引用聖句:ルカの福音書16章1節-14節
今日、みなさんといっしょにちょっと考えてみたいと思います個所は、ちょっと長いのですけれども、ルカの福音書16章の1節から14節までをお読みして、それから始めたいというふうに思います。 ルカの福音書16:1-14
というふうな個所なのですけれども、この個所というのは非常に理解がしにくい個所なのではないかなというふうに思います。 その原因、理由としては、ここの主人という者が、この不正の管理人のしたことをまずほめたというところです。16章の8節のところで、 ルカの福音書16:8
というふうに書かれております。 そしてそのほかに9節のところでも、やはり私たちは理解しづらいというふうに思うのではないかなと思います。と言いますのは、 ルカの福音書16:9
何か、何を言っているのかよく分からない。 ちょっと考えると、非常に倫理に反するようなことを言っている。非常に不道徳な内容なのではないかなというふうに思います。そのためにこの個所というのは、聖書を攻撃するときの材料によく使われるということを聞いたこともあります。 それにも関わらずこのような誤解が起こりそうなことをイエス様はあえて私たちに話されたのでしょうか。イエス様は、ここのところのこの例えを通して私たちにいったい何を教えてくださろうとしたのでしょうか。そのことを考えるためには、まず14節のところで、 ルカの福音書16:14
というところを、ちょっと考えてみたいと思います。なぜイエス様の、今まで話されたこのことばをこのパリサイ人の人たちはあざ笑ったのでしょうか。 その場合に、このあざ笑ったことについて、その理由として考えられるのは、8節のところで、こういうふうに抜けめなくやったことをほめたこと、また不正の富を使って、自分のために友をつくりなさいと非常に不道徳なことを言ったこと。そのことを聞いてあざ笑ったのか、あるいは、13節で書かれている、 ルカの福音書16:13
富と神様の両方に仕えることはできないというふうに言われたことをパリサイ人はあざ笑ったのでしょうか。 この当時、富とか、あるいはお金持ちというものに対して、一般の人がどのように考えていたかということが書かれた個所がマタイの福音書の19章のところに、こういうふうな形で書かれております。 ちょっと長いですけれども、ある人がイエス様に対して、「永遠のいのちを得るためにはどうしたらいいですか。」ということを言われたときに、そのイエス様が答えたあとで、23節のところからなのですけれども、 マタイの福音書19:23-25
というふうに言われたのですけれども、この部分から言いますと、この当時、金持ちという者は神の国に一番近いというふうに一般の人は考えていたというふうに見ることができると思います。 お金持ちというのは、神様から恵みをたくさんいただいている。金持ちであるということは、神様から愛されている証拠だというふうに考えていたのではないかなというふうに思います。 だからこそ、イエス様が全くその逆の、「金持ちが天の御国にはいるのは難しい。」というふうに言われたときに、そのことに対して非常に驚いて、「だれが救われるのでしょう。」というふうに言ったと思うのです。 ということは、当然のこのパリサイ人の人たちも、富を持っている人こそ、神に愛されていると考えていたのだというふうに思います。だからこそイエス様が、「富と神の両方に仕えることはできない。」と言ったときに、パリサイ人の人たちはそのことを認めることが出来ずに、あざ笑ったのではないかなというふうに思います。 あるいはパリサイ人の人たちは、イエス様がこのように言われたことを、貧しい者たちのひがみというふうに思ったかもしれません。 つまり、このルカの福音書のところで書かれているこのパリサイ人の人たちは、神様への愛というのは、富といっしょに愛することができる。そういうふうに思っていたということが分かると思います。 神様だけではなく、富もいっしょに愛することができるということは、神様をも愛しつつ、自分の生活も楽しみながら、そして神様にも仕えることができる。そういうふうに思っていたのではないかなというふうに思います。 しかし神様を愛するということは、そのように打算的なものではないというふうに思います。 例えば、神様が何かをしてくださるから、私は神様を愛するとか、あるいは、何かしてくださるはずだから、そのことを信じて私は神様を愛するというのは、本当の愛ではないと思います。 これは私たち人間の場合でも同じように言えるのではないかというふうに思います。何かしてくれたから、あの人を愛するとか、あるいは、何かしてくれるはずだから、あの人を愛する。そういうふうなのは本当の愛ではないと思います。 それは打算的な愛であって、本当の愛ということとは、ほど遠いのではないかなというふうに思います。 神様を愛するということは、それ自体が目的であって、私たちがこの世で生活を楽しみたいがために、その手段として神様を愛するということがあってはならないと思います。 神様を愛するとは、神様を100%信頼して生きるということ。そして神様以外のどんなものをも頼りにしないということ。このことが神様を愛するということ。神様を信頼するということだと思います。 それが、イエス様がルカの福音書の16章の13節で言われたことではないかなというふうに思います。 ルカの福音書16:13
