聖書について


平井兄

(北長野家庭集会、2009/11/07)

引用聖句:テモテへの手紙第II、3章15節-16節
15また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
16聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

今、兄弟に読んで頂きましたけれども、ここには聖書と言う言葉が出てまいります。今日は皆さんと一緒に、聖書ということについて少し見てみたいと思います。
これは先程お話されたように、パウロと言う人がテモテと言うお弟子さんに書いた書物なんですね。そしてこの時、パウロと言う人は、牢の中に入れられておりました。
この手紙のことを、よく獄中書簡とも言われております。牢獄の中から手紙を書いたということなんですね。そして、このパウロと言う人の一番最後の手紙でもありました。この後、このパウロと言う人は殉教しているわけなんですね。

このパウロと言う人が、聖書ということについて、今読んで頂いた所に、テモテに対してはですね、聖書に幼い頃から親しんでいた、と。
そして、聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを得させることができるのです、と。とても素晴らしい箇所なんですね。
私達がこの聖書って言う非常に分厚い書物ですけれども、大きく旧約聖書って言うのと、新約聖書って言うのと2つがあるわけなんですね。

旧約聖書と言うのは、全部で39巻、昔は巻物だったようですね。新約聖書のほうに行きますと27巻ということで、全部でこの聖書は66の箇所からなっております。
この分厚い聖書なんですけれども、いわゆる旧約聖書の中には聖書と言う言葉は出てまいりません。聖書と言う言葉が出てくるのは、この後の新約聖書と言う箇所で初めて聖書と言う言葉が出てくるんですね。
ですから、今から2,000年前の当時においては、聖書と言えば、今、私達が手にしている、いわゆる前の旧約聖書のことを聖書と言う、ということなんですね。

そしてこのテモテは旧約聖書に、ものすごく小さい時から親しんでいたと。そして、その旧約聖書の箇所を通して、知恵も与えられて、そして、その後にキリスト・イエスに対する信仰よる救いを受けさせることが出来るとあります。
実は、旧約聖書の中にはイエス・キリストは出てまいりません。その預言の箇所は何箇所もあるんですけれども、イエス・キリストご自身は、この新約聖書によって初めて登場してくるんですね。
そして、ここにありますように、その旧約聖書を通してテモテは非常にこの素晴らしいものを頂いたと。具体的に知恵を与えてとあります。そして、イエス様の導きによって、信仰による救いを受け取ることが出来たと。

16節には聖書と言う物がどのようにして書かれた物であるかということが書いてありますが、神の霊感によるとあります。神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練との為に有益です。
ですから、この旧約聖書と新約聖書のバランスと言うのが非常に素晴らしいバランスの上に成り立っているんですね。
旧約聖書がなければ新約聖書もないし、新約と言う存在がなければ、旧約の意味がない。何故ならば、イエス・キリストと言う方の存在ってのが、聖書の中の一番大きな中心なんですね。

もちろん、この聖書は旧約聖書の一番最初に何と書いてあるかと言いますと、非常に有名な言葉ですので皆さんよくご存知の方もおられるかと思いますが、「初めに神が」と言う言葉なんです。神が天と地を創造した。ここから全てが始まるんですね。
私達人間社会の中では、この天と地、いわゆる宇宙って言うのは今の、我々の常識的な中においては丸い、その爆発をきっかけにして今現在、この宇宙はどんどんどんどん風船の様に膨らんでいると言う、そういう説が一般的です。
それに対して聖書もはっきりと、神って言う言葉が出てまいります。そして、天と地を創造した。これにこの全てが始まっているわけなんですね。

そして、新約聖書にいきますと、先程もありましたけども、一番わかりやすい所はよくクリスマスの時に読まれる所なんですけれども、これもちょっと私がお読みいたしますのでお聞き頂ければと思います。
ルカの福音書の中にこういう言葉が出てまいります。ちょっとお読みいたします。

ルカの福音書2:11-12
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

全世界の人が、この言葉はよく耳にしている言葉ではないでしょうか。
イエス・キリストが飼葉おけに寝ておられる。よく絵にもなっているかと思いますけれども、この所ではっきりと救い主と言う言葉が出てまいります。
あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主キリストです。

ですから一番最初に旧約聖書の初めのほうで神がこの天と地を造った。そしてこの新約聖書のほうには、あなたがたの為の救い主がお生まれになったのですよ。
そして、この方こそ主キリストですと。そのことを私達に非常にはっきりと告げてるのがこの聖書なんですね。
非常にこのわりやすい、小さな子供達にもよく日曜学校等で先程お読みしました言葉は、何回も何回も語られることなんですね。

