「イエスは、キリストです」と告白した人たち


古田公人兄

(高松集会、2002/05/05)

引用聖句:ローマ人への手紙10章8節-10節
8では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

「口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」こういうふうに書かれています。
イエス様が私たちの主である、キリストであると告白して救われる。この告白をした最初の人は、ペテロであったようであります。

マタイの福音書16:15-16
15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

このようにペテロは、イエス様をキリストであると告白しました。さらに、イエス様ご自身の言葉によると、ダビデがキリストを主と告白したと書かれています。

マタイの福音書22:44-45
44『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
45ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」

話しそのものは、別の流れの中でおっしゃいましたが、ダビデはキリストを主と呼んでいるとお答えになりました。

今日は、最初にダビデについて、少し学んでみたいと思います。ダビデについては、どなたもようくご存じと思います。もっとも有名な王でありましたし、ダビデを題材にした彫刻や芸術もたくさんあり、聖書の中でも、詳しく人間像が描かれている一人が、ダビデあると言えます。
心は、いつも主に結びついていたとよく言われますが、詩篇の中で、ダビデの祈りを通して、そのことを見ることができるように思います。まず最初に詩篇の57篇。

サウルから逃れ洞窟にいた時。そういうことは、まずダビデの若い時のこと。そしてダビデがたいへん苦しかった時のことです。
ユダヤの王であるサウルから追われ、ダビデは洞窟に逃げていました。その国の王から追われることは、言い換えると、その国の中には居場所がない状況です。
ダビデ自身はいろんな能力や、人柄にもすくれていましたが、ダビデはそのことがかえって災いし、サウル王から疑いを持たれ、洞窟に逃げていました。

詩篇57:7-8
7神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。
8私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。

苦しい中で、わたしのたましいよ、目を覚ませと言わざるを得なかったのです。
私は、あかつきを呼び覚ましたい。彼のいた洞窟は暗かったのですが、それだけじゃなく希望が見えなかったのです。どこにも行く場所がなく、、、。あかつきを呼び覚ましたい。
その言葉に、ダビデがどれほど追い詰められた状況の中にいたのか、示されます。だからこそダビデは、私の心は揺るぎませんと、繰り返しているのではないでしょうか。
ゆるぎそうになるからこそ、私の心はゆるぎませんと祈っているように思います。短い5−6行ですが、ダビデの心に触れる思いが致します。

もうひとつ詩篇の18篇。この18篇もダビデが苦しかったときの、でもちょっと良くなったときだったんです。
特に、サウルの手から彼を救い出された日と書かれていますから、先ほどの状況よりも、救い出された喜びの中で祈っています。でも、置かれている状況がそんなに著しく変わったわけではありませんでした。

詩篇18:1-3
指揮者のために。主のしもべダビデによる。主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った
1彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
2主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
3ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

もう、どんな言い方をしても表せない感謝が、この2節に言い表されています。わが岩、わが砦、わが救い主。
わたしは、暁を呼び覚ましたいと言った、その中からダビデが救われた喜びが、ここに溢れてています。神様だけが、そして神様こそが、どんな言葉でもっても表せない大きな恵みをくださった。ダビデの気持ちです。そして、46節・・・

詩篇18:46
46主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神。

こういうふうにダビデは、救いの中で神様に感謝の気持ちを表現しています。ダビデの状況が根本的に変わったようではなかったようであります。

詩篇59:1-4
指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデを殺そうと、サウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに
1わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。
2不法を行なう者どもから、私を救い出してください。血を流す者どもから、私を救ってください。
3今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。
4私には、咎がないのに、彼らは走り回り、身を構えているのです。どうか目をさまして、私を助けてください。どうか、見てください。

自分に咎があるわけではなく、罪があるわけではないのに、自分の罪がねらわれている。そうダビデは訴えています。
そういう状況は、よく私達が置かれている状況です。命までねらわれるということはないかもしれませんが、罪がないのに、咎がないのに、善意で心をこめて何かしているのに、反発をかい憎まれ、うとまれる。
そういう状況は、どなたも、どんな時にも、職場ででも学校ででも、家庭ででも、地域の中ででも経験するものでだと思います。生きていくということは、ある意味でとてもたいへんなことではないかと思います。

詩篇64:5-6
5彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう。」と言っています。
6彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。

もちろん、この深いというのは、深く豊かであるというのではない。深くて暗くて計り知れない。ちょうど、黒くよどんで光が差し込まない川の淵。人の心ほどわかりにくいものはない。そのことを言っているのではないかと思います。

ダビデは、皮肉にこのように祈りましたけれども、やがてそれが、自分自身のことであると、ダビデは神様から示されます。
ほかならなぬ人の心の内側は深いものです。不正をたくらみ、たくらんだ策略がうまくいっていると言っています。
ひそかに罠をかけ、誰に、見破ろうと言っています。そう批評した同じ状況を、ダビデ自身が引き起こしてしまったことを、ダビデ自身が神様から教えられるようになってしまいます。

