祈りと願い


今村兄

(名古屋福音集会、2002/01/20)

おはようございます。実は、わたしは、昨年の6月ころから頼まれてある会社の経理のお世話をしています。
わたしは、経理は素人ですが、たいへんアバウトな建設な会社で、民事で再生することになり裁判所が出てきました。
公認会計士の方に言われて、資料を作るのですが、どうしても資料が合わない。私自身も、はいって半年で詳細はわからないまま、裁判所に行く状態が三ヶ月続きました。
役員や責任者は、それらの仕事を私に押しつける形で、その中で批判の心が私に湧いてきました。早く、自分がこの状態からぬけ出したい。そして、この祈りが、正しい祈りだと自分で思っていました。

この金曜の朝、気持ちがとても重いのです。社長や役員や他の人達を全部批判して、自分は絶対に間違っていないと思っていたのです。
その祈りをしていることが、結局、神様の計画をも否定していたことに気が付いたのです。
そういうふうな形で、自分のまわりにいる人達を批判することは、結局、神様をも批判することになる。そういうことを示されました。

そのことを通して、私自身が感じたことを、メッセージでみなさんに、お分かちしたいと思いました。
前置きが長くなりましたが、私自身に、そういうことがあったことを心に留めて、メッセージをお聞きいただきたと思います。

題は、祈りと願いという題にしています。
ま、私達は、祈りというとだいたいどうしてしまうかというと、神様への願いごとをすることと世間では思われているのではないかと思います。
わたしの娘も、一番上が今日センター試験ですが、志望校の試験の直前には、合格できますようにと、祈ったりするのではないかなと思います。
確かに、祈願、合格祈願とか、神社でもいろいろあります。
日本で、使われる「祈り」という言葉は、「祈願」に近い意味があるのではないかなと思います。

祈願というと、読んで字のごとく、祈り願うことということになってしまいます。ですから、祈りというものは、神様に願いごとをすることと、思われても仕方がないと思います。
ま、事実、国語辞典を、ひいても祈りは、「助けや守りを、神様や仏様に、願うこと」と書かれているのですね。
ですから、神様に祈るというと、日本では、だいたい自分の願いごとを、困っていることを神様に知って頂いて、助けてくださいと、お願いすることと、思われているのが、世間一般の考えではないかと思います。

でも、ほんとうに、祈るということは、自分の願いごとを神様に、お願いすることなのでしょうか?たとえば、マタイの福音書6章8節には、つぎのようなみことばがあります。

マタイの福音書6:8
8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

また、先ほど読んでくださいましたマタイの福音書26章39節。

マタイの福音書26:39
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

イエス様は、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈っております。このようなみことばを読む時に、イエス様が言われている「祈り」というのは、願いを、神様に私達が、自分の願い事をお願いするのとは、ちょっと違うように思われるのではないかなと思います。
先ほどの、マタイの福音書6章の8節では、わたしたちが願う前に、私達が何を願い望んでいるかというのを知っておられるというふうに言われています。
ですから、私達は、わざわざ自分の願い事を神様に知らせる必要はない。というふうに、暗に言われているのではないかなと思います。
祈りとは、自分の願い事を神様に知って頂くことではないように思います。

また、今、読みましたマタイの福音書26章39節には、イエス様は、十字架について死ぬことを自分自身では知っていた。だからこそ、はじめのところでは、この杯を私から過ぎ去らせてくださいと願っています。
でも、私の願うようにではなく、あなたの御心のままにというふうな形で祈っています。
こういうふうなことを考えた時に、イエス様が私達に対して祈りなさいと言われている「祈り」について、もう一度、考えてみる必要があるのではないかなと思います。

じゃ、いったい神様が言われている祈りとは、どのようなことなのでしょうか?
神様に対する祈りが、自分についての願い事をすることでないとするなら、いったい、私達は、どのようなことを神様に祈れば良いのでしょうか。
その答えが、たぶん、マタイの福音書6章の31節のところに書かれているのはないかなと思います。

マタイの福音書6:31-33
31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

つまり、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、」という自分の生活のことについて、勝手に、自分にはこれが必要なのだと、決めて、それを願い求めることはやめなさい、というふうに、私達に教えてくださっているのではないでしょうか。

本当に、必要な者は神様が知っていますと、私達にいわれています。だから、私達に対し、「神の義とその国をまず第一に求めなさい。」といわれているのではないでしょうか。
自分のことを願うのではなく、神のことを、まず第一に、考えなさい。一言で、いうなら、祈りとは、神様を賛美すること。神様と交わりを持って、神様を賛美すること。これが、祈りの目的ではないでしょうか。

