引用聖句:コリント人への手紙第II、9章8節-12節
今日は、今兄弟に読んでいただいたところから、「主のものは私のもの」という題で考えてみたいと思うのです。「あなたのものは私のもの」という言葉がありますけれども、まさにイエス様はそれほどに私たちにあらゆるものを与えようとしている。「神は与える方」っていうことなんですね。 聖書の中に出てきますが、「父がわたしにお与えになる」とイエス様が言われるように、神は愛するイエス様にご自分のものすべてお与えになりました。 イエス様は父なる神の御心のままに、与えられるものすべてをお受けになったんですね。すべてをお受けになられたイエス様は、父なる神のみむねに従順に従うことをなされて、十字架の刑につかれたのも、すべては神の命令のままになされたんです。 イエス様はご自分の思いで、十字架から逃れようとすれば当然できたでしょうね。しかしイエス様は次のように言われてるんです。 ヨハネの福音書6:37-39
こうあります。 聖書の中にはまた、「彼を砕いて痛めることは、主の御心であった」と、イザヤ書にあります。その御心に従ったんですね。従順に従ったイエス様に、父なる神はすべえをお与えになった。そのイエス様に私たちが従順であるとき、すべてを与えてくださるんですね。 父なる神の御心に従って、私たちを救いへと導こうとなさってるそのイエス様が、私たちを相続人として、愛する友としてくださると、こう言われてるんですね。そのことはすなわち、主のものは全部私たちのために用意してくださってる、私たちのものとしてくださってることなんですね。 私たちが、主のご用意してくださってる多くの恵みをいただくことができるようになるためには、私たちは心を開いて、イエス様に従って歩むことが必要です。 私たちが心開いて従うときに、私たちはイエス様の御心を知ることができるんですね。そうしてへりくだりと、悔い改めの思いを覚えるんじゃないでしょうかね。 主なるイエス様の恵みに対して、私たち人間は感謝をささげるほどの、身の丈のほども持ち合わせていません。イエス様がそのような者の感謝の心と祈りをお受けになられるんです。私たちが主の御前に静まったときに、イエス様がそれを与えようとなさってること、このことを覚えるんじゃないでしょうかね。 たとえある者には多く、ある者には少ない恵みであっても、それらの恵みは主なるイエス様のものであって、罪だらけの自分にはその恵みを受けるにふさわしくない者であっても、ふさわしい人はひとりもいないんですけども、主なるイエス様は有り余るほどに与えようとしてるってことを知るんじゃないでしょうかね。 多く与えられるかどうかっていうことは、私たちが判断するんじゃなくて、主なる神がご自分の思いでなされることであって、むしろ一人一人は自分の受けた恵みが自分に過分であること、有り余るほどであること、このことを知るでしょうね。 「わたしの恵みはあなたに十分である。」こうイエス様が言われてるところがありますね。そうして人々にパンと魚を与えて、さらにあり余ったほどに私たちに与えようとしてるんです。男だけで5,000人。そこにパンと魚を用意してくださった。でもみんなが満腹になって、もういらないというほどになっても、さらに12かごのあまったものがあった。それほどに与えてくれるんですね。 本来は自分の受け得る分は無いに等しく、むしろ与えられるものの列に属さない者にもかかわらず、十分な恵みの中に置いてくださってる。それは神の私たちへのあわれみであることを知るんですね。そうして、その恵みは私たちに考えられないほどの周到さをもって用意されている、このことも知るんじゃないかと思います。 与えられてる時は、全く「恵み」と覚えないままに時が過ぎます。殆どの人がそうじゃないかと思うんですよ。でも後で振り返って見ると、私たちには考えられない緻密さといいますか、計画性といいますか、その用意周到をもって恵みを与えられることを知るんじゃないかと思うんです。 世の人々はそれを偶然と言います。あるいはラッキーだったと言います。しかし主にある兄弟姉妹は、それを「恵み」と感謝することができるんですね。これは全く心のおきようが違いますね。 試練も同じようになさりますが、試練のある最中は、「なぜなんだろうか。」こう思いますけども、それは私たちが主の御前に小さくなり、さらに主を知るためであって、その先に光が必ず用意されてる。イエス様はそのことをなさろうとしているんですから、必ず用意してくださってるんですね。 イエス様は私たちへの平安を次のように言われてます。 ヨハネの福音書14:27
