引用聖句:マタイの福音書25章14節-30節
イエス様は、天の御国についていくつもの例え話をお話なさったのであります。イエス様が例え話で天の御国のことをお語りになった理由は、知りたいと思う者には、わかるように。しかし心ない者には、その意味を隠すためだと仰せになっています。 知りたいと思わない者には、天の御国の奥義はわからない。そういうふうな形でお語りになったというのであります。ですから基本的に、イエス様の例え話というのものは、わかりにくいものだというふうに考えていいのではないでしょうか。 本当に霊において読まなければ、あるいは御霊に導かれて読まなければ、わかりくいものではないかなと思うのであります。 今お読みいただきましたところも、私には非常にわかりにくいところであります。最初に読みましたときは、イエス様の時代にも銀行があり、お金を預けたら利息がつくなんてことに感心をいたしまして、それからその次は、イエス様は金儲けを勧めてられるのかなと思ったこともありました。 本当に日常の細々したことでも、心、配ってやっていなければ駄目ですよと、そういうことを仰ってるのかなと思ったこともあったのであります。しかし今は、そうではないんではないかなと思っています。イエス様の御心に少しでも近づきたいと思いつつ、ここのところをご一緒に学んでみたいと思います。 今お読みいただきましたところには、二つの目に付く場面があると思うのであります。第一の場面は、主人が旅から帰って来て五タラント預けたしもべと、二タラント預けたしもべを呼び出して、どうだったと尋ねたときのことであります。 二人とも、預かったお金を主人に戻すだけではなくて、少しずつ儲けましたというふうに言ったのであります。それに対しまして主人は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と褒めております。「あなたは、わずかな物に忠実だったからたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」というのであります。 このところを見ておりますと、21節と23節で同じ言葉が繰り返されています。大事な言葉だから、繰り返されているのではないでしょうか。そしてその中でも、また同じことばが繰り返されているのがあります。 それは「忠実」ということばと、「喜び」という言葉ではないでしょうか。「良い忠実なしもべだ。あなたは忠実だった。主人の喜びをともに喜んでくれ。」、同じ言葉が繰り返され、またそれが23節で繰り返されるというように出てくるのであります。 もう一つの場面は、かわいそうなしもべの場面であります。一タラント預けられたんですけど、彼は儲けることをしないで、一タラントだけ返したんです。ぼくはそれでもいいんじゃないかと思うんです。彼がそれを使い込んだのじゃないから、べつにそれでもいいんじゃないかなと思うんですけど、主人が彼に怒り猛っているのであります。 ぼくのように、あまり何をやっても上手くできない者にとっては、何か身につまされて、このしもべがかわいそうな気がしてくるのであります。でもこの主人としもべのやり取りの中で私たちの目をひくのは、先ほどはどちらかと言えば主人のことばでしたけど、しもべの言葉ではないでしょうか。 何か怒り猛っている主人の方が目をひきそうですけど、やっぱりしもべが言ってる言葉の方が、何かぼくたちに訴えるんです。それは「あなたは、ひどい方だ。」としもべが言った言葉と、もう一つ25節で「私はこわくなり、隠しておいた。」と言った言葉であります。 結局このしもべは、主人を恐れていたというのがそこからわかるのであります。いつもいつも主人を見ながら、「ひどい主人だ。」「恐ろしい主人だ。」と、彼はいつも思っていたのではないでしょうか。だから一タラント預けられたら、その一タラントを失ったらどうなるかと思うと、もう心配で心配でたまらなくなり、ともかくその一タラントを失くさないようにしようと、そればっかり考えて、地面を掘って、彼はそれを隠しておいたのであります。 言い換えるならば、このしもべは、出来ることならば、主人とは関係をもちたくなかったのであります。そしてそれとは対照的に、もう二人のしもべの方は、主人を喜ばせようと思っていた。というのであります。 パーフェクトの二人のしもべは忠実でありえたのに、もう一人は主人とは関係をもちたくなかったのか。