引用聖句:申命記5章6節-21節
今お読みいただきました聖書の十戒のみことばは、人が人として生きる上でもっとも基本的な神さまの導きであろうと思います。 もちろん神さまとは、人を解放してくださるお方です。エジプトの奴隷の地から導き出された、とありますけれども、色々な宗教や組織やそうしたものからも私たちを自由にしようと、望んでいてくださいます。 そしてここにある生き方は、そうした解放された者の当然の生き方として、神さまが恵みのうちにお与えくださったものであることは、いうまでもありません。 考えてみますと、日本という国は本当に不思議な国だと思います。この国の中では「聖書は、宗教書だ。」、というふうに受け取られていますから、長い、十何年間の学校教育の中でも、聖書のただ一箇所でさえ出てくることはない。そういう不思議な国だろうと思います。 人がどう生きるのかということを真剣に考えるチャンスのない国だ、というふうに言ってもいいのではないかと思います。 もう何年か前、数年前ですけれども、電車の中の広告を見ておりましたら、私は電車の広告をいつも見てますのでテレビを見ていないんですけど、この世の出来事はだいたいみな分かるんですが、なぜ殺してはいけないのかというテーマで雑誌が編集されておりました。 「どうして殺してはいけないのかなあ。」、と僕もそれを見たときにそういう考えに引きずり込まれそうになったんですけど、なぜ殺してはいけないのかということがテーマになる、そういう状態こそが本当にいかにこの社会が病んでいるか、っていうことを表わしていることではないかと思います。 大変な状態の中に私たちは置かれているように思います。 イエス様は、わたしは正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来たのです、と仰せになりました。 マルコの福音書2:17
イエス様のお立場を、これ以上はっきりと表わしているみことばはないのではないかと思うくらいです。でも正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにと仰せになりましたけど、人はみんな「自分は正しい。」、と本当は思っているのではないでしょうか。 そして、「ほかの人は罪人かも知れん、と思いますけど、自分に関しては罪人など、とんでもない。」、と多くの人は心の中で思っているのだろうと思います。 そして本当にそうなら、その国は理想的な国でしょうけど、でも日本に限らず現代の社会の状況はどうなのでしょうか。 一、二箇所だけ旧約聖書から、本当にこの世界の状況をよく表わしていると思うみことばを見てみたいと思います。 イザヤ書2:7-8
世界の指導的な国、あるいは豊かな国というのは、まさにすべてこういう状態に陥っているように思います。 イザヤ書5:20-21
自分は正しいと言い張る者の姿がここに描かれています。でももちろんそれは、自分だけで通る世界のことであります。いや本当は自分にだって通らないのではないのでしょうか。 先ほど見ましたイザヤ書2章の9節には恐ろしい言葉が書かれています。多くの豊かさ、富み、軍事、そして経済的発展、そういうものの中で イザヤ書2:9
本当に、納得の出来る言葉だろうと思います。 エレミヤ書2:19
人の目はごまかせても自分の良心はごまかすことが出来ない。人である限りたとえどう言い繕うと、自分のありのままの姿を本当は自分こそが最もよく知っている、ということがここに記されています。 イエス様はこのような、本当にあなたの悪があなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める、というような状態にいる人間をあわれんでくださり、救おうと思って、言い換えますといのちを与えるために、この世に来てくださいました。 そしてご自分から十字架に架かってくださって、私たちを責め立てるものの罪から私たちを解放してくださった、ということを私たちは聖書を通して知ることが出来ます。 でも、そのイエス様が成し遂げてくださった救いにあずかるには、少なくとも自分には罪があるということを認める必要があるのではないでしょうか。 正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来たと仰せになった言葉は正しい、と言い張る者は、御救いのうちに招かれることがない、ということを意味しています。 自分が罪人であるということを自覚する者だけが招かれるのだ、ということを示しているのではないかと思います。 事実、「私は正しい人だ。」と思っている、そういう人々にはイエス様の救いは無意味なものではないかと思います。ただ自分の罪におののき、自分の人生が本当に惨めだということを知る人だけが、イエス様の救いに喜んであずかることが出来るのだろうと思います。 今日はヨハネの福音書の8章から、イエス様の御心についてご一緒に学んでみたいと思います。 ヨハネの福音書8:1-11
