引用聖句:創世記3章1節-12節
12月の23日、24日と本当にこの愛媛の地で過ごさせて頂くことができます。もちろんイエス様の十字架を、本当にゆっくりと考えるときをいただいたという意味で、本当に嬉しいときですけど、せっかく今日と明日と日をいただいていますから、イエス様の十字架、イエス様の降誕を考えるってことは十字架を考えることですし、十字架を考えることは人間の罪の深さをよーく知っておくことだと思うんですね。 今日はその罪について、深くというよりも原点に立ち戻って学んでみたいと思います。その上で許されれば、明日はそのイエス様のおいでくださったことを考えてみたいと思います。 この創世記の1章の1節は、初めに神が天と地を創造した、と書かれている、聖書の始まりは全部創られたものだということの宣言から始まっています。 だれが何と言おうと、どれほどこの宇宙が広いのかだれにも分かりませんけど、全部神さまがお創りになったということ、それはもう間違いがないことです。そして私たち自身もそうであるということです。 その最初に創られたのが、先ほどお読みいただきましたところにいた二人の男であり女であり、アダムとエバであります。 私は神さまによって人間が創られたっていうことは、すごいことだなあと思います。なぜなら何でもそうですけど、作られたものは作った人のものだからです。私たちは神さまのものなんだ、と胸を張って言える。これはやっぱりとってもすごいことだろうと思います。 例えば兄弟が何かをお作りになったとします。ノブでもいいんですけど。時間と手間をかけて作ったものをやっぱり兄弟はそれをご覧になると、うれしい気持ちがすると思うんです。 時間と手間と、心をそこに注げば注ぐほどうれしい気がすると思います。 それを自分でもっていれば、もちろんそれを大切にいたしますし、もしだれかにそれを差し上げようと思うとすれば、やっぱりそれはいいものだから差し上げようと思うのではないでしょうか。 だから自分がもっているにしても、人に差し上げるにしても、やっぱりそれは大切に扱ってほしいなあと思います。 粗末に扱われたり、あんなものなどと言われたりすると、心は安らかではないと思います。そしてそれが壊れたり、あるいはダメになったりしますと、残念な気持ちがするのではないでしょうか。 神さまは、今の世界をご覧になってどのようなお気持ちだろうか、と思います。本当に神さまが心を込めてお創りになったこの世界。でもこの神さまのお気持ちを少し、今日学んでみたいと思うんです。それが罪について考えることでもあろうと思います。 創世記の1章の26節には、神さまがどのように考えて私たちをお創りになったのかということが書かれています。 創世記1:26
と書かれています。 神さまに似るように私たちが造られたと書かれています。その意味するところは、特別な思いをもって愛のうちに造られたっていうことでしょう。色んな造り方がある。でも神さまに似せて、神さまに似るように造られたというのは、ちょっとほかのものとは違う。それは特別に神さまの思い入れがあって、そして愛があって造られたのだということだと思います。 人間的な言い方ですけど、ご自身の人格のように、神さまですから、人格ではなくて何というのか分かりませんけど、それくらいに神さまの性質そのもののように、完全なものとして完全無欠なものとしてお造りになったんだとすれば、神さまがどれほど私たちを愛してくださっているかが分かると思います。 そしてそういうふうにして造られたものが、神さまの愛を疑いそればかりか自分も神さまのようになりたい。まあ言い換えますと、造られたものがお造りくださった方のようになりたいと思った、ということが書かれている。それがお読みいただいたところである。 その顛末は、大変に考えさせられるところの多いものでございます。 蛇が出てまいりました。蛇は女をそそのかしまして、そして女は神さまが食べてはならないと仰せになっていた木の実を取って食べ、そしてそれを夫にも与えたという。 それが顛末でありますけれども、でもよく読んでみますと、そんなに単純ではないっていうことなんです。 まず蛇は何と言ったかっていうことなんです。