引用聖句:ローマ人への手紙10章8節-10節
「口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」こういうふうに書かれています。 イエス様が私たちの主である、キリストであると告白して救われる。この告白をした最初の人は、ペテロであったようであります。 マタイの福音書16:15-16
このようにペテロは、イエス様をキリストであると告白しました。さらに、イエス様ご自身の言葉によると、ダビデがキリストを主と告白したと書かれています。 マタイの福音書22:44-45
話しそのものは、別の流れの中でおっしゃいましたが、ダビデはキリストを主と呼んでいるとお答えになりました。 今日は、最初にダビデについて、少し学んでみたいと思います。ダビデについては、どなたもようくご存じと思います。もっとも有名な王でありましたし、ダビデを題材にした彫刻や芸術もたくさんあり、聖書の中でも、詳しく人間像が描かれている一人が、ダビデあると言えます。 心は、いつも主に結びついていたとよく言われますが、詩篇の中で、ダビデの祈りを通して、そのことを見ることができるように思います。まず最初に詩篇の57篇。 サウルから逃れ洞窟にいた時。そういうことは、まずダビデの若い時のこと。そしてダビデがたいへん苦しかった時のことです。 ユダヤの王であるサウルから追われ、ダビデは洞窟に逃げていました。その国の王から追われることは、言い換えると、その国の中には居場所がない状況です。 ダビデ自身はいろんな能力や、人柄にもすくれていましたが、ダビデはそのことがかえって災いし、サウル王から疑いを持たれ、洞窟に逃げていました。 詩篇57:7-8
苦しい中で、わたしのたましいよ、目を覚ませと言わざるを得なかったのです。 私は、あかつきを呼び覚ましたい。彼のいた洞窟は暗かったのですが、それだけじゃなく希望が見えなかったのです。どこにも行く場所がなく、、、。あかつきを呼び覚ましたい。 その言葉に、ダビデがどれほど追い詰められた状況の中にいたのか、示されます。だからこそダビデは、私の心は揺るぎませんと、繰り返しているのではないでしょうか。 ゆるぎそうになるからこそ、私の心はゆるぎませんと祈っているように思います。短い5−6行ですが、ダビデの心に触れる思いが致します。 もうひとつ詩篇の18篇。この18篇もダビデが苦しかったときの、でもちょっと良くなったときだったんです。 特に、サウルの手から彼を救い出された日と書かれていますから、先ほどの状況よりも、救い出された喜びの中で祈っています。でも、置かれている状況がそんなに著しく変わったわけではありませんでした。 詩篇18:1-3
もう、どんな言い方をしても表せない感謝が、この2節に言い表されています。わが岩、わが砦、わが救い主。 わたしは、暁を呼び覚ましたいと言った、その中からダビデが救われた喜びが、ここに溢れてています。神様だけが、そして神様こそが、どんな言葉でもっても表せない大きな恵みをくださった。ダビデの気持ちです。そして、46節・・・ 詩篇18:46
こういうふうにダビデは、救いの中で神様に感謝の気持ちを表現しています。ダビデの状況が根本的に変わったようではなかったようであります。 詩篇59:1-4
自分に咎があるわけではなく、罪があるわけではないのに、自分の罪がねらわれている。そうダビデは訴えています。 そういう状況は、よく私達が置かれている状況です。命までねらわれるということはないかもしれませんが、罪がないのに、咎がないのに、善意で心をこめて何かしているのに、反発をかい憎まれ、うとまれる。 そういう状況は、どなたも、どんな時にも、職場ででも学校ででも、家庭ででも、地域の中ででも経験するものでだと思います。生きていくということは、ある意味でとてもたいへんなことではないかと思います。 詩篇64:5-6
もちろん、この深いというのは、深く豊かであるというのではない。深くて暗くて計り知れない。ちょうど、黒くよどんで光が差し込まない川の淵。人の心ほどわかりにくいものはない。そのことを言っているのではないかと思います。 ダビデは、皮肉にこのように祈りましたけれども、やがてそれが、自分自身のことであると、ダビデは神様から示されます。 ほかならなぬ人の心の内側は深いものです。不正をたくらみ、たくらんだ策略がうまくいっていると言っています。 ひそかに罠をかけ、誰に、見破ろうと言っています。そう批評した同じ状況を、ダビデ自身が引き起こしてしまったことを、ダビデ自身が神様から教えられるようになってしまいます。 サムエル記第II、11:2-5
サムエル記第II、11:14-15