こういうふうに言われたのは、たぶんこのような意味ではなかったかなというふうに思います。 マタイの福音書の6章の31節から33節のところで、 マタイの福音書6:31-33
という神様のこの約束があります。 そして私たちがお金というものを頼りにするというのは、31節で書かれているように、「いったい何か食べることが出来るだろうか。飲むことが出来るだろうか。着るものを買うことが出来るだろうか。」、そういうふうな心配をしているからこそ、神以外のものに頼ろうとする、そういうふうなことの心配は一切やめなさいというふうに言われているのが、イエス様のみこころだと思います。 富をも、また神をも愛するということ。これは私たちが、頼るものが二つあるということ。神様が一番嫌う二心を持っているということになると思います。 しかしパリサイ人はそのように考えていなかったということ。パリサイ人は、富にも、また神にも仕えることができると思っていた。あるいは、そのように生きたいというふうに願っていたのだと思います。 だからこそ、イエス様が言われたことをあざ笑ったのではないでしょうか。パリサイ人は、神に仕えたいなら富を捨てなさいというふうに言われたイエス様のことばを受け入れることができなかった。 そして当時の人も殆どこのパリサイ人と同じように考えていたのではないでしょうか。だからこそイエス様は、その支配的な考え方が間違っていることを私たちに教えてくださろうとして、この16章の例え話を私たちに残されたのではないでしょうか。 神様に仕えたいのなら、お金とか富というものを追い求めてはいけませんということ。だからこの世に存在する富をどのように用いるべきかということを私たちに教えてくださろうとしたのではないでしょうか。 イエス様の思いが、そのように富についてのこの世での仕え方、そのことについて私たちに教えようとされたのだとするならば、この16章の例えもそのようにして考える必要があるのではないでしょうか。 そこでもう一度、ルカの福音書の16章のところに戻りたいと思いますけれども。この16章の1節から8節のところ。この内容というのは、非常にある意味で言うのならば、ほめられるべきことをやったとは言えません。 ここで主人は不正をした管理人のすべてのことをほめているわけではないということに注意しなければいけないと思います。決してこの管理人が、この主人の財産を乱費したということまでほめているわけではないということです。 と言いますのは、乱費の責任を取らされて、この管理人が首になっているということから、そのことは分かると思います。 それではいったいこの主人は、この管理人のどういうふうなところをほめたのでしょうか。それは、主人がほめたのは、不正の管理人の要領の良さ。抜けめのないこと。このことをこの主人はほめているのだと思います。それは8節のところで、 ルカの福音書16:8
というふうに書かれております。 この不正の管理人は、乱費していたことがばれてしまい、職を失うことが分かったときに、自分の将来のことを考えて、抜けめなく、要領よく行動したというふうに言えます。 その方法は、決してほめられる方法とは言えませんけれども、この世の中で生きていくためには将来に備え、要領よく生きる、要領よく振る舞うということも必要枠なのではないかなというふうに思います。そして主人は、その要領の良さをほめたのだと思います。しかしここで気を付けなければいけないのは、8節のところで、 ルカの福音書16:8
