新しい契約


古田公人兄

(吉祥寺学び会、2010/11/23)

引用聖句:エレミヤ書31章31節-34節
31見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――
33彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

ルカの福音書22:17-20
17そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
18あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

「新しい契約」と、エレミヤ書でも福音書でもしるされていました。新しい契約があるなら、古い契約があります。
一番古い契約は、神様が、大洪水の前にノアと結ばれたものでございます。

創世記6:17-19
17わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。
18しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。
19またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。

この契約は、箱舟を作るようにとノアにお命じになり、そしてそこに、ノアとノアの家族、すべての種類の生き物も入るようにとお語りになった時のものであります。
神様の御愛が、そこに明らかにされております。そして大洪水の後で、もう一度あらためて契約をお語りになりました。

創世記9:8-11
8神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。
9「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。
10また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。
11わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

この契約では、その大洪水をふまえて、二度と再び大洪水が地を滅ぼすことはないと仰せになりました。神様の憐れみがここには明らかにされております。
そして、アブラハムやイサクとも神様は契約を結ばれましたけれども、エジプト脱出の後では、神様は個人ではなくて、イスラエル民族との間に契約を結ばれました。
エジプトで奴隷であったイスラエル民族を選ばれた神様は、イスラエル民族を祝福しようとなさいました。

出エジプト19:5
5今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

こういうふうに、「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはわたしの宝となる。」とすばらしい約束を神様がお与えになりました。
そしてこの契約の主要な内容は、よくモーセの十戒として知られているものがそれであったことを、私たちは知ることができます。
詳しくは、出エジプト記の20章にそのモーセの十戒が記されています。

以上、古い契約について、ごく簡単に振り返ってまいりました。以上のことから解かることがあります。それは、神様の契約は、一方的に与えられるものだということであります。
神様が契約を結ぶにあたって、人間がするように、契約の条件と内容を契約相手と交渉して決める、そのようなことはなさいません。
契約は、恵みとして与えられるものであり、それは契約の相手もまた、神様によって恵みとして選び出された者であります。

「すべてが恵みだ」、ここに神様がお与えくださる契約の一番大きな特徴があるのではないかと思います。そして、契約という言葉から、明らかなように、それは単なる約束ではありません。
契約にかかわる者は、その契約を守る義務があります。義務が伴うというところに、契約の大きな特徴があります。そしてその一方が、もし契約に違反するなら、私たちの社会でもそうですけど、契約に照らして、償いをすることになります。
もし、償うことができなければ、契約は破棄されてしまいます。破棄されるだけではなくて、その時その契約の当事者間には、敵対関係が生じてまいります。これが契約の特質ではないかと思います。

神様はイスラエル民族に対し、「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはわたしの宝となる」と仰せになりました。
けれども、先ほどのエレミヤ書の31章にありましたように、イスラエル人は聞き従わず、それどころか、偶像の前にひざまづいて、契約に違反し、しかも悔い改めることを拒みました。
お読みいただきました、31章32節で「彼らはわたしの契約を破ってしまった。」と神様が仰せにならざるをえないように、ここに古い契約は破棄され、同時に神様とイスラエルとの間には、敵対関係が生まれました。

そしてまさにそのような敵対関係のある真っ只中で、神様は、エレミヤを通して「新しい契約を与える」と、ここに約束してくださいました。
神様の愛と憐れみのゆえであることは、いうまでもありません。もう一度エレミヤ書31章31節から読んでみたいと思います。

エレミヤ書31:31-34
31見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――
33彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

ここに与えられたお約束は、3つの項目にまとめられるのではないかと思います。
まずその契約の内容は、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」、これが主要な内容であります。そして、契約の相手は、イスラエルでございます。
そして第3点目は、契約はあのモーセの十戒のように、石の板に書きしるされるのではなくて、心に書きしるされる、これがこの契約の特色であると言っていいのではないかと思います。順に考えてまいりたいと思います。

初めに考えたいことは、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」というその契約の内容についてであります。
このこと自体は、しかし古い契約となんら変わるところのないお約束であります。神様は、古い契約でも同じことを約束してくださいました。しかし、新しい契約では、このことに関して具体的に2つの約束が与えられています。
1つは、34節の一番後ろですけど「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない。」ということであり、もう1つは、人々は主を知るようになるということであります。

「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」という約束は、この2つのことをその内に含んでいます。そして特に、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない。」と仰せになったこと、これこそ新しい契約が、古いものとは全く違うところだと申し上げることができます。
そしてこのお約束は、「咎を赦し、罪を思い出さない。」と仰せになったお約束は、言うまでもなく、イエス様の十字架の死によって、成就されています。
イエス様は、人としてこの世に来てくださいましたが、それは十字架にかかって、私たちを罪から贖い出すためであったということは、福音書の中にはっきりと記されていることであります。

