引用聖句:ヨハネの福音書3章30節-36節
今日は、今、兄弟に読んでいただいた、このヨハネの福音書3章、特に30節を中心に、主は栄え私たちは衰える、あるいは自己実現と自己否定と言いますか、そのようなことでみなさんとご一緒に考えてみたいと思うのです。 あの方は盛んになり私は衰えなければならないというみことばは、ヨハネという人の主の栄光を望む態度が表わされている、みなさんもよくご存知のみことばです。 それではまず最初に、自己実現と言いますか、このようなことについて考えてみたいと思うのですけれども。 いずれにせよ、主の目からご覧になれば、私たち人間の考えること、行なうことはそむきの連続ということになりますが、人間について主の仰ることは、次のようだとあります。 エゼキエル書28:2
このように主なる方は仰っておられます。ところが私たち人間は、自分のことをどう思っているのだろうか。 箴言16:2
と、箴言の16章の2節にあります。私たちひとりひとりは、自分の行ないが正しいのだ、ことごとく純粋だと思う。 私たちはこのように、自分の行動なり、考え方が当然のように正しいことと思っていますが、主の目からは、おごり高ぶりの私たちなのでしょう。 私たちの社会と言いますか、この世は、人間中心で規準が作られ、あらゆる場合は、自己努力とか自己訓練とか自己啓発によって、良い自分、より良い社会が築かれるのだと教育されてきました。 私たちは社会生活で正しい道を歩みなさいとも教育され、しつけられてきたのではないでしょうか。 例えば、働くということも、一生懸命働きなさい。そうすれば楽しい未来が約束されるでしょう、とか、勉強するにせよ、努力しなさい、とか。そうすれば良い学校に入れるとか、という具合に、自己の努力を一生懸命奮い立たせてきました。 この世のあらゆることが自己努力と言いますか、自己実現と言いますか、そのような、努力しなさいということ、俗に言われている、頑張りなさいということなのでしょう。その根底にあるものは、全て人間中心であり、自己中心です。 人間が快適に過ごせるそのためには、経済が活性化されなければならないと多くの人は考えます。 確かに経済が混乱を起こして、明日の生活にも困る状態では、人々は苦しいことばかりかもしれません。 かつて日本は、日本の人々の生活の貧富の差、二重構造が抜け出て、だれもが安定した生活ができるようにと、経済に携わる人々は考えました。その影響でしょうか、何かを計画すると、必ず経済効果は幾ばくかと計算します。 この前のワールドカップでもそうでした。何かをやると、今日本はオリンピック誘致を云々やっていますけれども、経済効果がいくらという、必ず経済効果の推測がなされます。この計算がなされます。だからやろうよ、と。 以前に日本人は、「エコノミックアニマル」と評されたことがありましたが、これも世界は同じでして、五十歩百歩。全ては金銭による評価がなされます。 人間の考えることはどこまで行ってもやはり自己中心なのでしょう。そのように、自己中心の考え方をもってするものですから、罪の性質はさらに積み重ねられて、人生は疲れ果てて、自分の一生は何だったのだろうかと思ったりするのではないでしょうか。 もちろん誤解されて困るのは、主を信じる信仰を持つ者は、怠け者ではありません。与えられたこと、仕事をしっかり行なっていますし、それは主の望まれることです。 ですから主にある兄弟方、姉妹方は、ひとつひとつのことに細心の注意をもってするでしょう。それは主の思いからなのです。それは主が私たちに次のように言われていることからもお分かりいただけるのではないないかと思うのです。 出エジプト記23:10-12