蛇は、「食べてごらんなさい。」、とは言わなかったんです。 蛇が申しましたことは、神さまは本当にそんなことを仰ったの?と問いかけた。そういうことなんです。3章の1節です。「神は、ほんとうに言われたのですか?聞き間違えじゃないの?もしそうだったとしたらおかしいね。」というそういう気持ちであります。 ぼくには神さまの心がわからないなあ、と蛇がささやいたのだっていうことであろうとも思います。 そしてその言葉を受けたとき女は、神さまの仰ったことは間違いだったのかな、聞き間違いだったのかなあ、あるいはもしかしたら神さまが仰ったことを真に受けているのは、愚かなことなのかなあ、と女は思ったのではないでしょうか。 ここにサタンの巧妙さがあります。サタンは食べなさい!とは言わなかった。そしてなぜかって申しますと、それは私たちの責任で、私たちが罪を犯すことをサタンが望んでいるからであります。 私たちは誰かにそそのかせされて、あるいは強いられて、戦争中の兵士がそうですよね、上司に言われて何かをする、だからそれは命令だからやったっということで、あまり罪を深く感じないんです。 中には非常に長い間、そのことで苦しむ方もおいでになりますけど、全然そうじゃないって方もたくさんおいでになります。ですけど自分で、自分の責任で何かを犯しますと、そのことは本当の意味で私たちを惨めにさせます。サタンはそのことを知っていたということだろうと思います。 ローマ人への手紙7:15、19、24
もし人に強制されてなら、私はほんとうにみじめな人間ですと言っても意味が違ったと思うんです。パウロは自分が憎むことしか出来ない自分、本当にやりたくないことにやりたいことは出来なくてやりたくないことをしてしまう自分、だからこそパウロは、なんとみじめな!としか言えなかったのではないでしょうか。 ですからサタンは、私たちの責任で私たちが神さまの御心にそむくことを望みます。イッサカルのユダもやっぱりそうだったんです。 あの方本当にキリストですか?とたぶんサタンはささやいたんだと思います。そしてユダは、「そうだ・・・もしかしたら・・・」、と思ったのではないでしょうか。だからこそユダは、後で身を投げ出さなければなりませんでした。 女は蛇にそそのかされて、神さまの心が分からなくなってしまいました。もしかしたら神さまは、本当は自分たちの幸せを喜んでおられるのではなくて、神さまの権威や特権を守るために、人間をみじめな状態に閉じ込めておられる方なのかなとも思ったようであります。 女が出した結論は簡単でした。神さまは嘘をついておられる。食べても死にはしまい。もしそうでなかったら食べなかったはずです。女が出した結論はそういうことでした。 そしてその木の実を自分も食べ、確信していましたから夫にも食べさせたんです。夫はもちろんもらいましたけど、食べたのは自分の意思でした。食べなきゃダメ!なんて女は言わなかったんです。ただ一緒にいた夫にも与えただけです。 夫は拒絶することだって出来ましたけど、波風を立てたくなかったのかどうか分かりませんけど、食べてしまいました。でも自分の意思であったことはかわりがありません。木の実を食べて起こったことは、三つございます。 一つは、裸であることを知った。 二つ目は、神を恐れるようになった。 そして三つ目は、私は惑わされたと責任逃れをした。 この三つです。 最初の、裸であることを知ったということは、どういうことかなと思いますと、要するに恵みを恵みとして受け取ることが出来なくなったということではないでしょうか。 サタンはまず目的を達しました。自分が何のとりえもない者で、そしてとりえもない者だからこそ自分を覆うもの、自分を飾り立てるものがなければ安心していられないって気持ちに、この二人を追いやったからなんです。 本当は全然そうじゃなかったんです。自分のありのままの姿の中に、神さまの愛がホントはあったんです。そしてそのありのままの姿の中にこそ、神さまの愛があり、そしてその神さまの愛を見る時、私たちは本当は喜びで溢れるはずでしたのに、まったく逆転をしてしまいました。 二人は自分たちの裸の姿の中に神さまの愛が欠けているところを見出した。神さまは不完全な者にされた、あるいは恥ずかしい者にお造りになったという気持ちをもたせてしまいました。言い換えますと、もっともっとと欲しがる心です。 そしてそれはまた、神さまの目でご覧になる自分の姿ではなくて、自分の目で見る自分の姿こそ確かだと思う。その言い張る心をここに与えてしまったということなんです。 ヨハネの福音書の9章41節に、イエス様が仰った言葉があります。 ヨハネの福音書9:41