ペテロの手紙第I、2:22-25
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と仰せになったことは、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ることによって、永遠に実現していただくことができました。
ここにあるように、イエス様は神の御子であり、生まれながらに罪を知らないお方でした。そして人としての地上のご生涯においても、父なる神の御心に完全に従い通されました。
イエス様のお証しは「わたしと父とはひとつです。」ということでした。このお証しこそ、イエス様には一点のくもりもないことを少しの罪のしぶきさえもそこにはないことが明らかにされています。イエス様だけができるお証しであります。

そして、他人の罪の身代わりとなって死ぬことができるのは、罪のない者だけであります。すべての人間は、自分の罪のために死ぬのであって、他の人の身代わりとなることはできません。
コリント人への手紙第IIの5章21節に「神は、罪を知らない方を罪とされました。」とあるように、罪を知らないイエス様は、私たちの罪の身代わりとして罪そのものとなって、十字架に架かって死んでくださいました。
私の借金を誰かが代わりに支払ってくだされば、私の債務証書は無効になります。そして破棄されます。同じように、イエス様が私の罪の身代わりとなって、死んでくださったことにより、私の罪の債務証書は無効とされて、破棄されています。

コロサイ人への手紙2:14
14いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

もちろんイエス様が、全人類の債務証書をその身に背負って、十字架に架かってくださったということが、ここに明らかにされています。
もう私たちの債務証書は、無効にされています。1億円であっても1千億円であっても、無効にされた債務証書には、私たちは何の責任も義務もありません。
私たちの考えきれないほど大きな罪は、もう無効にされた。私たちはそれに対して、何の責任も義務も負う必要はないとここに書きしるされています。

だからこそ、主なる神は、「もうあなたの罪は、思い出さない」と言ってくださいます。
無いわけじゃないんです。でも、無効にされたから、思い出す必要がないと主は仰せになってくださいます。

エペソ人への手紙1:7
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

今度は、十字架に架けられた私たちの立場から、このみことばが記されています。
先ほどのペテロの手紙第Iは、イエス様の立場から記されていましたけど、ここには、「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」と記されています。
債務証書が無効にされたからといって、あなたには、誇るところは何もないと記されています。ただ御子の血によって、罪を知らないお方の尊い血が流されたことによって、罪の赦しを受けているのだと記されています。

決して、何の代価もなしに、罪が赦されたのではない。私の罪の借金を払ってくださった方が、それこそ、御子の血なんだとここに記されています。
罪が赦されるためには、血が流されなければなりません。レビ記17章11節には「いのちとして贖いをするのは、血である」と記され、ヘブル人への手紙9章22節には「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」とあります。
だからこそ、ここでエペソ人への手紙1章7節で「御子の血による贖い」と書き記されています。

私たちの頭で考えて解かることではありませんけど、神様は、イエス様の血をご覧になった時に「終わった」と仰せになるんです。
あなたの罪の債務はもう、血をご覧になった時に「終わった」と神様が仰せになり、そのための血であります。神様が満足し受け入れてくださる、そのための血であります。
御子の血は、罪を知らないお方の血は、すべてのどのような罪をも贖うに充分であり、イエス様がこの十字架上で流してくださった血は、過去の罪、現在の罪、それだけではなく将来のすべての罪を贖うに充分なものであります。

私たちは、過去の罪が赦されただけではなくて、将来の罪をも赦していただくことができる。
それはこのイエス様の血によるのだと私たちは、知ることができます。

ローマ人への手紙3:21-24
21しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

これも本当に恵みのみことばであります。ただ信じるだけで義と認められる。それは、24節にありますように「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに」と記されています。
イエス様を信じる者は、このイエス様の贖いのゆえに、罪から開放されています。私たちに必要なことは、ただ恵みを受け取ること、言い換えるなら、悔い改めて福音を信じることだけであります。
悔い改めてイエス様のもとへ行くなら、神様は罪を赦してくださり、もう罪を思い出さないと言ってくださいます。古い契約が破棄されて、神様との間に生じた敵対関係は解消され、ここに永遠の平和がもたらされると知ることができます。

コロサイ人への手紙1:19-20
19なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
20その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

こういう風に、破られた契約によって生じたすべての敵対関係は、完全に和解に導かれた。万物を和解させてくださったとあります。
その救いのスケールの大きさを、ここに私たちは知ることができます。
無条件で、和解が与えられています。ただ、私たちは、その恵みを受け取るだけであります。

