葬儀メッセージ


広田兄

(平田八郎兄葬儀、2003/01/08)

今、兄弟は71年のこの地上での歩みを終えられ、天の御国へと凱旋されました。

今年の1月4日にご自宅で倒れられ、近大病院にて緊急入院されましたが、回復することはありませんでした。御家族の暖かい思いのなかで天に凱旋さられました。平安に、静かに、眠るような最期であったと奥様からお聞きしました。

私は、娘さんと同じ、キリスト集会に集っております。私自身は兄弟と生前にお会いする機会はありませんでしたが、ご家族から本日聖書の取次ぎをするようにと仰せつかりました。
本日の葬儀は、イエス・キリストの御名によって、また聖書に則って、「無宗教」の形で執り行わさせていただきます。
耳慣れないことかと存じますが、今回の葬儀は、いかなる宗教組織、団体、またそういった教義に基づいていないという意味でございす。
「キリスト教」では無いのか?と思われる方もおられるかもしれませんが、私たちは「キリスト教」とも無関係です。

また、私たちは何かの団体に属しているわけではありません。ただキリスト集会いう名前ではありますが、組織、制度がありません。全く自由に、聖書を中心として全国に多くの方々が集っています。
これらのこともこの葬儀を通じてご理解いただければ幸いです。

また、私たちは、主イエス様にあって神の家族とされるという聖書の約束によって、男性を兄弟、女性を姉妹と呼んでおります。これも、普段聞きなれないことかとは思いますが、御了承ください。
今は天に召された兄弟も、主にある家族、その兄弟として、親しく兄弟と呼ばせていただきます。

本日、兄弟の葬儀がこのような形で行われることは、先日ニュージーランドにお住まいの娘さんから、葬儀をキリスト集会で執り行って欲しいとの連絡を頂いたことによります。
兄弟も以前、九州での集会に出席されました。その時にも聖書に、またイエス様の福音に触れられ、そのために今回聖書に基づく葬儀が行なわれることとなりました。

今、兄弟の霊はここにはおられません、すでに天に昇り永遠の命を得て憩っておられます。ここには兄弟がこの地上を歩む間、神から与えられていた体が残されています。亡骸という言葉がありますが、まさに兄弟が残して行かれた衣です。

この場では、今は天におられる兄弟に、この地上で命を与え、そしてまた死の向こうにある本当の希望、永遠の命の望みを与えられた真実の神に、またその御子イエス・キリストについて、兄弟と同じ思いを感じていただければと思います。
そして、天に凱旋された兄弟と同じ希望を分かち合いたいと思います。
それが兄弟のみならず、多くの既に天に凱旋された方々の最も望んでおられることだと思います。
それは、死は終わりではなく永遠の命の始まりであり、私たちには天の御国での再会の希望があるということです。

何年か前に天に召された、フジテレビのアナウンサーだった兄弟が召された後に、「死は終わりではない」という本を姉妹である奥様が出版されました。当時は話題になりましたが、まさに死は終わりではないということ、永遠の始まりであるいうことを知っていただければと思います。

聖書に従って、私たちは亡くなられた方を拝むことはいたしません。よく死者に対して、また亡くなった父母に対して「不遜」ではないかと勘違いされてしまうことがありますが、私たちが崇拝して拝むべきお方は、天地万物を、そして私たちを作られた、命を与えてくださる唯一の神ご自身であります。

しかし、その神は聖書の中で父母に対して非常に厳しい戒めを定めています。みなさんの中にも聞かれたことがあると思いますが、「十戒」の中に定めています。その当時、親に対して不遜を働き、粗暴な振る舞いをするような者には「死」を以って臨んでいます。
そのように神は、親の権威と尊厳を定めています。親子の関係でさえそのように厳しく戒めておられるのですから、創造主なる神と人との関係はそれ以上のものであるとご理解下さい。
ですので、親に対しては敬意を持ちつつも、私たちは人や人の手によって作られたも物を拝むことはいたしません。
そして、この葬儀で兄弟の残された「衣」であるご遺体も、尊厳を持って主にお返ししたいと思います。

主イエス・キリストにある葬儀は、この世のそれとはまったく違うものです。ただ死んだということを悲しみと悔やみの中で、また世間的な義務として、形に囚われた葬儀をすることも良くあることです。
しかし、死の向こうにあるものを知り、そこに永遠の命の希望があるということが分れば、それは全く逆の意味を持ってきます。
また私たちイエス・キリストの信仰に歩まされる者の望みは、多くの方にイエス様を知っていただきたいということです。
それは、兄弟も望んでおられることで、イエス様にある人生の解決、永遠の命を持っていただきたいということです。
それは神の良き知らせ、「グッドニュース」、「ゴスペル」とも言われていますが「福音」と呼ばれるものです。

