どんなに大きなことをしてくださったか


古田公人兄

(御代田喜びの集い、2005/07/30)

引用聖句:エペソ人への手紙1章18節-19節
18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

あるとき、イエス様は癒して頂いた男の人に向かって、こう仰せになりました。

マルコの福音書5:19
19しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせない。
救われた者に対して与えられている任務のひとつとは、このことではないかと思います。主が、どれほどにご自身を犠牲にしてまで、私達を救ってくださったかと言うこと。それを知らせないと主はお知らせになっています。

何かをお知らせするときは、中途半端なものは、かえって妨げになるのではないでしょうか。私達が、何かを知らせようとするとき、本当に、知らせることの二倍も三倍も知っていなければ、告げ知らせることは根拠がはっきりとしなくて、すぐに馬脚が出てしまうのではと思います。
ですから主は、エペソ人への手紙で、「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」と記されています。

私たちは、この頭で考えても、本当に何もわからないのではないかと思います。
ですけど幸いなことに、主なる神の御心が聖書として与えられていますから、私達自身は何もわからなくても、主がお語りくださることを耳を開いて、聞きさえすれば、どんなにそれが栄光に富んだものか、どれほど素晴らしいものか、知ることができるのはないかと思います。
いやむしろ人間の頭で考えるからこそ危ないのであって、ただ御言葉がお語りなることだけを受け取るときに、私達は想像を超えて大きな主の栄光のご一端に触れることが許されているのではないかと思います。

私たちがいったいどういう風な者であるのかということを、聖書は非常に厳しく書き記しています。

コリント人への手紙第II、5:10
10なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

立ち止まって読めば、とても怖れをもって受け取る以外には受け止めることのできない御言葉ではないかと思います。「善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける」
例外なしに「私たちは皆」と記されています。「イエス様信じたから、もう大丈夫。」ではない。すべての者が例外なしにキリストの裁きの座に現れて、各自その肉体にあってした行為に応じて、報いを受ける。
それが主なる神の御心であります。義なる方である限りにおいて主なる神は、そこの所をいい加減になさることはないと記しています。だからこそパウロは自分の状態を顧みたときに、ローマ人への手紙7章24節で、本当に、うめきの声をあげたのではないでしょうか。

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

各自、肉体にあってした行為に応じてといわれるときに、「私は、大丈夫。」と言える人はたぶんいないのではないかと思います。
パウロでさえ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」とそこに書いています。
この死の体と記しています。死に導いていく体と言ってもいいのではないかと思います。そもそも、罪が入りましたときに、アダムとエバは食べてはならないと言われる木の実を見た時に、それは目に美しく、食べるのに好ましく思われたと記されています。

創世記3:6
6そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

結局、それは体が求めたということを意味しています。体はいつも私たちに先立って、私達を罪に誘って参ります。
パウロ自身が、あのローマ人の手紙の中で告白していますように、私の肉のうちに善が住んでいないのを、知っていますと語らざるを得なかった。体こそが、私達を罪に誘い、そして私達は各自その体においてした行為に応じて裁きを受ける。
主なる神が義なる方である限りにおいて、その道筋は必ず取られねばならなかったと思います。だからこそ、主イエス様は、私たちのその体をご自身の十字架での死と共に、同じようにその死に預からせてくださいました。

ローマ人への手紙6:3-4
3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

キリストの死に預かるバプテスマによって、私達がイエスキリストを心で信じ、口で告白するとき私達は、キリストと共に葬られた者として預からせてくださる。
私達を死へ導くその体は、命にあって新しい歩みをするために、私達はそこで、キリストが御父の栄光によって死から甦られたように、私たちもまた、その恵みの中に、導いて頂けると、そこに記されているのではないでしょうか。

私達はイエス・キリストと共に十字架に死んだ。そして、キリストに預かる者として新しい命に今、生きている。そのことがこのことによって私たちにはっきり約束されているのではないかと思います。
ですから、ローマ人への手紙の8章の11節は、御霊を持つことの大切さを私たちに書き記してくださっています。

ローマ人への手紙8:11
11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

御霊によって、死ぬべく体をも生かしてくださるとここに記されています。
私達を死へ導く体。私たちの意志に反して、私達を死に運命ずけるかのような行動に導くその体は、キリストの十字架の死と共に死んだ。そして、キリストを死者の中から甦らせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、その死ぬべき体をも生かしてくださる。
だからこそ救われた者は、見た目において同じ体を持っているように見えながらも、もうその死ぬべき体に新しい命を受けることによって、今、新しい命に生きていると記されています。