祈りとは、自分の願いごとをすることではなく、神様をほめたたえること。そういうふうに神様は、私達に教えてくださっているのではないでしょうか。
私達のすべきことは、神様を誉め称えることです。
私達に必要なものは、みな神様から与えられます。あえて、自分の願いごとを神様に知って頂くことはない。私達は、つい自分で勝手に決めてしまい、自分が生活するためには、絶対にこれが必要だというふうなことを決めてしまい、それを願ってしまいます
けれども、本当に、必要なものは神様がご存知であり、私達が決めることではないのではないでしょうか。
私達が、しなければいけないことは、神様を賛美することだということを、この言葉は、私達に教えようとしたのではないでしょうか。

イザヤ書43:7
7わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

私達は、神様のしてくださることをすべて信じて受け入れるということ、そのことによって、神様の栄光を現すことができる。
ですから、私達のしなければいけないことは、神様を賛美することである。それが、祈りのすべてだということになります。

イザヤ書44:21
21ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

だから、神様がしてくださることすべてを信じて、自分の思いで歩むことは、やめなさい。神様は、私達を忘れることはない。そのことを、私達に教えてくださっているのではないでしょうか。

神様は、私達を神様ご自身の目的のために作られたから、決して私達を忘れることはありません。ですから、私達は神様を信じ、神様にすべてをゆだねること。これが、祈ると言うことではないでしょうか。

テサロニケ人への手紙第I、5:16-18
16いつも喜んでいなさい。
17絶えず祈りなさい。
18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

まず、一番始めに16節で、いつも喜んでいなさいというふうに、パウロは言っています。
でも、私達が、喜ぶためには、今のその状態に満足していることが必要なのではないでしょうか。今の、その状態が、自分にとって不満であれば、私達は喜びことができないと思います。
そうであるならば、「いつも喜んでいなさい。」とパウロがいっているこの言葉は、いつも喜んでいるために、私達は、自分が、どんな状況におかれようとも、自分にとってそれが都合が悪い。
そういうふうに、思うときがあっても、その状態を素直に受け入れない限り、私達は、その状態を満足し、喜ぶことができなくなります。
そのために、今の自分にとって都合の悪い時でも、それは、神様が自分に与えて下さったものだと信じて受け入れること。そのことを通して、私達は、「いつも喜んでいる」ことができるのではないでしょうか。
そして、そうするためには、私達は、絶えず祈ることが必要だという17節のこの言葉が、わたしたちに祈ることの必要性を教えてくれるのではないでしょうか。

16節では、「いつも」とあり、17節では「絶えず」と書かれていますけれども、この言葉は、普通、同じように使われるのかもしえませんが、若干ニュアンスが違うのではないかなと思います。
「いつも」というのは、ただ単に時間的な事を意味するだけであって、「絶えず」というのは、続けてずっとという意味があるのではないかなと思います。
つまり「絶えず祈りなさい」というのは、私達の側の【意志】を必要としていることを私達に教えているのではないでしょうか。

私達が、やめようと思えば、祈ることを、やめることができますけれども、「絶えず」というのは、自分の意志で、続けなさい、祈り続けなさいということを私達に、教えてくださっているのではないでしょうか。
私達は、努力して祈りを続けることができるということ、それは、結局、私達が、今の状態を喜んでいなければできないことだと思います。

もし、今の、状況に不満があるなら、私達の心はその状況に対して批判的になり、それは、結局は、神様に対する批判につながり、それは、決して喜んでいるということはいえなくなってしまいます。
そして、私達が、喜んでいないならば、祈りの目的である神様を賛美することは、表面的に口先ではできるのかもしれないけれど、心の中では神様を責めてしまうのではないかと思います。

結局、もし、自分の心の中に不満があるのならば、祈ったとしても、それは今の自分にとって、「不満な状況から、私を解放してください。」そういうふうに求める祈りになってしまうのではないでしょうか。
そして、自分のことを願うものであって、本当の祈りではないと思います。そこには、神様を賛美する思いは、たぶんないのだと思います。
ですから、私達は、意識して神様を賛美する必要があります。
正直な気持ちで、神を賛美するには、自分にとって不都合な状況も、イエス様が、自分に与えてくださったものだと思い、そういうふうに思い、喜んで受け入れることが必要なのではないでしょうか。

テサロニケ人への手紙第I、5:16-19
16いつも喜んでいなさい。
17絶えず祈りなさい。
18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
19御霊を消してはなりません。

