引用聖句:創世記12章1節-2節
「私が示す。私が示すから、その私が示すとおりに歩みなさい。」とアブラハムに語りました。 私達信仰を持ちたいと思う人にとって、アブラハムの歩みは、一つの雛型として神様が備えてくださいましたけど、その歩みは、「私の示すその方向に向かって歩み続けなさい。」という呼びかけでありました。 「そうすれば、わたしはあなたを祝福する、喜びと希望でもってあなたを満たそう、だから私が示すその導きに従って歩みなさい。」と呼びかけて下さっています。 「私達自身では、いのちにいたる門は小さく、その道は狭く、見いだすことは難しいのですけれども、ただみことばに従って歩むとき、私達は主が導いて下さいますから、その道を見いだし、歩くことができる。」とお語りくださいました。 そればかりか、「祝福を与えよう、溢れるばかりに絶えざる喜びを心の底から湧き出るようにしよう。」、イエス様はそういうふうに約束してくださっています。 マタイの福音書11章28節で、「その私が示す地とは、実はわたしのところなのだ。」とお語りになりました。 マタイの福音書11:28
生きていく中で、ほんとうに、3才や4さのときには何一つわからなかったけれど、すべてのことに疲れ、重荷を感じる、そういう霊の芯が、私達の生まれたときの姿に対して、イエス様は「私のところに来なさい、さあ、私のところにあなたはいるべきです。そうすれば、わたしはあなたを休ませてあげます。どんな疲れでも、どんな重荷でも、わたしのところでは耐えられないものとはならないのです。」と、主はお語りくださっています。 いのちの門は、いのちにいたる道は、イエス様のところだと、私達ははっきりと知ることができるのではないでしょうか。 イエス様を離れてはいのちの道は見いだすことが難しく、いや見いだすことができない。いのちにいたる門は閉ざされていて、開けることができない、ただ主の十字架と復活だけがその門を開き、そして、その道を私達とともに歩いてくださる者とかえてくださったと私達は知らされます。 そしてその門を入り、その道をたどっていきますと、イエス様が成し遂げてくださった救いの成就が備えられています。 愛と喜びと希望の中に、私達は導いていただけるということを知らされるのではないでしょうか。 ヨハネの福音書の6章の35節で、イエス様はご自身をお語りになりました。 ヨハネの福音書6:35
「私に来るものは飢えることがなく、決して渇くことがありません。わたしはいのちのパンだからなのです。ただ私だけが本当に尽きない喜びを与え、あなたの人生を本当にみずみずしい人生に変えることができる。」とお語りくださっています。 わたしたちは、パンがなければ生きていくことができません。もちろん、パンというのは日ごとの糧を意味しています。日ごとの糧がなければ私達は生きていくことができません。 それと同じように、イエス様がなければ、みことばがなければ、私達は生き生きとしたそのいのちをいただくことができない、そのいのちの中に留まることはできないと、このところを通してお語りになっています。 あなたは料理人ですとは書かれていないのです。 わたしはいのちのパンです。もう備えられているそのパンを、あなたはただ受け取って、あなたの物とするだけでいいのですと書かれています。そうすれば、飢えることがなく、渇くことがない。御霊さまが、キリストのいのちが、私たちを豊かに満たしてくださって、私達をうちから支えてくださるとの約束がなされています。 約束の通りに主は成してくださいました。 ペテロの手紙第I、2:24-25
神様のように、あたかも神様であるかのように、思い通りに自分の思いのままに生きたい、その思いが結局私達を死に追いやったと、コロサイ人への手紙2章13節にありました。 でも、その私達が自分勝手に生きたいというその思いがもたらした神様への反逆を、イエス様はご自身その身に負ってくださって、十字架の上に死んでくださったと書かれています。 神様に対して最大の反逆は、創られたものが創ったかたのように振る舞いたいということでした。 でも、その最大の反逆である罪を、ご自身がその身に負って下さって、十字架に架かってくださったと書かれています。 霊に死んでいたものは、言い換えると羊のようにさ迷っていたものでしかありませんでしたけれども、しかし自分の魂の牧者であり監督者である方のもとに、ただイエス様が成してくださった救いのみわざによって帰ることを許されたと記されています。 私のところへ来なさいと主はお語りになりました。「わたしはいのちのパンです」とお語りになりました。そして主はその約束を十字架の上で成し遂げてくださいました。ご自身の命に代えて、私達に救いをもたらしてくださいました。 まさに一粒の麦が死んで豊かに身を結ぶために、主は、敢えてご自身が一粒の麦となってくださったと知らされます。 私達は帰るべきところ、ふるさとに、ただ、そのことによってのみ戻ることができるとここに記されているのではないかと思います。 いのちの門は、それは自分の魂の牧者であり、監督者である方のもとへ帰ることだと記されています。 本当はその元に留まるために、父が格別の思いを込めてお創り下さったものであるのに、反逆した故にその元が見えなくなってしまったという姿は、一人一人思い当たるのではないでしょうか。 神様との関係においては解らなくても、心をこめて育ててくれた親に逆らい、或いは自分のために真剣に何かを言ってくれた人に反逆し、私達は自分勝手な道を選んだことが何度もあるのではないかと思います。 まさに、それ以上のことを神様に対してなしてしまった。とてもあれだけのことをした親のところへは帰れないという、その極めつけの状態が、羊のようにさ迷っていたという私達であったと主は言っておられます。 コリント人への手紙第IIの5章14節に、「キリストの愛が取り囲んでいます。」と14節に書かれています。 まるで、空気が私達を取り囲んで、心を静めて見なければ、耳をそばだてて聞かなければ知ることができない。でも、心の目を開き、心の耳を開いてみる時、キリストの愛が私達を取り囲んでいると記されています。 取り囲んでいるからには、それは、朝も夕も、悲しい時も嬉しいときも、それは望んでいたことが仕上がった喜びの時も、全然願い事がかなえられないときも、病の時も、そして健康な時にも、キリストの愛が取り囲んでいるのだと記されています。 コリント人への手紙第II、5:15
