謙遜のすすめ


古田公人兄

(吉祥寺学び会、2014/02/04)

引用聖句:ペテロの手紙第I、5章5節-6節
5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

おはようございます。前々回ですけれども、ベック兄は、まことの礼拝について語ってくださいました。その中で、主を知るようになった者だけが、霊とまことをもって礼拝することができると仰っていました。
主を知る者、これはただ謙遜でなければ、主を知ることはありえない。聖書はそのことを記しています。
ですから今日は、まことの礼拝を捧げるにあたって、最も大切な謙遜について、ご一緒に考えてみたいと思います。

謙遜には、2つの側面があります。一つは、神様の前での謙遜。そしてもう一つは、兄弟姉妹の交わりの中にあっての謙遜ではないかと思います。最初は、神様の前での謙遜について考えてみます。
主なる神に対して、私たちが取るべき最も基本的な態度は、謙遜です。謙遜の反対は、もちろん高慢ですけど、高慢こそは最大の罪である。なぜなら、アダムとエバは、高慢によってエデンの園を失いました。
彼らは、神様のようになりたいと思い、食べてはならないと言われていた木の実を食べました。被造物の一つにすぎないアダムとエバにとって、創造主であられる神様のようになりたいとは、これは大変な思い上がりであることは言うまでもありません。

こうして彼らは、主の御前から退けられました。謙遜なくして、私たちは主なる神との交わりを持つことはできない。これは明らかであります。
では、いったい謙遜とは、具体的にはどういう態度なのでしょうか。二人の例を見てみたいと思います。

歴代誌第II、12:1-7
1レハブアムの王位が確立し、彼が強くなるに及んで、彼は主の律法を捨て去った。そして、全イスラエルが彼にならった。
2レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。彼らが主に対して不信の罪を犯したからである。
3戦車一千二百台、騎兵六万がこれに従った。また、彼とともにエジプトから出陣した民、すなわちルブ人、スキ人、クシュ人の人数は数えきれないほどであった。
4彼はユダに属する防備の町々を攻め取り、エルサレムまで攻め寄せて来た。
5そのとき、預言者シェマヤが、レハブアムと、シシャクを前にしてエルサレムに集まったユダのつかさたちのもとに来て、彼らに言った。「主はこう仰せられる。『あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。』」
6すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「主は正しい。」と言った。
7主が、彼らのへりくだった様子をご覧になると、シェマヤに次のような主のことばがあった。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう。シシャクの手によって、わたしの怒りをエルサレムに注ぐことはやめよう。

レハブアムは、王位が確立すると自信が満ち、主のみことばを捨て去りました。しかし、主は預言者を遣わして、「あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨てた」と仰せになりました。この言葉を聞いてレハブアムは「主は正しい。」と言ったと記されています。
主のみことばを聞いて、彼は主の前にへりくだりました。主にあっての謙遜とは、こういう態度であると解かります。主を恐れ、主の前に小さくなること、これこそが主にあっての謙遜であります。
もう一つの例を見てみたいと思います。

ルカの福音書18:10-14
10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

取税人は、自分は罪人だと思っていました。というよりも、自分の内には良いものは何もないと、彼は認めざるを得なかったのではないでしょうか。もし、誰かがこの人に向かって「あなたは、へりくだっている。」と、イエス様はそう仰ったんですけど、同じように言ったとしたら、彼はびっくりしたと思います。
「いいえ、私はへりくだるような者ではありません。私は、仕事となると情け容赦のない者です。私は、自分のことしか考えられないのです。神様が望まれるようなことは、何一つできない者です。」きっとこういうふうに言ったと思います。「私は、本当にみじめです。」と言ったに違いない。
ですから、今見た二人の例が示すように、神様の前での謙遜とは、主を恐れ、主の前に小さくなることだと言えるのではないでしょうか。