イエス様の弟子パウロはこう言っています。

コリント人への手紙第I、15:1、3-5
1私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
5また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

最も祝福された方々は、地上での歩みを終えて、イエス様に福音である「永遠の命」を与えられて天に凱旋された方です。
しかし、この世には人間が作り出したあらゆる考え方が存在します。宗教もその一つです。厳しい修行、命をかけた献身的な奉仕を、中には莫大な金品を要求し悟りを得よと叱咤します。
しかし、そのようにけしかけている人たちですら、「本当の答え」を持っていません。

聖書では、イエス様は大胆にこう語っています。

ヨハネの福音書14: 6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

私が道と言われている所は、本来の意味では「私だけが道」という意味で、ギリシャ語の「エゴ」とい言葉が使われています。
それでは、キリスト教に入れということでしょうか。そうではありません。

魂の問題、死後の命の問題を解決し、この世にあっても必要が満たされ、平安と喜びが与えらると言う「恵」を手に入れて頂きたいということです。
それは、宗教団体に属して、厳しい修業や帰依をすることで得られるものではありません。
聖書はその方法について語っています。また、これが兄弟に希望を与えたものです。それがイエス様の備えられた永遠の命の約束です。
聖書の中で、永遠の命について40箇所以上書かれています。その中の2、3をご紹介したいと思います。

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ヨハネの福音書6:40
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

ヨハネの福音書17: 3
3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

それは、主にあって召された方々の人生を通じて、その違いをはっきりと見させられます。聖書はその人の結末を見よと言っています。
イエス様はキリスト教を作ろうとしたのでもなく、また聖書はその経典でもありません。
イエス様は私達、人間の本当の命の問題、魂の救いの問題を解決されるために来られたのであり、聖書はそのことについて語られています。それは宗教や思想、哲学ではなく、真理の問題、本当の命の問題です。

その意味も込めて、今日も「無宗教」で聖書にしたがって、イエス様を中心とした葬儀が行われています。そして人生の最後に望んで持つことができた本当の喜びについて語ることができます。
ご存知の通り、私達この地上に生まれた人間にはすべて死ぬことが定められています。しかし、神は人間の心に永遠の思いを与えられました。そして永遠に生きる者として望んでおられました。

しかし、私達には創造主なる神を認めようとしない、逆らう心、「背きの罪」の問題があります。英語で「sin」と言われるもので、本来は「的外れ」と言われますが、その罪の結果が死であり永遠の滅びです。それは死の向こうに希望の無いものです。
人間は死んで終わりではないということを、誰でも心のどこかに知っているのではないでしょうか。そして永遠の思いを持ち続けているのです。
しかし、人はその解決方法を知りません。それは人の心に不安と絶望を与えます。そこから逃れるために人間はあらゆる方法を取ろうとします。
ある人は宗教に、またある人はこの世での力、権力、財力、知識や技術によって何とかできるのではと考える人もいます。

神に愛された多くの方が、この地上での旅路を終える時に、本当の魂の救いと平安、永遠の命の希望を持ってこの地上での歩みを完成させることのできるものは何か、それを知っていることとそうでないということは、まさに天地の開きがあります。
天地万物の創造主である神様は、人間の手による何物も必要とされていません。私たちがすべてを与えられているのです。創造主なる神が望んでおられるのは私達の内面の問題です。それは、私達が神に対してふさわしくない者であることを認めることです。

しかし、私たちは自分の力でさえ、ただそれだけのことができないのです。
そのために、2000年前に、神様は人類の救いの計画に従ってその一人子イエス様を地上に遣わし、私達の罪の身代わりに十字架にかけ、裁かれました。
そして、私たちはただイエス様の御名を呼び求めるだけで、無条件で神の備えられた救いに入れられる、永遠の命を持つ者としてくださるという計画を成し遂げてくださいました。

それが、今日の式次第に書かせて頂いた聖書のみことばです。

ヨハネの福音書3:16-17
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

また、その永遠の命に対して私たちは何を支払わなければならないのでしょうか?
聖書はその対価は「ただ」であると言っています。それも大切なことなのです。この世で最も高価なものは「ただ」であるということ、それは人の作り出す何物もそれに値することができないということです。
pricelessという言葉を最近聞くことがありますが、まさに価値をつけることが出来ないものです。

ヨハネの黙示録22:17
17渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

このように、聖書が語る真理、命の問題、主なるイエス様を認めだけで、人生の解決を与えられるということ。そして兄弟のように、この地上での旅路をまっとうし、いつの日か永遠の命をもって再会できる希望を持つことが、兄弟がもっとも望んでおられるとことであると思います。
その兄弟と同じ希望を、一人でも多くの方が持っていただければ、兄弟と同じ思いを分かち合っていただけると思います。そして、イエス様はそのことを望んでおられます。

本日は、ありがとうございました。




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