いつも喜んでいる心は、すべてのことを神様にゆだねる時に、できることではないでしょうか。だから、素直に神様を賛美することができる。
そのことは、結局、わたしたちが、すべてを神様にゆだねた。そういうふうな心の状態のときに、できるのではないでしょうか。
ですから、最後に、テサロニケ人への手紙5章18節、すべてのことを感謝しなさいといわれています。

自分が、今の状況を喜ぶ心がなければ、祈ることはできず、祈ることができなければ、当然、感謝する気持ちも出てこないと思います。
ですから、喜び、祈り、感謝。これは、すべてのことを神様からの恵みとして、私達が、素直に今の状況を受け入れるとき、そのことができる心の状態の時に、はじめてできるのではないでしょうか。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい。この3つのことができるために、私達は、何をしなければならないか。それは、自分の思いをすべて捨てて、すべてを神様にゆだねる。そのことなのではないでしょうか。
そして、これが、キリスト・イエスにあって、神が、あなたに望んでおられることです。こういうふうに書いてくださっています。そして19節で、御霊を消してはなりませんとも書いてあります。

私達が、イエス様から離れたら御霊を消してしまい、いつも喜ぶことも、絶えず祈ることも、すべてのことに感謝することも、できなくなってしまう。そのことを私達に教えてくださっているのではないでしょうか。

祈ること。それは、御霊を消さないことであり、それは、神様と交わること。神様のそばにいること。神様と交わることは、神様と共に歩むことです。

ミカ書6:6-8
6私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。
7主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

神様と共に歩むとは、自分以外のものを、差し出すのではなく、自分の心を神様に差し出しなさいと教えてくださっているのではないでしょうか。
全焼のいけにえも、小牛を持って来ても、そのようなものは必要ない。本当に必要なものは、ただ、へりくだって神とともに歩むこと。そして、このことができるためには、私達が、自分の希望を主張するのではなく、神様の御心のままに歩みますという、私達の側が、神様にすべてをゆだねたその心を、私達に求めておられるのではないでしょうか。

本当は、私達は、神のそばにいるように創られています。神のそばにいて、祈ること。そのこと自体が、私達が、生きている目的なのであって、神様から、何かをして頂くために、私達は祈り、また、神様のそばのいるということではないと思います。
私達は、神様のそばにおり、神様を賛美して歩む、そのように創られている。だからこそ、私達は、神様のそばにいて、神様と共に歩むことが必要です。
そして、そのために、私達に必要なことは祈りだと思います。祈ることで、私達の心は、神様に結ばれるようになるのです。そして、祈るために必要なことは、自分の思いを捨てて、神様の思いを受け入れるということ。それが、私達が神様と共に歩むために唯一の方法なのではないでしょうか。

マタイの福音書6:24
24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

富というのは、結局、自分の欲望ということになるのではないでしょうか。ですから25節で、結局、

マタイの福音書6:25
25だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

これは、33節まで続きます。これは、自分と神の両方に仕えながら生きることができない。そして、私達は、どちらを選ぶかといえば、神様を選ぶべきだと書かれているのではないでしょうか。

しかし、神様と共に歩むことがそのようなことであるなら、私達は、神様と共に歩むことが自分にとってむつかしい、と思えるのではないでしょうか。
神様と共に歩むと口でいうことは簡単ですが、実際にそのことをしようとすると、私達は、そうではない自分に気が付くのではないでしょうか。
自分の願うことをすべて捨てて、神様と共に歩むこと。これは、私達にとってむつかしいことです。

神様の求めていることと、私達が求めていることの間に、大きな違いがある。そのことが原因です。
しかし、私達が選ばなければならないのは、自分ではなく、神様のほうだということはわかっています。

でも、私達は、つい神様の計画より、自分の計画を優先させようとしてしまいます。だから、その結果、神様と共に歩むことが、むつかしくなる。
これが罪の性質であり、この罪の性質があるから、私達は、自分の計画を主張してしまい、本当に、神様の計画に従えないのではないでしょうか。
ですから、もし、神様の計画のほうが、自分が描いた計画よりもずっとすぐれている、そういうふうに素直に思えるなら、私達が、神様と共に歩めることは、むつかしいことではなく、本当にやさしいことになるのだと思います。

でも、私達は、すぐに、そういうふうになることはできません。

祈っていても、つい気が付くと、自分の目的のために祈っていたりします。
自分の目的のために祈っている時、私達の心には神様への賛美というものが全くありません。自分の計画のほうがすぐれていると思ってしまう罪の性質があるため、私達が大切に思っていることと、神様が、大切に思っていることが、全く違ってしまう。自分の計画のほうが、すぐれていると思う。

