引用聖句:使徒の働き2章32-33節
エペソ人への手紙1:22-23
今、兄弟が、私たちは神の神殿ですというふうにお話しになりました。しかしそれは、私たちがひとりでいて、ということではないのです。 今お読みいただきました使徒の働きの2章のところにありますように、 使徒の働き2:32-33
教会の誕生の出来事のときのペテロの説教でした。 復活なさったイエス様から、父なる神から与えられた聖霊が注がれて教会が誕生した。そのことによってイエス様を信じる者に御霊が分かち与えられてくる。 神の神殿としてひとりひとりが新しいいのちを受けて歩み始める。そういうふうに聖書は語られています。 教会とはこの聖霊、このとき与えられた聖霊にあずかる救われた者の集いであります。 救われた者の歩みがそれまでの歩みとは全く違う新しいものになるようにとイエス様があわれみをもって与えてくださったものであるとわかります。 ですからエペソ人への手紙の1章では、教会はキリストのからだだと記されています。教会なくして私たちの信仰は、健全なものとはなり得ない。そのことが知らせられてまいります。 私たちが、復活に対する力強い生き生きとした信仰をもつ限りにおいて、教会はまた生き生きとした教会としてあることができるのだと私たちは知らせられてまいります。 エペソ人への手紙4:16
私たちの信仰は、教会という形をとって成長するものだと記されています。 ひとりひとりがイエス様を信じてそれで完了するものではない。成長していくために、新しく、罪からすっかり解放されて新しいいのちにあずかるものとして生まれ出したものが成長していくためのものとして教会がある。それはキリストの満ち満ちたさまにまで成長することが許されている。 その喜びの集団であると言ってもいいのではないかと思います。 生きている教会は、ですからキリストのからだなる教会として成長する教会だ。ここに生きている教会の特徴が表われています。 それに対して、死んだ教会があると、残念ですけれど聖書は記しています。ヨハネの黙示録です。 ヨハネの黙示録3:1
成長が止まったと言ってもいいのではないでしょうか。生き生きとしたイエス様の御霊は、閉じ込められてしまっていると言ってもいいのではないかと思います。 ヨハネの黙示録は、戸の外に追い出したと書いてあります。そういう状況の教会がサルデスにある教会でした。ですけれども、サルデスにある教会よりも、はるかに深刻な状態にあった教会がございました。 それがベルガモにある教会でございます。 ヨハネの黙示録2:12-16
サタンの神殿が、サタンの王座があると記されています。 もう一般的には、このベルガモの教会のサタンの王座とは、異教の神殿を表わしていることは明らかでありますけれど、しかし、異教の神殿はベルガモだけではなかったのです。 例えばエペソ。エペソはアルミテスの女神の神殿がありました。使徒の働きの中に記されているとおりであります。どこの都市にもきっと異教の神殿はあったのではないかと思います。 私たちの住む国を見ても、各地に集会はありますけれど、どこの集会のあるところにも偶像の神々の神殿はございます。 ですから、特にベルガモにおいて、あなたの住むところにはサタンの王座があるということが言われていることは、単にその都市にサタンの王座があるということではなくて、むしろ、ベルガモの教会に集う人々の生活の場にサタンの王座があるのだということを意味していると受け取るべきではないでしょうか。 ヨハネの黙示録2:13
六月の末から七月の初めにかけて、しばらく中国に行ってまいりました。大きな宮殿を見てまいりましたけれど、その宮殿の中には、王座はたった一つしかありませんでした。当然だと思います。それと同じことが、このサルデスの教会にも、ベルガモの教会にも起こっていたのではないでしょうか。 そのベルガモの教会にサタンの王座があるとすれば、当然のこととして、私たちの主イエス様の居場所は無かったということを意味しています。 王座があるところには、そこに座るべき方はただ一人しかおいでになりません。サタンの王座があれば、ヨハネの黙示録の3章の20節にありますように、 ヨハネの黙示録3:20
とお語りになったように、イエス様は戸の外に追い出された形でおいでになった。これがベルガモの教会であったとわかってまいります。 イエス様を追い出して、サタンを王座に迎え入れたこのベルガモの教会は、では、どういう状態にあったのでしょうか。大きく分けて、そこには三つのグループが形成されていたと聖書は記しています。 一つは、バラムの教えを奉じる人たち。もう一つは、ニコライ派の人々。そして三つ目が、どちらにも属さない人々であったと言っていいと思います。 バラムの教えとは、旧約聖書の中にもありますけれど、要するに、仲良しグループであります。ともにこの世的な、肉的なことを喜び合いながら、いつの間にかイエス様から目をそらしていくグループの、バラムの教えのグループであります。 そしてニコライ派の人々については、よくわからないのですけれど、同じ2章の6節で、 ヨハネの黙示録2:6