ですからイエス様って言う存在は、私達にとって本当に身近な存在でありますし、人の形をとってこの地上に来て下さった神の御子としての姿、そのものであるわけなんですね。そして私達は今、このようにして聖書の言葉を手にしております。
そしてこの聖書の言葉は先程もありましたように、神の霊感によるものであるとあります。
確かに初めにお話しましたように、旧約の聖書は39巻ですよね。新約の聖書は27巻ということで、66の構成から成っているわけなんですよ。

その中心は、先程お読みしました「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそあなたがのための救い主である主イエス・キリストです。」と言う。
ここに、この聖書の全てが含まれているんですね。
ですから本当に聖書が私達に与える影響って言うのがどんなに大きいものであるかを、先人達のことを見てみたいと思います。

よく皆さんもご存知かと思いますが、リンカーンって人がいます。アメリカの元大統領ですね。彼はどういう風に言ったかと言いますと、「聖書は神が人類に与えられた最上の贈り物である。」
言葉として、聖書が私達に与えられました。これは神が、この天と地を創った以上に、素晴らしい贈り物として贈ったものであると言う風にリンカーンと言う人は言いました。
それから哲学者のカントと言う人は、「聖書の存在は、人類がこれまでに経験した中で最も大きな恵み。」と言いました。

聖書って、先程申しました全部で66の箇所から成り立っておりますけども、この聖書と言うのは、われわれ人類にとって最も大きな恵みそのものであると。
すなわち神様からの、先程リンカーンは贈り物と言う風に言いましたけれども、このカントと言う人は又更に恵みそのものであるということを言いました。
更にニュートンと言う人は、いかなるこの世俗の歴史よりも、聖書の中にはより確かな真理が存在する。あの万有引力の法則を発見したニュートンと言う人は、いかなる世俗の歴史、すなわち私達が今までずーっと見てきたこの歴史そのものよりも、聖書の中にはより確かな真理が存在する。

このいい言葉を私達の歴史上の人物はこのような言葉をもって聖書と言う物を紹介しました。そして私達は今、直にこの聖書そのものを手にすることが出来るということですよね。
8,000年て言う歴史がこの聖書の中には今までの時間を終えた現在に来ているわけなんですけども、それを私達がこのようにして手にしている。
しかもそれは、神が人類に与えられた大きなプレゼントそのものであると言うわけなんですね。

そしてそれは、全世界の全ての人に何の差別もなく与えられている。すなわち先程カントが言いましたように恵みだということなんですね。
私達はこの聖書の言葉を、何の代償もなく、お金を払ったり、あるいは難行苦行と言うその結果、そう言う物を得られるのではなくて、もう本当に一方的な恵みそのものとして与えられる。
これほど素晴らしい物はないのではないでしょうか。

聖書は今も私達に本当に素晴らしいひとつひとつの言葉をもって溢れるばかりに恵みを注いでおります。
マタイの福音書の11章の28節、29節、30節とお読みしたいと思います。

マタイの福音書11:28-30
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

どなたのことなんでしょうか。今日ダビデの町で救い主がお生まれになった。その方なんですね。すなわちイエス様、イエス様の言葉であります。
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたし、すなわちイエス様の所に来なさいと、そしてわたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしの所に来なさいと今日もイエス様は、私達ひとりひとりを招いていて下さるんですね。

更に、わたしは心優しくへりくだっている。
神のひとり子として、この地上に来られた方は、本当に馬小屋でお生まれになりました。生まれられたそのことを考えても、イエス様の存在ってのは本当に考えられないんですね。
私達人間の頭ではとても理解出来ない。どうして馬小屋で生まれなければならなかったのか、本当にそこにはここにありますように、わたしは心優しくへりくだっている。はっきりとご自分から仰いました。

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
ですから「イエス様」と私達が心から叫ぶと、イエス様は私達にここにありますように、たましいに安らぎを与えると仰いました。
是非イエス様の前に、本当にご自分の罪を悔い改めて「イエス様」と叫んでみて頂いたらば、ここにありますように、たましいに安らぎが来る。

そして私達すべて疲れた、本当に私達は日々の歩みの中でもう疲れきって、もうどうしようもないような状態をよく経験いたします。
でもイエス様は私達ひとりひとりに対して、わたしのところに来なさいと仰ってます。
ですからそこには何の、私達に取り繕う所もなくて、そのままありのままイエス様の前に出て、このような私ですけれども、どうか私を導いて下さい、救って下さい、助けて下さいと私達がもし心から叫ぶならば、主は私達に本当に素晴らしい救いを、ご自分の御手を通して、本当にそれは何の代償もなく私達が何かお金を払ったりとか、何か難行苦行的な物をしたりとか、そういうのは一切いらない。そのまま。