このように、地に種を蒔き、収穫しなければならない。 私たち人間は、食べてはいけないと言われた木の実を食べたことによって、エデンの園から追い出された時に、人間は額に汗して、自分たちの食糧を収穫しなければならなくなったのです。 ここにもありますように、仕事をしなければならないのですけれども、そのこと自体は生きる目的ではないです。それにも関わらず、多くの人々が人生の目的のように思っているのです。 さて、そのように、働きすぎだと言われれば、その分を自己の欲望のために使うという、このような自己中心の私たちですから、その行ないによって義とされることも、正しい者とされるはずもないです。 私たちが悔い改めと信仰によって義とされるのです。罪を悔い改めて神を信じる、このことを抜きにしては、いかなる行ない、業績も意味が無いです。 世の多くの人は後悔します。しかし、主にある兄弟方、姉妹方は悔い改めをします。後悔と悔い改めというのは、全く違うということです。 ローマ人への手紙3:20
と、ローマ人への手紙の3章の20節にあります。 たとえどんなにすばらしい業績を残しても、それは意味の無いことだ。私たちが悔い改めと信仰によって初めて義とされる。同じ仕事をするにも、イエス様を目標に行なうのか、この世の目標に向かってするのとでは、全く異なるということなのです。 これは、やはりイエス様の道をいっしょに歩こう。そのように思ってみないとなかなか分からないことかもしれません。しかし私たちはこのことを知っています。 自己実現したい私たち人間は、いったい何者なのだろうか。それは、主によって造られた被造物です。造られた者です。 主はこの世の全てをお造りになったことが、創世記の中にありますが、自己中心の人間の科学の進歩は、進化論を理論づけたりしますけれども、私たちの身の回りの花を一つ観察しても、これが理論で説明できるだろうかと思います。 主の作品でなければ、だれの作品と言えるだろうか。 今年は庭にトマトを植えてみました。これがまた毎朝見ていると面白いのですけれども、不思議としか言いようのないことなのです。すでに数個の収穫を見ましたけれども、このトマトと同じトマトが地球の反対側でも収穫されているのです。 花を見ても、今見ている私たちの周りの花が世界中にある、これらの花と同じような速度で、同じような内容で変化して、現在私たちが見ることのできる花だとしたら、それは数学的に答えたとしても、その確率はあり得ない確率となるでしょう。 花一つ取ってもこのさまです。世界の全て、私たち人間にしろ動物にしろ、それを進化の結果と言うには、あまりにも確率が低いことになり、証明がつかないでしょう。 このように主が、時間とか量とか全てを超越してお造りになったことによって、私たちがあるのです。ここにおいでになられるお一人お一人があるのです。 その主の被造物である私たちは、主に愛されることが絶対に必要なことなのです。主は私たちを愛したくて、愛したくてしょうがないのです。 その愛の対象であるにも関わらず、ひとりひとりは主に背を向けている。 しかしながら私たち人間は、自分自身を最初に、そして最も愛するという肉の性質のゆえに、自己をいかに表現して実現するかを考えるのです。自分がいかにしたら盛んになるか考えるのです。それは決してイエス様の思いではないです。 みなさん、ここにおいでになったお一人お一人はお分かりでしょう。そして多くの人はだれも、その証しを受け入れないとありますように、破滅への道を、さも未来のあるかの如くに進むようなものなのです。 すなわち、自己実現を希望していながら、崩壊へと向かっていると言っていいのではないでしょうか。 私には専門外の分野ですが、現在の教育にあっては、勉強することは、より上の学校へ、より良い職に就けるようにであり、研究を進めるにも、自己満足のためである人々が多いのではないでしょうか。 まさにその極め進むさまというのは、聖書の中に出てくるバベルの塔の話が出てきます。あれに似ているのではないのかと、このように思います。 色んなことを考える人々は、いかに早く目的地に着くか。ここから、例えばニューヨークへ行くのでも、いかに速い飛行機で行くか。それを考えるのです。そうすると、莫大な燃料を食うことになるのですが、ものすごい音を出して飛ぶことになるのでしょうけれども。 あるいは、船をとってみても同じです。高速船をここからアメリカの西海岸へつける。何日で着けるか。確かに一日早く着けば、それだけ経済的には荷物の経済効果は高まるでしょう。 しかし、それによって色んなことが起こるのです。