引用聖句:コリント人への手紙第I、11章23節-28節
おはようございます。私たちは毎週、礼拝の中でパンと杯にあずかっています。 しかし、今お読みくださいました所にあるように、「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」とあります。 ふさわしくないとは、いったいどういうことなのでありましょうか。今日はそのことを中心にご一緒に学んでみたいと思います。 イエス様は、過越の祭りの前に、この世を去るべきご自分の時が来たことをお知りになりました。 ヨハネの福音書13:1
過越の祭りの前にお知りになったとあります。そしてその通りに、イエス様は過越の祭りの日に、十字架にお架かりになりました。もちろんそれは偶然ではありませんでした。 エジプトでの過越が、イスラエル民族に救いをもたらしたように、イエス様の十字架は、全人類のための真の過越である、全人類に救いをもたらすものであるということを、明らかになさるものであったということは言うまでもありません。 少しエジプトでの過越について考えてみたいと思います。 出エジプト記12:5-8
出エジプト記12:11-13
ここにありますように、エジプトでの過越では全集会は集って羊をほふり、そして肉を食べ、血を家々の門柱とかもいに塗るようにと、主なる神はお命じになりました。11節にあるように、その羊は主への過越のいけにえであると記されています。 そして、主はかもいと門柱に血が塗られているのを見れば、その所を通り越す、過越と約束なさいました。ですからこの過越では、とりわけ血が重要であったということが解かります。ほふられた小羊の血がとりわけ重要でした。その血をかもいと門柱に塗っていれば、わたしは通り越そうと仰せになったからであります。 そして主なる神は、かもいと門柱に血が塗られていない家のすべての初子を、この夜、打たれました。こうして、エジプトの王パロは、イスラエル人がエジプトを脱出することを許可いたしました。 集団で全集会は集ってほふり、そしてその肉と血を集団で使ったわけです。そのイスラエル人は、かもいと柱に血を塗ったイスラエル人は、この時、エジプトの奴隷の状態から解放されたのでございます。 エジプトでの過越は、この時一回きりのことでした。しかし、イスラエル人はこれを記念して、今に至るまで毎年、過越の祭りをしています。 そして、イエス様が十字架にお架かりになったのは、その過越の祭りの日であったということは、ヨハネの福音書もそして他の福音書も記している通りであります。解放されたイスラエルに与えられた主のみことばは、出エジプト記19章4節から6節に記されています。 出エジプト記19:4-6
ここにありますように、主なる神の目的は、単にイスラエルを解放するだけではなくて、イスラエルを祭司の王国、聖なる国民とすることであったと記されています。 ですから、イスラエルには、第一に主を愛すること、それが求められました。 申命記6:4-5
イスラエルにとって、偶像の神々に仕えるというようなことは、決してあってはならないことであったと解かります。 でも現実は全く違いました。彼らは、すぐに金の子牛を作り、それを崇めはじめたばかりか、偶像の様々な神々をカナンの地に入ってからは崇め、はなはだしく堕落した民となっています。 このため、永遠の愛をもってイスラエルを愛しておられる、主なる神は、イスラエルを立て直そうと計画をなさっています。 エレミヤ書31:3-4
そういうふうに主は、お語りになり計画をなさいました。そして、このイスラエルを立て直す計画のために、その計画を成し遂げるために、イエス様は十字架に架かって死ぬため、人となって来てくださいました。 イエス様が来てくださったのは、十字架に架かって死ぬためでしたけれども、それはさらに、その上位にイスラエルを立て直すというご目的があったのであります。 ですから、バプテスマのヨハネは、イエス様をよく知られているように「世の罪を取り除く、神の小羊」と呼びました。 ヨハネの福音書1:29
この神の小羊とは、あのエジプトでの過越でほふられた羊を連想させるものであります。というよりも、エジプトでの過越でほふられた小羊が、模型であったとすれば、このヨハネが言った「世の罪を取り除く神の小羊」こそが、まことのほふられるべき小羊であると言えるのではないかと思います。 イエス様は、世の罪を取り除く神の小羊として、十字架に架かってくださいましたけれども、その時イエス様の手足からも、鞭打たれたからだの傷からも、さらに兵士の一人が、脇腹を槍で突き刺した時、そこからも水とともに血が流れています。 このようにして、イエス様の血は十字架上に流されました。神の小羊であるイエス様が、十字架に架かられたのは、先ほどから申しておりますように、過越の祭りの日でありました。そしてイエス様は、全人類の解放のための、まことの過越の小羊であったと聖書は記しています。 コリント人への手紙第I、5:7