いや。言い換えますと逆ですね。一人のしもべは主人を恐ろしいと思ってたのに、なぜ、二人のしもべは忠実にすることができたのかということを考えてみますと、つまりこの二人は主人を信頼していたから、忠実に振る舞うことができたのではないでしょうか。 信頼していたから、例えもしその預かったお金を主人のために少し儲けて、主人が旅をしておられる間に少しでも儲けて、主人に差し上げようと思ったつもりで商売をして失敗をしても、主人はどうしたの?と聞く。聞いても、「あー、そんなつもりでやってくれたの。でも仕方なかったね。」と、あるいは、「上手くいかなかったけど、よくやってくれたね。」と、主人は言ってくれると、この二人のしもべはそういうふうに主人を見ていたから、大胆に商売をすることもできたし、結果的に忠実になることができたのではないでしょうか。 この二人のしもべは、あとのしもべと違って全然ひどい方などとは思わなかったし、恐れてもいなかったし、ただ主人のために働きたい、失敗したってべつに主人は何とも仰るわけがないんだから、できるだけのことをして差し上げようと、思ったのではないでしょうか。 ですから、イエス様がこの例え話の中でお語りになったことの一つは、主に信頼することだということを、私たちにお語りになったのではないかと思うのであります。わずかな物に忠実なしもべとは、神さまに信頼する者、イエス様に信頼する者のことではないかと思うのであります。 聖書の中から、いくつかそうした人の例を、今日は見てみたいと思います。一つは民数記13章1節であります。 民数記13:1-2
ご存知のように、長い間エジプトで奴隷として苦しんでいましたイスラエルの人たちは、モーセに率いられてエジプトの地を脱出し、カナンに向かって進んでまいりました。砂漠の旅というのは随分大変だったと思いますし、昼は焼け付くような暑さと夜は凍るような寒さが、砂漠にはあるそうであります。そこを彼らは旅をしてまいりました。今まさにこの約束の地、カナンに入ろうとするときの出来事がこの13章の1節、2節であったのであります。 イスラエル人は結果的には四十年間、砂漠をさまよったんですけど、はじめの神さまのご計画では、彼らは四十年間さまようはずではなかったのであります。たった二年間だけ、エジプトからカナンの地まで二年間かかって、六十万、男子だけでも六十万といいますから、出たときには大群ですけど、その人たちが二年間かかって、カナンの地の入口までやって来て、今からカナンへ入ろうとしたときの出来事なんです。 神さまはモーセに、「今からみんなが入って行くイスラエルの地を調べてこさせなさい。」と仰せになりました。「部族ごとに族長を遣わしなさい。」と仰せになったのであります。 だれでもいい、探りに行くのはだれでもいいのでないのであります。部族ごとの責任を一身に負ってる族長が、つまり責任のある立場にいて、当然のことですけど知恵もあり、勇気もある人たちでなければならないということでしょう。 ともかく敵の地へ、敵の地と言うか、これから入ろうとするところを探りに行くわけですから、そういう人たちを選んで行きなさいと神さまが仰せになったのであります。 民数記13:25-28
飛びまして、 民数記13:30-33
民数記14:1-4
彼らは偵察から戻ってまいりまして、「神さまが約束されたカナンの地は、乳と蜜が流れ、すばらしいくだものが実なる良い地だ。」と言ったのであります。しかしそれだけではなかったのであります。 「そこにはすごい人たちが住んでる。城壁を構えて、どうも自分たちよりも強そうだ。自分たちはとてもあの地へ入ることはできない。あんなところへ攻め込んでいったらみんな、殺されてしまう。」というふうなことを言ったのであります。悪くいいふらしたと書かれてあります。 本当に責任のある立場にいる人たちであったはずですけど、彼らは神さまの約束の言葉よりも、現実に自分が目で見た城壁だとか、町だとか、人々だとかそういうものに信頼をしてしまったのであります。 いや、信頼をしたというよりも、現実の体験に支配されてしまったのであります。そしてあまりにも自分たちの目にしたものが力強く見えたばかりに、神さまの約束に信頼し続けることができなくなったのであります。 結局神さまのご計画は、ここで狂ってしまったのであります。