果たしてそれだけの必要性があるのだろうかと、いつも思うのですけれども、しかし人々はそのように、常に先を競って、競争、競争の原理に動いているのではないでしょうか。 まさにバベルの塔の話に似ているのだろうと、こう思うのです。 私たちは道徳的に良いことが良くて、悪いことが悪いと教育されてきました。経済面においてもそうでしょう。 一生懸命働いてこの世の富を得た者は成功者であり、貧しい者は置き去りにされる世の中です。知識をたくさん持っていれば神に近いのだと、こう思うのも当たり前かもしれません。 あらゆる宗教がこの世に調子を合わせていることは、みなさんよくご存知のところでしょう。 みなさん経験がお有りかと思いますが、葬式に唱えられる読経とか、きらびやかな飾り付けや訳の分からない文言に節をつけて重みをもたせようとしているのではないでしょうか。出席している人々も義理であり、早く終わってほしいと思っているのが精々なのだろうと思うのです。 しかし、主の栄光の場としての葬儀はそうではない。この世の葬儀というのは、人間の死を確認する場というような感じがあるのではなかろうか。神の栄光の場とは比較することが全く無意味なほどです。 そこにはイエス様の次のみことばの死んでも生きるという永遠のいのちの存在は全くないです。 イエス様は私たちに次のように仰っておられるのです。いつも、いつも葬儀の時に前に掲げられるので、みなさん暗記なさっていると思うのですけれども、 ヨハネの福音書11:25
この世の中の葬儀というのには、救いなどあり得ないのは、当然と言えば当然です。 私たちはこのような競争社会の渦中にいるために、ど真ん中にいるために、自己実現に、自己PRに努めますが、私たちの創造主である主は、このことを決して喜ばず、私たちは不安と恐れの中で罪のゆえに死へと向かうのです。 それでは次に、自己否定について少し考えてみたいと思うのですが、これまで話して来ましたように、社会生活にあっては、自己実現を当然のこととしてきました。 しかしイエス様はそのような生き方ではなく、私たちが自己否定、私は衰えなければならない。こうする時、この上もない喜びをもって私たちに平安と希望と喜び、そして永遠のいのちさえも与えてくださるのだと仰っているのです。 これは今までの私たちの生き方とは全く反対のことです。 イエス様は、「頑張らなくていい、ありのままでわたしのところに来なさい。」、こう仰っておられて、私たちが心貧しく、へりくだって、イエス様のみことばを信じるなら、私たちを「愛する友」と呼んでくださるのです。 私たちは聖書をスーッと読んで行くときに、「友」ということばは何回か出てきますが、スッと、読んでしまう。しかし、「友」と呼んでくださるということは、大変な重みのあることなのです。 私たちが自己実現をし続けるなら、それは罪であり、罪の報酬は死ですが、自己否定をし、主のみことばに従うならば、喜び、平安のうちに進むことができ、地上の幕屋が壊れても永遠の家が保障されているのです。 このように、自己実現と自己否定とは雲泥の差どころではないです。比較し得ないです。 私たちのこの世に生きている時間と言いますか、その間と言いますか、それはほんの一瞬のことです。 ペテロの手紙第I、1:24
こうあります。これはペテロの手紙第Iの1章の24節にあります。 私たちの一生は、一瞬の消えゆく川のようなものである。この聖書にありますが、そのような間にイエス様を信じる信仰に立つか否かは大問題なのです。 私たちの耳は、詩篇の中にありますが、 詩篇58:4
イエス様のみことばに耳を傾けるならば、そのような耳をふさぐことのない、耳を開けることをするのなら、あるのならば、イエス様のほうから聞こえる耳としてくださり、通り良い管としてくださるのだ。このように聖書にあるのです。 私たちは主の御声に耳を傾け、へりくだり、謙遜をもって、私は本当にみじめな人間です。助けてくださいと主に拠り頼む時に、すなわち私たちが自己否定をした時、私たちの主イエス様は喜びをもって、私たちをみもとへと引き寄せてくださるのです。 ヨナ書に、弱り果てたときに主は聞いてくださるというみことばがあります。 ヨナ書2:7
こうあります。 ローマ人への手紙3:10
