近江八幡喜びの集い


古田公人兄

(近江八幡喜びの集い、2004/12/05)

引用聖句:ヨハネの福音書6章63節
63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

今、お読みいただきましたところはイエス様のみことばです。聖書の神はただおひとり、天地万物をお造りになったお方です。
私たちはその方を主なる神とお呼びいたしますけれども、聖書は本当に長い時間をかけて数えきれないほど多くの人間の手によって書かれました。
それはすべて主なる神の啓示によったものであり、主なる神がご自身とそのみこころを人間のために語りたい、そういう思いで啓示を受けた人たちの手を動かしてお書きくださいました。

ですから、主なる神のみこころにあるもの、人間の頭では分からないことであっても主なる神の目にあるもの、それを私たちは聖書を通して知ることができるのではないでしょうか。
書かれてることが分からなくても、それはある意味で当然であります。人間の見るものとは違う世界が主なる神の目には広がっております。

ヨハネの福音書6:63
63わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

とイエス様はお語りになりましたけど、「いのちはこの世にないものだ。」ということを、このみことばは含んでおります。
人間の頭には考えられないもの、それこそいのちである。
それに対して人間が目に見、そして活動している世界は肉の世界であって、そこにはすばらしい衣装で身を飾った人やすばらしい建物や、あるいは状況の整っていることがあって、時にはぼくたちの目を見張るようなものがないわけではないんですけど、そこにはいのちはないと主はお語りになります。

もちろん哲学だとか悟りだとか、そういったものにもいのちはないということを、このみことばは短いですけど語っています。
人間の知恵で考え出したものとはまったく違うもの、それが私たちが生きていくうえでの本当の喜びの源であり、そして喜びのうちに地上の生涯を終える日を待ち望むことができる力だということではないかと思います。

今日はそのことを、ご一緒にみことばから尋ねてみたいと思います。
まずエペソ人への手紙の2章1節から3節です。

エペソ人への手紙2:1-3
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

この手紙はイエス様を受け入れて救いにあずかった人々に対して書かれた手紙ですから、あなたがは死んでいたと書かれてますけど、言い換えますと、救いを受けるまでは人はみな死んでいるということを意味しています。

「肉は何の益ももたらしません。いのちを与えるのは御霊です。」とお語りになりましたように、この世の中で私たちが主なる神とその主なる神が備えてくださった救いを知らずに生きているとき、それは霊において、言い換えますと、主なる神の目からご覧になったとき、それはみんな死んでいるのだとここで語られています。

考えてみると、私たちはなかなかそのことが分かりません。しかしだからこそイエス様はみことばを通して私たちにそのことをお語りくださっています。
でも、「この世の中にはさまざまな楽しいことがある。色んな生き方がある。そして私たちはそれを享受して生きているのだ。」というふうに言えないわけではないと思いますけど、でも翻って考えてみると、私たちはそういう生き方を果たして自分の力で拒絶することができるのか。ということであります。

ある人が、「現代人は消費をするようにのろわれてる。」ということばを話したことがありますけど、色んなものを欲望を持たずに私たちは生きることができるのでしょうか。
まだ着るものが十分あるのに、新しいものを手にしないで生きていくことができるのでしょうか。

ひとつひとつ考えてみますと、企業だってそうだと思うんです。「どうして小さな企業じゃいけないんですか?」と尋ねてみたいと思うんですけど、成長が至上命令のようになっていて、毎年毎年成長しなきゃいけないとみんな思い込んで動かされてる。
ここにあるように、

エペソ人への手紙2:2
2この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

そのとおりじゃないかなと思います。そして自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、翻って考えてみると、そう理に尽きるのだなということを思わされてしまいます。
喜びを短く、そして仕事であれば負けるのではないかとか、あるいは生きていく先には、老後はどうなるんだろうとか、病気になればどうなるんだろうとか、そういう不安が私たちをしょっちゅうさいなんでまいります。

結局、自分の力ではどうすることもできない様々なものに私たちは引きずられて、しかし、あたかもそれを自分が選び取ったかのように思って生きている。それが生まれたままの人間の姿だとここで主なる神はお語りになっています。
続いて4節から6節を読んでみたいと思います。

エペソ人への手紙2:4-6
4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
6キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

キリストとともにあるいのちの中に導いてくださったと書かれています。
どうすることもできない私たちを、窮屈な思いに閉じ込めていたこの世の不従順の、あるいは空中の権威を持つ支配者、悪霊の中に置かれていたものから完全に解放されて、イエス様とともに、イエス様において生きる者と変えてくださったとここに宣言がされています。

