引用聖句:使徒の働き1章3節-8節
おはようございます。 よみがえられたイエス様は、40日にわたってご自身を弟子たちに現されました。特別の状況の中でイエス様が明らかにされたことは、もちろんその時いた弟子たちだけではなくて、私たちにとっても特別に大切なことであるとそういうふうに言えるのではないかと思いました。 ですから、今日はこの時のイエス様のみことばと御業から、私たちが知るべきこと、また知る必要のないことについて、ご一緒に考えてみたいと思います。 私たちが知るべきこととして、イエス様が明らかになさったことは2つあります。もっともその2つというのは、ちょうど家の壁と柱のようなものであって、壁は神の国、柱はイエス様そのものであります。 最初はその一つ、神の国についてご一緒に考えてみたいと思います。 イエス様は、表現は違いますけれど、いつも神の国についてお語りになりました。何箇所か見てみたいと思います。 マタイの福音書12:28
ヨハネの福音書3:3
ヨハネの福音書11:25-26
もちろん神の国についての話であります。 ヨハネの福音書12:46
表現はいろいろですけど、イエス様はいつも神の国についてお語りくださいました。 そもそもイエス様が、最初にお語りになったことは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」、マルコの福音書1章15節です。 また、イエス様はある時、「どうしても神の国を宣べ伝えなければなりません。わたしはそのために、もちろん主なる神によって遣わされたのですから。」とこういうふうに仰っています。ルカの福音書4章43節です。 またあの十字架の上で、イエス様は、悔い改めた犯罪人におかけになった言葉も神の国を表しています。「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」 ですからイエス様は、最初から最後まで、一番最初のみことばから、十字架の上のみことばに至るまで、いつも神の国についてお語りになりました。 イエス様がお語りになったことは、本当に神の国についてであったんだなと、私たちは知ることができます。 そして私たちが知るべきもう一つのことは、イエス様がお示しになったように、主イエスは生きておられるということであります。 もし私たちが、この地上のどこかの国について語ろうとしますと、どうでしょう、まず面積を挙げます。人口を挙げます。首都の名を挙げます。主な産業、豊かさ、地理的条件、そういったものを私たちは語るのではないかと思います。 しかしイエス様の時代、人々にとって国というものに対する関心は、多分、領土と支配者だけだったのではないでしょうか。 もちろん神の国の場合は、イエス様が仰せになったように、神の国は、この世のものではありません。また神の国は、人の目で認められるようにして来るものでもありませんし、そういうふうにイエス様が仰っているように、神の国の領土は、まさに主なる神の支配が及ぶ全域であり、したがって、全宇宙、全世界に及んでいます。目に見えるか見えないかは別として及んでいます。 神の国に関しては、人間が考えるような意味での領域は問題とすることに足りないということは明らかであります。 ですから、神の国に関して、大切なことはただ一つだけなのです。それは、誰が支配しておられるのか。神の国はいったい誰のものかということであります。そのことについても、私たちはもちろん明らかな答えを持っています。神の国は、言うまでもなく、主なる神ご自身のものであります。 主なる神は、天と地の創造主であられ、支配者であられます。天と地が造られる前から永遠の後まで、生きておられるお方です。このお方が支配者でない部分、国といい組織といい、そういったものはすべて人間のものであり、神の国とは関係のないものであるということは明らかであります。 イエス様が、神の国についてお語りになったように、使徒たちも神の国を宣べ伝えましたけれども、その時、使徒たちが最も力を注いだことは、「イエスは主である。」ということであったのではなかったのでしょうか。 確かにイエス様は、十字架にお架かりになられる前に、御自身が神の御子であることを明らかにしておられました。何箇所か見てみたいと思います。 ヨハネの福音書10:30
このようなことは、イエス様以外には言えないことであります。「わたしと父なる神とは一つです。」イエス様は、そのことを明らかになさいました。 ヨハネの福音書14:9
マタイの福音書11:27
イエス様は、このように弟子たちに証しをしておられました。 主なる神もまた、もちろんイエス様がお語りになったことは、イエス様が仰ったように「わたしは、自分からは何も話しません。主が語れとお命じになることだけを話します。」と仰ったように、イエス様のみことばは、そのまま主なる神のみことばですけど、主なる神もまたお語りになっています。 マタイの福音書2:1-4