イエス様こそが、まことの過越の小羊であるということを明らかにしています。 エジプトでの過越を思い出したいんですけど、そのエジプトの過越で最も重要な役割を果たしたのは、先ほどから申しておりますように、門柱とかもいに塗られた小羊の血でした。そして同じように、まことの過越であるイエス様の十字架の死においても、血が決定的に重要でした。 イエス様は、そのことを明らかにするために、あのコリント人への手紙第I、1章のところで、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。」と仰せになっています。 イエス様の血によって、新しい完全な契約が与えられました。言うまでもなく、新しい契約があれば、古い契約があります。 主なる神は、その古い契約と新しい契約との関係をエレミヤ書31章31節から34節でお語りになりました。 エレミヤ書31:31-34
こういうふうに記されています。古い契約とは、エジプトでの過越を経て与えられたものであったと記されています。 約束された新しい契約は、「咎を赦し、罪を二度と思い出さない」ものであり「わたしは、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」ものだとお語りになりました。 そしてここで最も大切なことは、多分主を知るということではないかと思います。34節「そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。」、なぜなら、約束されているすべてのことは、この「主を知る」ということにかかっているからであります。 イエス様の血による新しい契約は、始めの時の違反を贖うための死が実現したことによるものであり、ここにあるように、罪の赦し、主なる神との和解、そして神のイスラエルの選びをも含む、広くまた完全な契約でした。具体的に見ていきたいと思います。 新しい契約の基盤となるものは、エジプトを脱出した場合と同じように、十字架の血による罪の赦しでした。 ヘブル人への手紙9:22
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」とあるように、罪の赦しには血がどうしても必要なのです。 そして主なる神は、イエス様をそのために血によるなだめの供え物となさいました。 ローマ人への手紙3:25
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない。神は、キリスト・イエスを、その血による、なだめの供え物として、公にお示しになったのであります。 エジプトで、かもいと門柱に塗られた血を見て、主なる神が通り過ぎ、裁きの対象からはずされたように、イエス様の血を見て、主なる神は罪に対する怒りを納め、罪を赦されたと言うことができます。イエス様の血によって、すべての罪は赦されています。 エペソ人への手紙1:7
今急いで見てまいりましたように、新しい契約はイエス様の血による罪の赦しの上に成り立っている。このイエス様の血による罪の赦しという事実がなければ、何もなかったということが言えるのであります。 そして、この血による罪の赦しがあったから、こんどは新しい契約そのものとも言える、主なる神との和解が与えられたのであります。 コロサイ人への手紙1:19-20
もちろん、万物ですから私たち一人ひとり例外なしに、和解へと召し出されていると言えるのであります。 主なる神との和解にあずかった者は、イエス様を長子とする神の子供とされ、そしてそれによって、新しい契約の受け手となる、神のイスラエルの選びの準備が完了したと言えるのではないでしょうか。 イエス様の血によって罪が贖われ、そのことによって新しい契約の中心的な問題である、主なる神との和解が与えられ、そしてその主なる神との和解にあずかった者をもって、新しい契約の受け手となる神のイスラエルを、主なる神は選び出される、その一連の準備であるとともに、事実ですけど、神の選びの新しい神のイスラエルの選びだけは準備ですけど、そこのところが完了したのではなかったのでしょうか。 なぜ、準備だ、準備だとそこで言っているかといいますと、それはイエス様の血は、すべての人類の罪を赦し、主なる神との和解をすべての人に提供していますけど、でもそれを受けるかどうかは、一人ひとりの決断にかかっているからであります。 イエス様が死んでくださって、血を流された時、すべての人が救われるための準備が成されましたけど、それを本当に自分のものとして、言い換えるなら有効なものとして受けるかどうかは、一人ひとりの信仰にかかっているからであります。 ただ、イエス様を信じる者だけに、その事実は恵みとして与えられるということを、私たちは知っています。 エペソ人への手紙2:8
イエス様が成してくださった救いの恵みは、御業は、自動的に全人類に当てはまるものではなく、それを信仰によって受け止める者に、恵みとして与えられるということは、聖書が一貫して語っている事実であります。 そして、その恵みにあずかった者こそが、イエス様の死とともに死に、イエス様の復活にあって新しく生まれた者として、神のイスラエルの民に加えられるのであります。 ローマ人への手紙6:4-6