神さまは二年間で彼らをカナンの地へ入れようとなさったのに、彼らがこういうふうにしてしまったがために、結局イスラエル人は神さまの怒りをこうむり、四十年間にもわたる荒野の生活を余儀なくされてしまったのであります。 ですからこの出来事は、非常に重要な出来事でありました。このときカレブは、30節にありますように、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言ったのであります。 他の人がどう言おうとも、カレブは神さまのみことばに信頼するという立場を貫き通したのであります。このカレブに対して神さまは、 民数記14:24
神さまは、カレブとその子孫に大きな祝福をお与えになったんです。でも神さまがご覧になったのは、カレブの心だと書かれてあります。他の者と違った心を持っていた。 カレブが言ったことも、言ったことですけど、その言うことの前に、彼が神さまのみことばに信頼する心を持っていた、そこのところを神さまは非常に高く評価なさったのであります。 考えてみますと、このときカレブが言ったことによって、何かが変わったというようなことは全然なかったんです。またカレブが、「他の人は何と言おうと、私だけは神さまの言葉に従って攻めに行く。」と言って、その町へ行って何か大きな手柄をたてた。そんなことでもなかったんです。 ただカレブは、仲間の人たちからの、いのちの危険さえも感じながら、神さまのみことばへの信頼を貫き通した。そのことを神さまは、重く見られたのではないでしょうか。 もう一つだけ例を見てみたいと思います。 列王記第II、5:1-5
列王記第II、5:9-15
アラムの将軍でありましたけれども、らい病にかかってしまったのであります。当時らい病にかかるということは、社会から断ち切られるほどのことを意味しておりましたので、ナアマンも絶望に近かったのではないでしょうか。 そのとき、ナアマンの妻に仕えるひとりの女が、「サマリヤに行って、預言者のところに行かれたら、きっとらい病を直してもらえるでしょう。」と言ったのであります。それを聞いたナアマンは、あらゆる手はずを整えて、イスラエルへ出かけて行きました。 彼がどれだけ準備をしたかということを知ると、彼がどういう人物だったかということがよくわかります。王に頼んで、まず手紙を書いてもらって、そして銀と金と晴れ着を持って、贈り物を整えて、それだけじゃなかったんです。戦車を、9節にありますように、馬と戦車をもって、出かけて行ったんです。敵の国へ。 イスラエルとアラムは、しょっちゅう戦争をしていましたから、敵の国へ出かけて行くわけですから、かなりの覚悟をもって出かけて行ったから、馬と戦車をもって行ったのかもしれません。 しかしそれだけではなくて、ナアマンはやっぱり、非常にこの世の才にもたけた人だったんじゃないでしょうか。だから、王さまの手紙を準備し、贈り物を整え、しかもエリシャを威圧するように、馬と戦車をもって、「私は大した者だ。」ということを示しつつ、エリシャの前に立って、その気迫をもって、エリシャに何かやらせようという気持ちがあったようであります。 でもエリシャは、出ても来なかったんです。使いの者にただ一言、言わせたんです。「ヨルダン川へ行って、七たびからだを洗うように。」言いなさい。 ナアマンはそれを聞くと、怒り猛って、彼はダマスコに帰ろうとしたというのであります。でも途中で供の者が、「どうしてそんなに怒るんですか?」言わんばかりのことを聞いたとき、ナアマンはハッと気が付いたんです。 自分は神さまによって、らい病を直してもらおうと思って来たのに、やっぱりまだ自分の判断に頼ってる。神さまに頼るためには、すっかり神さまに明け渡さなければならないということをナアマンは知ったのであります。そして自分の判断を捨て、言われた通りにヨルダン川へ行って、 (テープ A面 → B面) 身を洗ったのであります。そうすると、元の通りきよくなったというのであります。 そのときナアマンは、一行の者を全部連れてエリシャのところに引き返して、「わたしは今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」と言ったのであります。 自分がダマスコに帰ったとき、供の者たちがどう言うだろうというふうなこと。そしてそれによって、自分の立場がどういうふうに悪くなるだろうというふうなことは全然考えなかったのであります。