挨拶というのは、どちらかというと形式的なものである場合が、私たちの場合はそうだろうと思うんです。しかしときには、そこに書き手の気持ちのすべてが込められることもあるのではないかなと思います。 例えば、戦場にいる兵士が肉親や恋人に宛てた手紙の場合が、やっぱりそうだろうと思います。「聞けわだつみの声」という本がありますけど、学徒出陣した若い人たちが、主として肉親に宛てた手紙が中心ですけど、書き出しからもう本当に語りたいことが伝わってくる。そういう気がいたします。 このピリピ人への手紙もやっぱりそうなのではないかなと思います。 聞くところによれば、パウロはこの手紙を書いたときは、監獄の中にいたというふうに言われています。そして、この1節の書き出しから、もうすべてが語られていると言ってもよいのではないかなと思います。 ピリピ人への手紙1:1
この、「しもべ」ということばですけど、私はギリシャ語が分からないんですけど、どうも奴隷という意味のことばがそうであります。むかし、そういうふうに聞いたことがあります。 東京神学大学の学長をされていた方のメッセージの中で、そういうふうに聞いた覚えがありますので、きっと間違いないと思うんですけど。 そうしますと奴隷というのは、生きるのも死ぬのも主人の思いのままにされる人だということだろうと思います。ひたすら主人に尽くす者であって、身体はもちろん主人と一つではないんですけど、あたかも主人の身体の一部分であるかのように主人の意に沿って動く者。それが奴隷であり、ここで言うしもべだろうということになります。 そして手紙の差出人は、そういうしもべであるパウロとテモテであり、受け取り手はキリスト・イエスにあるすべての聖徒たちと書かれています。 聖徒とは、聖なる人たちという意味ではなくって、キリストによって聖くされた者。また、まったく聖くない者なんだけど、キリストの十字架の血潮で洗われて、恵みに包まれて、聖なる者とされたということではないかと思います。 やはり形はキリストと違っていても、あたかもキリストが生きていらっしゃるかのように、キリストの愛でおおいつくされた者と言ってもいいのではないかと思います。 そうしますと、しもべも聖徒も同じことを意味してるのではないかと思います。キリストの意に沿って動く者から、あたかもキリストそのものであるかのように聖くされた者への手紙ということがここで記されているのだということになるのだろうと思います。 つまりこの手紙はそういう手紙だということではないでしょうか。キリストにある者がキリストにある者に語りたいというパウロの気持ちが、完全にこのところで表わされているのだろうと思います。 パウロが語りたいことは、そのあとに11節のところまでに記されています。それは、まず6節だろうと思います。 ピリピ人への手紙1:6
ということを、まずパウロは語りたかったのだろうと思います。 何事かを語るときというのはいつも、だれがどこで何をしたかっていうふうに語りますけど、そういう意味では、だれがというのは主だと思います。そして、いつというのは、キリスト・イエスの日が来るまでのときということだろうと思います。 そして何を、ということは、働きの完成をなしてくださる、つまりイエス・キリストの日が来るまでに主が働きの完成をなしてくださるということを語っています。あくまでもなしてくださるのは主だということを私たちは知らされます。 じゃあ、働きの完成は何なのかということですけど、それは、どうも9節から11節のところでそれを説明しているのではないかなというふうに思います。まず9節ですけど、 ピリピ人への手紙1:9-11
それこそ、完成された者としての姿だろうということだろうと思います。 真にすぐれたものを見分けることができること、そして純真で非難されるところがなく、義の実に満たされて、神の御栄えと誉れが現わされる者となる。これはキリスト・イエスのしもべであり、あるいは聖徒たるべき者の条件だと言ってもいいのではないかと思います。 この条件が満たされるとき、良い働きを完成させてくださったということができる。それはやっぱり主がしてくださったということだろうと思います。 いったいそういうことは可能なのでしょうか。もちろん、可能だからパウロはそう言ってるんですけど、その例をよく知られている将軍ナアマンから学んでみたいと思います。 列王記第IIの5章にナアマンのことが記されています。ちょっと読んでみたいと思います。 列王記第II、5:1-5
飛びまして、9節。 列王記第II、5:9-15