というふうに限定があるということです。 主人がほめたのは、不正の管理人がこの世で生きる限りにおいて、将来のことを考えて、要領よく行動したこと、そのことについてだけほめているということを私たちは忘れてはいけないと思います。 決して神のことに対してまで、不正の方法を用いて、同じように振る舞いなさいということを言っているわけではありません。 この不正の管理人は、この世の中で生きていく限り、自分の力以外頼るものは無かったということを私たちは考えなければいけないと思います。 この不正の管理人に、もしも家族や、あるいは子どもがいたとするならば、このような形で、この不正の管理人が要領のよい方法で、それは決してその方法自体はほめられるものではありませんけれども、もしも自分が神様を信じていないとするならば、やはり同じような形でやったとしても、あるいは、ほかの人が同じような形でやったとしても、それをほめることはできないかもしれませんけれども、責めることもできないのではないでしょうか。 自分の力以外に頼るものが無かった者、その者が不正の管理人がしたこと、そのことは決してほめられることではありませんけれども、自分の将来、家族の将来、子どもの将来のことを考えたときに、自分なりに抜けめなく準備したというところ。この点を主人はほめたのではないでしょうか。 そういうふうに考えたときに、9節で言われているこのことばというものは、私たちに何を教えようとされているのでしょうか。 ルカの福音書16:9
というふうに書かれております。 ただここで、9節は8節と違う点があります。それは、8節は、この世の子について言っています。ところが9節は、光の子に対して言われているということです。この9節は、8節と異なり、イエス様は光の子に対して仰っている。イエス様のこのことばは、この世のイエス様を信じていない人に対して言っているのではないということです。 神を信頼して生きていこうとする者に対して言われたことば、それが、この9節のことばです。 ルカの福音書16:9
この、「あなたがた」、というのは、16章の1節を見ますと、弟子たちというふうに書かれていることが分かります。 「イエスであるわたしは、弟子であるあなたがたに言います。」というふうに書かれています。そしてそのときに、また問題になるのは、弟子に対してイエス様が、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。」と言われたことばです。 この部分だけを読むと、すごく納得のできないことをイエス様が言われたように思えると思います。そして、そのように思えてしまう原因は、たぶん、「不正の富を利用して」、というところだと思います。 不正の富と言うと、だいたい私たちはどのように考えるでしょうか。たぶん、盗んだり、騙したりして不正な方法で自分の手に入れたもの、そういうふうなものが不正の富と考えるのではないでしょうか。 もしそうであるとするならば、このことばというのは、すごく矛盾した、納得のできないことばになると思います。しかし、ここで使われている不正の富というのは、そのような不正の手段で手に入れた富という意味で使われているのではありません。 8節である、不正な管理人という、この「不正」ということばと、9節の、不正の富というこの「不正」というのは日本語では同じように使われていますけれども、英語の聖書を読みますと、はっきりと区別されております。 8節の不正の管理人の「不正」は、dishonesty、つまり、不正直な管理人という意味で使われております。それに対し、9節の不正の富の「不正」は、worldlyという形、これは日本語で言うならば、世俗的とか、この世のものという意味で使われております。 「不正の富」というのは、ここで使われるときに、それは、「この世での富」ということを言われていることになります。ここでの不正の富、それは神の国に対して、この世での富という意味で使われています。 つまりそれは、この世でしか通用しない富、次の世に持って行くことができない、そのような富、この世でだけ通用する富、そういうふうな意味でこの不正の富というものは使われております。そして9節では、光の子に対して、この不正の富、つまり、この世でだけ通用する富、それで自分の将来のために友をつくりなさい。そういうふうに勧めております。 では、光の子にとっての将来とは、いったいどのような将来なのでしょうか。それは、神の国で生き続ける、9節の一番最後に書かれている、永遠の住まいにはいるということだと思います。 ですから私たちが永遠の住まいに生きるために、私たちは不正の富を、自分のために、友をつくるために使いなさいというふうに言われていることになります。 そして神の国で生き続ける準備として、不正の富で、友をつくるということ。この世の子らは8節のように、世渡り上手に自分の力だけを、常に自分の力だけを頼りにして生き抜くしかありません。 しかし、イエス様を信じ、神様を信じている光の子らは、神様を信じて、その光の子にふさわしい方法でこの世の富を用いて次の神の国で生きることができるような備えをしなさいというふうに言われているのがこの9節の不正の富で、自分のために友をつくりなさいという意味なのではないでしょうか。 不正の富と言うと、つい私たちの頭の中には不正の手段というふうに思ってしまいますけれども、ここでの不正の富というのは、この世の富というふうに読み替えたほうがいいのではないでしょうか。 それでは、イエス様を信じ、神様を信じて生きようとしている光の子にふさわしいこの世の富の用い方というのは、どのような用い方なのでしょうか。それはルカの福音書の12章の33節にあるようなことなのではないでしょうか。 ルカの福音書12:33