コリント人への手紙第II、5:17
イエス様と共に死に、イエス様のよみがえりにあって、イエス様と共に生きる者とされている。それは、新しくされた、新しく造られた者として生きているのだと約束が与えられています。 そして、その約束が事実と言えるのは、一人ひとりの内に永遠のいのちそのものであるイエス様が、聖霊、御霊として住んでいてくださるからではないでしょうか。 ローマ人への手紙8:9-11
イエス様と共に死に、イエス様のよみがえりと共に、新しく造られた一人ひとりの内には、イエス様の御霊が住んでいてくださる、そのことを明らかにしています。 どうだったでしょうか、エレミヤを通して、あのエレミヤ書31章33節の中で、主はこう仰せられました。 「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」と仰せになりましたけど、その約束は、御霊が私たちの内に住んでくださることによって、イエス様ご自身が御霊として住んでくださることによって、はるかに深く、完全に書きしるされていると言っていいのではないでしょうか。 御霊に満たされるなら、文字では書き表せない、その御心のすべてが私たちの心に書きしるされているのだと言うことができるのであります。 そして主なる神は、この新しい創造にあずかった者を、神のイスラエルとすることにしてくださいました。そしてそれによって、イスラエルを建て直すことを成就なさったのであります。 ガラテヤ人への手紙6:15-16
信仰によって、義と認められた者は、新しく生まれた者として、神のイスラエルとして、今、主の選びの民としての歩みをしていると言っていいのではないかと思います。 集会では、日曜ごとに礼拝を捧げ、聖餐にあずかります。 今見てまいりましたように、聖餐はイエス様がご自身を過越の小羊として捧げられた、そのまことの過越に基づくものであり、パンは神のイスラエルの選び、杯は新しい契約を象徴するものだと言えるのではなかったでしょうか。 私たちは、パンにあずかることを通して、集会が神のイスラエルであることを新たに覚えるのではないでしょうか。 ですからパンは、キリストとの交わりのうちにある一致と、そしてみからだなる教会の成長を願う、祈りをもって受け止めるべきものだと言うことができるのであります。また、杯にあずかることを通して、血による新しい契約を覚えるのであります。 ですから、罪の赦しと神との和解が与えられた恵みを、イエス様に感謝すると共に、イエス様に従って歩む決意を新たにして、受けるべきものではないのでしょうか。単に、自分の何らかの罪を悔い改めてという、そういう自分の個人的な問題ではなくて、「わたしを覚えて、これを行いなさい。」とイエス様が仰ったのです。 あなたは、自分の姿をわたしの前に照らし出してというよりも、はるかに深く「わたしを覚えて」と仰せになったその意味は、ずっと前向きのものなんです。 もっともっと主の御心にかなう者として、私自身が、そして集会が用いられるようにと聖餐は与えられているものだということを、心に留めるべきではないかなと、この学びを準備しながら思わされました。 イスラエル人は、他ならぬ過越の祭りの日に、イエス様を十字架につけました。主なる神との交わりを失えば、あのイスラエル人にとって、最も大切な祭りの一つであった過越の祭りでさえも、単なる儀式となってしまい、そこでの主役は悪魔だったんです。 これは私たちに対する重大な警告なのではないかなと思います。私たちがもしイエス様との交わりを失ってしまえば、私たちの礼拝もまた、悪魔の支配下に置かれてしまい、そして十字架は隠され、褒めたたえるべきものはイエス様ではなくて、人間を通して悪魔だということになってしまうことは、疑う余地がないと思わされます。 イエス様は、自分を吟味して聖餐にあずかりなさいと仰せになりました。この命令は、単に罪を悔い改めなさいというだけのものではなくて、吟味すべきものはイエス様との関係であると言うべきではないかと思います。ですから、自分を吟味する上で、役立つと思われるみことばを2つ読んで終わりたいと思います。 ガラテヤ人への手紙2:20-21
ローマ人への手紙12:1-2
ずっと前なんですけど、この礼拝に出た時に、聖餐の前に「悔い改めて受けてください。」と仰いました。 私はその時、ちょっとびっくりして何を悔い改めたらいいんだろうと考えているうちに、聖餐がまわってきました。3列目の斜めにいたんですけど、誰も悔い改める暇がなかったんだなとそれだけ思いました。同時に聖餐は何のために受けるのだろうということを、そのため思わされました。 そのこともあって、自分のためにという方がいいと思うのですけど、ご一緒に聖餐の学びをさせていただきました。御心にかなう礼拝を、やっぱり共にお捧げしたいと思います。どうもありがとうございます。 |