引用聖句:コリント人への手紙第II、12章5節-10節
7節に「高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。」と記されてあります。とげとは何なのか、病気なのかあるいは身体的な障害なのかわかりませんけれども、そういうものをパウロは受けたと記されています。 そして、パウロはそのとげを最初はマイナスの効果を持つものだと考えたようであります。とげが与えられたから行くことができないとか、あるいはしたいのだけれども、することができないだとか、そういうふうに否定的に受け止めたのではないかと思います。 ですから彼も、三度もされを去らせてくださいと主に願いましたと書かれています。 私たちも確かに、体にそうしたとげを与えられますと、生活をする上で支障がでることは当然であります。 重い病気にかかれば仕事がうまくできない。家庭にあっても、家庭の用事を順調にこなしていくことができない。そうしたことは確かに起こるのではないかと思います。 あるいはまた、このとげがなければもっと御心にかなう歩みができて主に喜んで頂ける働きができるのにというふうに受け取るのかもしれません。 パウロはどういう風に受け止めたのか分かりませんが、それをマイナスに受け止めた。 でも、同じパウロの告白が、ローマ人への手紙7章15節に記されています。 ローマ人への手紙7:15
いくらとげがなくても、どれほど健康であっても、実は主に喜んで頂くことが何もできないというのが同じパウロの告白であります。 パウロは最初はそういう風に、とげをマイナスだと受け止めたようですけれども、啓示を受けてからは、彼は受け止め方が変わっています。 それは、神の許しのもとに遣わされたサタンの遣いであって、私が高ぶることがないように、イエス様が与えてくださったものだと受け止めるように変わりました。 啓示があまりに素晴らしいから自分は何かを得た、あるいはもう信仰的に到達したという思いを主は打ち砕いて下さって、言い換えるなら、実は私自身が砕かれるためにこのとげが与えられたと受け止めるように変わったようです。 私たちも仕事がうまくいっているときは、自分の力を高く評価するのではないかと思います。 でも病気をしてその仕事から離れてしまいますと、実はうまくいっていたのは自分の力だけではなくて、たまたま世の中の動きがそういう方向に向いていたとか、あるいは、仕事を進める上で良い条件が揃っていたとか、あるいは、他の人が支えてくれていたのだということが分かって参ります。 私自身も、仕事を離れて何年かたちますけれども、本当によい先輩に恵まれた、そして良い同僚に恵まれていた、そういう中で仕事ができていたのだなと思わされています。 パウロもとげが与えられて、自分の力でやっていたと思っていたけれども、ただ守られていたのだ、主が歩かせて下さっていたにすぎなかったのだと心の底から受け止めるようになったのではと思います。 ですから、サタンの遣いであるとげを通して自分を誇ることの愚かさを知ったと、この所で告白をしています。主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれを加えないと箴言の10章の22節にあります。 箴言10:22
パウロもまたとげを通してそのことを深く経験したのではないかと思います。そしてその時、イエス様からパウロがイエス様が受けた啓示は「私の力は弱さの中に完全に現れるからです。」ということであったと12章9節に記されています。 とげを受けて、自分の思いや自分の計画、そういったもので動くことがきっとできなくなったのでしょう。必然的に祈り、その結果として、道が開かれることをパウロは待つようになったのだと思います。 そのことを通して、本当の意味で彼は主に用いられるものとされたということを言外にパウロは語っています。同時に、パウロの働きの実はすべて主が結ばれた実であったということをパウロはこのところで語っています。 詩篇127篇に、主がなしてくださらなければ、むなしいという祈り、詩が載っています。 詩篇127:1-2
パウロはまさにこのことを、とげを通して経験していることは明らかであります。 私たちもまた砕かれるためにとげが与えられます。とげを受けてはじめて私たちはイエス様の所へ行こうとします。 もちろんそのとげは、病気や体の障害だけではありません。様々なとげを受けてはじめてイエス様の所へ行こうとします。そして、交わりの場に出るようになり、祈るように導かれるのではなかったのでしょうか。詩篇にあります。 詩篇119:71