ヘロデが、ユダヤ人の王はキリストだとピンときたということは、すごいことだなと思います。どういう気持ちを持つ者にもイエス様は、主であるということを、主はお示しになりました。 また後で出てきますけれど、ユダヤ人の王とは、イエス様はキリストであるということであります。そしてもう一箇所、イエス様が十字架にお架かりになった時、十字架の上に掲げられた罪状書きには、よく知られているように、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」とべブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていました。 そのことを通して、主なる神は、イエス様が聖書を通して約束されたユダヤ人の王であるということを、ラテン語、ギリシャ語で書かれたということは、全世界に向けて、主なる神はそのことを知らせられたということは明らかであります。 もちろんピラトが書いたのですけど、主なる神がピラトを通してお書きになっています。多くの弟子たちは、ですから頭の中では、イエス様は神の御子であると受けとめていたのではないかと思います。 しかし、彼らが予期しなかったこと、つまりイエス様が十字架の上で亡くなられるということが起こりました。このことによって、弟子たちのあいだに動揺が生じました。福音書すべてがそのことを明らかに記しています。 ですから、彼らは生まれたままの彼らの頭では、イエス様は本当に神の御子なのだろうか、イエス様は本当にキリストなのだろうかという思いが、この時あったことは明らかであります。 ですから、よみがえられたイエス様は、ご自身が死に勝利されたお方であり、もはや決して死ぬことがないお方であることを弟子たちにお示しになったと言えるのではないかと思います。 イエス様は、事実そのとおりであります。 ローマ人への手紙6:9
そして、イエス様がよみがえられたのは、主となるためであったと記されています。 ローマ人への手紙14:9
イエス様は、主であるとここに記されています。そして、主イエス様についてエペソ人への手紙は記しています。 エペソ人への手紙1:20-21
まさしくイエス様は、主なる神と同じお方であるということが記されています。 イエス様は主でいらっしゃいます。天と地のいっさいのものにまさる支配と権威を持っておられます。イエス様のものは、すべて神の国のものであるということは明らかであります。 たとえば、イエス様は、私たちを愛してくださいます。どういうふうに愛してくださるのでしょうか。 ヨハネの福音書15:9
イエス様が愛してくださった愛は、父なる神の愛、まさしく神の国の愛だということは、はっきりとしています。 イエス様は、平安を与えてくださいます。どういう平安なのでしょうか。 ヨハネの福音書14:27
どう違うのでしょうか。世が与える平安は、地から出る平安であり、イエス様が与えてくださる平安は、上からの平安、神の国の平安だということは明らかであります。 では、イエス様がよみがえられなかったら、いったいどうだったのでしょうか。 聖書は語っています。2箇所だけ見たいと思います。 コリント人への手紙第I、15:14、17-19
こういうふうに記されています。問題は、イエス様がよみがえられたか、よみがえられなかったかという点であります。 イエス様がよみがえられたのなら、すべてはもう成就しています。でも、もしイエス様がよみがえられなかったら、すべては空しい、そう記されています。 ですから、使徒たちが神の国を宣べ伝えるにあたって、最も大切なこととして伝えたのは、イエス様がよみがえられた、イエス様は生きておられる、イエス様は主であるということであったことは、聖書に記されている通りであります。 コリント人への手紙第I、15:3-6、8
最も大切なこととパウロはここに記しています。 主イエス様は生きておられますから、私たちはどのような状況にあっても、希望を失う必要はありません。主は、ご自身の栄光の富を持って、私たちの必要をすべて満たしてくださいます。また、私たちをご自身に似た者と変えてくださいます。 イエス様に似た者、考えられない恵みであります。 私たちのように、失礼しました、僕のように、イライラすることなく、すぐにつぶやく者ではなく、いつも前を向いて歩める者に、イエス様は変えてくださる。いつも光の中に留まることのできる者に変えてくださる。本当に大きな恵みであります。 ですから私たちは、イエス様を恐れ、イエス様を愛し、イエス様に従うことをおろそかにしてはならない。生きておられるからです。そのことを教えられるのであります。 次は、私たちが知る必要のないことについて考えたいと思います。もう一度、使徒の働き1章7節を読んでみます。 使徒の働き1:7
イエス様は、こういうふうに仰せになりました。このみことばは、私たちの信仰生活にとって、とっても大切なみことばではないかと思います。 イエス様を信じる時には、このみことばは、そんなに大切ではありませんけど、私たちが成長していく上で、とっても大切なみことばではないかと思います。 私たちはどうでしょう。悩みの中で、苦しみの中で、寂しさの中で、あるいは予期せぬことが起こった時、「なぜだろう、どうしてなのだろう。」と知りたがるのではないでしょうか。「いったい、何時までなのですか。」そういうふうにつぶやいてしまう者ではないかと思います。 でも、考えてみてください。無から有をお造りになったお方、何もない所に天と地をお造りになったお方が、お考えになることはだいたい人間にはあり得ない。無から有を造るなどということは、私たちは絶対に考えることはできない。 そういうことをなさるお方が、お考えになることは、人間の理解をはるかに超えています。ですから、主がご自分の権威を持ってお定めになっていることは、私たちの理解を超えています。 主が知らせてくださる以外のことについては、私たちは知ることができないだけではなくて、イエス様は、ここでは知る必要がないと仰せになりました。 イエス様は、よく知られているように、あの山上の垂訓の中で、「明日のための心配は無用です。