヤ人も異邦人も関係なしに、神様と和解ができた。文字通り、すべての人は神様との和解の道が開かれたのだということを意味しています。そして、和解ができた以上、ローマ人への手紙の5章の1節でございます。 ローマ人への手紙5:1
私たちは神との平和を持つようになったということでございます。その姿がどのようなものであるかということをコリント人への手紙第IIの5章の17節がはっきりと記しています。 コリント人への手紙第II、5:17
新しく造られた。一度死んで、新しい人としてここに生まれてきた。内にキリストが宿られる者としてここに新しく造られたと記されています。 ここに新しい家族の出現の手はずが整えられました。新しく造られた者によって新しい家族が造り上げられる。 では、古いままの家族はどうなるのかということですけれども、厳しいみことばが続きます。 マルコの福音書10:29-30
(テープ A面 → B面) 家族は捨てられなければならない。 カナの婚礼の場で、イエス様の母マリヤがイエス様に言った「ぶどう酒がありません。」と言ったときに、 ヨハネの福音書2:4
古い家族は、わたしと何の関係があるのでしょう。女の方。 そしてもうひとつ。最初に兄弟にお読みいただきましたマタイの福音書の12章。あのみことばです。 マタイの福音書12:48-49
キリストのうちにある者とされない限り、肉親こそ肉の思いが最も強く働く関係に立っています。 家庭の中では、夫と妻の間でも、親と子の間でも、甘えとわがままが横行しがちです。家族のために正義を曲げるなどということが、外国の政治家の報道を見ていますと、しょっちゅう新聞に載っています。 たぶん普遍的に行なわれているのではないかと思いますけれど、そういう事実が存在しています。 そしてサタンはそれを利用して、キリストから離れさせよう、再びサタンの奴隷に引きずり込もうと策略を練ってしゃしゃり出てまいります。 キリストのうちにとどまりたいと思う者は、そうしたものを時には捨てるべきであるとイエス様がお語りになっているのではないでしょうか。 同時に、ここにわたしの母、また、兄弟たちがいますとお語りになったことは、肉親の家族とは違う家族があるのだということをもうひとつ意味しています。どういう家族なのでしょうか。 エペソ人への手紙3:15
主なる神の家族。主なる神を父とする家族。そしてそれはローマ人への手紙の8章14節。 ローマ人への手紙8:14
そういうふうに記されています。 そして、その神の子どもの中で、 ローマ人への手紙8:29
父なる神の家族として、神の子どもとして生まれ、新しく生まれた者、造られた者は、イエス様を長子とする家族がそこに造り出されるのだということを私たちは知らせられてまいります。 そしてその神の家族は、キリストのからだなる教会を構成するものであることはいうまでもありません。 新しく生まれた家族は、エペソ人への手紙の2章の20節から22節にその生き生きとした成長の姿が記されてまいります。 エペソ人への手紙2:20-22
エペソ人への手紙4:16
肉親の家族もともに救いを受けて、神の家族として生まれ変わるなら、組み合わせられ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのだと約束がされています。 実は、それこそが本来、人をお造りになったときの神様のご計画だったのではなかったのでしょうか。エバは助け手として造られたと聖書は記されています。組み合わせられ、結び合わせられ、成長して、愛のうちに建てられる者として本当はお造りくださいました。 キリストによって、からだ全体は、組み合わせられ、結び合わされると記されています。イエス様の救いの恵みにあずかるなら、箱の中にバラバラに入っていたあのジグソーパズルは、イエス様の力によって、しっかりと組み合わせられ、一枚の完成した絵と変えられるのだということを私たちは喜びをもって知ることができてまいります。 新しく生まれた、造られた神の家族は、同時に、キリストのからだなる教会として、愛のうちに歩むことが絶対に必要なこととして命じられています。エペソ人への手紙5章の1節から読んでみたいと思います。 エペソ人への手紙5:1
もちろんいうまでもなく、神の家族として愛されている子どもとして、神にならう者となりなさい。 エペソ人への手紙5:2
愛のうちに歩みなさいという、このみことばは、神の家族として生まれたキリストのからだなる教会を構成するすべての信徒に対して言われているものと同時に、いうまでもなくその勧めは、家庭から始められるべきではなかったのでしょうか。 神の家族として新しく造られた肉親の家族がもっとも小さな教会の単位として、からだなるキリストの教会の単位として家庭を造り上げる。それこそイエス様の創造の目的のひとつであったことはいうまでもありません。 その生活はどういうものであるべきかということがコロサイ人への手紙の3章の18節から24節に短く記されています。 コロサイ人への手紙3:18-23
家庭は私たちの偽善を打ち壊してしまう場であります。外ではどんなにいい人に振る舞っても、家庭ではその本当の姿が明らかになってまいります。 偽善でない愛。その訓練と実践の場として家庭ほどふさわしいものはないのだということを私たちは知っております。また同時に、忍耐と自己犠牲の訓練の場としても、家庭はもっともふさわしい場であることはいうまでもありません。 でもそれは、御霊に導かれて初めて可能となってまいります。 御霊に満たされることの必要性は、今日は時間がありませんので申し上げることはできませんけれども、御霊に満たされること、ここからすべてが始まる。 イエス様はすべてを整えてくださいましたけれど、あとはひとりひとりが御霊に満たされることによって、そこに本当のいのちが生きて働いてくるということを忘れてはならないと思います。 最後に、それでは家族とはいったい何なのか。 もう申し上げましたけれども、少し余計なことかもしれませんけれど見てみたいと思います。 コリント人への手紙第I、7:32-35
大切なのは、神の家族だということです。イエス様の目からご覧になって一番大切なのは、神の家族だということ。神の家族こそ永遠に続く家族だということがあるのではないかと思います。 それに対して、神の家族として生まれ変わっていない肉の家族は、もちろん神の家族として新しく造られることが大切ですけれど、それだけではない。やっぱり祈りの課題として与えられているのではないかと思います。 マルコの福音書の5章22節から、会堂管理者のヤイロが娘の病気のときにイエス様にひれ伏して、一生懸命願って、と記されています。別に親子の関係が断絶だけなのではない。ヤイロは娘のために必死に祈りました。 ヨハネの福音書1:40-42
すばらしい兄弟でありますけれど、祈りなくしてはできなかったことであろうと思います。 もう一ヶ所だけ見て終わりたいと思います。ヨハネの福音書11章3節。ラザロという兄弟が病気のときのことですけれど。 ヨハネの福音書11:3
祈りの課題として私たちは家族を与えられています。同時に、さまざまな訓練の場として家族は与えられています。 でも本当に大切なのは、神の家族であるとイエス様はお語りになっているのではないかと思います。 どうもありがとうございました。 |