牛久集会


飯守兄

(牛久集会、2002/04/06)

引用聖句:マタイの福音書22章1節-14節
1イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。
2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
3王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
5ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
10それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
11ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
12そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
13そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

(初めの部分が切れています)
…ちょっと目を上げると、菜の花がずっとあったり、そういう光景がここへ来るまでに何回かあったんですね。
それで、だんだん嬉しくなって来て、やはり、春の息吹とその自然の喜びとその命っていうのが伝わってきて、自分がなんと、その神さまの祝福と喜びから、気持ちが離れてるってことを発見したんですね。
やはりこういう時節ですと、仕事の面でも人間関係もいろいろギクシャクしてきて、非常に潤いと楽しみ、それから自然と親しむ…、空気をおいしいと思ったり太陽を楽しんだりする、気持ちの余裕がないことがわかりました。

本当にこうして集まって、今日の兄弟の言葉にもありましたように、イエス様の栄光を見たい、栄光を現わしてくださるように、主に祈っておられました…。

私たちは花の美しさとか、人の素晴らしさとか、また自然界を賛美したり楽しんだりしますけども、やはり賛美すべき方は、ただ一人イエス様だけだというふうに思います。
そうしないと、やはり私たちは、段々とイエス様からそれて行ってしまって、イエス様以外のものを礼賛する方向へ、行ってしまうんだなと思いました。
でも、花を見て神さまのことを考えるっていうのは、素晴らしいことだと思います。

私は今日、吉祥寺よりもさらにずっと南の方の、あの多摩川の縁にある狛江っていうところから来たんですけど、ここへ来るのは今日で4回目ぐらいですね。3回目か4回目か…。

で、一緒に聖書から、御心、神さまの栄光を見たいと思いますが、このマタイの福音書22章、テキストですから、今日のテキストとして選ばしていただきましたので、ほかのところへ飛んだ場合にまた戻れるように、ちょっと何かはさんどいて、鉛筆でも、しおりでも結構です。
1節から14節まで。ちょっと長いんですけども、一つのまとまった、イエス様の話された例え話です。

イエス様は、非常にたくさんの例え話をなさっているので、例え話を用いることが、私たちにとって非常に必要なことだというふうに感じますね。そして例え話によって本物のことをよくわからせる、という仕掛けを神さまは考えておられるんだと思うんですよね。

で、王様が、宴会の準備が整って、そして招待。だけど、招待した人が来なかった。またもう一度改めて、2回目に招待してもそれにも応じなかった。
それから、神さまの遣わせた人を殺してしまった。それから誰も彼も、じゃあもう大通りへ出て行って誰でもいいから、みんなを招きなさいと言って、そしたら、たくさんの人が入ってきたという…、そういう。
そこに、神様は宴会所に入った人々を一人一人迎えて、でも一人だけ礼服を着ていなかった人の記事が載っています。

前半と中半と後半に分けてお話します。
まず、「天国」という言葉は、私たちよく聞きますけど、「天国に招待されている」っていう言葉は、やはりあの聖書の特徴だと思いますね。で、その招待されるにふさわしい者っていうテーマがあるわけです。ふさわしい者がリストになっていて、そこにその人たちが招かれるっていうこと。
それから、「天国」という言葉に対して「地獄」という言葉があります。この例え話を読みますと、私たちの行き先には何があるでしょうか?「天国」があります。そして「地獄」がありました。そしてこの2つしかなくて、その中間はないと。
中間を作りだすのは人間ですけど、神さまはその2つしかないと聖書にはっきり書いてくださってますから、私たちは、迷わず「天国」を選ぶべきですね。

この私たちが住んでる地上の人生は、必ず終わってしまいますから、誰かその子どもが生まれて、私たちがずっと世代が変わって、永遠に生きながらえて行くんではないか、天国もないじゃないか、地獄もないんじゃないかという、仮説が自分のうちに湧き上って来ますけど、決してそういうことはなくて、聖書の神さまは、はっきりと一人一人は独立してて、神さまとの関係を正しくしなければならないし、その人が一人で、次の子どもも、その人一人で、神に彼らがお会いしなければならないと、あの聖書はちゃんと書き記してくださいましたので、私たちは迷わず神さまのところへ行かなければなりません。