サムエル記第II、11:2-5
2ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
3ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。
4ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。――その女は月のものの汚れをきよめていた。――それから女は自分の家へ帰った。
5女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」

サムエル記第II、11:14-15
14朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。
15その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

このことが起こりました時は、もうユダヤの王になっていました。ですから、だいたいのことはダビデの思いのままになる。それで、屋上から見つけた女性をどうしても手に入れたくなりました。
ヨアブ=最高司令官に、その女性の夫、ウリヤを戦争の中で殺させようとしました。それだけじゃなかったのです。よりによって、その策略を書いた手紙を、本人のウリヤに持たせて帰らせたという所に、身も凍る思いがします。

たぶん私は、今からお前を殺そうとしている思いを一切表に出さずに、ダビデはウリヤにこの手紙を持たせたと思います。
がんばって来いよとか、生きて帰って来いよとか言ったのでしょうか。でもその中にあった手紙には、この男を戦争の中で殺してしまえ。そして、その命令を受けたヨアブはその通りに致しました。

サムエル記第II、11:26-27
26ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。
27喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を生んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。

王として、ダビデは、いつのまにか本当に心が高ぶっておりました。でも、ダビデがやったことは、ヨアブと自分と少数の者しか知らないと、ダビデは思っていました。そう思います。でも、そのことをつぶさにご存じであった方、それは神様でした。

サムエル記第II、12:9-10
9それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。
10今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』

神様は、預言者ナタンを遣わして、ダビデにこう話すように命じられました。あなたがウリヤを殺したのだ。神様は、そうはっきりおっしゃったのです。
それだけじゃなかったのです。あなたがウリヤにしたことは、私にしたことだ。神様は、そうおっしゃったのです。

あなたが私をさげすみ、私の目の前に悪を行った。神様の痛みがそこにこの上もなく現されています。
ウリヤの死は、神様にとっての痛みであった。同時に、ウリヤの死は、ダビデの策略を越えて、ダビデ自身の剣によって、彼は殺されたのだと仰せになっています。
もちろん、ちょっとした過ちではありませんでした。ダビデは知恵を尽くして計略を練り、それをしたため、ウリヤに持って行かせるという本当に手の込んだ、そういう意味では全く言い訳の立たない過ちをダビデは起こしてしまいました。

人の心の内側は深いものです。そう言ったダビデが、自分の心の内側にそう見いださざるを得なかったのです。

もうひとりペテロについて、見てみましょう...

マタイの福音書、26:31-35
31そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
32しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
33すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
34イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
35ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った

マタイの福音書、26:73-75
73しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
74すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
75そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

ここには、本当に愚かで弱い人間の姿がそのままに記されています。
お人好しというのか、根が善良というのかわかりませんけれども、できもしないことを平気で口にしています。でも彼は、その時は、そのことができると思っていたのだと思います。私は、そつもりでいるときっと決意したのだと思います。
でも現実に直面した時、ペテロの決意など、風に舞う木の葉のように散ってしまいました。

最初に、お読みいただきましたあのローマ人への手紙の10章10節には、

ローマ人への手紙10:10
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

と書かれています。その告白を、あるいは心に信じていたダビデといい、ペテロといい、いとも簡単になんていうのでしょう、その心はみじめなものに変えられてしまいました。
私達は、この人は心で信じて義と認められ、口で告白して義と認められると言う聖書のこの言葉をどのように考えたら良いのかなと、こうした人々の歩みを見ると考えてしまいます。

でも、もちろん大切なことは、人間の姿がどうであろうと、みことばこそが真実であるということです。だからこそペテロは、後で、自分の姿をふりかえって、憐れみ以外のなにものでもなかったと告白せざるを得なかったのではないかと思います。

ペテロの手紙第I、2:10
10あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

これはペテロの手紙ですから、「あなたがたは」と書いていますが、もしろん「私は」ということだと思います。
ペテロは、あわれみ以外のなにものでもなかった。そのような者が救いを受けたのは、あわれみ以外のなにものでもなかったと告白しています。そのペテロの告白を、この手紙から見てみます。

ペテロの手紙第I、1:18-19
18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

贖い出された、買い取られた、このことがどういうことなのか。
ときどきスーパーに行くと、大きくてきれいなくだものが並んでいます。でも、高いのです。生産者には、安いという気持ちがあるのかもしれませんが。

私の駅の改札口の真ん前に、八百屋のお店があるのです。そこのお店に並んでいるものは、スーパーマーケットと違って、だいたい広島のはっさくが、小さいのが、7個くらいで、250円なんです。
僕は、はっさくが大好きなので、何回かそのはっさくを買って帰りました。小さくてもはっさくはおいしいです。夏みかんと違って、はっさくは当たりはずれがない。僕は、それは、小さいのが安いから買うのです。