このことが起こりました時は、もうユダヤの王になっていました。ですから、だいたいのことはダビデの思いのままになる。それで、屋上から見つけた女性をどうしても手に入れたくなりました。 ヨアブ=最高司令官に、その女性の夫、ウリヤを戦争の中で殺させようとしました。それだけじゃなかったのです。よりによって、その策略を書いた手紙を、本人のウリヤに持たせて帰らせたという所に、身も凍る思いがします。 たぶん私は、今からお前を殺そうとしている思いを一切表に出さずに、ダビデはウリヤにこの手紙を持たせたと思います。 がんばって来いよとか、生きて帰って来いよとか言ったのでしょうか。でもその中にあった手紙には、この男を戦争の中で殺してしまえ。そして、その命令を受けたヨアブはその通りに致しました。 サムエル記第II、11:26-27
王として、ダビデは、いつのまにか本当に心が高ぶっておりました。でも、ダビデがやったことは、ヨアブと自分と少数の者しか知らないと、ダビデは思っていました。そう思います。でも、そのことをつぶさにご存じであった方、それは神様でした。 サムエル記第II、12:9-10
神様は、預言者ナタンを遣わして、ダビデにこう話すように命じられました。あなたがウリヤを殺したのだ。神様は、そうはっきりおっしゃったのです。 それだけじゃなかったのです。あなたがウリヤにしたことは、私にしたことだ。神様は、そうおっしゃったのです。 あなたが私をさげすみ、私の目の前に悪を行った。神様の痛みがそこにこの上もなく現されています。 ウリヤの死は、神様にとっての痛みであった。同時に、ウリヤの死は、ダビデの策略を越えて、ダビデ自身の剣によって、彼は殺されたのだと仰せになっています。 もちろん、ちょっとした過ちではありませんでした。ダビデは知恵を尽くして計略を練り、それをしたため、ウリヤに持って行かせるという本当に手の込んだ、そういう意味では全く言い訳の立たない過ちをダビデは起こしてしまいました。 人の心の内側は深いものです。そう言ったダビデが、自分の心の内側にそう見いださざるを得なかったのです。 もうひとりペテロについて、見てみましょう... マタイの福音書、26:31-35
マタイの福音書、26:73-75
ここには、本当に愚かで弱い人間の姿がそのままに記されています。 お人好しというのか、根が善良というのかわかりませんけれども、できもしないことを平気で口にしています。でも彼は、その時は、そのことができると思っていたのだと思います。私は、そつもりでいるときっと決意したのだと思います。 でも現実に直面した時、ペテロの決意など、風に舞う木の葉のように散ってしまいました。 最初に、お読みいただきましたあのローマ人への手紙の10章10節には、 ローマ人への手紙10:10
と書かれています。その告白を、あるいは心に信じていたダビデといい、ペテロといい、いとも簡単になんていうのでしょう、その心はみじめなものに変えられてしまいました。 私達は、この人は心で信じて義と認められ、口で告白して義と認められると言う聖書のこの言葉をどのように考えたら良いのかなと、こうした人々の歩みを見ると考えてしまいます。 でも、もちろん大切なことは、人間の姿がどうであろうと、みことばこそが真実であるということです。だからこそペテロは、後で、自分の姿をふりかえって、憐れみ以外のなにものでもなかったと告白せざるを得なかったのではないかと思います。 ペテロの手紙第I、2:10
これはペテロの手紙ですから、「あなたがたは」と書いていますが、もしろん「私は」ということだと思います。 ペテロは、あわれみ以外のなにものでもなかった。そのような者が救いを受けたのは、あわれみ以外のなにものでもなかったと告白しています。そのペテロの告白を、この手紙から見てみます。 ペテロの手紙第I、1:18-19
贖い出された、買い取られた、このことがどういうことなのか。 ときどきスーパーに行くと、大きくてきれいなくだものが並んでいます。でも、高いのです。生産者には、安いという気持ちがあるのかもしれませんが。 私の駅の改札口の真ん前に、八百屋のお店があるのです。そこのお店に並んでいるものは、スーパーマーケットと違って、だいたい広島のはっさくが、小さいのが、7個くらいで、250円なんです。 僕は、はっさくが大好きなので、何回かそのはっさくを買って帰りました。小さくてもはっさくはおいしいです。夏みかんと違って、はっさくは当たりはずれがない。僕は、それは、小さいのが安いから買うのです。 でも、イエス様はそうじゃないんです。イエス様の目から見れば、大きくても小さくても、やっぱりひとつの花が咲いてできた実で、同じだけの時間をかけて育った実だ。その実が、ひとつひとつ、私には同じ価値があるんだと、イエス様は仰せになるんだろうと思います。 その実が小さいのは、実のせいではない。その木にいくつか実がついていたか、あるいは木が歳をとって大きな実をつけることができなかったか。