本当に、主は私たちを愛するが故に、とげをお与えになるということを感謝を持って受け止めることができるようにされていることを有り難いことだと思います。 パウロがとげを受けて知ったもう一つのことは、ひとが私を過大に評価しないようにと、そのとげが与えられたと記されています。 過大に評価されると、ひとは主の思いと全く反対の方向に進みやすいのではないでしょうか。ちやほやされ、そういう中にいますと、いつのまにか自分も偶像化し、そして、そのあげくにそむきの罪に引き込まれる危険性が高いのであろうと思います。 エレミヤ書17:9
エレミヤ書の中にこのようにありますが、そのとげを通して、パウロは背きの罪に引きずり込まれることからも守られたということは、この所からも明らかであります。 私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからですと、パウロはあえて記しています。 本当に、とげは憐れみとしか言えないものだと、このコリント人への手紙第IIの12章で、パウロは私たちに語っています。 少し私たちの病気以外の問題について、考えてみたいと思います。私たちは、ひとりひとり違った性格や性質を持っています。 そして、どなたもそうだと思うのですけど、自分の中で、自分がどうしても喜ぶことができない性格や性質を見いだすのではないかと思います。 もっと、こうであったら良いのに。これだけは、私はありたくないのに。どうしてもそういうふうにふるまってしまうとか、そういうものを持っているのではないかと思います。あるいは過去の失敗を、いつまでも忘れることができないで、心の中に持っているということもあるのではないかと思います。 そうしたものも、サタンの遣いだと言えることがあるのかもしれませんけど、そこは僕はよくわからないのですけど、問題は、信者であっても、そういったものに捕らえられがちであって、サタンもまたそういった所で私たちを突いてくる。 そこをもって訴え、私たちを恐れさせる所に問題があるのではないかと思います。 パウロは、弱さを誇ると語ることができました。私たちは弱さを恐れるが故に、そうした様々な問題にたじろいでしまうのではないでしょうか。 しかしいうまでもなく、主はどのようなこともご存知でいらっしゃいます。 どのようなことも、本当に私たちがどのようにその性質や性格を嫌おうと、あるいはどれほど過去の過ちをおぞましく思えども、そのことを通して砕かれ、主に立ち返るように主は導いてくださる、そのようなお方であることは疑う余地もありません。 ですから、様々な問題があってもそれを自分一人で処理しようとする所に、サタンが働いてきます。それを持ったままで、イエス様の前へ、交わりの中へ出る必要があるのだと思わされます。 イエス様の前に出ることと、交わりの中に出ることとは、どちらも私たちにとって必要なことではないでしょうか。 イエス様の前に出ることは、清めのためにどうしても必要なことであり、交わりの中に居ることは成長のために欠くことができないことであろうと思います。 そして、たとてどのような問題があろうとも、その問題を抱えたままで、イエス様の前に出て、また交わりの中に出るならば、そのすべてが光の中に引き出されると聖書は、語っています。いや、それ自身が光の中になると語ってくださっています。 エペソ人への手紙5:8、11、13-14
イエス様の光のもとにあっては、過去の失敗も、自分の受け入れることのできない性格や性質でさえも、光によって明らかにされた時、それは光だとここに約束が与えられています。 言い換えるならそれが、たとてそれがたいへんな過ちであったとしても、悔い改めるなら、すでに解決されていると、イエス様は私たち一人一人に約束してくださっています。 同じエペソ人への手紙の2章の1節から9節を飛び飛びに見てみたいと思います。 エペソ人への手紙2:1-2、4-6
1節に「自分の罪過と罪との中に死んでいた。」と私たち一人一人に向かってお語りになっています。 ですけれども憐れみ豊かな神は、私たちを愛してくださった故に、その罪過の中に死んでいた私たちを、私たちをキリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいましたとも記されています。 罪過の中に死んでいた者さえ、生き返らせて下さったからには、その罪過が赦されていることは当然です。そして、罪過が赦されているとすれば、それは、すべての罪過が赦されていることもまた当然なのではないでしょうか。 十字架の血によって贖われることのできない罪はひとつも存在しない。十字架の血はどのような罪であっても、贖ってくださいます。 たとえ私たちが今、なお弱さを引きずっているとしても、その弱さを正直に認めイエス様の前にでることです。 あのローマ人への手紙の7章でパウロは次のように記しました。 ローマ人への手紙7:15、18