ナアマンというのは本当の勇者であったようであります。嘘をつくことのできない人でありました。 ですけど彼はらい病にかかって、どうしようもない、そういう状況になったときに、イスラエルから略奪されてきたひとりの若い娘によってエリシャのことを教えてもらい、エリシャのところへ行って、もう病気を直したいと思って、イスラエルへ出かけて行きました。 さまざまな贈り物をもって、そして馬と戦車をもってエリシャのところへ行った。どういうわけで馬と戦車をもって行ったのか。病気を直してもらうのに、なぜ戦車が必要だったのかよく分かりませんけど、要するに意気込みが伝わってきます。 それほどの意気込みで彼が出かけたということは、このときナアマンが、エリシャにすべてをかけていたということが伝わってまいります。 でもその結果は惨めなものでありました。当然敬意を払って、前もって王さまの手紙も出してありましたし、当然敬意を払って、エリシャが出て来ると思って、「ナアマン将軍、ナアマン将軍。」と言って、何かをしてくれると思ってましたけど、エリシャは出ても来ませんでしたし、そのエリシャの言った言葉は、子供だましのような言葉でした。 「ヨルダン川で七度身体を洗いなさい。」 そのエリシャの態度と伝えられた言葉に失望して、彼は怒り猛る思いで帰ろうといたしました。でも、そのときナアマンのしもべたちがナアマンに向かって言いました。 「もしあのときエリシャが、とってもむずかしいことを言っていたら、例えばすごい山の上に七たび登りなさいとか、出来ないようなことを言っていたら、あなたは必ずそれに挑戦したでしょう。」必ずそういう人なんです。 「でも、エリシャが言ったことは、『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけだったから、怒って帰るんでしょ?」そういうことをナアマンに知らせました。 その言葉を聞いたときナアマンは悟ったんです。分かったんです。自分の力ではどうしようもないと思ってやって来ていたのに、なお、自分の力に頼ろうとしている。 あ、これは間違いだとナアマンは分かりました。そしてすっかりエリシャにかけるんだから、エリシャの言ったとおりにやってみようと彼は思って、ヨルダン川へ行って、七たび身を浸し、そしてきよめられたと書かれています。 二つのことを思わされます。一つは、ナアマンはなぜヨルダン川に身を浸すのことを最初は躊躇したのかということですし、もう一つは、今度はエリシャの立場ですけど、なぜエリシャはそれほどにしてやって来たナアマンの前に身を出そうともしなかったのかという、そういう二つの疑問がわいてまいります。 第一の点は、なぜナアマンは言われたとおりにすぐしなかったのかということですけど、これは創世記3章の1節にその答えが記されています 創世記3:1-6
「本当に神さまが仰ったの?あなたは神さまが仰ったことを本当だと思うの?」と蛇はささやいています。ナアマンにはそうだったのではないでしょうか。 「本当にあのヨルダン川で身を浸すことが何かになると思うの?」と、まずささやきました。「大した川じゃないじゃない。あなたの国にはもっといい川がたくさんあるじゃない。バカバカしい。」と、蛇はナアマンに思わせるように導いていきました。 そして、きっと言ったと思うんです。「エリシャは、敵の国の将軍であるあなたを笑い者にしようとしてるだけなんだ。ほれ、見てごらん。あのナアマンがヨルダン川で七たびも身を洗ってる。ほれ、見ろ、見ろ。」と、そういうふうにされるんだろうとナアマンに思わせてしまいました。 でも、そのサタンのささやきに耳を傾けさせたのはナアマンの自尊心であり、常識だったのではないでしょうか。 要するに、「バカバカしい。」とナアマンは思いました。聖書を前にしてそういう考えをもつとき、私たちは決して祝福を受けることはないということをここから知らされるように思います。 じゃあなぜエリシャはそういう態度を取ったのかということですけど、それはたぶん想像するしかないんですけど、ナアマンはだれを頼りに生きたのかということなんです。 ナアマンは神さまを頼りにしたのではなくって、エリシャを頼りにしてやって来た。でもエリシャは違ったんです。 自分ではない。生きて働かれる、生きておられるまことの神の存在をナアマンに知ってほしい。そして同時に、みことばに頼ることがどれほど大切か。みことばにかけると言ってもいいと思いますけど、それがどれほど大切かをナアマンに知ってほしかったのではないでしょうか。 たとえ今あなたには分からなくても、きっと主はこのことを通してご自身の栄光を現わしてくださるのだ。