引用聖句:ペテロの手紙第I、5章5節-6節
おはようございます。前々回ですけれども、ベック兄は、まことの礼拝について語ってくださいました。その中で、主を知るようになった者だけが、霊とまことをもって礼拝することができると仰っていました。 主を知る者、これはただ謙遜でなければ、主を知ることはありえない。聖書はそのことを記しています。 ですから今日は、まことの礼拝を捧げるにあたって、最も大切な謙遜について、ご一緒に考えてみたいと思います。 謙遜には、2つの側面があります。一つは、神様の前での謙遜。そしてもう一つは、兄弟姉妹の交わりの中にあっての謙遜ではないかと思います。最初は、神様の前での謙遜について考えてみます。 主なる神に対して、私たちが取るべき最も基本的な態度は、謙遜です。謙遜の反対は、もちろん高慢ですけど、高慢こそは最大の罪である。なぜなら、アダムとエバは、高慢によってエデンの園を失いました。 彼らは、神様のようになりたいと思い、食べてはならないと言われていた木の実を食べました。被造物の一つにすぎないアダムとエバにとって、創造主であられる神様のようになりたいとは、これは大変な思い上がりであることは言うまでもありません。 こうして彼らは、主の御前から退けられました。謙遜なくして、私たちは主なる神との交わりを持つことはできない。これは明らかであります。 では、いったい謙遜とは、具体的にはどういう態度なのでしょうか。二人の例を見てみたいと思います。 歴代誌第II、12:1-7
レハブアムは、王位が確立すると自信が満ち、主のみことばを捨て去りました。しかし、主は預言者を遣わして、「あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨てた」と仰せになりました。この言葉を聞いてレハブアムは「主は正しい。」と言ったと記されています。 主のみことばを聞いて、彼は主の前にへりくだりました。主にあっての謙遜とは、こういう態度であると解かります。主を恐れ、主の前に小さくなること、これこそが主にあっての謙遜であります。 もう一つの例を見てみたいと思います。 ルカの福音書18:10-14
取税人は、自分は罪人だと思っていました。というよりも、自分の内には良いものは何もないと、彼は認めざるを得なかったのではないでしょうか。もし、誰かがこの人に向かって「あなたは、へりくだっている。」と、イエス様はそう仰ったんですけど、同じように言ったとしたら、彼はびっくりしたと思います。 「いいえ、私はへりくだるような者ではありません。私は、仕事となると情け容赦のない者です。私は、自分のことしか考えられないのです。神様が望まれるようなことは、何一つできない者です。」きっとこういうふうに言ったと思います。「私は、本当にみじめです。」と言ったに違いない。 ですから、今見た二人の例が示すように、神様の前での謙遜とは、主を恐れ、主の前に小さくなることだと言えるのではないでしょうか。 では、神様の前に謙遜な人とはいったいどういう人なのでしょうか。謙遜であるということは今解かりましたけれど、では謙遜な人とはどういう人なのでしょうか。例えば私たちは、誰か他の人を指して「あの人は、謙遜だ。」などと言う時、一般的にはどうでしょう。腰の低い人のことを言うのではないかと思います。 しかし、今見てまいりましたように、聖書が言う謙遜とは、主を恐れ、主の前に小さくなる姿勢でした。 そういえば、その代表的な人は、一人はモーセであります。モーセは、最初からそういう人であったかどうかは解かりません。彼は、王女の子供として育てられましたから、若い時は、プライドが高く、しかも正義感に燃えていました。正義のためなら、殺人もいといませんでした。 しかし挫折を経験した後に、彼は主なる神によって召し出され、イスラエルをエジプトから脱出させるための指導者として任命されています。 その仕事は、本当に内にも外にも厳しい戦いの連続でした。やさしさだけでは、とてもその仕事は務まりませんでしたし、また優柔不断であっては、その任務を成し遂げることはできませんでした。ですからモーセは、怒るべき時には怒り、責めるべき時には責め、戒めるべき時には戒めなければなりませんでした。 彼は決して腰の低いような人ではありませんでした。時には、あまりの厳しさのゆえに、主にさえもつぶやいています。一箇所だけ見てみたいと思います。 民数記11:10-15
モーセがこの時経験していた苦しみ、重荷の重さは、本当に想像を絶するものであったと解かります。この祈りだけを聞けば、彼は決して謙遜であった人のようには思えません。 神様に向かって堂々とつぶやいた。堂々というよりも、もうつぶやくしかなかった。そういう状態にあったことが解かります。 でも、主なる神の見方は、全く違いました。モーセに対する、主なる神の見方は、こう記されいます。 民数記12:3
主なる神は、そのようにモーセを、誰にも勝って謙遜だと仰せになっています。それは彼が、心から主を恐れ、主に従う人であったということを意味しています。 問題は、私たちの物腰ではなくて、心である。そのことをはっきりと示しています。 次は、信徒の交わりにあっての謙遜について見てみたいと思います。 私たちは、イエス様の十字架の罪の赦しを受け、主なる神との和解にあずかり、そして、永遠のいのちをいただいて、神の子供とされています。どうでしょう、神の子供は、浮浪者であってはならないのです。 神の子供は、この地上にあっては、イエス様を頭として、イエス様に従って歩む責任があります。ですから、イエス様は、救われた信者一人ひとりを、イエス様を頭とするみからだなる教会の器官として扱っておられます。 コリント人への手紙第I、12:25-27