キリストとともにあるいのちは、キリストに基礎を置き、キリストに導かれて、キリストに守られて生きるいのちだと言っていいのではないでしょうか。
空中の権威を持ち、あるいは不従順の霊として働く者から完全に切り離されて、イエス様を信じ受け入れることによって、新しいいのち、それこそ、「わたしが話すことばは霊でありいのちです。」と仰った主なる神のいのちに導き入れられていると、私たちは知らされます。

「ただ恵みによるのです。」と5節にありますように、それは人間のがわには何の根拠もないものだと知らされます。
言い換えますと、努力したからだとか、何か人ができないような、例えば比叡山を千日歩き回ったからだとか、そうした修行だとか、あるいは道徳行為だとか、あるいは慈善的な行為だとか、そういったものとは無関係だからこそ恵みだと言えるんだと思うんです。
そして、一方的に神さまのほうから与えてくださるものとして、私たちは新しいいのちの中に今生かされていることを感謝のうちに知ることができます。そしてそれだけではなくて、6節にありますように、

エペソ人への手紙2:6
6キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

目には分かりませんけど、主なる神の目からご覧になったとき、私たちはもうすでに行くべきところを備えていただいてる。
過ぎ行く世界がどんなものであっても、恐れる必要はない。あなたは天の所にその座がすでに用意されているということをここで約束として、同時にそれは実現された約束として神さまはお語りくださっているということを、感謝のうちに受け止めることができるのではないかと思います。

もう一ヶ所、コロサイ人への手紙の2章13節、14節をお読みしたいと思います。

コロサイ人への手紙2:13-14
13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
14いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

私たちのいのちを蝕ってた物、私たちを死んでいたという状態に陥れていたもの、それは罪だということがここに記されています。罪によって死んでいた。しかし、キリストとともに今、私たちはよみがえらせてくださって、そしてともに生かしていただいていると記されています。

さまざまなことが私たちを罪の中でうごめかせるものとして働いていました。かつて、あるいは今もと言ってもいいのではないかと思いますけど、「自分だダメだ。」という思いに囚われることがあったり、あるいは「自分はこんなにやってるのに、人には理解されない。」という思いを持ったり。 そうした人との比較の中で、あるいは人の目を意識して生きる中で、私たちは本来目を留めるべきものから目をそらせられて、そして生きてきた。

本来、生きることの中心に置くべき方をないがしろにして、やがて滅び去る人間を恐れて生きていた。そういう罪の死の中からいのちの中へと、イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちは導き入れていただいたとここに記されています。

かつて、どのような人であったとか、あるいは何をしたかだとか、あるいはどんな生き方をして来ただとか、それはまったく無関係に新しいいのちに生きてる。
「あなたたちを責め立てていた債務証書は、十字架に釘づけにされた。」と書かれてるいます。
それは、私たちを押し付けて、そして立ち上がらせまいとしていた一切のものが、すでに十字架に釘づけにされているということを、主なる神の目ははっきりとご覧になり、私たちに知らせてやりたいという思いで、このみことばをお贈りくださったのではないでしょうか。

コロサイ人への手紙2:15
15神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

私たちをさまざまな枠にはめてしまい、私たちを強制し、そして私たちを押さえていたいのちのないもの。
見せかけの繁栄と成長において私たちをまい進させてきたようなもの。息苦しく、そして疲れさせ、何か生きる力を奪い去ってきたもの。それが、「支配と権威」とここに記されていますけど、そうした肉の世界のさまざまな仕組みが、イエス様の十字架によって完全に打ち壊されたと記されています。
意味していることは過去からの解放であり、現在からの解放であり、そして未来の不安からの解放なのではないでしょうか。

どんな経歴であったとか、どんな生まれであったとか、どんな育ちであったとか、どんな仕事に就いてるとか、どんな名誉を受けてるとか、あるいはどんな辱めを持っているとか、どんな今生き方をしてるとか、全部それはイエス様が打ち砕いてくださって、私たちは完全な解放をいただいていると知らされます。

大切なことはその解放を受けるにあたって、何のためにその解放がなされたかということではないかと思います。
そのことをはっきりさせておきませんと、解放を自由と間違え、私たちは再び自分の肉と欲の中に引きずり込まれてしまう恐れがあるということを、深く心にとどめる必要があるのではないかと思います。

ローマ人への手紙3:23-26
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

十字架のみわざは神ご自身が義なる神であるということを、はっきりとこの世にけじめをおつけになるためであったと記されています。
主なる神は天地全物の創造主であり、すべてのものをみこころのうちに成し遂げなさる方ですから。

主なる神の中には一点の暗やみも、そして汚れもあってはならない。それは、主なる神ご自身の中にはないことは当然です。
けど、主なる神がお造りになった世界にも、一点の汚れも罪も本来存在することは有り得ないものとして造り出されているのだ、ということを思うとき、さまざまなこの世の罪をそのままにないがしろになさることは、主なる神ご自身の義に関わることであったということはいうまでもないことではないでしょうか。