主のあわれみは尽きないし、主はご自身の栄光の富をもってあなたの必要を必ずすべて満たしてくださる。そのことをナアマンに知らせようとしたのだろうと思います。 同じことはあのヨハネの福音書9章にある、盲目の青年の目をイエス様がお開けになったときの出来事でもイエス様は同じ態度を取られました。 イエス様の弟子たちは、「彼が目が見えないのはどうしてですか?彼が罪を犯したんですか?両親が悪いんですか?」と言いましたけど、イエス様は「そうではない。神の愛が、神の栄光がこの人の上に現われるためだ。」と仰せになりました。 そしてつばきで泥を作ってその目の上に触れて、そしてシロアムの池へ行って洗いなさいと仰せになりました。 イエス様はそんなことをなさらないでも、「目よ。開け。」と仰ったら、彼の目は見えるようになったんです。泥を作って、触られただけでも目は開いたんです。でも、シロアムの池へ行って洗いなさいと仰せになったのは、それは、彼がみことばに従うこと、そしてみことばに従うとき、主は生きて働かれることを教えようとなさったのではなかったでしょうか。 あの青年だってナアマンと同じ立場だったんです。目の見えない自分を笑い者にしてるんじゃないかと彼は思うことだってありえたと思うんです。 なぜなら、今日は読みませんけど、あのとき、彼がイエス様のところへ行ったのじゃなくって、イエス様が彼のところへ来られて、彼はイエス様がどんな人かあんまりよく知らなかったんです。 「イエスという人が、」とあとで彼はユダヤ人に言ってますけど、あんまりよく知らなかったんです。だから、そういうふうに、だいたいつばきで泥を作って目に塗るというだけでもかなり異様な行為だと思うんですけど、そのうえでまだ「シロアムの池へ行って洗いなさい。」、「バカバカしい。」と思っても全然不思議じゃなかったと思います。 でも彼は言われたとおりに従いました。そして彼はイエス様のご栄光を見ることができたということを知らされます。 このナアマンに戻りますけど、ナアマンがきよくされるまでの歩みは今見てまいりましたように、決して平坦なものではありませんでした。 五段階に分けられると思うんですけど、まず彼はらい病にかかりました。この時代のらい病は絶望を意味するものだったんじゃないかなと思います。 そして二番目に、その女性が、略奪してきた女性が教えてくれたんですけど、でもその教えてくれた話は、聖書でスッと読んでいけば当然のことがあたかも続けて起こったかのように思いますけど、ナアマンにとってはそれほどいい話ではなかったんです。 なぜなら、この将軍はかつて、略奪にでたと書いてるように、そもそも敵の国なんです。そこの預言者が直してくれると言っても、そこへ行くまでには色んな困難な問題があったと思います。 自分が敵の国へ行って、「直してくれ。」って言うそのことだけでもかなりのむずかしい問題です。まして立場が立場です。 彼はですから、アラムの王さまにまずその了解を得なければなりませんでした。それどころか、それだけでも、と言ってもいいかもしれません、決してたやすいことではなかった。気持ちの上でですけど、たやすいことではなかったと思います。 そして三番目の出来事は、さっき見たとおりですけど、せっかく行ったけどエリシャ出て来なかったということです。ある意味で絶望だったのではないでしょうか。 そしてその次は、彼は立ち去りました。怒りでいっぱいだったんです。 そして最後に、彼はしもべの言葉を聞いて立ち返り、そして今、イスラエルのほかにどこにも神はいらっしゃらないということを、彼はエリシャの前で宣言をいたしました。 ナアマンのこの歩みは、ナアマンはもちろんイスラエル人ではなかったんですけど、そういう意味ではナアマンは、今の言葉で言えば、未信者だったんですけど、でもこの五段階の歩みは未信者だけの歩みではないというように思います。信者にとっても同じなのではないでしょうか。 まず、ナアマンの場合はらい病にかかりましたけど、なにか試練が起こります。そうしますと、その試練にとらわれてしまって、私たちはまず、目がそこから離せなくなってしまうということが起こりえます。 信者であっても、試練が厳しいと絶望の思いにとらえられることがあるのではないでしょうか。 そうすると、祈りさえ出てこないということがあろうと思います。そしてその若い娘が教えてくれたことが、イスラエルの預言者だったというのと同じように、私たちは思い通りにことが運ばないと、困難な状態がもう固着してしまったかのように思われてまいりますと、今度はまた、それだけに心が奪われて、それだけがうまくいくとすべてが解決するかのように思ってしまいます。 