というふうに書かれております。朽ちることのない宝を天に積みなさいということ。これが永遠の住まいに生きるための準備ということになるのではないでしょうか。 不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、あなたがたを、永遠の住まいに迎え入れます。というふうに書かれております。 テモテへの手紙第Iの6章の7節から12節までをお読みいたします。 テモテへの手紙第I、6:7-12
というふうに書かれております。 信仰の戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。そのための手段として、金銭を愛することはやめなさいというふうにここでパウロも私たちに勧めております。 金銭を愛することが私たちを信仰から迷い出させるということ。それくらいに金銭というもの、また富というものは、恐ろしい力を持っているということを私たちに教えようとされているのではないでしょうか。 金銭を愛するということ。それは金銭に頼る生活をするということです。それは、神以外のものに頼る生活を意味します。 それは自分の好きなように生きたいという思いがあり、自分の生き方は神様に決めて欲しくない。自分で決めたいという思いがあるから私たちは自然に神に頼らず、金銭に頼る生活をしたいというふうに思ってしまうのではないでしょうか。 マタイの福音書の19章の21節のところになりますけれども。先ほど読んだところのちょっと前のところなのですけれども、 マタイの福音書19:21
と、ここでもやはり同じように、天に宝を積む方法というものが書かれております。 (テープ A面 → B面) この世でしか通用しない富、それを人のために用いること。そのことをイエス様は私たちに勧めております。そしてこれが、将来に備えて友をつくれということになるのではないでしょうか。 それは決して打算からではなく、神様を愛するがゆえに、そのことを喜んですること。そのことを私たちに教えているのではないでしょうか。 申命記の15章のところに、こういうふうなことばがあります。15章の7節からなのですけれども、お金を使うときに、どういう形でやらなければいけないかということが書かれております。 申命記15:7-10
というふうに書かれております。 この9節のところで、「第七年、免除の年」というのは、七年経つと、借金がチャラになるということを、昔はそのような決まりがあったらしいということです。 ですから、七年目が近づいたなら、貸すということはあげるということになるので、物惜しみをして、そうなったらその人に対し、愛を失ってしまう。そのようなことはやめなさいということを言っているのだと思います。 また10節でも、心に未練を持って、自分の友だちに対し、兄弟に対し、心を閉じるということをやめなさいというふうに書かれております。 神の国に行けるから、この世で人のために富を用いるというのではありません。神の国で生き続けることができるための訓練として、私たちはこの世での富をどのように用いるかということを神様から試されています。 神様はこの不正の富、この今の世の中でだけしか通用しない富、それを私たちが正しく用いることができるかどうか。そのことを見ておられるのだと思います。 この不正の富は用い方を間違えたなら、ある程度まで神様を無視して生きることも十分できる、非常に便利なものです。 だからこそ、神様を第一にしているかどうかを試すときの非常に良いバロメーターになるのではないかな。だからこそ神様は、富というものを私たちに与えたのかもしれません。 私たちは富に限らず、神様からあずかった全てのものを正しく用いることを神様から要求されています。例えば、頭がほかの人より良いからといって、人を見下すというのは正しい用い方ではありません。 人から信頼されやすいからといって、自分はほかの人よりすぐれていると思い、高ぶるのも正しい考え方ではありません。 全ては、神様が神様の目的をもって私たちに与えてくださったということ。それを私たちは高慢になるために用いてはいけないだということを神様は私たちに教えているのではないでしょうか。 神様からの賜物。その正しい用い方とは、人からの評価を期待するのではなく、神様からの評価を期待される用い方。それに尽きるのではないでしょうか。 マタイの福音書の6章の1節のところから、このような形で書かれた個所があります。 マタイの福音書6:1-6