全部の者を連れて行って、彼は主なる神を証しをしたのであります。このナアマンをイエス様は愛されたのが、福音書からわかります。 でもこのナアマンの出来事を通して、決定的な働きをした一人の女性がいたのであります。彼女はイスラエル人の女性でありました。 ナアマンの妻のところで働いていましたから、ナアマンにそういうことを言ったんでしょうけど、この女性がそもそもイスラエルの神は何でもできるお方だということをナアマンに言わなかったら、この出来事は全部無かったのであります。 しかしこの女性は、どういう女性だったのでしょうか。ナアマンがイスラエルへ略奪に行ったときに、連れて来た女性だと書かれています。彼女は、親や身内の者からも切り離されて、そして生まれ育ったイスラエルの地からも切り離されて、泣く泣くダマスコに連れて来られたのではなかったのでしょうか。 そしてよりによって、その張本人の妻のところで働かせられるという生活の中で、彼女の日々がどれほど悲しみと辛さに満ちたものであったかということは、容易に想像できることであります。 その日々の辛さと悲しみの中で彼女は、主に祈ったのであります。神さまに祈ったのであります。そしてその祈りをとおして、彼女はいつも神さまからの慰めを得ていたのであります。 たとえ現実がどれほど厳しくても、本当に現実はまったくの孤独と悲しみの中にいても、神さまはともにいてくださる。神さまは祈りに応えてくださるという彼女のその確信があったからこそ、彼女はナアマンに、「イスラエルへ行けば、あなたの病気はよくなりますよ。」ということを伝えられたのではなかったでしょうか。その確信がなかったら、彼女は絶対そんなことが言えたはずがないんです。 なぜなら、ナアマンはそれほど怒りっぽい男だったからです。エリシャが出て来てくれなかったっていうだけで、彼はもう頭に血がのぼったのであります。そして怒って、病気のことよりも自分の面子に腹を立てて、国へ帰ろうとしたほどの男であります。もし病気が直らなかったら、イスラエルへ行って病気が直らなかったら、帰って来て彼がどうするかと思うことを恐れ始めたら、彼女はとってもそんなことをナアマンに言えなかった。 彼女は、悩みと苦しみを経たからこそ、神さまの恵みと確かさを確信し、またそのことを自信をも確信をもって、ナアマンに伝えることができたのであります。 結局、ナアマンを通して主は、イスラエルのみならず、アラムの国にもご栄光を表わされましたけど、その主がご栄光を表わされるために、彼女は大いに用いられたのではないでしょうか。 彼女の信仰を、本当に主はよしとし、彼女を本当に大きなご栄光の表われの器としてお用いになったのであろうと思います。 マタイの福音書の13章の31節から32節に、わずかな物のことに忠実になりうるみことばが書かれております。 マタイの福音書13:31-32
マタイの福音書17:20
この二つの例えは、からし種ほどの本当にちっぽけな信仰さえあれば、そこに空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどのものへと、神さまが大きな祝福でもって満たしてくださるということを、イエス様が仰せになったのではないでしょうか。 私たちには何もする必要がない。からし種ほどの信仰さえあったら、それは空の鳥が本当に巣をかけるほどの大きなものに、主はなしてくださるというのであります。 私たちが何かをして、からし種は大きな野菜よりも大きくなり、鳥が巣をかけるほどのものになると仰ってるのではないのであります。それがただ、畑に蒔かれさえしたら、それは大きなものになる。神さまが大きなものになしてくださるのではないでしょうか。 主に信頼しさえしていれば、本当にすべては神さまによってなしていただけるのだということであります。 その例を一つだけ見てみたいと思います。 ルカの福音書23:39-43