ダメだからダメなのではなくて、ダメだけれども赦されていると主の前に小さくなり、赦されていることを私たちは感謝するべきだと知らせられて参ります。 ローマ人への手紙7:24
24節でパウロはこのように、うめきにも似た告白をしています。けれども続く25節では次のように語ります。 ローマ人への手紙7:25
ローマ人への手紙の7章をずーーと読んできて、24節まで参りましたときに、25節はどう考えても、その結末として出てくるものではありませんでした。 その間には、本当に越えることのできない断絶があって、自分がどうあろうとも、どれほどみじめであっても、自分の力は何一つイエス様を喜ばせることはできないとしても、ただ一方的に恵みによって私はイエス様のものとされた。 私は罪過の中に死んでいたけれども、主は共に甦らせてくださったと、パウロは語っているのではないかと思います。 私たちは、誰であっても弱さを抱えています。そしてその弱さを抱えつつ、いつもイエス様を見上げ、イエス様の前にその弱さを正直に差し出し、イエス様が私のためになしてくださったことを、むしろそのことに目を留めるべきではないでしょうか。 その時に、このパウロのように、「私たちの主イエスキリストゆえに、ただ神に感謝します。」と、私たちは問題を抱えつつ恵みのうちに導き入れられていることを感謝することができるのではないかと思います。 イエス様が尊い命を捨ててまで私達を愛し、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。 そのイエス様を甦らせることによって、主なる神は死に勝利して下さいました。そのことを通して私達もまた、甦りの命を受けて、新しい人を着る者として生かせられていることを知らせられて参ります。 そのイエス様がすでになして下さったことに目を留め、その上で私達の持つ様々な弱さや過去を、イエス様がすべて解決して下さったし、これからも御心にかなう方法に必ず導いてくださるということを期待し、また確信を持って祈りながら待つものとされたいと思います。 詩篇130篇に祈りが書かれています。 詩篇130:1-6
この祈りは、信仰を持つ者の祈りであることは疑う余地はありません。深い淵からあなたを呼び求めます。あなたが、もし不義に目を留められるなら、主よ誰が御前に立ち得ましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます。 ローマ人への手紙7章の24節、25節を書いた時の、パウロの心はまさにこの詩篇の祈りの中に導かれていたのではないかと思います。 詩篇37篇5節には、私達は、主を待ち望みながら、主にすべてをゆだねることが勧められています。 詩篇37:5
本当に、僕たちは無力な者です。小さな者です。本当に胸を張って立派な信仰生活を送るなどということはできないかもしれませんけど、主に信頼するなら、主は成し遂げて下さる。 本当かなと思うことこそ不信仰だということを心に留めるべきではないかと思います。 イエス様は次のようにおっしゃっています。 マタイの福音書19:24-26
イエス様には不可能はない。約束したことは必ず成し遂げて下さる。 いつも私達と共にいて歩んでくださっているから、主はすべてを知っていてくださる。 イエス様は、もしあなたが信じるならあなたは神の栄光を見ると、お語りになりました。 ヨハネの福音書11:40
私達がどうであるかが問題なのではない。主に信頼する。主はともに甦らせて下さった。何一つ恐れるものはないと示されます。 最後に言わずもがなですが、最初に読んで頂いたコリント人への手紙第IIの12章のところに少しだけ戻って終わりたいと思います。 言うまでもなく、病気を持つことが弱さなのではないのです。過去の失敗を持つからと言って、それが弱さを持つことではないのです。 逆にもし私は病気だ、病気だということを第一に語っているとしたら、それは病気を誇っているのであって、それは弱さを誇っているのとは、全く違うということを心に留めたいと思います。 弱さを誇るとは、キリストの故に様々なことを甘んじて受けることだと、パウロはこの12章の9節から10節に記しています。 まさに自分が小さくなること。それこそが弱さを誇ることであって、イエス様の御言葉によれば自分を棄てて、自分の十字架を背負って、イエス様についていくこと。それこそが弱さを誇ることではなかったのでしょうか。 マタイの福音書16:24
自分には何一つ期待をしないで、ありのままで正直にイエス様の後に従っていきましょう。そうイエス様は呼びかけておられます。 パウロはその姿を、キリストの香りを伝える者であると語っています。私達もまた、そうありたいと思います。 コリント人への手紙第II、12:9-10
どうもありがとうございました。 |