というふうに書かれております。 この3節のところで、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさいというのは、全く意識をせずに、何の目的も持たずに、という意味に解釈することができるのではないでしょうか。 テモテへの手紙第Iの、先ほど引いたところの続きのところになるのですけれども、6章の17節からお読みいたします。 テモテへの手紙第I、6:17-19
というふうに書かれております。これがルカの福音書16章9節のところで、不正の富で自分のために友をつくりなさいとイエス様が言われた意味なのではないでしょうか。 あなたのことは神様が責任を持ってくださいます。だからあなたは、神があずけたこの世の富を自分のために使うのではなく、神様を信じ、愛をもって人のために正しく用いなさい。そういうふうに言われたのが16章の9節の意味なのではないでしょうか。この世の富、この世でだけ通用する富は、すごく誘惑の強いものです。 しかし神様が私たちに次の世で本当にあずけようとしている富は、それよりもっとはるかに、比べものにならないほど価値のあるものです。それを私たちに任せるためには、私たちがこの世のこの不正の富を正しく用いることが出来ないならば、あずけることは出来ません。このことをルカの福音書の16章のところでこのような形で能弁されたのではないでしょうか。 ルカの福音書16:10-12
というふうに書かれております。小さいこと、この世の富、不正の富、これをどのように用いるかということ。それに忠実に、神様のみこころにかなうように用いる人は、大きいこと、つまり11節の、まことの富を任せることができるというふうに言われているのではないでしょうか。 不正の富を自分のために、自分の欲望のために用いるなら、それは小さな事に不忠実な人になります。そして、小さなことに不忠実な人は、本当に神様が私たちに任せようとしているまことの富を任せることが出来ません。 また12節では、あなたがたは他人のものに忠実でなければ、というふうに書かれております。 この、他人のものとは何でしょうか。それは9節の、不正の富です。不正の富は私たちのものではなく、神様から私たちがあずかったもの。神様のものということになります。 だからこそあなたがたは、自分のものでないものに忠実でなければ、というふうに読み替えたほうが分かりやすいかもしれません。 この世での富だけではなく、私たちが持っている全ての能力。それは全て神様が私たちにあずけてくださったものです。それは私たちのものではなく、神様である他人のものだということを私たちは忘れてはいけないと思います。 この世の富を正しく用いること。神様のために愛をもって、喜んで人に施すこと。そのことがこの世の不正の富の正しい用い方だということが分かります。 でもそれは、寄付をしたり、献金をすればそれで良いというものではありません。大切なことは、その他人への愛をもってする、そのことだと思います。 もし、その他人に対する愛がなく、何らかの形で自分のためになるから、自分の欲のためになるから、何らかの打算を働かせた形で献金や寄付をしたとしても、それは、神様はその心を見て、それは間違いだというふうに言われると思います。コリント人への手紙第Iの13章の3節のところにこういうふうな形のことが書かれております。愛について書いた個所ですけれども。 コリント人への手紙第I、13:3
というふうに書かれております。どんなにいっぱい献金をしても、どんなにいっぱい人に尽くしたとしても、それで人からの評価を得よう、人からの評価を期待してそのことをやったなら、それは全く何もならないということ。 神様への愛。また、その人に対する本当の愛がなければ、何の役にも立ちませんというふうに言っているのが、ここの個所の意味なのではないでしょうか。 ですから、この世の富、この世の不正の富の用い方は、その富が多い、少ないということは、全く問題になりません。 裕福な人に対してだけではなく、裕福でない人に対しても同じように、不正の富の正しい用い方、これは要求されていることだと思います。 ただ、裕福な人のほうが難しいということは、言えると思います。裕福な人はたくさんのものを捨てなければならないということ。貧しいならば、その捨てる分というのは、少なくて済むということ。 そのことを考えたときに、確かに裕福な人のほうが難しいということは言えるかもしれません。だからこそ、金持ちが救われるのは難しいというふうにイエス様が言われたのではないでしょうか。 ルカの福音書12:48