それで、天国にふさわしい者というのは、どういうことなのかを考えます前に、「王様」、その招待する王さまは、例え話ですから、本物は何かと言いますと「天の神さま」です。それから「王子」、王子様は「御子イエス様」ですね。
それから、「はじめに招待しておいた客」というのは、アブラハムという一人の人から、「イスラエル民族」を神さまは、約束の通りに起こされました。
アブラハムにイサクが生まれ、ずっと血筋が、マタイの福音書に書かれてありますように、一人の人アブラハムから「ユダヤ民族」を起こされました。

それから、この3節に出てくる「しもべたち」は、「預言者」を意味してます。
聖書は、『多くの預言者を送った。そして何を預言させたか、何を神さまのメッセージとして伝えたか。』を、歴史的にたくさん記してあります。
その4節にあります、「別のしもべ」って書いてありますね。

マタイの福音書22:4
4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』

この4節に出てくる、「別のしもべ」っていうのは、「イエス様の弟子たち」です。このことにぴったり当てはまります。
それも「使徒たち」と言ってもいいと思います。その使徒たちの招きの様子は、天国への招きの様子は、使徒の働きにずっと書かれております。

私は最近、「使徒の働き」を読むのがとても好きになりまして、毎日1章か2章、多いときは3章くらい読みますけども、イエス様のそのしもべたち、預言者というかイエス様の弟子たちが、どのように生活の中でイエス様の聖霊に導かれて働いたか、ということが具体的な記事として細かいことにも、大きな政治的なことにも、生活の中にも入ってきているので、ほんとに使徒の働きを読むと、勇気づけられるし、そのままずっと、今、御霊・聖霊としての働きが、天国への招待のかたちで、ずっと続けられているということがわかります。ぜひ、「使徒の働き」をたくさん読んでいただければ幸いだと思います。

それから、7節をご覧ください。

マタイの福音書22:7
7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。

これは「エルサレム」のことを言ってるんですね。それから、

マタイの福音書22:11、13
11ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
13...『外の暗やみに放り出せ。...

この「暗やみ」というのは「地獄」のことです。「ゲヘナ」のことであります。
このように、いくつかの言葉を具体的に、神さまと御子イエス様と、私たちのこの地球上の人類とに当てはめてみますと、明解に、その例え話の意味するところ、聖書の神さまが何をおっしゃりたいかがはっきりとわかります。
これは、決して「そういうふうに解釈することもできる」という以上の確かさがあります。

天国のことは、ちょっとここに手をはさんで、ヨハネの黙示録の19章をご覧いただきたいと思いますが、「婚宴」という言葉が出てくる箇所ですね。

ヨハネの黙示録19:9-13
9御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。
10そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」
11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
12その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
13その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

これは、「イエス様」のことですね。イエス様のいろんな名前がありますけど、「神のことば」、「小羊」…。この9節にあります、「小羊」ってのは、「神の小羊」「神のいけにえの小羊」…。
「血に染まった衣を着ている」というのは、イエス様はただ一度ですけども、その罪のない、私たちと違う罪のない血を、聖い血を、神の御父の前に支払ってくださって、私たちの罪の赦しを全うし完成してくださいましたから、…この方は「イエス様」です。

そして、イザヤ書の9章をご覧ください。いろいろなイエス様の名前が出てきますね。

イザヤ書9:6
6その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

この、「平和の君」の「君」というのは、「Prince of Peace」といって、「平和の王子」というふうに英語では訳してますけども、私は、この「平和の君」っていうところをメサイアの歌詞の中に、あのそういうふうに英語で歌いますから、とってもそこが気になってて、イエス様って平和の君って訳してる。うまい訳だけど、もしかしたら「王子」って訳した方が僕は好きなんですね。