つまり、ナアマンが王さまのところへ行って、これこれのことを言いましたという、もうそのことだけに目がとらえられていたとすれば、それと同じように私たちもまた、なにか本質的なことへいくまでになにかのことで目がとらえられてしまいますと、祈りはただ、その困難からの脱出だけに焦点が合わせられてしまうのではないでしょうか。 そしてエリシャが出て来なかった。言った話が、「川へ行って身を洗いなさい。」というような話だったということは、言い換えますと、神さまが祈りにこたえてくださらないかのように思えるということなのではないでしょうか。 そのときナアマンは、怒って立ち去りましたけど、それは自分の判断や常識に頼って、そして主から目を離すということなのではないでしょうか。 そうなると主は力を現わされることができないということがはっきりと知らされるように思います。 ただ信頼してゆだねきるとき、主はご栄光を現わしてくださる。そのことをこのナアマンの経験は私たちに語ってくれてるように思います。 そうしますと、多くの信者がイエス様に本当に祈りながらも、なお一から四の段階にとどまっていることがどれほど多いかということを、私たちは自分自身の体験をも踏まえて思わされます。 でも逆に言いますと、そのナアマンがエリシャの言葉にかけたときまでには、実は彼がらい病になって、イスラエルの預言者だということを聞いて、エリシャのところへ行ってエリシャが出て来ない。そして怒って立ち去り始めたという、その四つの段階を経て初めて、ナアマンはみことばの確かさを経験することができたのだということを私たちは知らされます。 らい病にかからなかったら、あるいはそれがイスラエルの預言者の話として知らされるのでなかったら、エリシャが出て来ないんじゃなくて、エリシャがそのとき出て来て、ナアマンの上で手を振るかなんかして、病気が直ったとしたら、ナアマンは、せいぜいエリシャの力を見るだけで終わったのではないでしょうか。 いや、そもそもらい病にかからなかったら、まことの神の存在を彼は生涯知ることがなかったのだと私たちは知らされます。 ピリピ人への手紙のお読みいただきました1章の6節のところで、ことを始められる、あなたがたのうちに良い働きを始められたということは書かれてますけど、良い働きとは実はナアマンの前には想像もつかなかったこと、もう絶望に思わされるようなことだったのだということではないかと思います。 そしてその働きを完成させてくださるということは、ナアマンがみんな引き連れてエリシャの前に戻って、「今、イスラエルのほかにまことの神はおられないということを私は知りました。」と答えたときに、まさに彼は良い働きを成し遂げてくださったことを知ったのではないかと思います。 みことばに信頼し、それに従う姿勢をナアマンは国民の前に明らかにいたしましたけど、このとき彼は、本当に神の御栄と誉れが現わされますようにとピリピの兄弟たちに向かってパウロが祈っている、そのとおりの者となることができたのだということを知らされます。 神の御栄えと誉れが現わされますようにということに、もう一度目を注いでみたいと思いますけど、イエス様に出会って、みことばをいただいた者は、あるいはあわれみを受けた者は、数え切れないほど多いんですけれども、言い換えますと、どのような人にも主は同じように愛しておられた。 それも集団としての人間ではなくって、ひとりひとりを愛しておられたということだと思うんですけど、にも関わらず、イエス様に出会った人がすべて神の御栄えと誉れを現わすことができたとは言い切れないのだろう・・・ (テープ A面 → B面) 神の御栄えと誉れ、とピリピ人への手紙に書かれているその姿を、神さまは私たち一人一人を通して現わそうとなさっています。 レビ記10:3
わたしに近づく者によって。天の大空になにか不思議なことを起こしてじゃないんです。なんか飛び抜けた氏素性の人だけに、わたしは、とは仰せにならなかったんです。 「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖なることを現わし、わたしはすべての民の前で自分の栄光を現わす。」と仰せになっています。 主は近づく者を用いたい、栄光を現わしたい、と望んでおられます。主に出会った者がみんなそういうふうに、主に用いていただくとき、それこそあのピリピ人への手紙で言われている、神の御栄と誉れが私たちをとおして豊かに現わされることではないかなと思います。 そういうことは、特別の人だけがやりやすいということではないと思います。