いずれにしても、それは、実のせいではない。私にとって、それは、ひとつは、ひとつだと、イエス様は仰せになる。 人間は、大きいとか小さいとかにすぐに目をとめて、目を留めるというか、それをうまく利用して金儲けしようと考えますから、大きいのが価値があるとなっていくんだと思います。 でも人間だって、お赤飯を炊くときに、豆の大きい小さいを見分ける人はいない。私達は、自分の思いで差別をつけてすぐに、見かけがよいとか、悪いとか、すぐに人間の価値まで判断します。 でもイエス様は、そんなこととは無関係に、一人一人を愛してくださったのではないでしょうか。みんな、母の胎内にいるときから、私の息があなたにかかっている。私が組み立てたのだ。一人一人同じようにいとおしいと、イエス様はおっしゃってくださいます。 ペテロの手紙第I、2:22-24
全部、自分のことを言っているのだと思います。本当に、イエス様を知らないと三度も言い、どこまでも着いていくと言いながら、肝心の時に、逃げ出してしまった。そのペテロは本当に、イエス様が十字架でなくなられた後しばらくは、顔をあげて歩くことができなかったのかなと思います。 事実、ユダヤ人を恐れて、戸を閉めてあったと書かれていますから、本当に打ちひしがれていたと思うのですが、復活の主に出会って、あなたとために私は死んだということを、イエス様から知らせて頂いたときに、ペテロはすっかり変わりました。 あなたの罪は、十字架の上で、わたしが背負った。あなたはもう、義のために生きる者になったと、主は言ってくださっているのではないでしょうか。。。 (テープ A面 → B面) そして、弱い人たちのために共に祈り、必要なみことばを必要な所へ携えていくことができる者へと、変えられたのではないかなと思います。 ダビデは、どうだったのでしょうか。詩篇の51篇に、神様のみことばを受けたあとの、ダビデの告白が書かれています。序文に、 詩篇51:1-3,14
なしてしまった罪の大きさは、はかり知ることができない程大きなものでしたけど、ダビデは正直に、血の罪と、そしてあなたに罪を犯したのですと悔い改めたとき、神様の赦しをダビデは頂きました。 列王記第I、9:4
ダビデの子ソロモンに、神様はダビデについて、このようにおっしゃっています。ダビデが死んだ後です。 ダビデは、私の前を全き心と正しさをもって歩んだと、言ってくださっているのです。あの出来事を知る者には、どうして?と思うかもしれないみことばなのです。そこに神様の愛があるのではないでしょうか。 あのダビデだけど、私は、全き心と正しさを持って歩んだ者として歩むんだと、神様が宣言してくださっているのです。 あの古田公人だけど、でも、私はもう彼のために十字架にかかったんだから、あの男でさえ、私は、私のものとして扱うと、主が語っているのだと言うことを私達は、知らされます。 どこまで行っても、本当に、今までに「イエス様を信じています。」と何度も言いましたけど、その3倍も、いや、10倍も20倍も悲しませてきた者でしかありません。 本当に、これからだって、何をするかわからない者でしかありません。でも、そういう者として、私はあなたを扱うとおっしゃってくださる。その愛の深さを思う者であります。 ペテロの手紙第I、3:21
信仰はと言っても良いと思うのです。信仰は肉体の汚れを取り除くものではない。良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものだと書かれています。本当に、その通りだと思います。 でも、そのような者も、本当に罪から解放されて、まさに洞窟の中から外に連れ出された喜びを持って、1日1日を過ごしていくことができる。そこに、これ以上ない、恵みを思うものであります。 でも、いや、だからこそペテロは、あなたは「赦された者」として、意識して歩みなさいと語ります。 ペテロの手紙第I、4:2
神様の御心を第一にしてるものとなりなさいと、言っているのではないでしょうか。もちろん、自分の力でなれるものではありませんが、聖霊に導かれることによって、絶えず祈り、本当に感謝し、そのなかなから、私達は御霊に導かれて、神の御心のために生きる者に変えられるではないかなと思います。 「もう、救われたから良いんじゃない?」と、聖書は絶対に言ってないのです。 ローマ人の手紙からヨハネの黙示録まで、どこを開いても、とてもできない勧めがたくさん書かれています。まじめに、どれひとつできません。 「でも、あなたがするんじゃない。あなたは、もう生まれ変わったんだから、あなたのうちにある私がするんだ。でも、あなたがそのことを望まなければ、わたしは何事もできない。」と、イエス様は仰せになっています。 ガラテヤ人の手紙、2:20-21
どうも、ありがとうございました。 |