イエス様と一緒に十字架につけられた二人の犯罪人のうち、一人は「どうぞ、私を思い出してください。」イエス様に願ったのであります。 本当にからし種一粒ほどの小さな信仰でしたけど、イエス様は、それを、よしとなさったのであります。彼は、自分のしたことの報いを受けているのだとは言いましたけど、しかしこれは本当の悔い改めだったのでしょうか。 わからないんです。彼はイエス様の方に向かって言ったんじゃないんです。仲間の犯罪人の方に向かって、言うなれば、暗やみの方に向かって自分のしたことの報いを受けていると言いましたけど、イエス様の方に向かって、悔い改めらしい悔い改めはできなかったのであります。そして、彼が生涯で祈ったのはただ一度ではなかったでしょうか。それも考えられないほど短い祈りです。 「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」、彼が生涯で祈った祈りはただこれ一つ。 でもイエス様は、それをよしとなさった。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」というのであります。 私は本当に、ここに神さまの愛のすべてが表われていると思うのであります。そして同時に、私はもう一人の犯罪人に、今、とても気が引かれているのであります。 もう一人の犯罪人は、イエスに悪口を言い「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言ったのであります。彼に対してイエス様は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と仰せにならなかったのであります。 聖書は、これが悪口だと書いています。39節で、悪口だと書いている。だから私たちは、これが、彼がイエス様を嘲笑して、馬鹿にして言った言葉だと、わかるんですけど、悪口だともし書いてなかったらどうでしょう。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」 いかにしばしば、私たちの口から出る祈りではないでしょうか。これが悪口だと書いてるからこそ、私たちはそれが私たちとは無関係だと思いますけど、本当に自分だけのことを考えて、「あなたはキリストでしょ。神さまでしょ。どうぞ救ってください。助けてください。」、その祈りだけであったら、私たちはこの前半のもう一人の犯罪者と実は何も変わらないということを、いや自分のことなんですけど、私はそうだなと思うのであります。 そして主は、そのような者であっても、本当にこの二人の犯罪人はどちらも自分だなと思うのであります。一人になったり、もう一人になったり、一人になったり、もう一人になったり、いつも行き来してるような者であっても、主は「あなたはきょう、パラダイスにいます。」と仰せくださっているのではないでしょうか。 本当にそのイエス様の恵みを感謝したいと思うのであります。 先ほど見ましたマタイの福音書の13章の31節で、私たちは何もすることがないと言いましたけど、ただひとつ、実はすることがあるんです。 それは、からし種を取って畑に蒔くことであります。からし種は棚の上に置いて置かれたら、ひからびて、いつまでたっても大きくなることはできない。畑に蒔かれねばならないのであります。 畑に蒔くとは、どいうことなのでしょうか。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさいという、あのみことばで、すべてが尽きるのではないかと思うのであります。 本当に主を喜び、主に祈り、主に感謝するとき、現実の世界はどれほど厳しくても、でも私たちはわからないんです。所詮わからないんです。五年先のことだってわからない。いや五年前に自分が予測した自分なのかということを考えてみますと、どれほどぼくたちの予測というものが貧困なものかというのがわかる。 本当に私たちは、「これこそ確実だ!」何てしょっちゅう言いますけど、三日も経てば、「全然確実じゃなかった。」何てことがしょっちゅうです。本当にどのようなことであっても、今はわからないけど、イエス様はすべてをご存知であり、今は本当にあのイスラエルのナアマンのところへ連れられた女性のように、今は寂しく、辛く、悲しいけど、神さまは必ずそれを良きものと変えてくださり、ご栄光が現れる器として必ずそれを用いてくださると確信するとき、私たちは本当に豊かな恵みと祝福をいただくことができるのではないかと思うのであります。 本当に、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい、このみことばを大切にしたいと思うのであります。 ありがとうございました。 |