王さまならやりやすいわけではなかったということは、旧約聖書の歴代誌や列王記を読めばすぐに分かります。 育った環境によって、なんかある人だけがやりやすいというわけでもなかったと思うんです。あのヨハネの福音書9章の若者は、本当に豊かに神の御栄えと誉れを現わす器として用いられましたけど、彼はある意味で両親から見捨てられていた者でした。実際彼は乞食だったと書かれています。 そしてもちろん、国籍も関係がない。ナアマンは敵の国の将軍でした。 結局そういう私たちを外から束縛するものは、何一つ関係がない。言い換えますと、だれであっても主に近づくことは許されているし、そしてその主に近づく者を通して、主は神のご自身の御栄と誉れを現わそうとなさっている。 それが、「完成されよ。主はキリスト・イエスの日が来るまでに完成させてくださるのだ。主に従いし続けさえすれば、主はそれを完成させてくださるのだ。」ということを私たちは知らされるように思います。 イエス様は私たち一人一人に本当に、「どうぞ。御栄えと誉れが私たちを通して現わせられますように。」と祈り求めることを求めておられます。 そのためにこそ、主はさまざまな問題を私たちに起こされ、そしてその中で、本当に絶望して逃げてしまえば、あのナアマンが怒り狂って帰るときの姿のように、あるいは、もうその前、らい病にかかったということだけで絶望してしまいますと、あるいは、エリシャが出て来なかったということにもう絶望してしまいますと、それにとらえられてしまいますと、私たちは神の御栄えと誉れを現わす者として用いられないのだということをはっきりと知りたいと思います。 イエス様は、復活のイエス様はペテロに向かって、「あなたはわたしを愛しますか。」と三度お尋ねになりました。 ペテロは、「わたしがあなたを愛することは、主よ。あなたがご存知です。」とお答えしましたけど、そのためにはやっぱり三度、ペテロは、私はあなたを知らないという体験があったということを私たちは知らされます。 もちろん、そんなことを言ったから、ペテロが用いられるようになったということではないんですけど、主に従いし続けさえすれば、そういうことであっても主は用いてくださる。 本当にどのような者であっても、主に従いし続けることがどれほど大切か。目の前で起こることが、どれほど落胆するようなことであり、失望するようなことであり、絶望のように思えることであっても、主に従いし続けることが、結局キリスト・イエスの日に、主が良い働きを完成してくださる。 ぼくたちが完成するんじゃないんです。もう一度あのピリピ人への手紙の1章の6節を読んでみたいと思いますけど、 ピリピ人への手紙1:6
全部主なんです。ことを始められた方も主ですし、完成させてくださる方も主なんです。そして11節。 ピリピ人への手紙1:11
大事なところは全部、主語は主なんです。あなたがキリスト・イエスによって義の実を着るなんてことは書いてないんです。 義の実に満たされる。満たされるというのは、満たす方があるから満たされるんだということであり、神の御栄えと誉れが現わされるということだろうと思います。 一つ、証しだと思うんですけど、ひと月ほど前に石垣島へ行きました。石垣島にかなり高齢の兄弟がおいでになるんですけど、集会に導かれてたぶん、ニ、三年だろうと思います。 数学の先生をなさっていた方で、理屈が大好きな方なんですけど、最初は随分むずかしいことを仰ってられたんですけど、この間こんなことをお話しになりました。 兄弟のお住まいは伝統的な古い沖縄風のお住まいだそうなんですけど、神棚をもう整理したと言うんですね。もうイエス様に従うようになったから神棚を整理した。 そしたら、そのあとすごい風が吹いて、天井の隙間から土がいっぱい落ちてきて、特にその神棚を整理した所に山のようにその土がたまったと言うんです。 で、最初に思ったことは、これは崇りかと彼は思ったって言うんです。 そしたら夢で、もう亡くなっているお父さんが、「一本で行け!」と仰ったと言うんです。「一本で行け!」って。 「それで私は一本で行く。お父さんが言ったから、もう一本で行くんです!」と仰いました。ほんとにすばらしい証しだったと思います。 本当にもう、それだけのことを思うと、本当に励まされる気がします。私たちも本当に一本で行きたいと思います。 どんなことがあってもそれにとらえられることなく、また、「本当に神はそう仰ったんですか?ヨルダン川はどんな川なんですか?」とサタンが語りかける、その声に耳を傾けないで、みことばに限って歩みたいと思います。 どうもありがとうございました。 |