とイエス様が仰っていますから、イエス様から憎まれる集まりであった。たぶん、想像ですけれど、バラムの教えとは全く逆の、エリート意識芬々たる人々の集まりであったのではないかな、とぼく自身は想像いたします。 本来、キリストのからだであるべき教会が三つに分かれていました。ぼくはこのベルガモの人たちが、教会の人たちが、むしろ信徒でなかったほうが幸せなのではないかなぁと思うような状態であったと思います。 もし彼らが信徒でなければ、最後の永遠の滅びまで彼らは自由でした。ですけど、信徒であったばかりに、イエス様はこの教会に対してだけ、両刃の剣を持って臨まれなければならなかったと記されています。 死んでいる、と言われたサルデスの教会でさえ、神の七つの御霊、および七つの星を持つ方としてイエス様は現われておいでになりましたけれど、このベルガモの教会に対しては、鋭い両刃の剣を持って現われざるを得なかったということであります。 サタンの王座を置き、その中で幾つものグループに分かれている教会に対して、イエス様はそういう態度を取らざるを得なかったということではないでしょうか。 教会そのものが最初に読んでいただきましたように、イエス様のよみがえりをとおして、主なる神からお受けになった聖霊をイエス様が天からお与えになったと記されています。 教会のためにイエス様は尊い血を流して、十字架に架かってくださいました。その復活と昇天を経て初めて、教会が与えられた。それはイエス様の痛みなくして、与えられた教会ではなかったということでございます。 血をもって買い取られた神の教会だ、と聖書は、だから書き記されてございます。 ヨハネの福音書15:3
わたしにとどまっていなさい。それがイエス様の切なる、私たちに対する希望であり、あわれみであり、また、恵みのみことばであったのではなかったのでしょうか。 そうであったのに、イエス様の十字架の血によって罪が赦され、イエス様の復活によって新しいいのちを与えられ、それまでとは全く違う歩みを始めるべきであった、このベルガモの信徒たちがよりによってサタンの王座を教会の中に導き入れ、三つのグループに分かれてそれぞれに信仰生活だ、と思って過ごしている、その状態こそは、あの死んでいると言われるサルデスの教会よりもはるかにみじめな状況にあったということは、いうまでもないことではないかと思います。 しかしイエス様は、そのような教会であっても、ご自身、鋭い両刃の剣を持って臨まざるを得ない教会であってもなお、悔い改めを、悔い改めの恵みを与えようとしてくださっています。 ヨハネの黙示録3:19
もちろん、このベルガモの教会には目に見えぬような形でサタンの王座があったわけではありませんでした。いったい、どういうものであったのでしょうか。 コロサイ人への手紙の3章の5節から11節が、それに対する答えを与えてくれているのではないかと思います。 コロサイ人への手紙3:5-11
いうまでもなく、ベルガモの教会とは全く違う、生きて成長している教会の姿がここに描かれています。 新しい人を着た者として、造り主のかたちに似せられてますます新しくされていくようにと、このコロサイ人への手紙に勧められている教会の姿は記されています。そしてその教会は、キリストはすべてであると記されています。3章の11節です。 キリストがすべてである。これこそ、イエス様が血をもって贖い取られた教会の姿であるのではなかったのでしょうか。 エペソ人への手紙は、このキリストのからだなる教会を形作る信徒に対する勧めが示されています。 そして、このエペソ人への手紙を読むときに、私たちはひとりひとりが、先ほどもお読みしました4章の16節にありますように、 エペソ人への手紙4:16
という、その教会のあるべき姿をそこに見ることができますけれど、そのための勧めが、信徒に対する勧めが、エペソ人への手紙の中にはあわれみとして豊かに記されています。 御霊の一致を熱心に保ちなさい。これこそイエス様の切なる希望であったと思います。そして5章にまいりますと、5章の22節ですけれど、突然、妻たちよ、と呼びかけておられます。 いつでもそうなのですけれど、私はここでお話をさせていただいているとき、何かを教えようという、そういうつもりで語っているわけではありません。 ぼく自身がイエス様から示されたことをお話ししているにすぎません。今日は特に、そのことをお断りして続けてお話をさせていただきたいと思います。ぼく自身が言われていることであるということでございます。 エペソ人への手紙5:22-23