明日のことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」と仰せになっています。 これは、単なる人生訓ではありません。 主の権威を恐れ、敬い、主により頼んで生きるようにと仰せになっているのではなかったのでしょうか。 ユダヤ人たちは、イエス様がキリストであることを信じようとはしませんでした。イエス様のことばに信頼しないで、自分の頭で「このイエスがキリストなのだろうか。そんなことはあり得ない。」と彼らは考えたからであります。でも、考えても解からないことだったのです。そして、知ることができなければ、人は約束そのものを疑いはじめます。 ここに不信仰の霊が働いてまいります。こうして、多くの人々がイエス様から離れて行きました。大切なことは、主が知らせてくださっていることを知ることであり、また主の約束を信じ、待ち望むことであります。 主が知らせてくださっていないことは、私たちは知ろうとする必要はないのであります。神の国についても、もちろんそうであります。 神の国について、いろいろな人が、いろいろなことを語っています。 人間は、神の国について具体的に詳しく知りたい、神の国はこの世といったいどのような関係を持っているのだろう。 私たちは、神の国にあって何を成すべきなのだろうなどということを考えてきましたし、今も考えている人がいるのではないかと思います。もちろんそうしたことは、みことばに尋ねることは必要であります。意識してみことばに尋ねるべきではないかと思います。 しかし、人によっては、みことばを拡大解釈し、自分の頭で考えて作り上げた答えに従って行動しようとするのではないかと思います。 かつて、「カトリック教会こそが、神の国である。」と書かれていたのを読んだことがあります。でも、本当にそう言ったとすれば、大変な間違いであります。 私たちは、本当に神の国を知りたいと思ったら、どうするのでしょうか。イエス様を知ることです。それこそが、神の国を知ることであります。 ヨハネの福音書1:10-12
神の国にあって生きたいと願うなら、イエス様との交わりの内に生きることだということが言えるのであります。 以上、私たちが知るべきこと、また知る必要のないことについて考えてまいりました。 最後に、使徒の働きの1章5節で、イエス様が仰ったみことば、すなわち「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けます。」と仰せになったその約束のみことばについて、短く考えて終わりたいと思います。 「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けます。」、事実そのとおりに、五旬節の日に、弟子たちは聖霊を受け、全員が聖霊に満たされて、大胆に主イエス様を証しし始めました。 それまでユダヤ人を恐れて、戸を閉めて家の中に入っていた弟子たちが、立ち上がって多くの人々の前で、イエス様を証しし始めたのであります。 ペテロが語ったことの要点は、多分、使徒の働き2章36節から38節ではないかと思います。 使徒の働き2:36-38
こういうふうにペテロは語っています。 もちろん、イエス様に反対する人たちは、たくさんいました。その一人はパウロでした。パウロは、イエス様に強固に反対していましたけれど、よみがえられたイエス様に出会って、彼は聖霊を受け、イエス様のものとなり、彼もまた大胆に語りました。 一箇所だけ見てみたいと思います。 使徒の働き28:30-31
使徒の働きは、ここで終わっています。使徒の働きの冒頭はどうだったのでしょうか。冒頭1章3節には、よみがえられたイエス様は、「四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」とありました。 同じことがここに繰りかえされています。違うのは、冒頭はイエス様であり、この最後は、末尾はパウロであります。このことから、使徒の働きは一つの目的を持って書かれたということが解かります。 それは、使徒たちは皆、ペテロもそうでしたけれども、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。そのことを詳しく記したのが、使徒の働きであると言えるのではないかと思います。 大切なことは、それよりももっと大切なことは、聖霊を受けた人たちは、みな同じ心で、同じことを語ったということ実です。 彼らは、「イエス様は主です。悔い改めてイエス様を信じるなら救われます。」と皆語りました。こうして、初代教会は、めざましい成長を続けたとあります。 「あなたがたは、わたしの証人となります。」と仰せになったイエス様のみことばは、確実に使徒たちの上に成就したということは、言うまでもないことであります。 主イエス様を信じる私たちは、皆初代教会の信者たちと同じように聖霊を受けています。 そして「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とのみことばが示すように、私たちが救われたのは、よくベック兄が仰るように、主を証しする者となるためということが明らかであります。 私たちは、このイエス様の御心に従う者でありたいと思います。 最後に、パウロの証しを読んで終わりたいと思います。 使徒の働き26:17-20
パウロは、こういうふうに自分の信仰生活を語ることができたのです。 苦しみばっかりでしたけど、パウロの心は喜びで満たされていた、そのことを深く思わされるのでございます。 どうもありがとうございました。 |