あるいは、自分の思っていることのほうが、今の状況よりも絶対に正しい。そういうふうに思うときに、私達は、神様が立ててくださっている計画であるにもかかわらず、それを取り除いてくださるように、傲慢にも思っている。
そして、そういう自分に気が付かない状態に陥ってします。
そういうふうに、私達というのは、すごく罪深い者だということを、私達は自分自身が苦しいとき、神様から示されるのではないでしょうか。

神様の一番大切に思っていることは、私達が、神様の栄光のために働くということです。
ところが、私達が、自分の意見、自分の希望、自分の欲望、そういうふうなものにとりつかれていると、私達は、この神様の栄光のために生きているという目的を忘れてしまい、そのことに目がふさがれいることに全く気が付かないで、神様に祈るという全く矛盾したことをしています。

神様の計画よりも、自分の計画を優先させたい。そういうふうに思うときこそ、その自分の心の間違った状態に気づかせて頂くためにも、祈る必要があります。
神様を賛美することによって、私達は、自分自身が、いま間違った祈りをしていることに気づかされます。祈ることで、私達は、自分のためではなく、神のために生活することを思い出すことができます。

私達は、神様を賛美するために祈ることで、自分の願いごとを捨てなければならないことに気が付かされます。でも、そういうふうな祈りが、もし、そういうふうなものであるなら、自分の思い、夢を捨てることになり、祈ることは苦痛を伴うことになります。イエス様も、苦しみもだえて祈られました。

ルカの福音書22:42-44
42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
43すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
44イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

イエス様の、人間的に考えれば、自分がこれから歩む道がどれだけ苦しい道であるか感じておられました。
しかし、自分の思いを捨てて、「わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください。」そういうふうに、祈るために苦しみもだえ、いよいよ切に祈られました。

祈るということは、自分の望みがかねられることではなく、反対に、自分が神様の思いを受け入れることです。ですから、神様の思いと一致しない限り、私達は苦しみを伴うことになると思います。
でも、私達の罪を解放してもらうために、私達はそこを通らなければなりません。

マタイの福音書16:24
24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分の思いを捨てると言う苦しみを通り抜けることができなければ、私たちは、神様とともに歩むことはできません。そして、この苦しみを私たちが通り抜けることができるように、私たちが祈るということを、神様は、私たちに教えてくださっています。
神様が求めていること。私達が、どのような時でも、神様を賛美すること。そのために祈ること。そのことを私たちに教えてくださっています。
そして、その祈るということ、そのことによって、私たちは、自分の思いを捨てることができるようになるのではないでしょうか。

私たちは、いま、神様に祈る、祈ると言っていますが、私たちは、どうして、神様に祈ることができるのでしょうか。
別の言い方をするなら、私たちのような逆らってばかりいる者の祈りを、黙って聞いてくださるのでしょうか。
何度も何度も逆らい、何度も何度も神様を困らせる私たちの祈りを、どうして神様は無視をなさることもなく、聞いてくださるのでしょうか?

それは、イエス様の十字架上でのみわざのおかげ。そのことは、みなさん、よくご存じだと思います。
私たちは、イエス様の十字架の贖いを通して、罪、赦されているからこそ、私たちは、神様に、私たちの祈りをすることがきでるだということを、わたしたちは、いつでも忘れてはいけないのだと思います。
イエス様が、私たちの神に対するすべての罪を贖ってくださっている。だから、私たちは、そのことを信ずるゆえに、安心して神様に祈ることができるのではないでしょうか。

神様を賛美する時、その賛美を神様が無視することなく受け入れてくださる。このことを、私たちが確信を持っているからこそ、私たちは、神様に対して祈ることができるのだと思います。私たちが、赦されているのは、そのためだということを私たちは、忘れてはいけないと思います。
私たちの祈りは、自分のためではなく、主のためもものだということを私たちは、いつもイエス様の十字架を覚えると同時に覚える必要があるのだと思います。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

イエス様のしてくださったことを信じ、救いを受け入れた者のする祈りは、どんな時も、主を第一にした祈りでなければならないということを、私達はいつも覚えること、そのことを通して祈るということをしなければ、本当に私のように、祈っているつもりで、心が全く神様から離れてしまうという危険を犯してしまうのでないでしょうか。

何か、苦しいことがある時だけ祈る。それは、厳しい言い方かもしれませんが、自己中心の祈りだと思います。
その祈りは、自分の満足を得るための手段として、神様に祈りを捧げているにすぎないのではないでしょうか。

祈りとは、神様との交わりです。ですから祈るためには、常に神様を第一とし、御心を素直に受け入れること。これを、神様は私たちに求めているのではないでしょうか。
自分の都合で、今日は神様に従う、今日は神様に従わない。そういうふうに決めることがあってはならない。そのことが、神の国とその義をまず第一に求めなさいというイエス様の言葉の意味なのではないでしょうか。