というふうに言われております。たくさんの富を与えられた者は、それだけたくさんのこと、それを神様から要求されるということ。多く与えられた者は、多くを求められるということ。このことを考えるときに、富の使い方というものが、やはりすごく難しくなるなというふうに思います。 しかし私たちは今まで、富というものについてだけを話して来たのですけれども、それはルカの福音書の16章の例えが、不正の富というふうな形で言われていたので、富だけのことを考えて来ましたけれども、それは決して富だけではないということを私たちは忘れてはいけないと思います。 富以外に私たちは全てのものを神様から与えられているということ。そしてその全てのものを私たちは富と同様に神様に対して、神様のために用いるということを私たちは求められているのだと思います。そして富の例えがよく出てくるのは、私たちにとって一番それが分かりやすい例えだからかもしれません。 しかし私たちは、ひとりひとり、色々な形の賜物を授かっています。そしてその賜物を私たちがどのような形で使うかということ。そのことを私たちはいつも神様に見られているということを知らなければいけないと思います。 本当に私たちは全てのものを神様からあずかっているのだということ。だからそれを自分のためではなく、神様のために用いるべきだということ。 それでは、神様のために用いるということは、どういうことか。それがちょっと分かりやすくかどうか分からないですけれども、ひとつの参考として言えるのが、マタイの福音書25章の32節のところから書かれている内容なのではないかなというふうに思います。 マタイの福音書25:32-40
というふうに書かれております。私たちが、本当に神様が造られた自分の兄弟姉妹ひとりひとり、その人たちに対し、その最も小さい者たちに対し、愛を注ぐこと。愛をもって、何の期待も無しにその人を愛するがゆえに神様のためにしたことになるということ。 私たちは神様のためにこの小さな兄弟を愛したのではないということ。そのことがここで書かれているのだと思います。 この人は、神様のためにやったのだという気持ちは全く持っていませんでした。ただ単に愛をもって、何の期待も無しに、その小さな、最も小さな者のひとりに対し、愛を注いだということ。それを見て神様は、それはわたしにやったことだというふうにここで言われております。 私たちのこと、それは神様が心配してくださるということ。そのことが、アモス書というところがありますけれども、 アモス書4:12
というふうに書かれております。 神に会う備え。それは本当に小さな小さな兄弟かもしれないけれども、その人に対し、私たちが何の期待もせずに、ただ愛をもって尽くすこと。それが神様に会う備えになるのではないでしょうか。 ルカの福音書16章の今日の例えは、この世でしか通用しない富、不正の富を神のために正しく用いること。そのことを私たちに教えてくださっているのではないでしょうか。 私たちは富に頼らず、神様だけを頼って生きること。そのことを私たちに教えているのではないでしょうか。 しかし私たちはここで、私たちはこのことを、この話を聞いたからといって、すぐ100%完全に実行することはできません。そのようにしようとしても、すぐつまずいてしまい、何度も失敗を繰り返すというふうに思います。 でも、いつでもその気持ちを持ち続けることが必要なのではないでしょうか。 もしその気持ちが無ければ、これからもこの神様の要求されることを、そのようなことは出来るわけないと思い、しようとしません。しようとしないなら、そのような思いも起こらないと思います。 でも、この気持ちを持っているなら、神様は必要なときに必要な力を私たちに与えてくださり、そのことが出来るように私たちを導いてくださるのではないでしょうか。 それまで私たちは何度もつまずき、何度も失敗を繰り返すかもしれません。しかし、そのことすべては、イエス様がご存知であり、そしてイエス様はいつの日か、イエス様が私たちのために決めたその時に、私たちが出来るように導いてくださるのではないでしょうか。 最後に聖書から二ヶ所読んで終わりにしたいと思います。 コリント人への手紙第II、9:8
というふうに私たちに約束してくださっております。 もう一ヶ所は、ピリピ人への手紙の3章の12節です。 ピリピ人への手紙3:12-14
本当に神様が私たちに要求されていること。それは非常に厳しいことかもしれません。確かに厳しいことだと思います。 しかしそれを私たちがしたいという気持ちを持たない限り、私たちは神様から必要な力をもらうことも出来ないし、私たちはいつまでも成長が止まってしまうのではないでしょうか。 イエス様は必ず私たちに必要な力を与えてくださる。そのことを確信をもってともにこれからも歩んでいきたいというふうに思います。どうもありがとうございました。 |