王子のために、婚宴に、天国で開かれる婚宴に、私たちは、もしイエス様を心から受け入れて、イエス様の血潮を自分の罪の贖いとして、個人的に受け取っていれば、小羊の婚宴に招かれています。
礼服を着ている状態に、今すでにされている。礼服が準備されている。礼服って、イスラエルの習慣であったそうです。準備のない人のために、宴会場で、貸衣装として貰えたそうです。そういう習慣が、イスラエルにあったと聞いております。

天国に入る資格というのを、私たちはなんか自分で得ようとして頑張ってますけども、自分の力あるいは自分の知恵や努力では、神さまに背いてしまった私たちの原罪によって、どうしてもあの自分の能力で天国に入る資格を獲得することは100%無理なんですね。
この資格がないままで、何とか天国に入ったら、何とかなるだろうっていう、私なんか、何とかなる人間っていって準備してなくても何とか、学校入るときも裏口入学したし、就職も裏口就職したんですよね。

本当に悪い性格が、ますます助長されまして、今だに何とかなるタイプっていうんですかね、ですからあの、そのことがだんだんと自分に重荷になってきまして、今も、70近いんですけど、本当に、こう頬ばらないで、怠けないで、神を恐れて、小さなことに忠実に暮らしているむつまじい人、本当に目を覚まして、生活の中で、忠実に神さまの言葉に忠実に従おうとしている人を見ると、素晴らしいなと思って、そういう人がそばにいると、私もそうなれるんじゃないかと思って、勇気づけられる思いがするんですけど…。

でも、こんな人間でも、礼服を神さまがちゃんと用意してくださった、小羊の婚宴に招かれている、いのちの書に名の記されているということを、どうして確信できるのでしょうか。
私は昔から、ずっと30…、40近くまで、カトリック信者でしたから、「天国に入る資格がある」なんていうこと言うと、神を冒涜する者だということで…。

非常に、天国っていうものは、誰がいけるか絶対わからないと、死んでみなきゃわからないと。死んだら、すべての人が必ず自分の罪の償いを自分自身でやるために煉獄へ行くっていう、だから天国と地獄と、もう一つ煉獄っていうのを、考え出したんですね。
煉獄で、自分の罪のために苦しんで、自分で罰を受けて、それをこらえて、そこの状態によっては、神さまはもしかしたら天国に入れてくれるかもしれないという、全く聖書を否定する考え方を、小さい時から教えられまして、父がカトリックでしたので、そういうふうなことを、僕は信じてましたから、40近くなって聖書に触れて、こんなに確実に天国に入ることを確信させるものが、聖書であるということを聞きまして、本当に宗教ではなくて、カトリックではなくて、回教ではなくて、プロテスタンティズムでなくて、教会ではなくて、聖書によって、神の言葉によって、人が神の言葉の権威と力によって、天国に入る資格を与えられるということを知って、それから救われて、ちょうど今20年以上経ちますけども、ますますその確信っていうのが聖書を読むたびに、あの強くなってくることは、あかしさせていただきたいと思います。

小羊の婚宴の用意っていうのは、もうできちゃっていると、ヨハネの黙示録に書いてありますね。それから、このイスラエル民族が、メシヤであるイエス様を排除してしまった、そして葬ってしまったということは、大きな、人類の最大の罪だと思います。
その罪も含めて、神さまは私たちを処罰なさるのを、王子であるイエス様を遣わして、その聖い血潮を流させられたことによって、すべての罪を、そのイスラエル人の、王子を殺してしまった、イエス様を木にかけて殺してしまった罪も含めて、全部イエス様の十字架の血潮で贖っておられるんですよね。

ですから、ここでちょっと注意したいことは、この違反は、異邦人に及んでしまいました。
イスラエル人以外の私たちの民族に、世の世界のすべての民族に、ですから大通りに出て行って、誰も彼もっていうのは日本人も、南米人も、すべての人です。
それで、ローマ人への手紙の11章11節には、「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだ。」とありますね。