まあ本当に惨めな女性というのはこういう人のことだろうと思います。姦淫の場で捕えられた。それだけではなくて人込みの中に、しかも宮の中にまで連れて来られて、そしてみんながこれみよがしにイエス様の前に置いたということが分かります。 イエス様を告発する理由が欲しかったパリサイ人と律法学者は、それみたことかと言わんばかりに固唾をのむ思いでイエス様から出るお言葉を待っておりました。 不思議なことだと思うんですけど、イエス様は身をかがめて指で地面に書いておられた、と書かれています。 文字通りに身を低く低くされてるイエス様と、そのイエス様を上から見下ろしているパリサイ人や律法学者たちの、何かもう今にも自分たちの期待通りのことが起こらんという、そのときを待ちわびているかのような眼差しとがここで不思議な対比をなしているように思います。 人々の目はその女性と、惨めな女性とそれからイエス様の間を行ったり来たりしながら、イエス様から出るお答を待っていたのだろうと思います。 この女性を連れて来た律法学者もパリサイ人も、まさに他人の罪については声を荒げて言うことは出来ても、自分には罪があるなどということは、本気で考えたことのない人たちであったようであります。 まあ、要するに自分は正しいと言い張る人たちであったのだと思います。そしてそういう人たちに向けて発せられた7節のみことばは、あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい、というお言葉でありました。 このお言葉から分かることは、このときのイエス様の最大の関心は、実はこのパリサイ人や律法学者たちの救いのために本当に必要なものは何かっていうことであった、ということが分かります。 だからこそイエス様の口からこのお言葉が発せられると、事態は一変致しました。それまで勝ち誇ったようにイエス様と女性を眺めていた人たちの目は、ひとりひとり自分のうちに向けられ始めました。そして年長者から始めてひとりひとりと、その場を立ち去って行ったと書かれています。 10節でイエス様は、その女性に向かって「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」とお語りになりました。尋ねられました。 この問いの前半は、「あの人たちは今どこにいますか。」、というこの問いは、当然のことですけど女性には答えられるはずのない問いであります。どこに行ったのか分かんないのですから。これは女性に尋ねられたのではなくて、女性の注意を、いなくなった人たちに向けさせるためのお言葉だっていうことは言うまでもありません。 イエス様の前に来ていながら、そしてイエス様のみことばを受けて自分の罪を直視することを始めながら、しかしそれでもなおイエス様の前で重荷を降ろそうとはしなかった人たち。そういう人たちが重荷を抱えたままで立ち去って行った。そのことに、主は注意を向けさせようとなさっているのだということは明らかであります。 言い換えますと、あなたはどうするのかという女性への問いかけであるといってもいいのでないかと思います。 それで10節の後半では、あなたを罪に定める者はなかったのですか、と主はお尋ねになりました。それはいうまでもなく、女性への問いかけであります。しかしその問いかけは、さらに深い意味をもっているのではないでしょうか。なぜなら人を罪に定めることの出来るのは神さまお一人であります。 しかしそのことをあえて伏せたままで、イエス様がお尋ねになっていることは、実はこの女性がイエス様に言われて、言わば教えられて、そのことを知識として、指導ではなく自分から自分の罪を自覚することによって、悔い改めに至ることを促しておられるのだ、ということではないかと思います。 でも女性の答えは、イエス様の期待とはまったく違ったものではなかったのでしょうか。11節、彼女は、「誰もいません。」、と答えています。 この女性は罪に定めることの出来るお方も、本当の意味で罪を赦すことの出来るお方にも、全然注意を払おうとはしませんでした。誰もいなくなって、あたかもすべてが解決したかのような態度がそこにみてとれます。 ヨハネの福音書8:11
そこでイエスは言われた。そこで仰せになりました。「誰もいません。」、という答えがなければ仰らなかったかもしれない。いや仰らなかったでしょう。 誰もいませんという答えだったからこそ仰せになった、ということです。わたしがまだ残っている。本当の意味であなたに罪を定めることができ、あなたを赦すことが出来るわたしがまだ残っているということを、主はお語りになりました。 わたしもあなたを罪に定めない。 ご自身立ち去る必要のない、ただ一人唯一の方、その主があなたを罪に定めない、と仰せになっています。ここまで仰せになっても、この女性には自分の罪の自覚も、罪そのものも、そして罪を赦すことの出来るお方についても、実は何一つ分からなかったのではないかと思います。なぜならその後のお言葉は非常に厳しいものなんです。 普通イエス様は、こういうときに安心して行きなさいとか、健やかでいなさいとかという、祝福のお言葉をおかけになりました。 でもこの女性に向かっては、今からは決して罪を犯してはなりませんと、お語りになっています。もちろん罪を犯さないで生きていくなどということは、ありえないことだろうと思います。 ですからこれはむしろ、罪というものを真剣に考えて生きていきなさい、と主が仰せになったみことばではないかと思います。 この女性は自分の惨めな状態を知らず、罪を知らず、罪に定め、罪を赦すお方についても考えようとはせず、ただ人間の目だけを恐れています。言うまでもなくこの女性の姿は、現代人の生き方そのものなのではないでしょうか。 そして主は、私たち一人一人に対しても、「わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」、とお語りになっているのだと思い知らせられるように思います。 注意したいことの一つは、この女性に、「わたしもあなたを罪に定めない。」、と罪の赦しが宣言されていることだと思います。 悔い改めもなく、信仰もなく、自分の意思でイエス様のところへ来たのでもない人に向かって、一方的な罪の赦しの宣言がここでなされています。 どうしたことかなあと思います。でもそれこそがイエス様の十字架の恵みなのではないでしょうか。 ローマ人への手紙5:8