ピリピ人への手紙の中にこういう風に書いてあります。
2章の6節からですけれども、お読みいたしますのでお聞きください。

ピリピ人への手紙2:6-11
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

このピリピ人への手紙も、パウロと言う人が書いた手紙のひとつです。
牢屋の中で書いた手紙ですけれども、このピリピ人への手紙をずっと読んでいますと、本当に喜びに満ち溢れた言葉、喜びって言う言葉が本当にたくさん出てくるんですね。何故でしょうか。
先程ありましたように、イエス様が私達にのぞまれると、イエス様がその全ての苦しみをご自分で味わわれました。私達と同じ肉体をとってこの地上に来て下さった。

ここにありましたように、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたと。
だから私達は、ただ漠然と神様と言うよりは、むしろ同じこの体を持ってるイエス様と言う言葉をもって呼びかけると、非常に親しく呼びかけが出来るんですね。イエス様。
具体的に私達と全くここに今お読みしましたように、人間の姿を、人の姿をとってこの地上に来られたわけです。そして人としての性質も持っておられました。

ある時は涙を流されました。私達と同じですよね。神様は、そういう存在のお方ではありません。でもイエス様は涙を流されました。
人としての性質を持って現われて、そしてご自分を卑しくし、イエス様がこの地上に生活されたのは30数年だと言われております。
30歳で公の生涯で、ガリラヤと言う地方で多くの奇跡を私達に示して下さいました。

これは特にこの新約聖書の中にたくさん出てまいりますので、是非それを後で時間のある時にお読み頂ければと思うんですけども、イエス様はとにかく、人としてこの地上に来られ、そしてご自分の歩みと言うのは貧しい人達と、それからいつも病んでいる人達と一緒でした。
どうすることも出来ない病気にかかっている人の所にイエス様は来て下さいました。
そして慰めて下さいました。

イエス様の慰めは本当にその人にとっては、全ての全てなんですね。
そして本当にそのような病気で病んでいる人とか、それから心に病のある人とかそう言った人の所にご自分からへりくだって、そして、その人達と一緒に歩まれたとあります。
そしてある時は奇跡を行いました。

ところがこのイエス様は、先程お読みしましたように私達の罪の為に十字架で死なれました。
その罪と言う私達が犯しているその罪と言うものを、どうしても解決しないと、神の前には出ることが出来ません。聖い神の前に出る為には、この罪と言うものの解決がどうしても必要な訳なんですね。
その為にイエス様はこの十字架と言う呪いにかかって、ご自分からその命を捨てて下さいました。すなわち私の、今ここにおられる、おひとりおひとりの罪の為ににご自分から十字架にかかってご自分の命を投げ出して下さいました。

罪の支払う報酬は死です、とあります。まさしく私達が、ひとりひとりが死をもって罪の総決算をしなければならなかったわけなんですね。
人間は全て1人も例外なく、お金持ちも病気の人も、貧乏人も何の例外もなく、死って言うのは全てに、平等にあります。
ですから、その罪の死から解放される為には、どうしてもひとり子なるイエス様の存在が必要なんですね。

ここにありましたように、実に十字架の死にまで従われた。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」、とイエス様はあの十字架の上で叫ばれました。そうなんですね。
イエス様が全て、あの十字架で投げ出して下さらなければ、私達人類の罪と言うものは永遠に解決が出来ないものだったんですね。それがイエス様の十字架によって、全て解決されました。9節を見てみますと、

ピリピ人への手紙2:9
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

イエス・キリストは今日、本当に多くの全世界の人々に信仰をもって、あがめられている存在と言うもの見ますとね、この言葉はそのまま当てはまるものではないでしょうか。
キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
世には多くの聖人と言われる方がたくさんおられますけどね。イエス様は、神ご自身でした。ひとり子としての神でした。そしてご自身から、あの十字架で命を私達の罪の為に投げ出して下さいました。

そして私達を、その罪の解放からですね、罪の奴隷にあった私達を解放して、そして神との本当の交わりが出来るように、イエス様を私達に与えて下さったんですね。私のところに来なさいと言うのは、そういうことなんですね。
本当に私達がイエス・キリストは主であると告白して、「イエス様どうか、このような罪人をお赦し下さい。」と、主の前にへりくだって、悔い改めをもって祈っていけば、主は私達をご自分の元に引き寄せて下さいます。
その結果、私達に与えられるものは平安そのものです。

魂に平安がくると言うのは、これはもう最高の素晴らしい一歩的な恵みそのものであります。
この世が与えるものとは全く違うものだと、聖書は私達に告げております。
そしてそのことは、最終的にはこの聖書の一番最初にありましたように、神が天と地を創造したって言う天地創造の主なる神が、このイエス・キリストを通して褒め称えられる為であると、あるんですね。