では、神様の前に謙遜な人とはいったいどういう人なのでしょうか。謙遜であるということは今解かりましたけれど、では謙遜な人とはどういう人なのでしょうか。例えば私たちは、誰か他の人を指して「あの人は、謙遜だ。」などと言う時、一般的にはどうでしょう。腰の低い人のことを言うのではないかと思います。
しかし、今見てまいりましたように、聖書が言う謙遜とは、主を恐れ、主の前に小さくなる姿勢でした。
そういえば、その代表的な人は、一人はモーセであります。モーセは、最初からそういう人であったかどうかは解かりません。彼は、王女の子供として育てられましたから、若い時は、プライドが高く、しかも正義感に燃えていました。正義のためなら、殺人もいといませんでした。

しかし挫折を経験した後に、彼は主なる神によって召し出され、イスラエルをエジプトから脱出させるための指導者として任命されています。
その仕事は、本当に内にも外にも厳しい戦いの連続でした。やさしさだけでは、とてもその仕事は務まりませんでしたし、また優柔不断であっては、その任務を成し遂げることはできませんでした。ですからモーセは、怒るべき時には怒り、責めるべき時には責め、戒めるべき時には戒めなければなりませんでした。
彼は決して腰の低いような人ではありませんでした。時には、あまりの厳しさのゆえに、主にさえもつぶやいています。一箇所だけ見てみたいと思います。

民数記11:10-15
10モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。
11モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。
12私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう。
13どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ。』と言うのです。
14私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。
15私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

モーセがこの時経験していた苦しみ、重荷の重さは、本当に想像を絶するものであったと解かります。この祈りだけを聞けば、彼は決して謙遜であった人のようには思えません。
神様に向かって堂々とつぶやいた。堂々というよりも、もうつぶやくしかなかった。そういう状態にあったことが解かります。
でも、主なる神の見方は、全く違いました。モーセに対する、主なる神の見方は、こう記されいます。

民数記12:3
3さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

主なる神は、そのようにモーセを、誰にも勝って謙遜だと仰せになっています。それは彼が、心から主を恐れ、主に従う人であったということを意味しています。
問題は、私たちの物腰ではなくて、心である。そのことをはっきりと示しています。

次は、信徒の交わりにあっての謙遜について見てみたいと思います。
私たちは、イエス様の十字架の罪の赦しを受け、主なる神との和解にあずかり、そして、永遠のいのちをいただいて、神の子供とされています。どうでしょう、神の子供は、浮浪者であってはならないのです。
神の子供は、この地上にあっては、イエス様を頭として、イエス様に従って歩む責任があります。ですから、イエス様は、救われた信者一人ひとりを、イエス様を頭とするみからだなる教会の器官として扱っておられます。

コリント人への手紙第I、12:25-27
25それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

こういうふうに、みからだなる教会にある器官、神の子供とされた者の姿はあるべきだと記されています。
私たちのからだ全体の器官がそうであるように、一人ひとりは、頭なるイエス様に結びつくだけではなくて、同時に他の信者との交わりの内に成長することが求められています。一つの部分が苦しめば、共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、共に喜ぶ。各部分が互いにいたわり合うためだと記されている通りであります。
私たちは、どうしても一致がなければ、こういう状態に達することはできないということは明らかであります。一致は、みからだなる教会にある信徒にとって、最も大切なことだと言ってもいいのではないかと思います。

エペソ人への手紙4:1-6
1さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
5主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
6すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

このパウロの勧めは、御霊の一致は、信者たちの姿勢にかかっているということを意味しています。
一人ひとりが、謙遜と柔和、寛容と愛、平和によって結ばれるなら、御霊の一致が保たれると記されています。
そして言うまでもなく、こうした徳の中で、最も基本的なものが、謙遜と愛であるということは明らかであります。御霊の一致が保たれるなら、一人ひとりがふさわしく用いられ、そしてみからだなる教会は、建てあげられてまいります。

エペソ人への手紙4:12-13、15-16
12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
16キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

これこそが、イエス様が私たち一人ひとりを、ご自身のいのちに代えて救い出してくださり、与えてくださったものの、あるべき姿であるということができるのではないかと思います。
謙遜と愛がなければ、どうでしょう。御霊の一致はなく、成長はなく、したがってそのような信者は、みからだなる教会を建て上げるという主のご計画の中で、用いられることはあり得ません。謙遜と愛がなく、一致がなく、成長がなければ、主のお荷物となってしまうのではないでしょうか。ですから、みことばは信徒に対して、謙遜でありなさいと繰り返し繰り返し勧めています。
ここで注意したいことは、謙遜でありなさいというみことばを聞くと、先ほどもちょっと申し上げましたけれど、私たちは腰の低い人や喜んで仕える人のことを思い浮かべてしまうのではないでしょうか。事実、そういった姿勢が謙遜の現れであることは確かです。聖書もまたそれを勧めています。