世の人々も、もしたましいに慰めや喜びを受けることができれば、喜んでこれらを受けようとするでしょうね。しかし慰めや喜びを、世の人々は人の造ったこの世のものに求めますね。そこから満足を得ようとします。世の快楽を追い求める、そのようなものじゃないかと思います。 そのために、たましいの慰めはどのようなものなのか、どれほどに素晴らしいものであるかわからないままに、この世のものを追い求めるんですね。 霊の慰めというのは、世のあらゆる喜びと楽しみにまさるものです。イエス様を知るなら、世の楽しみや平安はすべてむなしいものであって、恥ずべきものであることを知るんじゃないでしょうかね。 「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違うんだ。」こう言われてましたね。世が与えるのは的外れのものです。人間が本来求めるべきものではない。的外れは的外れです。そこには真実はありませんね。 神は、惜しみなく慰めの恵みを私たちに与えようとするのに、多くの人々はその恵みを受け、感謝しようとはしません。 今日は、何か4日続きのお祭りなんだそうですね。ものすごく大きなお祭りなんだろうとは思うんですけれども、そこにどれだけの喜びがあるんだろうか。今、日本は「秋祭り」といって、あっちこっちで賑やかです。この前も会社行こうと思ったら、道がなかなか通れないんですよ。結局はおみこしですか、あれが道の真ん中をこう歩くもんですからね、私も会社遅れたりしたんですけども、みんな喜んでるのかなんかよくわかんないんですけども、お酒が飲めるとか、何かあるんでしょうね。 世の人々はそこに喜びを見出そうとするんです。しかしそこには真実の喜びはない。 神は、常にたましいを主に向けて感謝する者に恵みを与えられる。高ぶる者からは取り上げて、へりくだる者に与えられるんだ、とありますね。ですから、私たちは神の多くの恵みを覚えることです。 そのために、イエス様に私たちは心を開いて大きな尊敬と熱心な思いをもって、主の恵みを覚えることを祈り願うことじゃないでしょうかね。そうすれば、それら一つ一つにふさわしい感謝をささげることができますね。 コリント人への手紙第II、13:11
こうあります。エレミヤ書には、みなさんあるいは知ってらっしゃる「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」っていうところがあるんですね。「にもかかわらず、主はこれを顧みられる。」こう言われてるんです。 私たちは本来、主の慰めも、大いなる恵みも、受けるに価しない。そんな価値なんて全くない。そんな者です。なぜなら私たちは、心高ぶらせる者であって、主の御声には私たちは耳をふさいで、「彼らは聞かず、耳も傾けず、うなじのこわい者となって、聞こうとしないんだ、そして、おごり高ぶる者なんだ」と、聖書にあるんですね。 ですから、主が私たちを置いてきぼりにして、置き去りにして顧みることがなくても、そのあしらいは当然なんですね。私たちが、涙に明け暮れる毎日だったとしても、それは私たちが負うべき当然のことなんでしょうね。 しかし主は、神の被造物である私たちが滅びることを決して望まない。それどころか、ひとりも滅びることなく、救いへと導かれることを望んでおられるんですね。 ローマ人への手紙9:22-23
こうあるんですね。 主イエス・キリストは、イエス様は、取るに足りない、本来滅ぼされるべき怒りの器に慰めを与えてくださる。それはすべてのこの世の与える慰めや、褒める言葉に比較し得ないもの、いわゆる次元が全く違うんですね。それは人のむなしい慰めの言葉のようなものではないんですね。 私はちりや灰にすぎませんが、とアブラハムは神に応えています。もし私たちがそれ以上のものと思うんならば、それは神に逆らうことであって、神が私たちをどのように裁こうと、反駁できませんね。文句の言いようがありませんね。 しかし私たちがへりくだり、主の前に自分の弱さを認めた時に、低い者として、主に従う者とする時に、主は私たちを顧みてくださる。主の恵みは豊かに与えられ、高価で尊い者とされるんですね。 この世を歩んでるといろんなことがあります。毎日の生活の中ではそれこそ、ひしゃげそうなこともいっぱいあると思うんですよ。でも私たちが「ああ、どうしようもない。」こう思った時に、「イエス様、ごめんなさい。」と言った時に、一人一人にこれまで考えられなかったような、恵みを、喜びを、そして平安を与えてくださいますね。 この中にも多くの方々が、振り返ってみるとそのことを得たんだ、こんなことを思う人がいっぱいいらっしゃると思うんですよ。主の目には私たちはむなしく、無きに等しく、心変わりやすく、うらぎりやすいもんですよね。だとするんなら、何を誇ることができるんだろうか。 しかし私たちはむなしい誇りに目を向けてしまいます。それは私たちをまことの誇りから遠ざけ、主の恵みを奪うものなんですね。しかし私たちが、主が私たちを顧みられる時、私たちが主の前で静まって、主が私たちを顧みられる時に、今の私たちがどんな状態か本来はどんな状態であるのか、あったのかを、どこへ行くべきなのかを示されるんですよね。 そして主の御前で悔い改めることができるんですね。 詩篇73:21-24