エペソ人への手紙5:25-27
御霊の一致を熱心に保ちなさいという4章の3節から始まって、新しい人は、どのように再臨の日までを、私たちはキリストと、キリストに似た者に変えられるために生きていくのかという勧めがなされています。 多くは、私たちひとりひとりがいかにあるべきかという、そういう勧めがなされていきますが、突然この5章のところで、「妻たちよ。」、「夫たちよ。」という呼びかけが入ってまいります。 いったいこれは何を意味するのかと考えるとき、妻と夫こそ、一番小さな教会の単位だということを意味しているのではないでしょうか。 イエス様に罪赦されて、イエス様の復活とともに新しいいのちに生きる者が、キリストのからだなる教会を形成するのだとしたら、その一番小さな単位は、夫と妻であるということは、明らかでございます。 そしてイエス様は、その一番小さな単位から、御霊の一致を保つようにと望んでおいでになるのではないでしょうか。 この一番小さな単位の教会が、知識ではあるのではなくて、本当の意味で新しい人として育っていくためのあわれみとして、この、「妻たちよ。」、「夫たちよ。」という呼びかけが与えられていることは、疑うことの出来ないことだろうと思います。 もし、この一番小さい夫と妻の二人からなる、キリストのからだなる教会の中に分裂があれば、そういう家族が集まって来る集会が一致のないものであることは、当然のことではないでしょうか。 妻は夫に従い、夫が妻を愛し、その一番小さな単位で御霊の一致が完全に実現するとき、その妻たちや夫たちや、そしてそのほかの多くの兄弟たち、姉妹たちが集まって来る教会が、集会が、成長を遂げて、キリストに似た者と変えられていく。 完全に大人になってキリストの満ち満ちた身丈にまで成長することができるのではないでしょうか。 そのために、ここで、「家庭」というものが取り上げられているのだろうと考えます。 「妻たちよ。」、「夫たちよ。」、「奴隷たちよ。」、「子どもたちよ。」と、この時代の家族、家庭というものは、その範囲まで及んでいたと聞いたことがありますけれども、まず家庭からキリストのからだなる教会が実現されていかない限り、本当のキリストのからだなる教会は、偽りのものでしかないのだとイエス様は私たちにお語りになっているのではないかと思います。 いかがでしょうか。おひとり、おひとり、夫に従っておいでになるでしょうか。妻を愛しておいでになるでしょうか。イエス様は、この22節と25節の勧めのあとで、教会のことをお語りになっています。 エペソ人への手紙5:23
26節で、キリストがそうされたのは、教会をきよめて、家庭というものが教会の一番小さな単位だということをはっきりと意味しています。 私たちは、私たちを愛して、私たちのためにいのちをお捨てになったお方、私たちの心の奥の奥までご存知であって、このお方には嘘もはったりも何にも効かないお方であるということを熟知した上で、なお、イエス様の前で、「『私は夫に従おう。』と日々思っています。」と、答えられますでしょうか。 あるいは、「『妻を愛したい。』と日々、そういう気持ちで一日を送っている。」と答えられるのでしょうか。それが無ければ、集会の中に一致が無いのは当然ではないでしょうか。 そのことを私はイエス様から示されております。肉の思いに、なお、しがみつく者は、なかなかそのようには暮らすことは出来ませんけれど、しかし、祈ることは出来ます。 そうありたい。そういうふうに、イエス様の御足のあとを従う者でありたい。と私たちは祈ることは出来る。日々、悔い改めとともに祈ることは出来る。 生き生きとしたイエス様のいのちを受けた者として、そこから歩みが始まるのだと思わされてなりません。 イエス様は、私たちの罪を赦すために十字架の上で血を流してくださいました。でも、それで終わりだとは仰せになりませんでした。 イエス様の復活とともに、私たちも新しいいのちにあって歩む者とされた。新しい人を着る者とされた。全ては新しくなったと、そのためにイエス様は復活してくださいました。 新しくされた者が、一番小さな教会の単位において、家庭においてなお、救いを受けるままのままであってはならないと思わされます。 イエス様の十字架の死とよみがえりが無駄にならないために、私たちは、日々、祈り、また、従うべきことがあるのだと思わされています。 どうもありがとうございました。 |