ローマ人への手紙11:11
11彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだ

今イスラエルは、まだイエス様を、あの嘘つき・偽り者としていますけども、先ほど読みましたイザヤ書53章とか、ヨハネの黙示録には、特にあの、イザヤ書のことは明らかに歴史的事実として、ナザレのイエスについて書かれてあるってことがわかるもんですから、このイザヤ書53章は今イスラエル人たちは絶対に読まないそうです。
そこを開かないそうです。そこに触れないようにしてるとあります。
しかし、その、「はじめの者が後になり、後の者が先になる」というみことばが、有名なみことばがあるんですけども、このイスラエル人が後になって、私たち異邦人が先になってしまいました。

しかしイスラエル民族は、「私たちが十字架につけたナザレのイエスは、私たちがアブラハムの時から待っていたメシヤである」ということを、国として告白をして、世界に証しをする時がくると、聖書は預言しています。
そのことを知ることは、とても私たちのこれからの、さっき兄弟が言ったように、安心してこの動乱の世の中をまっすぐみことば通りに暮らしていくことができる…。
これは、本当に特権というより、幸せなことだと思います。

コロサイ人への手紙1章。イエス様と私たちの関係について書かれています。

コロサイ人への手紙1:14
14この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

「罪の赦し」が、小羊の婚宴、イエス様を中心とした天国の結婚式に入れる条件です。それから、コリント人への手紙第IIの5章には、

コリント人への手紙第II、5:21
21神は、罪を知らない方を、

これは、王様は王子を、天の父は御子イエス様を、

コリント人への手紙第II、5:21
21私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

「神の義」という言葉は、神はどこまでも正しい方、神のご性質というより、神の根本的な、「神さまのいのち」と言ってもいいぐらい神の義ということを、「私たちの義」は、「人間の義」と、「神の義」というのは、同じ方向を向いていないかもしれないし、質も全く違うものだと思います。
結局「全く聖い」ということですね。「神の義」っていうのは。「完全に聖い」ということです!この聖さに私たちが触れたら、その瞬間私たちはもう、なんていうんですか、消え去って…

(テープ A面 → B面)

…ることができない。そういう聖さです。
よく、コ−クスに鞴で風を送ってると、赤い火がだんだん白くなって輝いて、ものすごい強い光を…。
そのそばに何か髪の毛でも持ってこうなものなら、瞬間的にフワァーッ!!と煙になってしまいますね。
そのように、神の義が、人間の義…、聖書が言ってますけども、「人の義は汚れた衣のようだ」っていう、雑巾みたいなもんですね。私たちがどんなに洗ってもねきれいになりません。
でも神の義はそのように、恐ろしい力を持ってるもので、その完全さと聖さとが、やっぱり神のご性質で、神そのものであるとすれば、神様の催される小羊の婚宴って、天国っていうのはどれほど聖潔な、どれほど輝かしいものであるかっていうことを、少しこの記事で感じたいと思いますね。

あの、パンジーの花一つ造るにも、神様が造ってます。人間には絶対できません。クローン人間だどうなんだと言っても、すべてを神さまが支配しておられる。
人間がそこへ何かものを持ってったり、場所を変えたりしても、人間は何も創ることはできません。パンジーの花一種類を造ることもできません。

でも、その神さまの創造のわざと、神さまのご性質っていうのは、いろいろなご性質の一つ、ものを創ることがとっても好きですし、美しいものをお創りになるのが好きですけど、その神の聖さ、神の義というのは、そういうものを可能にするんだと思うんですね。
私たちは何にもできない。何一つ創れないっていうのは、やっぱり聖さをもってないからじゃないかと、僕は最近思うんですね。
でも、この罪と不義から解放されて天国に入ったら、神さまのその完全な聖さによって、その聖さの中に私たちは飲みこまれてしまうわけですから、ものを創り出す神さま、イエス様と私たちは、一体になってしまうっていう、これが聖書が約束しいている招きです。

ですから、「天国」というのは本当にすごいとこだと思いますね。
この前天国ってどんなとこだろうなって、まず悲しみがない、それから労働がない、苦痛がない、それから寝不足がないとか、いろんなことで、「じゃ、楽だな、それじゃもう〜。」
「だけど、それって」とある人が言ったん、「何にも問題がなかったら眠ってしまって、毎日それだったら、退屈でしょうがない。」って。