と書かれています。 コリント人への手紙第II、5:17
そのいのちのなかに、私達は生き返ることが許されたとうけとるべきではないかと思います。 キリストのいのちが、干からびていた私達の心のうちに注がれて、内から湧き出る泉のように、キリストのいのちをうちに持ち、そしてキリストの愛のうちに、取り囲む愛のうちに今おかれているのだとすれば、それはもはや自分のためにではなく、自分のために死んで甦った方のために生きるためだということは、言うまでもないことではないかと思います。 テトスへの手紙3章の5節から6節には、そのことが別の表現で書かれています。 テトスへの手紙3:5-6
私たちに注いでくださった新生と更新との洗いをもって、新しいものとして今、生きることが許されている。そしてそれは、実は聖霊が私たちのイエス・キリストによって豊かに注いでくださったからだと記されている。 御霊が注がれた時、私たちは全く新しいものとなるということを知るべきではないかと思います。 サムエル記第T、10:6-7
聖霊を受けるとき、私たちは何でもできるものとなると記されています。全く新しい人となることができると言ってもいいのではないかと思います。 手当たり次第に何でもしなさい。一体何をするべきでしょうか。本当に大切なことをするために、神様がともにいてくださるのだということは、言うまでもないことだと思います。 聖霊をいただかないときには、本当に大切なものが何か解らず、聖霊が注がれると、聖霊に導かれると、本当に大切なことを私たちはすることができる。そのことを、手当たり次第に何でもしなさいと書かれています。 本当に大切な事は何かとここで考えてみたいと思います。 ローマ人への手紙6:4
本当に大切なことは、新しい歩みを、いのちのあってすることです。キリストにあって新しい歩みをするためです。生きて働かれる御霊のうちにあって、これまでとは違う歩みをするためです。 それは、先ほど読みましたコリント人への手紙第IIの5章にありました。「もはや自分のためにではなく、自分のために死んで甦った方のために生きる。」ということなのではないでしょうか。 自分のために生きるからこそ霊の死に陥ります。その霊の死から引き上げていただいて、新しい人として生まれたものは、今度は二度と霊の死の陥ってはならない。 私たちのために死んで甦った方のために生きるしかないと、心に留めるべきではないかと思います。 コリント人への手紙第II、5:9
主によって喜ばれること。一粒の麦が死んでくださったのは、その一粒の麦が無駄にならないために、その麦が喜んでくださるためには、私たちのために死んで甦った方のために生きることが、どうしても無くてはならないのだと、心に留めるべきではないかと思います。 ヨハネの福音書15章11節でイエス様はそのことを語っています。 ヨハネの福音書15:11
これらのことというのは、これまでに語られていることですけど、直接的には豊かに実を結ぶことができますというみことばを受けて、主は私がこれらのことを話したのは、喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためですとあります。 主が喜んでくださると、私達もまた喜ぶことができる。尽きない喜び、心の底からの喜びというのは、いつか、この喜びであったと知らされるのではないでしょうか。 キリストのいのちのなかにあるとき私達は本当の喜びを持つことができる。 ハバクク書3:17-18
これこそ、救われたものの喜びであります。そして同時に、それは父なる神が私達を、格別の思いと愛のうちにお創りくださったときに私達に与えてくださったはずの喜びであったのでではないかと思います。 私達はこの喜びのうちに今、置かれているのだと思っています。そうであるからには、本当に主がなしてくださった救いの恵みとみわざを、決して無駄にすることがあってはならないと、深く心に思わされます。 ガラテヤ人への手紙6:15
割礼を受けているか受けていないかが、このときガラテヤの教会で非常に大きな問題となっていました。 そのガラテヤの教会の兄弟や姉妹にとって、このように語られた言葉ですが、今の私たちにとってもとっても大切なことだと思います。 言い換えれば、形だけの信仰はなんにもならない。だだ、新しい創造だけがあなたをいのちのなかに導いてくださるということではないかと思います。 世界の教会は今、本当に惨めな状態にあると言えるのではないかと思います。それは真理を見失っているからではないかと思います。 自分の思いのままに聖書を解釈する、聖書を読み替えていく。そして、自分にとって都合の良いところだけを受け取って、聖書に従おうという態度を私達が持たないとき、それこそ、割礼に留まる信仰になってしまうのではないかと思います。 終わりの時には形は敬虔だけど、実の無い信者が出るとテモテへの手紙に書かれていますが、私達は新しい創造だけに目当ておく、そういう生活をすべきではないかと思います。 ガラテヤ人への手紙5:16
御霊によって歩むとき、私達はキリストのみちからによってすべてを守っていただけます。 ガラテヤ人への手紙4:15
ここでは、ガラテヤの教会が喜びを失った姿が書かれています。 それなのに、あなたがたの喜びは今、どこにあるのですか。かつては喜びに満ちた教会が喜びを失った姿が記されています。 ガラテヤ人への手紙4:19
大事なのは新しい創造です。私達は割礼を受けたか受けていないかにとらわれる時、ガラテヤの教会がそうであったように、喜びを失ってしまい、そして肉の欲望に引かれてしまうのではないでしょうか。 内に注がれた御霊によって、毎日生きたいと思うのでございます。 |