ヤコブの手紙1:5-8
5あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
6ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
7そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
8そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

わたしたちが、少しでも二心、自分と神様の両方に従おうとするなら、私たちの歩みは安定を欠いた道だというふうに、言っております。
神様が、私たちに求めておられること、それは、私たちが、何かをすることではなく、私たちが、自分の心を神様に捧げることだと思います。
目に見える行為は、心を隠してすることだと言えるかもしれません。祈りは、心を隠すことはできません。祈りは神様に対してするものだからです。

しかし、私たちの心は、先ほどから申しますようにそんなに立派なものではありません。ですから、いつでも、どんな時でも、神様に対して誠実であり続ける。そのことを自分の力ですることはできません。
そのために、私たちは、心を変えて頂く必要があるのだと思います。心を変えて頂く。つまり、罪の状態から解放して頂くことです。

マタイの福音書7:7-8
7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

でも、ここで、求めるものが、自分の欲望であるとするなら、それは、神様からは与えられません。

ヤコブの手紙4:3
3願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

神様は、私たちに対し、神様にいつでも誠実であり、神様が私たちに与えてくださることを素直に受け入れる、そういう心を私たちに与えてくださる。それが、神様が、私たちを作ってくださった目的ではないでしょうか。
私たちを罪の状態から救い出してくださる。神様は、私たちに、いつも自分と共に歩んで欲しい。そういうふうに、私たちに願っています。
自分の思いを大事にしている限り、そのことはできません。自分の思いを第一にするのではなくて、神様の御心を第一にする心。これが、私たちの中に神様によって与えられるなら、私たちは自分の罪の状態から救い出されることができます。

そして、そのことを祈ることで、私たちは心を正しい心に変えてくださいます。私たちは、神様が必ずそのようにして下さると信じること。それが、イエス様を信じることであり、神様を信じることではないでしょうか。
イエス様を信じるとは、どのような状況になろうとも、神様に対して誠実である、そのような心に自分を創り変えてくださると、信じることではないでしょうか。
私たちが、そのように信じることで、神様と正しい関係を保ち、そして神様の栄光を現す生き方が、できるのではないでしょうか。

よって、大切なことは、つまずかないということではありません。私たちは、つまずく者です。神様が、一番、そのことをご存知のはずです。
ですから、大切なことは、つまずいた時、私たちが、悔い改めることができるかということであります。
それができるのは、絶えず祈り続けること。このことを通して、私たちが自分自身がつまずいたことを知らされるし、またつまずいたなら、悔い改めへと自分の心を導いて下さる。すべて神様が導いてくださる。先に、自分自身がいつも祈っていることが必要になってくるのではないでしょうか。

祈り続けているなら、つまずいた時、そのことを気ずかせてくださり、また、気がついたなら、悔い改めをするように私たちを導いてくださる。それは、すべて、私たちが、祈るということを通して、私たちが、自分を捨てて、神様のことをすべて受け入れる心を、いつも祈ることを通して、神様から、与えられる時に、私たちは、たとえつまずいた時も、立ち返ることができるのではないでしょうか。

祈るとは、自分の思いを捨てることです。
悔い改めの連続、それが同時に、信仰の歩みの連続なのではないでしょうか。悔い改めの連続があることは、神様が私たちのそばにいてくれる証拠です。
もし、神様がいてくださらなければ、私たちは、つまずいたとしても、悔い改める心が、私たちのうちに起こることはありません。
つまずいても、神様がそばにいてくださらなければ、私達は悔い改めることさえできません。
ですから、信仰生活において、祈りが絶対に必要であることを忘れては、いけないのではないでしょうか。

どんな理由をつけようとも、神よりも自分のほうが正しい、これに関しては、自分のほうが絶対に間違いないと思っている時、私たちは、自分で一生懸命祈っているとしても、神様との関係では、正しい関係にはありません。

祈りの目的は、神様と心が一致することです。私たちは、神様のしようとしていることを理解する必要はありません。私たちが、必要なのは、神様のされることを素直に受け入れることです。
イエス様は、祈るとき、いつもひとりで、静かな場所に行かれていました。それは、祈りとは神様とその人との個人的な交わりだからです。
確かに、何人かの方が集まって祈ること、これはすごく大切なことです。でも、ひとりになって、神と個人的な交わりを持つことも、私たちの信仰生活を通して、神様が求めていることではないでしょうか。

最後のマタイの福音書6章の6節をお読みして、終わりにしたいと思います。

マタイの福音書6:6
6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。




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