これこそ、イエス様によって救いを受けると言うものの姿ではないかと思います。
見た目には何も変わりませんけど、御霊を頂いているかどうかによって、その命は、新しい命にすでに変えられているのだ。そして、その死ぬべき体をも、その命にあって、新しい歩みをすでに始めているのだと主なる神が約束していてくださっている。
だからこそ私たちは、主がどんなに大きなことをしてくださったかを、確信を持って受け取ることができるのではと思います。

しかし主なる神の約束はそれだけに留まるものではありません。私たちの想像をはるかに超えて、約束は大きくそして広く広がっています。

ピリピ人への手紙3:21
21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

新しい命を受けた者のその体は、実は死ぬべき体が、実は命にあって、主なる神と御子イエスご自身の栄光の体、きらきら輝くその体と同じ姿に変えてくださるとここでは約束が与えられています。
それは、どう言うことなのか。

コリント人への手紙第II、3:18
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

御霊による聖霊のバプテスマを受けた者は、うちに住んでくださる御霊の働きを受けて、主の栄光を反映さっせながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくと記されています。
キリストの素晴らしさが、本当に、この死に至るしかない肉体の上にあたかも鏡に映すかのように照り輝いて、私たち自身がキリストの栄光をきらきらと輝かせる者として生きることができると、その再臨のときの姿が記されています。

コリント人への手紙第I、15:42-44
42死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
44血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

先ほどのコリント人への手紙第IIには、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ形にと記されていますけど、ここでは、「朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだに、、」と。
だから栄光から栄光へとは、こういうことなのかと受け取ることができるのではないかと思うのです。

朽ちないものであり、栄光あるものであり、強いものであり、御霊に属するものであり、そしてそれは一言で言えば、御霊の体として主が再び来られるとき甦ることが約束されています。
もしすでに眠った人であるなら、霊はすでにキリストのもとに招かれていますけど、主が再び来られるとき、霊とこの復活の新しい体はひとつとなって、本当にキリストのきらきら輝く姿を受けながら、またきらきら輝く栄光のものへと変えてくださる約束を喜びを持って受け取ることができるのではないかと思います。

救われた者にとって、救いは終わりではないのではないかと思います。むしろ主のご再臨後に、待つ者として、この栄光ある姿に変えられるために、実は私たちはこの集会を与えられ、そして共に励ましあいながら、主が再び来られる日を待ち望むことができる者として、今置かれているのではないかと思います。
私たちの外なる人は日々衰えていきますけど、内なる人は日々新たにされる。いったい何が新たにされるのでしょうか?
それはキリストが再び来られることを待ち望むが故に、わくわくする喜びを持って日々過ごすが故に、私達は新しい命を喜びながら生きていくことができるのではないかと思います。

コリント人への手紙第I、6:20
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

最初にお読み頂いたエペソ人への手紙から、今まで御言葉を見てきましたが、実は同じ言葉がどこでもと言うわけではありませんが、聖書の中で何度も何度も繰り返されています。お気づきくださいましたでしょうか?
それは「栄光」と言う言葉です。きらきら輝くキリストの完全さ、力、尊厳、そのすべてが実は私たち、死ぬべき体を持ってこの世に置かれた者がそれを受けて、そう言う姿に変えられていく。
主を待ち望むということは、その栄光に変えられて行くことを待ち望むことだということを御言葉を通して、わかって参ります。

神の栄光を現しなさいと記されています。私達は取るに足りない者であり、弱い者であり、小さい者ですけど、キリストによってどんなことでもできる、その約束がこの一言の御言葉の中に現されているのではないかと思います。
二箇所ほど御言葉を読んで終わりたいと思います。

ピリピ人への手紙1:20
20それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。

これこそ神の栄光を現しなさいと語られていることをここでパウロは言い換えているのではと思います。
神の栄光を現すとは、生きるにしても死ぬにしても、なんとみじめな者でしょうと叫ぶ身をもって、キリストの素晴らしさが現れることを切なる思いと願いによって求める。
あー、それなんだとパウロは、私たちに噛み砕いて語ってくださっていると思います。

エペソ人への手紙1:18-19
18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

くどいようですけど、いくら考えても、こういうことはわからないのではないかと思います。どんな小説を読もうと、そんな哲学書を読もうと、どんな歴史書を読もうと、やっぱりわからないのではと思います。
ただ、主なる神の御心が現された聖書だけが、私たちの目をはっきり見える者として、神の召しによって与えられる恵みがどのように大きなものであるか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものであるか。
また神の全能の力によって、働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか、私達は知ることができるのではないかと思います。

だからこそ内なる人は日々新たにされていく。御言葉と結びつくことなしにして、内なる人は日々新たにされることはない。御言葉に結びつくことがなければ、内なる人は日々、眠りこむだけではないかと思います。
すべては御言葉によって与えられる。そのことを思わされた日々であります。

ありがとうございました。




戻る