こう、ローマ人への手紙にあります。私たちは、全てをご存知の主の御前に出るとき、何の着飾ることもなく、ありのままに、まさに自己否定をすることです。 主は、昨日も今日も、私たちとともに歩んでくださり、支えてくださるのです。 すでに主にある兄弟方、姉妹方はこれまでの一日、一日を振り返ってみても、今日一日を振り返ってみても、そのことを本当に知ることができています。 私たちが弱さを弱さとして素直に主の御前に出るとき、誇ることのできるようにしてくださるのです。 そのためには、へりくだることなのだ。謙遜であることなのだ。そうしてイエス様が模範を示したではないか。弟子の足を洗ったではないか。このように聖書に出てきます。 そうして、丁寧に腰の手ぬぐいでふいたとあるのです。すごいことなのです。 昔の日本と言いますか、よく旅人が道を歩いて来て、埃まみれになって来て宿に着くと、そこの主人が手桶を持って来て足を洗うのではないです。 下働きの者が手桶に水を汲んで来て、そして旅人の足を洗います。 しかし聖書では、イエス様が弟子の足を洗って、手ぬぐいでふいたのだとあるのです。これはすごいことです。 私たちが弱さを認めることを拒んで、自分は強い者であると、すなわち自己信頼、自己中心の、自己実現の態度を取ることは、死の道をたどることなのだということなのです。 主は、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者、愚かな者を選ばれたのです。そして主に選ばれた者は、主によって誇ることが赦されているのだ。こうあります。 主イエス様という主人であり、恵みを与えてくださる方であり、日々の生活を生きる力をもって歩むことを保障してくださっている方なのです。ですから冒頭にお話しましたように、歳を重ねて行っても、私たちはいつも主の支えを受けています。 主の支えを受けているがゆえに、今まで一分で行けた距離が二分でも行けなくなったかもしれない。 長い時間立っていることが出来なくなったかもしれない。しかしその中にあっても主が、いつも、いつも支えていてくださる。歳を取ってくると、色んな病気にかかるかもしれない。それだけ抵抗力が無くなっているかもしれない。 しかし主はともにいてくださる。そしていつも、いつも抱きかかえてくださっているということを段々、段々歳を取れば取るほどにそのことを思うことができるのではないでしょうか。 そうして、繰り返しますが、私たちが罪の道を選び、先ほどの、耳しいコブラのように耳をふさいで、その罪の中に生き続けるなら、主の恵みを得ることは絶対にできない。 主は戸の外に立ってたたくと聖書の中にあります。ここはかつて、主を受け入れた者に対しての個所なのでしょうが、まだ主を拒み続けている人々にも言えます。 その戸を開けるなら、主はうちに入ってくださり、食事をもともにしてくださると約束してくださっているのです。 食事をともにするということは、この時代においても、今でも、食事をともにするということは大変に重要に思ってらっしゃる方がたくさんおいでになるでしょうが、この時代は特にそうなのです。 ともに食事をするということは、大変な意味を持っているのです。「そのことをなそう。」、このようにイエス様は仰っているのです。 意識して主を求めたいものです。何をするときにも、いつにあっても、主に喜ばれたい。与える主のみむねを行ないたいという意思を持った生活をしたいものだ。このように思います。 私たちが弱い者であるという、すなわち、自己否定の態度を取り、自分が無知な者であり、罪深い者であることを認めることです。 その態度を取ることによって、イエス様にすがることができて、日々の喜びと平安と永遠のいのちを与えられるのです。 今晩から始まりました喜びの集い、明日もまた多くの兄弟方、姉妹方、そしてまた、初めて集われる方々もおいでになられるでしょう。ともに主を賛美して、主のみことばを心静まって、これからも聴いて行きたいものだ。このように思います。 最後にコリント人への手紙第Iの1章の27節から31節を読んで終わりましょう。 コリント人への手紙第I、1:27-31
終わります。 |