こういうふうに、みからだなる教会にある器官、神の子供とされた者の姿はあるべきだと記されています。 私たちのからだ全体の器官がそうであるように、一人ひとりは、頭なるイエス様に結びつくだけではなくて、同時に他の信者との交わりの内に成長することが求められています。一つの部分が苦しめば、共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、共に喜ぶ。各部分が互いにいたわり合うためだと記されている通りであります。 私たちは、どうしても一致がなければ、こういう状態に達することはできないということは明らかであります。一致は、みからだなる教会にある信徒にとって、最も大切なことだと言ってもいいのではないかと思います。 エペソ人への手紙4:1-6
このパウロの勧めは、御霊の一致は、信者たちの姿勢にかかっているということを意味しています。 一人ひとりが、謙遜と柔和、寛容と愛、平和によって結ばれるなら、御霊の一致が保たれると記されています。 そして言うまでもなく、こうした徳の中で、最も基本的なものが、謙遜と愛であるということは明らかであります。御霊の一致が保たれるなら、一人ひとりがふさわしく用いられ、そしてみからだなる教会は、建てあげられてまいります。 エペソ人への手紙4:12-13、15-16
これこそが、イエス様が私たち一人ひとりを、ご自身のいのちに代えて救い出してくださり、与えてくださったものの、あるべき姿であるということができるのではないかと思います。 謙遜と愛がなければ、どうでしょう。御霊の一致はなく、成長はなく、したがってそのような信者は、みからだなる教会を建て上げるという主のご計画の中で、用いられることはあり得ません。謙遜と愛がなく、一致がなく、成長がなければ、主のお荷物となってしまうのではないでしょうか。ですから、みことばは信徒に対して、謙遜でありなさいと繰り返し繰り返し勧めています。 ここで注意したいことは、謙遜でありなさいというみことばを聞くと、先ほどもちょっと申し上げましたけれど、私たちは腰の低い人や喜んで仕える人のことを思い浮かべてしまうのではないでしょうか。事実、そういった姿勢が謙遜の現れであることは確かです。聖書もまたそれを勧めています。 ローマ人への手紙12:10
ヨハネの福音書13:14
こういうみことばがあります。でもここで言われていることは、単に腰の低い人、あるいは喜んで人に仕える人になりなさいということではないと思うのです。 なぜなら、こうしたみことばは、頭なるキリストにあってという一言を付け加えて読むべきみことばであるからであります。そうすると、こうなってまいります。例えば、先に読みましたローマ人への手紙12章10節は、「頭なるキリストにあって、兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」となってまいります。 ヨハネの福音書13章14節は、こうなります。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、頭なるキリストにあって、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」となってまいります。 みからだなる教会にあって、謙遜であることは、まず主の前に謙遜であり、そしてそれを通して、信徒の間に謙遜があるべきだということが明らかであります。 その意味で、パウロはまた、この上もなく謙遜な人であったと言えるのではないでしょうか。地上の誰にも勝ってモーセが謙遜であったと、主が仰せになったのと同じように、パウロもまた誰よりも謙遜であったと言えるのではないかと思います。 彼は自分について、こう語っています。 コリント人への手紙第I、4:3
これだけ読めば、すごく高慢な人であるかのように思えてまいります。でも続いて彼はこう言っています。 コリント人への手紙第I、4:4
彼は、この姿勢を持っていました。パウロは、主を恐れていました。 コリント人への手紙第II、4:5-7
このみことば、5節から7節のみことばは、パウロという人がいかに主の前で謙遜であったか、いかに主を恐れ、主にのみ仕えた人であったかを明らかにしています。パウロは、ただ主のために僕として働いています。だからこそ、彼は、信徒の中にあっても本当の意味で謙遜であることができたと言えるのではないでしょうか。 モーセがそうであったように、パウロの生涯もまた、内にも外にも戦いの連続でした。しかしパウロは、自分は主のために働いているということを忘れることはありませんでした。 他の人たちと違って、パウロは特に霊的な指導者として、用いられましたから、時には大先輩であるペテロに対してさえ、彼は忠告をしなければならない状況に置かれたことがあります。 ガラテヤ人への手紙2:11-14