わたしの見るところが正しいと言い張る心。そのところにこそ罪があると仰せになりましたけど、それはこのときから始まったのだということを私たちは知らせられます。 木の実を食べた後、そよ風の吹くころ、神さまの声を聞いた二人は身を隠していました。そしてアダムは、「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」と答えました。 それまで、全然二人は神さまを恐れの気持ちで見ることはありませんでした。このとき、二人が神さまを恐れて身を隠すということは、神さまと二人の間に信頼関係がなくなったということをはっきりと示しています。 神さまに似せて、すなわち完全な愛のうちに、完全なものとして造られた。神さまとの間において何の一点の曇りもないものとして造られたはずのものが、すでにこのとき信頼関係を失い、そればかりか神さまとの間に敵意が生じたのだ、ということを私たちは知らせられます。 コリント人への手紙第IIの手紙は、人間の違反行為という言葉で示しています。 コリント人への手紙第II、5:19
イエス様は、この違反行為の責めを負わせないためにおいでくださった、その違反行為とは実にこのときから始まっていたのだ、ということだと思います。 造られたものが、お造りくださったことを意地悪で、ケチな方だと考え、その神さまの愛を踏みにじったことにより、神さまとの間に敵意が生じたということです。 エペソ人への手紙2:14-15
と書かれています。 私たちはそんなに普通は考えないんじゃないでしょうか。敵意があった、違反行為があった、本当に私たちの罪の深さというものを思わされますけど、あのアダムとエバの二人がしたことを思うと本当にそうだなと思わされられるのではないでしょうか。 そしてこの、神さまを恐れる思いは実はずっと人間の心の中に深く巣を根付いておりました。 マタイの福音書25:14-15
とびまして、24節。 マタイの福音書25:24-25
神さまはひどい方だ、神さまは私たちに要求だけなさる方だ、そういうふうに人間が思ってしまうということであります。神は、神を本当に神として崇めるどころか、神はいないとまで人間は主張するようになりました。 もちろん神さまは、私たちがどういう気持ちでいるかをご存知であります。三番目に起こりましたことは、二人はともに責任逃れをし始めたということです。女が言いましたことは、「私は蛇に惑わされた。」、ということでした。男もまた同じようなことを申しました。 もちろん彼らは自分の意思で木の実を食べましたし、そのことを知ってはいたのですが、認めたくなかったということであります。「私には責任はありません。」、ということを神さまの前に言いたかったのだと思います。 二人は、神さまの目をそうしたことでごまかせると思ったとは思いませんけど、むしろ「私は被害者です。」、と言いたかったのではないでしょうか。 でもそう言ったときに、加害者は一体だれなのかということです。男にとっては女だと名指ししました。そして女は蛇だと神さまに名指しをしたということであります。 ここに、夫と妻の間、でももっと広く申しますと、人間と人間の間に亀裂が入りました。そしてその亀裂はアダムとエバの間に留まらずに、やがてその子であるカインとアベルの間に、そして信仰の祖と呼ばれるアブラハムの子、イサクとその妻、リベカの間に、そしてそのイサクとリベカの子、ヤコブとエサウの間にまで広がってまいりました。 創世記27章、そこだけ見てみたいと思います。 創世記27:1-10
おいしい料理をこしらえた。二人の息子のうちヤコブのために、リベカは夫イサクを欺く計画を立て、そして、 創世記27:13