神様は、エレミヤを通して「主を知るようになる」と約束してくださいました。
言うまでもなく、主を知るということは、主について知ることではありません。主について知ることは、信仰がなくても可能ですけど、主を知ることは、御霊によらなければ、決してありえないことであります。
そして大切なことは、主を知ることであります。主を知る者は、もう永遠のいのちをすでに持っています。

ヨハネの福音書17:3
3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

主を知ることがどれほど大切であるかということが、はっきりと記されています。主を知るなら、喜びと希望のある人生を歩むことができます。もう孤独ではない、私は一人ではない、もう死は恐れる必要がない、だからどのようなことも、恐れる必要がない。
永遠のいのちが与えられて、私は主とともにいる。この確信を持つことができるのであります。
しかし、逆に教会のさまざまな行事に参加し、奉仕し、献金をしていて、イエス様を信じていると思っていても、主を知らなければ、喜びもなく、希望もなく、実を結ぶこともないのではないでしょうか。ホセア書6章6節のみことばが、そのことをはっきりと記しています。

ホセア書6:6
6わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

どんな宗教的な行事や慣習やそれへの参加よりも、いやそんなことはどうでもいいことだ、わたしを知ることなんだと、ここで神様はお語りになっています。
では、主を知る者とはどのようなものでしょうか。
そのことを考えるにあたって、心に留めておくべき第一のことは、実は、もうイエス様はすべての人の主となってくださっているという事実であります。

ローマ人への手紙14:9
9キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

イエス様が、死んでよみがえってくださったのは、あなたの主となるためだとここに記されています。ですから、悔い改めてイエス様のもとへ行くなら、私たちは、主を知ることができる。
履歴書もいらないし、何にもいらないんです。ただ悔い改めて、イエス様に感謝をもってと言ってもいいのだと思います。
イエス様に感謝することのない、悔い改めなんてありえない。ただイエス様を感謝して、御許へ行くなら主となってくださると知ることができます。

イエス様が、イエス様を信じる者が、主を知ることができるようにしてくださるということは、疑問の余地の無いことであります。
しかし、主をよく知るためには、イエス様との交わりが必要です。主を恐れ、主を愛し、主に従いたいという心を持って歩む者は、主をもっとよく知ることができます。
イエス様もまた、喜んで、ご自信を豊かに現してくださいます。本来なら、イエス様の前に立つことさえできない者に、主は喜んでご自信を明らかにしてくださいます。

私たちは、今はまだこの世にあって、生きていますから、さまざまな問題を確かにかかえています。でもそれは、単に生きているのではなくて、御体なる教会を建て上げるという、イエス様のご計画に用いられるためにこの世に置かれています。
私たちは、その二つのはざまにあって、いつも心を動かされ、惑わされるのではないかと思います。この世にある限り、主に用いられたいと思う反面、私たちには、確かに罪の性質が残っています。
そしてこの罪の性質は、主を完全に知る上で妨げになっています。ですからみことばは、今私たちが主を知るのは、鏡で見ているようなものだと記しています。

しかし、イエス様が再び来てくださる時、私たちは顔と顔を合わせて主を拝し、イエス様のありのままの姿を見ることになります。
そして私たちは、いつまでも主と共にいることになります。

ヨハネの手紙第I、3:2
2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

こういうふうに約束が与えられています。エレミヤによってお語りになったもう一つのことは、神様は契約の相手として、イスラエルを選ばれるということでした。しかし、このイスラエルは、民族としてのイスラエルではなくて、新しい契約にふさわしい、神のイスラエルであります。

ローマ人への手紙2:28-29
28外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

ローマ人への手紙9:6-8
6しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
7アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。
8すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

イエス様は、この神のイスラエルを選び出すために、全人類に向かって呼びかけてくださいました。

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

このみことばは、まさしく全人類に向かって、イエス様は神のイスラエルを建て上げたい、そういう御心のもとに語られているものであります。
そうして、神のイスラエルがもうすでに建てられています。誰であっても、イエス様を信じ救われた者は、永遠のいのちを持ち、そして神のイスラエルに加えられています。
こうして、エレミヤを通して約束された新しい契約は、すでに神のイスラエルに対して成就しています。

エレミヤによってお語りになったもう一つのことは、人の心に律法を書きしるしてくださるということであります。
これも古い契約と全く違うところであります。
モーセを通して与えられた契約は、石の板に文字で書かれていました。もちろん石の板に書かれてあっても、それは神様の御心を明らかにしています。しかし、古い契約によれば、人は裁きの時に、そのみことばの前に、一人で立つことになります。