ローマ人への手紙12:10
10兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

ヨハネの福音書13:14
14それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

こういうみことばがあります。でもここで言われていることは、単に腰の低い人、あるいは喜んで人に仕える人になりなさいということではないと思うのです。
なぜなら、こうしたみことばは、頭なるキリストにあってという一言を付け加えて読むべきみことばであるからであります。そうすると、こうなってまいります。例えば、先に読みましたローマ人への手紙12章10節は、「頭なるキリストにあって、兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」となってまいります。
ヨハネの福音書13章14節は、こうなります。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、頭なるキリストにあって、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」となってまいります。

みからだなる教会にあって、謙遜であることは、まず主の前に謙遜であり、そしてそれを通して、信徒の間に謙遜があるべきだということが明らかであります。
その意味で、パウロはまた、この上もなく謙遜な人であったと言えるのではないでしょうか。地上の誰にも勝ってモーセが謙遜であったと、主が仰せになったのと同じように、パウロもまた誰よりも謙遜であったと言えるのではないかと思います。
彼は自分について、こう語っています。

コリント人への手紙第I、4:3
3しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

これだけ読めば、すごく高慢な人であるかのように思えてまいります。でも続いて彼はこう言っています。

コリント人への手紙第I、4:4
4私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

彼は、この姿勢を持っていました。パウロは、主を恐れていました。

コリント人への手紙第II、4:5-7
5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

このみことば、5節から7節のみことばは、パウロという人がいかに主の前で謙遜であったか、いかに主を恐れ、主にのみ仕えた人であったかを明らかにしています。パウロは、ただ主のために僕として働いています。だからこそ、彼は、信徒の中にあっても本当の意味で謙遜であることができたと言えるのではないでしょうか。
モーセがそうであったように、パウロの生涯もまた、内にも外にも戦いの連続でした。しかしパウロは、自分は主のために働いているということを忘れることはありませんでした。
他の人たちと違って、パウロは特に霊的な指導者として、用いられましたから、時には大先輩であるペテロに対してさえ、彼は忠告をしなければならない状況に置かれたことがあります。

ガラテヤ人への手紙2:11-14
11ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
12なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
13そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
14しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。

ここも、見方によっては、あるいはこの話をパウロの言葉を聞いた人の中にあっては、「パウロは生意気だ。後から使徒に加わったにすぎないのに。」などと思った人がいたかもしれない。でも、そうじゃなかったのです。パウロは、ただ主だけを恐れ、他の信徒たちを使徒たちをも含めて、恐れなかったということであります。
しかしそれだけではなくて、彼はペテロを尊敬していましたし、また愛していました。ですから、なおさらパウロは、黙っていることができなかったのではないかと思います。
人が、みからだなる教会にあって、謙遜であるということは、パウロのように、まず主の前に謙遜でなければならないということは明らかであります。

私たちはどうでしょうか。私たちは、自分の名誉や利益にかかわることでなければ、謙遜であることはそれほど難しいことではないと思います。聖書を読んでいて、あるいはみことばの学びを聞いていて、厳しいみことばであっても、「これは私のことだ。」と本気に受け取ることができます。そのとおりだと思うことができるのです。皆できるのです。
また、自分の内には何も良いものがないと、夜、床につく時には思うのではないでしょうか。でも、もし、他の兄弟姉妹から何かを注意されたり、自分の名誉や誇りにかかわることを他の人から言われたり、あるいは、自分の不利益にかかわる具体的な問題に直面すると、どうでしょうか。一転して自分の正しさを主張し始めるのではないでしょうか。
私たちは、その一つの例を聖書に見ることができます。