そこでやっぱり今、この神の聖さ、義っていうことを考えたら、それはすごいエネルギーと、すごい活動と喜びと、ちょっと天国に入ってから地上を見てたら、なんか地上の生活って、何もしてないっていうか、もう眠ってるっていうか、必死で、楽しんでないというか、生きてないというか、そういうふうなことが天国に行かないとわからないんじゃないかと思いますね。

ですから、この「神の義の衣を」「礼服を」着るっていうことは、あの例え話でちらっとここにイエス様ご自身が話された例え話ですと、ありますけど、そこには、ご自身の義の衣を私たちに着せてくださって、その証をしておられるんだと思うんですね。
ですから「義の衣」は、私たちにとってどんなに素晴らしいものか、あのいろいろこれから想像してみていただきたいと思いますね。自分の性質がどんなに汚れているかということをあの、少しずつ…。

昨日読んだ本に、あるキリスト者が書いていましたけど、もう亡くなった方ですが、
「50代より60代になって、自分の汚れがもっとわかった。と同時に、そのこんなものを聖い者として扱ってくださる神さまへの感謝が年々大きくなってきた」と。
だから、私たちの性質っていうのは、罪ある性質でも、根本にあるその人自身、例えばAさんっていう人は、Aさん自身がよく知ってるかっていうと、僕もそうですけど、神さまがその義の衣を着せる対象になる一人一人、「あなた」はどんなにか神さまから麗しい、慕わしいと思われてるか、その霊的な姿っていうのは、神さまにしか見えてなくて、本人には見えてないと思うんですよ。

だから、パンジーの花が、自分のパンジーのその美しさっていうの、知らないんじゃないかと思うんですね。
天国行ったらそれがわかって、そしてイエス様の義の衣を着てる状態が、どんなに輝かしいかってことに、僕は驚いてしまうんだと思うんですね。
だからイエス様を見て、イエス様にお会いして驚くと同時に、自分の、個性の…自分ってこんな人間だったんだ!って。だから、イエス様に会わされたんだ!って、聖められたんだ!っていうことを、驚くと思うんです。

人を見るときに、なんてこの人可愛い性質だろうとか、なんてひんまがったところ、かわいそうだなとか、いろいろ言いますけど、それは表であって、その人自身の霊的なアイデンティティっていいますか、その人自身っていうんですか、自身、霊的な存在としてのその人。
ですから夫でも、子どもでも、友人でも、その人自身のそばに行くことが、大切じゃないかと思いますね。自分を含めて、神さまが義の衣を着せて完全な者として、今交わりをしてくださるってことも、大切なことだと思います。

天国行くまで、じゃなくて今、すでにこの地上で、義の衣を着て、イエス様の前に出てる多くのキリスト者たちがいますね。
その人たちは、成長すればするほど、結局その義の衣がどんなにか、王様、天の父に喜ばれてるか、イエス様がどれほど喜ばれているか、そして、その義の衣を、イエス様の衣を着てるあなたが、どれほど御父と御子に喜ばれているか、ていう、小羊の婚宴の座席に座ってる状態を、すでに先取りして、この世で神の栄光見るということが、神を証しするということ、イエス様を証するとうことになると思うんですよね。

ぼやっと見てるんではなくて、はっきりと、輝きを、小さな灯心に火が着いた状態ですから、高い所、見える所にいつも置いて、「ますの下に置く者はありません。」とイエス様は言われました。
自分の義を立てようとして、一生懸命自分で自分できれいな洋服を着て行っても、礼服でなければ駄目だということも、注意したいと思いますね。
「律法による義」っていうのと、「キリストの義」っていうものがあります。神の義で、律法の義ではなくて、キリストを着ることによる、義。すなわち、自分の義を捨てて、イエス様の義を着るって、これを個人的に持つことができるというこの事実ですね。