それからもう1つ大切なことがあるんですけども、これも私のほうでお読みしたいと思いますので、お聞き頂けたらと思います。
ヨハネと言う人が書いた場所なんですが、

ヨハネの福音書14:16-18
16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
17その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
18わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

今読んだ所に「真理の御霊」とあります。イエス様が十字架にかかって、天に上られる時に、もうひとりの助け主を父はあなたがたにお与えになりますと。
その助け主がいつまでも、あなたがたとともにおられる。それがすなわち真理の御霊っていうことなんですね。
ですから聖書は、この天地を創造した父なる神と御子イエス・キリストと、この聖霊と言う、この3つがとても大切だっていうことを私達に教えています。

ですから私達が、罪をもってこの地上に生まれてまいりました。
イエス様がこの罪の為に十字架にかかって死んで下さったっていうことの事実を認めて、自分の罪を悔い改めて主の前に祈っている時に、主は私達に、この真理の御霊、すなわち聖霊を注がれるとあります。
それはこの世が与えるものとは全く違う、すなわち私達が、この世の知識と言うのは、まあ私達、小さい頃からそれぞれ教育の場で学んでまいりました。

けれども聖書が私達に与える知恵って言うのは、そういうものではないんですね。全く別の世界、すなわち神がこの天と地を創造した、で現在もあります。
天もあります。地球があって月があって太陽があって、天体があって、そして寸分の狂いもなくですね動いてるんです。そしてそれは勝手にじゃないんですね。
私達1年間365日、まあ4年に1回の2月の、うるう年がありますけれども、本当にこの天体ってのは、ものの見事に動いてるんです。

そしてそれは、いい加減に動いているのではないんですね。ものすごく正確に。
だから人間は計算によって、今はとても精密なコンピューターがあるんですけども、コンピューターで計算することによって月の世界にも、あるいは火星にも金星にも、あるいは土星にも、他の天体にロケットを打ち上げて、そこに到達することが出来るようになりました。
もしこれがいい加減な動きであったらば、絶対に不可能なんですね。

この天と地は、もう本当にすごい、これはもう私達、考えれば考える程、不思議なことですけれども、全くこの秩序を保っているんですね。
神がこの天と地を創られた。その神様の秩序の中に保たれている。そしてその神様は、ひとり子なるイエス様を私達にお与え下さいました。
そして私達ひとりひとりに対して、主なる神と御子イエス・キリストと真理の御霊って言うものをも、はっきりと示して下さったんですね。

そして私達は最後になりますけども、ヨハネの福音書の中を見てみますと、とても素晴らしい言葉で、クリスチャンの方は暗記しておられる方が多いと思いますけれども、ヨハネの福音書3章の16節に、これもお読みしたいと思います。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

この天と地を創造した神様は、実にそのひとり子、すなわちイエス様をお与えになったほどに、世って言うのは私達ひとりひとりのこととして置き換えればわかりやすい所ではないかと思います。
あなたを愛された。私を愛された。
それは、イエス・キリストを信じる者がひとりとして、ひとりはひとりなんですね、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。

とても素晴らしい言葉ではないでしょうか。
神様は、私達ひとりひとりが永遠の滅びの中に陥ることがないように、今日も、今こうして、本当に主は素晴らしい恵みをひとりひとりに与えて下さって、イエス様を通して、この素晴らしい永遠の命を提供して下さっている。
ですから私達が本当にイエス・キリストは神のひとり子であるし、私達の罪の為に十字架にかかって死なれたこと、そして3日後に復活されたこと、今も私達ひとりひとりの為に、とりなしの祈りをして下さっていること、その事実を本当に幼子のように認めて、主の前に出ていく時に、私達は心に平安、すなわち安らぎを与えられます。

この聖書は昨日、今日作られた物ではありません。もう大変長い歴史を通して、多くの数え切れない方々を通して、今こうして私達の手元に届けられております。
これは、まさしく神からのプレゼント以外の何物でもないんです。
人がもう本当に得ようとして、一生懸命になってきた物を神は恵みとして、一方的に与えて下さいました。

是非、この聖書の言葉、本当にその中心はイエス・キリストですし、またイエス様をご自分の救い主としてお受けになって下されば、そこには聖霊が働いて、本当にこの天と地が、神の御手によって創られ、今も神様の御手によって保たれているということが、よくおわかりになると思います。
それはこの世が与える知恵や知識によって、得られる物ではありません。まさしく、この聖書の言葉を通して、私達が本当にイエス様を心から信じ受け入れて、主に従う時にそれが一方的に恵みとして与えられるんですね。
是非、この神様からのプレゼントであう御言葉を、ご自分の物としてお受けになって頂ければ、感謝ではないかと思います。

どうもありがとうございました。




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