とまで彼女は言ったということであります。 アダムとエバの間に生じた亀裂は、留まるところを知らずに広がってまいりました。ローマ人への手紙の5章の12節にそのことがはっきりと記されています。 ローマ人への手紙5:12
と書かれています。 ちょうどひとりの人によって罪が全世界にはいった、ということはこのとき以来本当に罪がはいったと同時に、人間と人間との間の亀裂もまた全人類を支配したのだ、ということを私たちは知らせられます。 ところで神さまは、あの木の実を取って食べるとあなたはかならず死ぬ、と仰せになりました。それに対して蛇は、あなたがたは決して死ぬことはありませんと言いました。一体どちらが正しかったのでしょうか。事実はどうだったのでしょうか。 アダムもエバも確かに死ぬことはありませんでした。どうしてだったのかなあと思います。神さまは、エバが考えたように嘘をおつきになったのでしょうか。 私たちに分かることの一つは、あわれみのゆえだったろうと思います。もちろん神さまはそのとき、私たちが蟻を押し潰すように、そうなさろうと思えば出来たと思うんですけど、しかし神さまはそうすることを望まれませんでした。 でも今お読みいたしましたところには、罪によって死がはいったとはっきりと記されています。 エペソ人への手紙2:1
と書かれています。死んでいたと書かれています。生きてるのに死んでいたっていうことです。 だから、神さまがそれを食べるとあなたがたはかならず死ぬと仰せになった、その死ぬという意味と、蛇があなたがたは決して死ぬことはありませんと言ったその死ぬということとは、実はまったく違うものだということを私たちは知らせられます。神さまが仰せになった死とは、霊においてであり、蛇が言った死とは、肉においてであったのだということではないでしょうか。そして大切なことは、霊においての死、あるいは霊において生きることであります。言うまでもないことであります。 もう少し読んでみたいと思います。 エペソ人への手紙2:2-6
霊の死こそ蛇の姿であり、実にあの木の実を取って食べた男と女が、その後に示した三つの行為がそのあらわれであったということでしょう。 自分の現実の姿を何か足りない者と思い、そして神さまを恐れ、自分は何も悪いことをしていないと言い張る、この心こそ本当に喜びのない人生、本当に足りないことばっかり気になる人生、神さまの愛と心の底から喜ぶことの人生、それこそ霊の死以外の何ものでもないということを私たちは知らせられます。 この霊の力の解放こそ、イエス様が来てくださらなければならなかった理由であったということを私たちは知らせられます。 キリスト・イエスとともに私たちは死んだ、そしてキリスト・イエスにおいてよみがえらせていただいた、今私たちは神さまが仰った意味において生きてる、かつては蛇が言った意味において生きていた、その蛇ののろいから今私たちは完全に解放されているのだ、ということだろうと思います。 みことばを四箇所ほど読んで終わりたいと思います。 ローマ人への手紙5:8-11
アダムとエバは神を恐れて身を隠した。私たちはまったく違う、神を大いに喜ぶ者と変えられているのだということ、根本的な違いがあるのだということでしょう。 コリント人への手紙第II、5:17-19
新しく造られた。古いものは過ぎ去って。すべてが新しくなった。 エペソ人への手紙2:14-18
二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において敵意を廃棄なさいました。十字架の血がなければならなかったということが、繰り返し繰り返し語られています。それほど人間の罪は深いものだった。 ちょっと木の実を食べただけのようですけど、それはまさに神さまに敵対する者であり、神さまをないがしろにする者であり、造られた者が造った方に取って代わろうとする者であったということでしょう。 でもそのために、神さまがどれほど心を痛められたのか、それだけじゃなくって十字架の上でご自身の血を流し、肉を裂かれるまでに苦しまれたということ。そのことを深く思わされます。 どうもありがとうございました。 |