誰にでも与えられるものを、先にいただいた私たちは、隣の人にもそれを紹介することができ、その人も受けることができる。「誰も彼も大通りに出てって」っていう状態はですね、ほんとに素晴らしいと思いますね。
今、病院で療養中の、もう動けなくなった姉妹ですけど、吉祥寺の集会に集っておられましたので…、もう集会にみえなくなって6〜7年になります。彼女は道端で、大通りで、人を誘ってくるんですよね。イエス様の宴会に。それで何人かの方が救われたんですけども、そのことを思い出します。

この前、ある姉妹と一緒にその姉妹のところへお見舞いに行きまして、もう泣いて、みんなで喜びました。日曜日でしたから、パンとぶどう液を持ってって、4人で、一緒に行った兄弟と4人で、パン裂きをして、賛美して、とても、ほんの40〜50分の時でしたけど…。
ご主人が韓国人で、あの息子さんと娘さんと、4人お子さんいますけども、最近「母のところ行ってくれてありがとう」って葉書がきました。

すべての人が招待されてる、宴会の準備ができているっていう状態っていうのは、本当に福音を伝えるべき条件としていい例えだし、全くその通りなんですよね。
「頑張りなさい!」「もっと自分を…あの、仕事、やるべきことやりなさい。」「もっと、正しく生きなさい。そして教会に行きなさい!で、頑張りなさい。」っていうんじゃなくて、「もう、小羊の婚宴に、あなた、入れますよ。何にもしなくても…。衣装はありますよ。それはイエス様を受け入れることです。」…っていう素晴らしい例え話だと、本当にこの記事に感謝したいと思います。

ガラテヤ人への手紙と、ローマ人への手紙と、引きたい箇所を3〜4ヵ所お読みして、終わりたいと思いますが、ガラテヤ人への手紙3章27節。

ガラテヤ人への手紙3:27
27バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

御父は、私たち見るときに、御子イエス様を見てるんですね。イエス様の中に私たちを見てるから、それから、イエス様まだ十字架につく前に、度々、「わたしはこれを喜ぶ。」御子のことをね、「わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
その御子を喜んで、私たちを婚礼に招き入れて喜んでくださってるんですよね。私たちを喜んでくださってる。御子のうちに。

ガラテヤ人への手紙3:27
27バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

それから、ヨブは言ってますね。

ヨブ記29:14
14私は義をまとい、義は私をおおった。

完全に覆ってしまってるんですね。イエス様は、私たちを完全に覆っているんです。足がちょっと出てたり、お尻が出てる状態ではなくて、完全なものとして。神の義として、私たちを受け入れて、御父は受け入れてくださってます。

でも、それは信仰によってつかむものですから、その信仰が弱いと、やっぱりその持ち物とか、自分の性質のいい所とか、よい行い、善行とか、努力とか、業績とか、地位とか、自分はどういう仕事してるとか、名誉とか、そういうこと、勲章をいっぱい並べようとします。
でも、そういうものは全く関係ないって、天国ではそういう経歴とか、人間の努力は全く評価に少しもなっていないっていうところが、大切なところで、どれほど王子さまであるイエス様の飾りが、御父に喜ばれていて、それしか御父はお受け入れにならないということを、毎日覚えるべきだと思います。

そうすると、私たちは非常に気が楽になりますし、無駄な努力しなくなるし、心配しなくなるし、不安にならなくなるんですよね。やっぱり不安と心配っていうのは、非常に私たちを傷つけるものです。

ローマ人への手紙3:24
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

神さま、その方法しかないし、それ以外の方法を神さま、お嫌いなんですよね。
排除されるっていうことを知ることが、私たちにとって非常に、霊的な意味で、経済的っていうんですか、無駄なことをしない。それが私たちを喜びに、いつも喜びの方へ、不安、疑いから確信へと、何をするにもそのことで振り分けられます。負になるか、プラスになるかですね。