ここも、見方によっては、あるいはこの話をパウロの言葉を聞いた人の中にあっては、「パウロは生意気だ。後から使徒に加わったにすぎないのに。」などと思った人がいたかもしれない。でも、そうじゃなかったのです。パウロは、ただ主だけを恐れ、他の信徒たちを使徒たちをも含めて、恐れなかったということであります。 しかしそれだけではなくて、彼はペテロを尊敬していましたし、また愛していました。ですから、なおさらパウロは、黙っていることができなかったのではないかと思います。 人が、みからだなる教会にあって、謙遜であるということは、パウロのように、まず主の前に謙遜でなければならないということは明らかであります。 私たちはどうでしょうか。私たちは、自分の名誉や利益にかかわることでなければ、謙遜であることはそれほど難しいことではないと思います。聖書を読んでいて、あるいはみことばの学びを聞いていて、厳しいみことばであっても、「これは私のことだ。」と本気に受け取ることができます。そのとおりだと思うことができるのです。皆できるのです。 また、自分の内には何も良いものがないと、夜、床につく時には思うのではないでしょうか。でも、もし、他の兄弟姉妹から何かを注意されたり、自分の名誉や誇りにかかわることを他の人から言われたり、あるいは、自分の不利益にかかわる具体的な問題に直面すると、どうでしょうか。一転して自分の正しさを主張し始めるのではないでしょうか。 私たちは、その一つの例を聖書に見ることができます。 ルカの福音書10:38-42
マルタは喜んでイエス様をもてなしていました。しかし、何かと気ぜわしい状況の中で、イエス様の前でずーと座っている妹マリヤを見た時、黙っていることができなくなってしまいました。 マリヤに対する不満を口にしただけではなくて、何とイエス様を使って、マリヤを動かそうとしています。彼女は、この時、イエス様を恐れる気持ちを失っていたということは、明らかであります。 もう一つ例を見てみたいと思います。 マルコの福音書14:27-31
ペテロは、いつも弟子たちの中でスポークスマンのような位置を占めていました。そしてイエス様もまた、ペテロをヤコブとヨハネと共に、さまざまな機会に特別に用いておられるように思います。 しかし、この時、イエス様が「あなたがたは、みなつまづきます。」と仰せになったそのみことばを聞いて、ペテロは、イエス様を元気づけようと思ったのでしょうか、励まそうと思ったのでしょうか「私はつまづきません。たとえ全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と答えています。 ペテロの心のどこかに、自分の力を過大に評価し、他の弟子たちを見下す思いがあったことは明らかであります。彼は、イエス様のことばを、この時素直に受け取ることができませんでした。「私はつまづきません。」とあたかもイエス様がペテロを見誤っておられるかのように、イエス様に異議を申し立てています。 マルタとペテロの二人を取り上げましたけれども、二人とも実は善良で正直な人たちでした。 でも彼らでさえ、具体的な問題を前にして、謙遜であり続けることは出来なかったのです。むしろ具体的な問題を前にした時に、隠されていた姿が明らかにされています。そして私たちの場合も同じであります。このような性質こそが、みからだなる教会にあって、一致を妨げるものだということは明らかであります。 信者が用いられるためには、こうした性質が変えられなければならないと言えるのであります。どういうふうにすれば、変えられるのでしょうか。 マルタとペテロは、どういうふうに変えられたのでしょうか。 マルタについては、これ以上何も記されていませんけど、ヨハネの福音書11章5節に「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とあります。イエス様は、マルタを愛し続けておられたというそのみことばから見ると、この時きっとマルタは、イエス様のみことばを謙虚に受け止め、イエス様の前に悔い改めたに違いないと思います。 ペテロについては聖書が記しています。 マルコの福音書14:67-72
ペテロは、本当の自分の姿を知っただけではなくて、あの時、イエス様に異議を申し立てた自分の言葉をも思い出しました。そして彼は泣き出したのです。 それまで自負心を持っていましたけれども、この体験から彼は、自分はあの取税人のように、自分の内には何もない、良いものは何もない者だと認めざるを得なくなりました。 このようにして、ペテロは砕かれ、あの後のペテロ、本当の意味で主に用いられるようになったペテロができたと知ることができます。 二つの例のように、イエス様は人を謙遜にすることのできるお方であります。なぜなら、イエス様ご自身が謙遜だからであります。 でもイエス様の謙遜は、自分のみじめさを知って、主の前に小さくなるというようなものとは質的に異なりました。 そもそも創造主なるお方、神の御子が人として来てくださったのですから、イエス様こそが謙遜の極致だと言うことができます。 まことの謙遜は、ただイエス様だけにある。だからイエス様だけが、人を謙遜にすることのできるお方だということは、間違いがありません。 マルタもペテロも、イエス様によって、それぞれにふさわしい形で、謙遜に導かれています。私たちの場合も同じではないでしょうか。 交わりの中に留まり続けるなら、そしてイエス様に喜んでいただきたいという思いを持っているなら、思いを持っているならと今申し上げました。現実はそうはなかなかいかないと思うのです。 イエス様に喜んでいただきたいと思っても、現実は主を悲しませることばかりかもしれませんけど、でも交わりの中に居続けるなら、イエス様は、ペテロを扱われたように、マルタを扱われたように、私たちをも扱い、謙遜にしてくださいます。 ですから、私たちは希望を持って、イエス様との交わりの中に留まり続けたいと思います。そのことをとおして、まことの礼拝を捧げることのできる者とさせていただけるからであります。 どうもありがとうございました。 |