でも、イエス様はそうじゃないんです。イエス様の目から見れば、大きくても小さくても、やっぱりひとつの花が咲いてできた実で、同じだけの時間をかけて育った実だ。その実が、ひとつひとつ、私には同じ価値があるんだと、イエス様は仰せになるんだろうと思います。
その実が小さいのは、実のせいではない。その木にいくつか実がついていたか、あるいは木が歳をとって大きな実をつけることができなかったか。いずれにしても、それは、実のせいではない。私にとって、それは、ひとつは、ひとつだと、イエス様は仰せになる。

人間は、大きいとか小さいとかにすぐに目をとめて、目を留めるというか、それをうまく利用して金儲けしようと考えますから、大きいのが価値があるとなっていくんだと思います。
でも人間だって、お赤飯を炊くときに、豆の大きい小さいを見分ける人はいない。私達は、自分の思いで差別をつけてすぐに、見かけがよいとか、悪いとか、すぐに人間の価値まで判断します。
でもイエス様は、そんなこととは無関係に、一人一人を愛してくださったのではないでしょうか。みんな、母の胎内にいるときから、私の息があなたにかかっている。私が組み立てたのだ。一人一人同じようにいとおしいと、イエス様はおっしゃってくださいます。

ペテロの手紙第I、2:22-24
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

全部、自分のことを言っているのだと思います。本当に、イエス様を知らないと三度も言い、どこまでも着いていくと言いながら、肝心の時に、逃げ出してしまった。そのペテロは本当に、イエス様が十字架でなくなられた後しばらくは、顔をあげて歩くことができなかったのかなと思います。
事実、ユダヤ人を恐れて、戸を閉めてあったと書かれていますから、本当に打ちひしがれていたと思うのですが、復活の主に出会って、あなたとために私は死んだということを、イエス様から知らせて頂いたときに、ペテロはすっかり変わりました。
あなたの罪は、十字架の上で、わたしが背負った。あなたはもう、義のために生きる者になったと、主は言ってくださっているのではないでしょうか。。。

(テープ A面 → B面)

そして、弱い人たちのために共に祈り、必要なみことばを必要な所へ携えていくことができる者へと、変えられたのではないかなと思います。
ダビデは、どうだったのでしょうか。詩篇の51篇に、神様のみことばを受けたあとの、ダビデの告白が書かれています。序文に、

詩篇51:1-3,14
指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
1神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
2どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
3まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
14神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。・・・

なしてしまった罪の大きさは、はかり知ることができない程大きなものでしたけど、ダビデは正直に、血の罪と、そしてあなたに罪を犯したのですと悔い改めたとき、神様の赦しをダビデは頂きました。

列王記第I、9:4
4あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、

ダビデの子ソロモンに、神様はダビデについて、このようにおっしゃっています。ダビデが死んだ後です。
ダビデは、私の前を全き心と正しさをもって歩んだと、言ってくださっているのです。あの出来事を知る者には、どうして?と思うかもしれないみことばなのです。そこに神様の愛があるのではないでしょうか。

あのダビデだけど、私は、全き心と正しさを持って歩んだ者として歩むんだと、神様が宣言してくださっているのです。
あの古田公人だけど、でも、私はもう彼のために十字架にかかったんだから、あの男でさえ、私は、私のものとして扱うと、主が語っているのだと言うことを私達は、知らされます。
どこまで行っても、本当に、今までに「イエス様を信じています。」と何度も言いましたけど、その3倍も、いや、10倍も20倍も悲しませてきた者でしかありません。
本当に、これからだって、何をするかわからない者でしかありません。でも、そういう者として、私はあなたを扱うとおっしゃってくださる。その愛の深さを思う者であります。


ペテロの手紙第I、3:21
21そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

信仰はと言っても良いと思うのです。信仰は肉体の汚れを取り除くものではない。良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものだと書かれています。本当に、その通りだと思います。
でも、そのような者も、本当に罪から解放されて、まさに洞窟の中から外に連れ出された喜びを持って、1日1日を過ごしていくことができる。そこに、これ以上ない、恵みを思うものであります。
でも、いや、だからこそペテロは、あなたは「赦された者」として、意識して歩みなさいと語ります。

ペテロの手紙第I、4:2
2こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。

神様の御心を第一にしてるものとなりなさいと、言っているのではないでしょうか。もちろん、自分の力でなれるものではありませんが、聖霊に導かれることによって、絶えず祈り、本当に感謝し、そのなかなから、私達は御霊に導かれて、神の御心のために生きる者に変えられるではないかなと思います。
「もう、救われたから良いんじゃない?」と、聖書は絶対に言ってないのです。

ローマ人の手紙からヨハネの黙示録まで、どこを開いても、とてもできない勧めがたくさん書かれています。まじめに、どれひとつできません。
「でも、あなたがするんじゃない。あなたは、もう生まれ変わったんだから、あなたのうちにある私がするんだ。でも、あなたがそのことを望まなければ、わたしは何事もできない。」と、イエス様は仰せになっています。

ガラテヤ人の手紙、2:20-21
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

どうも、ありがとうございました。




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