こうあります。主が顧みられるんならば、私たちは力強く足を踏み出すことができます。新しい喜び、心の平安に満たされるんですね。 私たちにとって、よいものはすべて主から出ているんですね。私たちがまことの誇りと、主にある喜びにある時、それは自分を誇ることではなくて、主を誇ることであり、主の御名を喜ぶんですね。 主の御心に生きることをしないことは罪です。「なすべき正しいことを知っていながら、行なわないなら、その人の罪です。」と聖書の中にあります。神にゆだねて、行動することこそ、正しいことであり、神に喜ばれることなんですね。 これは世の中の言ってることとはだいぶ違いますね。世の中の言ってることは、もう、「自分を頼りなさい。自分をすべてとしなさい。自分をみがきなさい。」こう言っているんですね。 でも今度は、何て言うんですか。「互いに助け合って」と言うんですね。競争しなさいと言っていながら互いに助け合いなさい、こう言ってるんですね。平和を乱す、いわゆる組織を、和を乱す者は、組織から追い出されて行きます。「競争しなさい。頑張んなさ〜い。」と言っていながら、片っぽでは、「和を乱す者は、けしからん。」こう言ってるんですね。しかしイエス様は「ただ主だけを見上げなさい。」こう言ってるんですね。 「私は強いんだと言う者、それはわたしの前に来る必要はないよ、勝手にすればいいじゃない。でも主の前にほんとにどうしようもない弱い者だ、ね、私はお医者さんを必要とするんだ、こうするものはわたしのところへ来なさい。」こう言ってるんですね! ですから私たちは、一人一人は、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」こういう思いになりなさい。ベック兄がよくこのみことばをおっしゃいますね。 ヨハネの福音書3:30
私たちがその心になって主の御前に出た時に、主は最も喜んでくださる。私たちは何も恐れることはない。私たちがいろんなことに思い悩んでも、何にもできないからなんですね。 私たちが、意識して主を求める時に、これらの悩み苦しみは全部イエス様が背負ってくださる。主の恵みをいただく祝福に預かるんですね。私たちは大胆に主の御前に出ることです。こそこそ出る必要はない。むしろこそこそ出るということは決していいことではないですね。主がすべてをよくしてくださいます。 私たちが主を信頼し、主にすべてをゆだねる時に、私たちの代わりに主が心配してくださいます。私たちがゆるがされないために、必ず守ってくださる。その歩むべき方向を示してくださいますね。 主にお任せするってことは、イエス様を信頼することですね。そのことが主の御心でもあるんですね。主に頼れば主が最も喜びとしてくださる。そう聖書の中にありますね。 私たちの一人一人が、本当の喜び・平安を必要としているんだから、天地創造主であり、人間を愛してくださる神は、その愛するひとり子イエス様をこの世に遣わされた。私たちの罪を全部忘れ去ってくださるためだったんですね。 これは、神の一方的なあわれみによることですから、私たちは主の御心のままに歩む必要があるんですね。 エペソ人への手紙5:17-21
こうありますね。 私たちには、あわれんですべてを与えてくださる方がいるということなんです。「神とともにあって得られる喜びは、よく練られた喜びだ」とあります。そして神のあわれみは、あらゆるところに出てきますが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と、特にマタイの福音書の一番最後に書かれてますけども、約束してくださってる神のあわれみですね。永遠の導き者である神のあわれみです。 そしてこのあわれみは、中途半端にすることはない。なんとなれば、イエス様は自分の損得は全く考えてないから。ただ一方的に恵みを与えよう、与えようとしているから。 そして一番最初にお話しましたように、このタイトルを申し上げましたが、「主のものは私のもの」、イエス様は「わたしが与えるものはみんなあなたのものなんだよ。」、こう言ってるからなんですね。 そうして神は次のように、いつくしみを約束してくださってるんです。 イザヤ書54:10
こうありますね。たとい山々が移り丘が動いてもとは、そんなことは起りえないようにということなんですね。あるいは起りえないことが起る、という大変な異常事態にあっても、神のいつくしみは決して神を信じる者から移ることはないっていうことなんですね。 今、日本あちこち地震が多くあります。来週は私は鹿児島へメッセージ当番なもんですから行くんですが、この前桜島が爆発したそうですね。今、全国あちこちで、本当に地震があったりなんかして、愛する兄弟姉妹、その家族を含めて何もなければ本当に幸いなんですけれども、ありがたいことなんですけども、ぜひ主の豊かな恵みのうちにあってほしい、このように祈るものなんですが... このように、「たとい山々が移っても、丘が動いても、わたしの愛は決してあなたからは離れずに、変わることはないんだ。」