主なる神が義なる神である限りにおいて、すべての罪と汚れと、そしてシミは完全にけじめをおつけにならなければならなかった。
そのためになされたみわざが、十字架の死と復活であったと私たちはこのところを通して知らされます。
言い換えますと、これは主なる神による創造のみわざの完了であったと言ってもいいのではないでしょうか。

主なる神は私たちを自由な者としてお造りくださいました。意思を持たないロボットのような者としようとはなさらなかったんです。
私たちが自由に、自由なる意思を持って主なる神に従う者にと主は望まれました。全身全霊をもって自発的に主を愛する者となるようにと主はお望みになりましたけど、造られた者はすぐに自分のわがままの中に生きたいと思って、霊において死んでしまいました。

それは義である方のみこころとは完全に相容れないものでしたから。
しかし、主なる神はあわれみのゆえにそれを見のがして来てくださって、時至って、ひとり子なる御子の十字架の死によってその解決をしてくださったと記されています。
だからイエス様の十字架を、死をいただいて、私たちの罪が赦され、イエス様の復活とともに新しいいのちに導かれた者は、イエス様を主として生きることが何よりも必要だということは当然なのではないでしょうか。

言い換えますと、古い自分のままにいて、そのまま死にとどまるのか、あるいはイエス様がなしてくださった救いのみわざをいただいて、新しいいのちに生きるのかは、私たちのやっぱり選択にかかっているのだということを深く心にとどめたいと思うのであります。

ローマ人への手紙14:9
9キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

私たちのために仕えるためではないんです。私たちのわがままを助けるためではないんです。
私たちの主となるために、主は死んでよみがえられた。イエス様のご支配のもとに、イエス様のみこころを第一として生きる者とするために、私たちは私たちを選び出してくださって、そして死んで、またよみがえってくださった。

主なる神が格別の愛と思いのうちに人間をお造りくださったときの、そのみこころに描かれた通りに私たちをもう一度生かしたいというそのみこころのままに、今、イエス様は死んでよみがえってくださった。そのことを深く心に留めたいと思います。

コロサイ人への手紙3:3-4
3あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
4私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

初めに読みましたエペソ人への手紙の2章の1節のみことばと比べてみると、違いに驚かされます。
2章の1節では、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた。」と書かれていました。そして、このコロサイ人への手紙の3章の3節では、「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある。」と書かれています。

希望のない死から、いのちがキリストとともに、神のうちに隠されてある。その死へと変えられた。おなじことばが使われていても、その意味するところは、180度違うということを知らされます。
最初の死は霊の死であり、ここの死は罪の死です。罪の支配からの肉の死であり、いのちはすでにキリストのうちに、キリストとともに隠されてる。

隠されてるってすごいなと思うんです。私たちは何を隠すのでしょうか。ひとつは取られちゃ困るもの。もうひとつは人に見られたくないもの。
でも主なる神には、汚れや罪やのがれは一点も存在しません。主なる神の中にはそうしたものは何一つ存在し得ないですから、そこに隠されてるものは大切なものとして、言い換えれば、どんなものであっても、イエス様によって光と変えられたものとして、その過去も現在も一切が光に変えられたものとして、キリストとともに隠されてる。そのことを思わされます。

そして私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたもキリストとともに栄光のうちに現われます。
今は主なる神の目に見える者としてしか分かりませんけど、イエス・キリストがおいでになるとき、

(テープ A面 → B面)

私たちは栄光のうちにはっきりとそれを見ることができる。

すべてのものは過ぎ去るものであり、恐れるものはない。ただ永遠に続くものだけが本当のものであり、いのちであり、そしてそれが栄光のうちに現われ出るものだと約束のみことばをいただいています。
肉なるものは、外なるものは日々衰えていきますけど、内なるものは、日々新たにされていきます。
パウロは、

コリント人への手紙第II、4:18
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

と証しをいたしましたけど、私たちもまたそうありたいと思うものであります。

イエス様は、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」とお語りになりました。
すべてのことは主なる神の目からご覧になったとき、成し遂げられていますし、残されたことは、もう無いと言ってもいいのではないかと思います。
しかし、悔い改めることは一人一人に与えられている、何て言うんでしょう・・・選択です。

人は悔い改めて、福音を信じて救いにあずかることもできますけど、悔い改めを拒んで、救いを拒んでそのまま永遠の滅びに突き進むこともできます。
「悔い改めて福音を信じなさい。」、これこそイエス様の宣教の初めのことばであり、そして私の想像ですけど、十字架の上での主の叫びであり、そして復活の主のとりなしの祈りではないかと思います。なしてくださった救いのみわざを深く心に留めて歩みたいと思います。

どうもありがとうございました。




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