8月の17日に肝臓ガンの宣告を受けました。肝臓ガンとリンパ腫で手遅れであるという宣告でした。 今は(10月)、体力や持続力がなくなり、会社で多くの仕事をすることもむつかしくなりました。このメッセージも録音されていますが、チャンスがあれば、日曜日に礼拝に参加し、そこで証しもしたいと願っています。 このような試練に出会った時、誰も予想できない考えられないことが起こった、というのが周りの一様の受け止め方でした。「どうして?」「あんなに元気だったのに・・・」 実際、わたしに近しい人こそそう思われました。 私自身はしかし、みなさんのショックとか、予想外の出来事という受け止め方ではありませんでした。わたしの持っている信仰、それはあまりにも生ぬるいものであったと言うこと。そして、この世に見える物で価値があるものの多くを持っていました。そしてこの世の欲をさらに追い求めて不品行を重ね、人を裁き、高ぶる者でした。 このことは、マルコの福音書7章21節、ガラテヤ人への手紙5章19節にも書かれています。 マルコの福音書7:21-23
ガラテヤ人への手紙5:19-21
そもそも私が救われた原因は、自分の持っている傲慢の罪を神様に赦して欲しいということからきています。ですから、私にしてみれば「神様は、こうきたか。」と言う印象でした。どういう意味かと言いますと、これはメッセージというよりも証しになりますが、それを少しお話しします。 今回のことには予兆がありました。まず四年前に家族の問題が与えられました。子供の問題でした。そのことで、両親が本当に祈っているかと問われました。子供の問題事態は、この世的にはたいした問題ではなかったかもしれません。それより、私達夫婦の信仰の生ぬるさが示されたショックでした。 塀の上を歩いているような、危なかったしい信仰に、いつもイエス様が助けられ、夫婦の一致を祈らされました。 ヨハネの手紙第I、2:15
まさしく私の信仰は、世と世にあるものを中心にした、なさけない信仰でした。 次の試練は会社の大ピンチでした。放っておけば会社は倒産し、私の資産のすべてが担保なだけではなく、担保提供して頂いている方々にも迷惑をかけ、ゼロではなくマイナスになってしまう。肉的には悩み苦しみ、あせりの日々を迎えることになりました。去年、一昨年... その時も私は、とにかくなんとか自分の頭で考え、自分の力で克服しなければと考え、神様にゆだねることから反対のところに立っていました。 マタイの福音書6:20-21
私の心は、私のお金、地位、自分の築いてきた足跡を常に見てきた歩みでした。私はそのとき神様に対して、ヨブ記にもあるように、神様に疑問を投げかける者でした。「なぜこのようなことが私に起されなければならないのか?信仰を持ち、礼拝にも出ているのに。もし会社がおかしくなったら、社員の家族も含めれば数100人の人々の生活が脅かされる問題を、私を通して起されるのか。」 これもまた、信仰とは正反対のサタンの大好きな考えでした。 ヨハネの福音書7:17
まず第一に神の思いを知ろうという願いと、その御心を行おうという祈りがなければならない。理屈では十分にわかっていたけれど、実際の自分に降りかかる災いの中では、素直に受け止めることができなかったのでした。 そして今年になってから、親友でもあり、信頼すべき会社の片腕であります常務が、突然心臓発作で天に召されました。経理や総務はすべて彼にまかせていたので、想像を絶するパニックに陥っただけでなく、この世的に親友であった友人を突然失う信じられない事件に遭遇し、混乱し、ますます神様に「なぜですか?」と問いただす態度をとってしまいました。 詩篇13:1
詩篇77:7-8
このように、ことごとく自分に試練を与えられると、「どうして?」と尋ねてしまいます。 創世記のころ、エデンの園でヘビが誘惑してから、罪を犯しても罰を逃れようと人間はしてきました。神様はすべての所有者であり、取り上げる権利もお持ちです。でも私たちは、それぞれの試練の谷間で悶々と苦しみ、ヨブやダビデのように対応できないのが現実です。 耐えがたいこの世の試練の中にあって混乱を極めると、霊的な危機に出会うクリスチャンも出てきます。それがまさしく私の姿でした。 