それから、いつも主は招いておられます。「はい、ここに来なさい。わたしの言葉を聞きなさい。かつてそういうふうに言ったでしょう?」、というふうに、いつもみことばと御霊の働きによって、そばに招いていてくださること、一緒にいてくださること、最近このバブル弾けてから、非常によく読まれる箇所が、マタイの福音書の最後の28章の

マタイの福音書28:20
20見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

…っていう招き。ですから、招かれてるんですよね。
「ともにいる」っていうことは、主が来てくださっているっていう、…そのテーブルの所までね。外まで来て、私たちを誘って招き入れてくださってるんでなくて、またすぐそばに来てくださっている。
その主の招きっていうのは、毎日一人一人に迫っている。神の近さ。これはまた、聖いお方ですから恐ろしいことであり、またキリストがゆえに喜ぶべきことです。

もしキリストがないならば、やっぱりそこを、神の招きっていうものは、やっぱり逃げるべきですよね。焼き滅ぼされるんですから。ですから、人々が、聖い神から逃げるっていうのは、当然のことです。
正しくない、正しいでなくて、当然なんですね。キリストを持っていないんですから、神さまに近づけないっていうのは。
そうなんですよ。当然ですね。ですから、あのイエス様を、自分の努力ではなくて、もう借金は払われたよ、大丈夫だよというのが福音です。

それから最後に、小羊の婚宴のときはもう迫っている。すべての人には、一番近いところにあるのは、明日・明後日、これからの生活、よりも、本当の意味で小羊の婚姻が迫っていると思いますね。

明日のいのちはあなたもう、わからないと思うんですね。…っていうのは、非常に近いっていうことです。だから、再臨がこの数年うちにあるのか、もう少し先か、そういうことでは表現できないし、天国と一個人の近さっていうのは、ちょっと考えてみていただきたいんですけど、今まで何年か生きてこられたでしょ?あと、一年生きるか…、でも今までのこと思ったら、ほんとにあっという間だったんじゃないですか?お母さんの胎から出てきて、あっという間だと思うんですよね。
…っていうことはですね、後何年生きるか、で、再臨がどのぐらい近いか、っていうふうに考えるよりも、神と一個人の近さっていうのはさ、紙一枚よりも近い。もう、時間を超越した問題だと思うんですね。

もちろん具体的に歴史的に介入なさったように、またもう一回、主は来られますけども、マタイの福音書、24章の44節、

マタイの福音書24:44
44だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

それから、

マタイの福音書24:37-38
37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

マタイの福音書25:31
31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

やはり、あの先ほど祈りの中で、神の栄光、御子、人の子の栄光という、ここに向かっているという、それが非常に迫っているということを、御霊によって悟ることは大きな期待ですね。
それからやはり、最後に、「地獄」について、

マタイの福音書25:41
41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。

この左右っていうのは、31節から34節、お読みしましょうね、

マタイの福音書25:31
31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

先ほど読みました32節、

マタイの福音書25:32-35
32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35あなたがたは、わたしが空腹であったとき、

云々と書いてありますけど、その御国を継ぐ…。天国に行って楽しい宴会に出るだけじゃなくて、そこから、すべての神さまの祝福を受け継ぎます。
ですから私たち、イエス様の血潮によって洗われた招待客は、「花嫁」で、「花婿」はイエス様です。
これに対する信仰による期待は、私たちを本当の意味で喜びと平安と、神の栄光を見る状態にうつします。すべての神の資産、神のご性質であるイエス様と、全く一緒になるということです。
ですから、婚姻って結婚式っていうことは、2つのものが一緒になって、花婿の持ち物は全部花嫁のものになります。共同で、父から受け継ぐものですね。ちょっと…、表現できない素晴らしさです。

マタイの福音書25:41
41永遠の火にはいれ。

「あんまり極端じゃないか。」と言えます。けど、これは例え話じゃなくて、本当に永遠の火なんですよね。そのことを思うと、誰でも招待されて、キリストの義を、義の衣を着るようになるしか、この永遠の火を避けることはできないということです。
もう1箇所だけお読みして、

ルカの福音書12:4-5
4そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
5恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

ではこれで、今日の当番終わらせていただきます。ありがとうございました。




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