こう言ってるんですね。 私たちの信仰はまことに頼りなくて、何か私たちの心動かすものがあるとそちらへ向きがちな、心もとない信仰なんですけども、そのような私たちにさえ神は永遠にいてくださる、こう約束してくださってるんですね。 この神のあわれみ、恵みを私たちはどのようにしたら受けることができるんだろうか。「信仰から出ていないことは、みな罪です。」とローマ人への手紙にあります。すなわち罪ある人とは、主の道からはずれた生きざまをしている者ですね。そして「主イエス・キリストの御名と御霊によって、私たちは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたんだ」とコリント人への手紙第Iにはっきりと書かれています。 「そして、あなたがたは、代価を払って買い取られたんだ」とありますね。このように神に背く者でありながら、神は私たち人間を愛したくて愛したくてしょうがないんですよね。その神の愛のゆえに、神は先ほども話しましたように、なだめの供え物としてイエス様を十字架にかけた。 この世に遣わされて、全く罪をしらないお方でありながら、私たちの罪のために十字架にかかってくださった。 罪とは、本来あるべき神の意志に反して背くことなんですね。イエス様は、肉から生まれた私たちが、義の道を歩むために、義の衣を着るために、私たちの罪を血によって洗い流し、生まれ変わるために、私たちのこの罪のために十字架にかかってくださった。 そして私たちに永遠の救い、いのちを与えるために、3日目によみがえってくださった。そして私たちとともにいてくださる。 私たちは、この愛のお方であるイエス様の尊い血のつぐないによって、完全な救いにあずかってるってことなんですね。私たちが救われたのは、救われようとして、何かいいことをしたわけでも何でもないですね。 しかし私たちは一人一人救われている。イエス様を信じることによって。イエス様の御前で悔い改めることによって、一人一人は救いにあずかっている。私たちはイエス様の十字架の救いに神の啓示によって、救われる者となったんですね。 エペソ人への手紙2:8-9
(テープ A面 → B面) ・・・を呼び求める者はだれでも救われる。 救われた人はすでに洗われて、きれいな者とされて、血によって洗い流されてきよい者とされて、義とされているんですね。救われるために、もし私たちが罪のつぐないをしなければならないとしたら、ひとりも救われないでしょうね。そんなことは、私たちにはできないから。 なぜならば、イエス様は、私たち人間は悔い改めた後から罪を犯すどうしようもない者であることをよくご存知ですから。「義人はいない。ひとりもいない。」こうおっしゃってるんですね。 そのために、イエス様は私たち一人一人に、「ありのままでいらっしゃい。」、こう言ってるんですね。どんなに私たちがかっこ良くして見せても、決して良くなることはあり得ないから。ですから何にも着飾ることはないよ、ありのままでいらっしゃい。 着飾るということは、私たちは自分で自分の身を良く見せようとしますから、そこにはおごり高ぶりが出てきますね。ですから格好をどう繕ってもできることではないんですから、ありのままでいらっしゃい、こう言ってるんですね。 私たちが今まで主に背いていた、その背きの心を悔い改めて、主の御名を呼ぶ者となるんなら、主は一人一人をあわれんでくださる。その者に平安と希望と喜びを与えてくださいますね。私たちの必要とする慰めを与えられるんです。 人間、慰めが与えられないとおかしくなっちゃうんですよ。人間にはいつもつっぱてることはできませんから、慰めがどうしても必要なんです。 人間、ある時間を起きてたら、必ず寝ないと心のバランスを崩してみたり、あげくの果てには死に至りますね。それと同じように、私たちに慰めがないんならば、心のバランスを崩すだけじゃなく死に至ります。同じことです。 そうして、イエス様はその「慰め」を与えようとしているんですね。引用聖句にありましたように、「あらゆる恵みをあふれるばかり与えること」、必ずしてくださるんです。 与えられ、豊かになった者は、惜しみなく与えるようになり、まわりにみことばを取り次いで、愛する者を増やして、私たち自身にも義の実を増し加わしてくださるんですね。一人一人が実を結ぶことができるんです。 イエス様が「一人一人にイエス様のもの全部与えよう」、相続人ってことはそういうことですね。全部与えようとしているんです。ですから私たちは、くれるものは喜んでいただこうじゃないですか。そのためには主の前に静まって、へりくだることですね。 最後にピリピ人への手紙をお読みして終わります。 ピリピ人への手紙2:13-16
私たち、ここにおいでになる一人一人も、キリストの日に誇ることができる、ぜひそのような日々を送りたい、このように思います。終わります。 |