文字通り神様を見ず、人間の力で理解しようと・・・、その結果、神様が実際におられることさえも疑うほどの不信感が生まれ、期待が絶望になり、最大のフラストレーションは、神様は全知全能であることを知っているところから来る、「神様は助けることも、癒すこともおできになる。しかしなぜそれを今なされないのか?」 わたしはそのような者でないとしても、全身全霊をもって信じてきた者が、神に見捨てられたと思うところに、サタンは、「神様などいない。お前はひとりぼっちだ。」、とささやくのです。 そのようなサタンのささやきに耳を傾け、信仰が揺らいでいた私に、神様は最終的な試練を愛をもってお与えくださいました。それが今回の私の病気でした。 そのような、神様からどんどん心が離れていく自分に気が付きつつ、どうしようもできず、サタンの方に歩み寄っていた私に、神様は大きな救いの腕を伸ばしてくださいました。 ヨハネの手紙第1、5:16-20
私は今、悲観的になっているわけではありません。あと何日生きられるかわかりませんが、それはみなさんも一緒です。 この病気を宣告されてから、毎日毎日が私にとってすばらしい一日一日であり、50年の中でこれほどすばらしい充実した日々はありませんでした。毎日毎日、目に見えるもの、耳に聞こえるものが新しい体験であったことを思い起こします。 家族と過ごす残された時間も、今までのように仕事をしていれば到底あり得なかった時間です。心からの感謝をしています。 長く話していますが・・・、私に神様が、どのようなことを語りかけてくださったかをお話ししています。それは、神様が私の傲慢を打ち砕き、むなしくするために、多くの試練をお与えくださったということです。 もちろんその目的は、神様だけを愛し、神様のみもとに行くことを切に望む、そして真実の祈りをする者に私を変えるためです。そして肉の力でなく、神様に頼って歩み、神様の前にへりくだるためです。 私は、この病気を与えられたことで失ったものはなにもありません。「また、そんな強がりを言って」と言われるかしれませんが・・・、孫の顔を見たいとか、子供の結婚を見たいとか... でも、そのようなことは真実の幸せとは無縁のことです。そのようなこの世の、今から思うと取るに足らない物やことに、かつてはすがりついていた、それらを失ったかわりに大きなものを得ました。 それは神様と共に歩むことができることです。そしてもうちょっとで天国に行くことができます。 ただひとつだけ、本当に悔やまれる、成し遂げ得なかったことになって後悔すべきことは、本当に少しの魂しか導くことができなかったことです。神様の福音を多くの人々に述べ伝えられなかったことです。 今から思えば時間はいくらでもあったのに、神様の愛を説くことをせず、家族、友人、会社のスタッフ...、心から神様の愛を説こうという気持ちを持たず通りぬけたことを後悔しています。 この世での最後の時になって、私の親戚や家族を御代田に行くことができるようにしてくださいました。自分のこの世での命と引き換えと言えば、なんですか、それでやっと自分の家族を救いの入り口に導くことができただけです。このことを思うと、救われて10年、なにもできなかった自分、悔い改めの少なかった自分を思います。 マタイの福音書10:37-39
自分の十字架を負わない者はふさわしくない。自分の命を自分のもにする者はそれを失う。この言葉は、随分前に何度も拝読してきましたが、今やっとこのみことばの意味がわかりました。 ヨハネの黙示録から、最後にみことばを読ませて頂きます。 ヨハネの黙示録3:2-3
ヨハネの黙示録22:17
ヨハネの黙示録3:21
生きている間に、この世は地獄であると思う人はそんなにいません。クリスチャンの中にも、この世が地獄であるとはっきり宣言できる人はいるでしょうか。でも、神様の御座のそばは天国だという兄弟姉妹はいるでしょう。 わたしも、この世はまんざら悪くない。天国も良いけど、この世もまんざら良いよという生ぬるい信仰でした。その生ぬるい信仰が、多くの人をこの世の地獄に置き去ることしかできなかったことを悔いています。 御心でしたら、残された数ヶ月、神様の御心に従って歩めればと祈っています。そして日本やドイツやアメリカの多くの兄弟姉妹が祈って下さったことを感謝しています。 必ずイエス様と、みなさまと天国で過ごすことができると信じています。ちょっと長くなってしまいましたが、聞いてくださってありがとうございました。 |