私たちがまだ罪人であったときに、キリストは死んでくださった。もし私たちが悔い改めるのを待っていて、キリストが十字架におかかりになるんだったら、キリストはまだ十字架におかかりになれるときが来ていないのではないでしょうか。 私たちが悔い改めをすることが出来るのは、本当はイエス様の十字架によってすでに罪が赦されているということを知るからこそ、私たちは安心して、喜んで、悔い改めが出来るのではないでしょうか。 ここに十字架の救いが、本当に私たちがまだ罪人であったときになされたのだということ。イエス様のみことばで、このとき主はお語りになっているのだということを知るように思います。 しかしだからこそ、福音を受けた者は、悔い改めが求められるのではないかと思います。今からは決して罪を犯してはなりません、というあのみことばは、自分の罪を自覚し、悔い改めを求めておられるお言葉であることは、いうまでもないと思います。 救いを受けた者こそ、悔い改め、導かれることが必要なのだと主はお語りになっているのではないでしょうか。 そのことは、この女性だけにではなく実は、イエス様の弟子たちにもあてはまることであったように思います。 ヨハネの福音書15:3
弟子たちはイエス様のみことばを受けてもうきよめられてる、と主はお語りになりました。でもこのみことばをいただいた時の弟子たちの有り様はどうだったのでしょうか。本当にそれにふさわしい姿だったのでしょうか。 福音書を読む者には、全然そうじゃなかったっていうことが知らせられます。それどころかペテロは、イエス様なんか知らない!と、 三度も言いました。そのような者に向かって主は、もうきよいのですと仰せになっています。 でもイエス様のお言葉はそれで終わりませんでした。その後を見ていきたいと思います。 ヨハネの福音書15:4-6
もうきよいのですと言われた弟子たちに対し、続けて主はこういうふうにお語りになりました。 悔い改めに先立ってきよめが与えられているからこそ、主につながっていることが大切なのだ、それがなければ何にもならない、ということをイエス様はここでお語りになっているのだろうと思います。 先ほど見てまいりました姦淫ということは、あの十戒の中にも、姦淫をしてはならない、と書かれておりました。姦淫の本質っていうものは一体なんなのでしょうか。姦淫とはまさに自分が愛する人を裏切ること、あるいは自分を愛してくれる人を裏切ること、それにつきるのではないかと思います。 そしてそういう状態は、自分を愛してくれる人、あるいは自分が愛する人と自分が本当の意味でつながっていない状態にあるということを意味しているのではないかと思います。 そういう意味で、自分を本当に愛してくださっているお方に対する背信であるという意味で、姦淫は旧約聖書の中では神さまの御心に対して裏切る者の姿を象徴する言葉として頻繁に使われているのではないでしょうか。 天地万物をお創りになり、私たちを愛のうちにお創りになり、そして育まれたお方に対する裏切りが、まさに姦淫に例えられているということは、この言葉があるいはこの事実が人間にとってどれほど背信の行為であり、同時に人を惨めにする行為であるかということを、これ以上ないほど示していると思います。 私たちは、先ほど読みましたヨハネの福音書の1節から11節の状況を思い浮かべます時に、一体自分はあの場にいる誰と同じような立場にいるのかなあと考えてしまうのではないかと思います。 私たちの現状は、律法学者だろうと思います。自分のことは棚に上げて、他人のこと、いや他人じゃなしに身近な人のことをとやかく言う。その自分の姿をそこに見出します。しかしそれと同時に、この女性と同じ立場にいる可能性もあるのではないかなと思います。 実はパリサイ人も律法学者もこの女性も、イエス様がご覧になれば同じだったのではないでしょうか。そしてそれは、もしかしたらイエス様を信じる者の中にもある姿なのではないかと思います。 ヨハネの黙示録2章、そのことを少しだけ見て終わりたいと思います。 ヨハネの黙示録2:4-5
あなたは初めの愛から離れてしまった。あなたは思いださないと分からない。本当の惨めさをここが示しています。 ヨハネの黙示録3:1-2
あなたは生きているとされているけれども、救われた者と自分は思っているけれども死んでいる。 ヨハネの黙示録3:17
全部信じる者に向かって語られているみことばであります。そしてそれは、あのパリサイ人や律法学者やそしてみじめな女性に向かって語られても、全然おかしくもないみことばなのではないでしょうか。 いずれも、本当の意味で自分を愛してくださっている唯一のお方につながっていない状態に陥ることを、私たちに警告しているみことばではないかと思います。 一年を振り返って、この年私たちは本当に主につながって実を結ぶ者であったのでしょうか?「感謝します。感謝します。」、と言いながら、もしかしたら心は主から遠く離れていた者ではないか?ということを振り返ってみる必要があるのではないかと思います。 ヨハネの黙示録にある教会の長老たちが、御使いが書き送られたように思い出さないと分からないほど、もしかしたら主から遠く離れて歩んでいたのではないかと思います。 主を見つめるまなざしが、いつの間にか周りの人たちに向けられ、そして自分を誇る気持ちに陥っている時、私たちは主を外に追い出している、そういう状態で過ごしているのではないかと思います。 すぐに新しい年がまいります。本当に新しい年こそ、本当にそういわなければならない自分の状況が本当に恥ずかしいんですけど、新しい年こそ、主につながって、主とともに生きる年でありたいと思います。 どうもありがとうございました。 |