ルカの福音書10:38-42
38さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

マルタは喜んでイエス様をもてなしていました。しかし、何かと気ぜわしい状況の中で、イエス様の前でずーと座っている妹マリヤを見た時、黙っていることができなくなってしまいました。
マリヤに対する不満を口にしただけではなくて、何とイエス様を使って、マリヤを動かそうとしています。彼女は、この時、イエス様を恐れる気持ちを失っていたということは、明らかであります。
もう一つ例を見てみたいと思います。

マルコの福音書14:27-31
27イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。
28しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
29すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
30イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
31ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

ペテロは、いつも弟子たちの中でスポークスマンのような位置を占めていました。そしてイエス様もまた、ペテロをヤコブとヨハネと共に、さまざまな機会に特別に用いておられるように思います。
しかし、この時、イエス様が「あなたがたは、みなつまづきます。」と仰せになったそのみことばを聞いて、ペテロは、イエス様を元気づけようと思ったのでしょうか、励まそうと思ったのでしょうか「私はつまづきません。たとえ全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と答えています。
ペテロの心のどこかに、自分の力を過大に評価し、他の弟子たちを見下す思いがあったことは明らかであります。彼は、イエス様のことばを、この時素直に受け取ることができませんでした。「私はつまづきません。」とあたかもイエス様がペテロを見誤っておられるかのように、イエス様に異議を申し立てています。

マルタとペテロの二人を取り上げましたけれども、二人とも実は善良で正直な人たちでした。
でも彼らでさえ、具体的な問題を前にして、謙遜であり続けることは出来なかったのです。むしろ具体的な問題を前にした時に、隠されていた姿が明らかにされています。そして私たちの場合も同じであります。このような性質こそが、みからだなる教会にあって、一致を妨げるものだということは明らかであります。
信者が用いられるためには、こうした性質が変えられなければならないと言えるのであります。どういうふうにすれば、変えられるのでしょうか。

マルタとペテロは、どういうふうに変えられたのでしょうか。
マルタについては、これ以上何も記されていませんけど、ヨハネの福音書11章5節に「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とあります。イエス様は、マルタを愛し続けておられたというそのみことばから見ると、この時きっとマルタは、イエス様のみことばを謙虚に受け止め、イエス様の前に悔い改めたに違いないと思います。
ペテロについては聖書が記しています。

マルコの福音書14:67-72
67ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
68しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。
69すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。
70しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
71しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。
72するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

ペテロは、本当の自分の姿を知っただけではなくて、あの時、イエス様に異議を申し立てた自分の言葉をも思い出しました。そして彼は泣き出したのです。
それまで自負心を持っていましたけれども、この体験から彼は、自分はあの取税人のように、自分の内には何もない、良いものは何もない者だと認めざるを得なくなりました。
このようにして、ペテロは砕かれ、あの後のペテロ、本当の意味で主に用いられるようになったペテロができたと知ることができます。

二つの例のように、イエス様は人を謙遜にすることのできるお方であります。なぜなら、イエス様ご自身が謙遜だからであります。
でもイエス様の謙遜は、自分のみじめさを知って、主の前に小さくなるというようなものとは質的に異なりました。
そもそも創造主なるお方、神の御子が人として来てくださったのですから、イエス様こそが謙遜の極致だと言うことができます。

まことの謙遜は、ただイエス様だけにある。だからイエス様だけが、人を謙遜にすることのできるお方だということは、間違いがありません。
マルタもペテロも、イエス様によって、それぞれにふさわしい形で、謙遜に導かれています。私たちの場合も同じではないでしょうか。
交わりの中に留まり続けるなら、そしてイエス様に喜んでいただきたいという思いを持っているなら、思いを持っているならと今申し上げました。現実はそうはなかなかいかないと思うのです。

イエス様に喜んでいただきたいと思っても、現実は主を悲しませることばかりかもしれませんけど、でも交わりの中に居続けるなら、イエス様は、ペテロを扱われたように、マルタを扱われたように、私たちをも扱い、謙遜にしてくださいます。
ですから、私たちは希望を持って、イエス様との交わりの中に留まり続けたいと思います。そのことをとおして、まことの礼拝を捧げることのできる者とさせていただけるからであります。
どうもありがとうございました。




戻る