どうでしょうか。「義人はいない、一人もいない」とローマ人への手紙にあるとおりであります。
神様の御心を生涯を通して、従いとおせる者は誰一人いないわけですから、その時例外なしに、そのみことばによって、私たちは裁かれてしまいます。
でも新しい契約では、律法は御霊によって私たちの心に書きしるされます。御霊は、一人ひとりにふさわしい律法を、そして最もふさわしいことばでもって、書きしるしてくださいます。

コリント人への手紙第I、2:9-12
9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
11いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
12ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。

御霊は、私たち一人ひとりをご存知です。それどころか私たちの心の中にあるものさえも、私たち以上にきっと知っておられます。
そして、だからこそ言葉にすることのできない祈りさえも、とりなしてくださいます。
もう、古い契約とは違って、私たちは一人で神様の前に立つのではありません。私たちを弁護してくださるお方、すなわち御霊が共にいてくださいます。

ローマ人への手紙8:26
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

こういうふうに記されています。新しい契約にあっては、御霊がイエス様の御心を私たちに教え、導き、またさまざまな試みから守ってくださいます。同時に御霊は、私たちの心を探り、とりなし、祈ってくださいます。
私たちの平安の源は、ここにあります。イエス様を信じる信仰があれば、自動的に平安なのではなくて、御霊が働いてくださるから、平安なのであり、私たちは実を結ぶことができます。
私たちは、肉の思いによって、御霊の働きを妨げてはならない。これは、イエス様を信じる者の守るべき鉄則であります。

エレミヤによって預言された新しい契約は、イエス様の十字架の死によって成就されました。
イエス様ご自信が律法を完全に成就してくださり、罪を知らないお方であるイエス様が、罪そのものとなって私たちの身代わりとして、十字架上で死んでくださいました。流された血によって、すべての罪は贖われています。
悔い改めて、イエス様を信じるなら、誰であっても永遠のいのちを受けます。申し上げたいことは、新しい契約は、イエス様によって、その死によって完全に成就された。ヘブル人への手紙13章20節にあるようにまさしく永遠の契約であるということができます。

以上、明らかになったように、私たちが神のイスラエルとして罪の赦しにあずかり、神の子供とされ、そして主を知るようになったのは、すべて恵みです。
古い契約は、恵みとして与えられたことを最初にご一緒に学びましたけれども、新しい契約も全く同じように、恵みとして与えられています。
ヨハネの福音書1章16節にはっきりと記されています。

ヨハネの福音書1:16
16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

短いみことばですし、さっと読み進む所かもしれませんけど、イエス様だけが出来る。そしてこのみことばを本当に自分のものにする時、私たちの心の内には、喜びが満ちあふれてくる、そういうみことばの一つではないかと思います。
パウロは、だからこそ「私は、恵みを無にしません。」とガラテヤ人への手紙の2章に書き記しています。
恵みだからこそ無にしないとパウロは書き記しています。

新約聖書の手紙は、恵みを無にしないようにと私たちのために与えられています。
逆に言いますと、新約聖書の手紙を読んでいきますと、恵みを無にすることとは、いったいどういうことなのかということを知らせられてまいります。
私たちもまた、恵みを無にすることがないようにしたいと思います。手紙ではありませんけど、恵みを無にする、その一番根本的な問題をヨハネの黙示録2章2節から5節が書き記しているように思いますので、ちょっとそこを読んで終わりたいと思います。

ヨハネの黙示録2:2-5
2「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
3あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

「初めの愛から離れてしまった。」と記されています。
イエス様は、最初にお読みいただきましたルカの福音書の中で、杯を与える時に、「これはわたしの血による新しい契約です。」と仰せになりました。
やっぱりこの時、イエス様の頭の中には、あのキリストの花嫁としての御体なる教会との婚姻の祝宴があったのではないかと思います。

聖書の中では、ぶどう酒は祝宴のしるしです。御体なる教会とイエス様との喜びの婚姻の祝宴が、前もって指し示されたのではなかったのでしょうか。
だから「わたしは、再び神の国を見るまでは、ぶどうの実で作った物を口にすることはない」とイエス様は約束してくださいました。
初めの愛から離れるとは、キリストの花嫁としてふさわしい者ではなくなるということを意味しています。

このみことばの重さは、そこにあります。毎週、繰り返される礼拝での聖餐を受けるにあたって、初めの愛に留まっているかどうかを、私たちはイエス様から尋ねられているのではないかと思います。
恵みから抜け落ちることのないように、共に励ましあって、歩みたいと思います。




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